『鎖と煙』

『雪』

『鎖と煙』

 フィルターを通してなお有害な成分を多量に含んだ煙を浅く吸い込み、その香りを楽しんだ後にそっと紫煙を吐き出した。我ながら貧乏性だとは思うのだが、どうにも手持ちの数が少ないとこういう吸い方になってしまう。

 一人で吸う場合はこの方法で長く楽しめるのだが、残念ながら今はそうでは無い。まだ半分近く残った煙草は