第五章 黒幕とイグアスがサイファを見付けてしまいます

燈火の聖女①




 ここはどこだろう?

 たしか、誰かに逢いに行こうとしていたはずだ。思い出せない。

 最近は眠りが深すぎて、己の存在が希薄に感じる。








「起きましたか? 我が妃よ」


 その声で、ハルワタートの意識は浮上した。



 ここは夫婦の寝室で、目の前に居るのは夫。



「わたしくしは、ずっと此処ここにいたのかしら?」


 穏やかに微笑むアスダルはベッドの端に腰掛け、ハルワタートの髪を一房掬う。いつものように軽く口付けをしていた。


「どこかにお出掛けでしたか? わたくしを置いて遠くに行かないでください。夢の中まで傍らに居ることを望むのは贅沢ですか?」


 アスダルは軽くウィンクをする。


 甘いマスクとスマートな仕草。体はよく鍛えられていて、胸板は厚く、瞳は緑玉のように深い緑。

 その瞳に見つめられたら、女性なら誰でも憧れを抱くだろう。


「まぁ、」


 人間界では、智慧の神と言われ、才女と分類されるハルワタートは、男性に畏敬の念でかしずかれる事はあっても、こんな風にからかわれることは無いのだ。


「はは、冗談です。そんな可愛い顔をされると、ベッドの上で悪さをしようと考えていたので、いささか罪悪感を覚えます」


 ハルワタートは、妖艶なアスダルの眼差しにドキリとする。


 こんな可愛げのない女でも、喜びを与えてくれる。

 優しくはされるが、愛されているわけでは無い事をハルワタートは、心のどこかで感じていた。


 アスダルの素性は、北大陸のテラ・ペルティタ王の末裔だと説明をされていた。


 遥か昔、『ドス・オホスの穴』が出現した時、地下から無数に湧き出した黒毒竜により、テラ・ペルティタは滅ぼされ、今では『失われた国』と呼ばれている。


 そう、彼には帰るべきところが無いのだ。

 彼はいつか国を復活させるために、細々と血脈を繋いできた。

 市井しせいに下り、自らの才覚だけで生きてゆく難しさが、身にしみているのだ。

 彼がハルワタートの夫として傍にいるのは決して愛からではない。


 しかし、彼女は気付かないふりをする。


「昨晩は良く眠っていました。わたくしの一族の秘伝の薬はよく効きましたか?」


 アスダルに渡される薬を飲むと、いつも決まって死んだように深く眠ってしまう。

 丸一日も目覚めない事もあるし、夢遊病者のように屋外で目覚めたこともある。


 決まって自分とは全く違う、恥知らずで残酷な女になっている夢を見ていた。


 まるで、心の中の願望を解き放つように。

 こんなに深く眠らせる必要があるということは、その時間にアスダルは不貞を行っているのではないかと、ハルワタートは疑っていた。


 しかし、問い詰めて本当の事になってしまうほうが怖かった。

 妻を深く眠らせてから、アスダルが向かう場所を知るほうが嫌だった。


「―――ええ、疲れが溜まっていたのかしら。とても自由になった夢を見たの。まるで、わたくしとは違う者になったような」

「それは結構。人間の智慧の神にして、わたくしの燈火の聖女。それでは、奥様、朝食にいたしましょう」


 そうは言うが、二人は正式な夫婦ではない。アスダルが拒否するせいで、太陽神に夫婦の誓いを捧げていないのだ。



 アスダルの薬を飲んだあとは、決まって、ハルワタートは、何か大切なことを忘れている気がする。










 サイファは、ロマスクブール郊外の運河の支川に建つ瀟洒しょうしゃな建物を尋ねていた。


 川の上に対岸を繋ぐ橋のように建てられている建物は、プラムの父母が地質学者として所属している国の研究機関だった。


 川の流れで水車を回し、地下水を組み上げる研究をしている。


「サイファ君。いらっしゃーい。こっちよ。こっちに来て!」


 大学院への入学試験にまだ日がある為、プラムは研究所内の治療院を手伝っていた。

 診察室から顔を出し、サイファを呼んでいる。


 サイファはブクカーナ家を成り行き上、仕方なく訪ねて、少々強引に、では無く、ちょっとした話し合いをして、プラムたちから奪った荷物を取り返していた。


 サイファは呼ばれた通り、診察室に入る。そこはシンプルな作りで縦長の部屋だった。

 医師用の作業机と患者用の椅子。診察用の簡易ベッド。

 それ以外は、真っ白で清潔な部屋だった。


 プラムは診察机の椅子に座り、患者用の椅子にサイファを座らせる。

 サイファは大人しく椅子に座った。

 プラムの医術師としての所作は、昨日今日のものではなく、完全に板についたものだった。



「これ、持ってきた。賠償金も入っている。後で確認してくれ」


 サイファは、大きな頭陀袋ずたぶくろを差し出しす。

 プラムは驚きの歓声を上げる。喜びの感情も露わに両手の握り拳にぎりこぶしを振った。ぶんぶん、ぶんぶん、拳が分身して見える。その身体能力のせいで風が巻き起こった。

 興奮した時の彼女のくせだった。


「手に入りにくい本があって、諦めてたのにもどってきた。うれしいぃぃぃ」


 この医術師の卵は、何を置いても本が優先らしい。

 席を立ちあがって荷物を漁り、本にキスをしている。

 サイファは驚いていたが、感情が外には出にくい性格だった。


「サイファ君、ありがとぉぉぉぉぉ」


 感情が高ぶると末尾が伸びるのもくせなのか、とサイファは微動だにできずに考えていた。勢いがある。


「あ、そうそう、今日、こっちに来てもらったのはね」と、プラムはいきなり医術師の顔になり診察机の椅子に座りなおした。


「サイファ君、隠しても無駄よ! あなたは、持病を持っていますね。わたしの目はごまかせません。さぁ、診察させなさい」


 なんせ、勢いがある。このはこんな性格だったのか、と驚きつつ、気持ちはこの街の隔壁の外側くらいまで引きながら、サイファは答える。


「俺が病気に見えるのか? 龍だからかなり頑丈だぞ」

「いいえ、わたしプラムの目は、いぇ、ごまかせません!! サイファ君、いい? あなたからは毒の匂いがします」

「匂い?」

「わたしは、鼻がいいのです! 毒は魔法の類ではないので、病気です。わたしの見立てでは、その短剣に浄化魔法が付与されている。だから抑えられているだけでしょう?」

「ああ、そうだ。この短剣のお陰で俺は正気を保っている」


 プラムは眼鏡の縁をくいっと持ち上げ、サイファの顔の前に身を乗り出す。サイファは椅子が倒れそうになるくらい後ろに引いていた。


「わたしは解毒が専門なのです。その短剣には最高級に強力な浄化の魔法が付与されている。それでも解毒できずに体内に残っている。そうでしょう! サイファ君」

「ああ、そうだ。この浄化の魔法は高位の神のものだ」

「わたしの生涯を掛けて叶えようとしている夢は、暗黒竜の毒が解毒できる万能薬をつくる事なのです。暗黒竜が人間の脅威にならない世の中にしたいのです。 それに、サイファ君を助けたい」


 プラムは志のある人だった。

 サイファに助けられた恩も忘れるつもりは無かった。

 そして、若いながら解毒の分野では、かなりの功績を残しているのも事実だった。


「俺は何をすればいい?」

「まずは、毒の残留物を調べたいので、髪の毛をください。そして、血液も採取させてください」

「ああ、かまわない。俺もプラムに話があった。君の出生の件だ」


 出生に関して話をしたとき、プラムは少し寂しそうな顔をしていた。




 プラムたち黒秘竜の一族は、人型に変化へんげする暗黒竜の存在をひた隠しにしていた。

 また、人型になれる暗黒竜はプラム達、黒秘竜だけではない。

 一般的に知られている、空の飛べない大型の暗黒竜は黒毒竜と言う。

 知能は低く、人型にもなれない。狂暴で猛獣そのものだった。

 だが、翼を持っている種族は、知能も高く、人と変わらない姿で地上で生きている。

 そして、どの種族も、その血液は神龍族や人間にとっては毒となる。


 神龍族が把握していることは、地底の王が地上を支配しようと、ドス・オホスの穴より暗黒竜を遣わしたという事だけだった。

 地底の王がどんな姿かは、わかっていない。

 黒秘竜の一族も地底を去った時、ドリュージョ・デマーンの伝承は、一族の長から次の世代への口伝だけとなっていた。


 暗黒竜に関して情報を求めるなら、北大陸に行かなければならない。


 続く

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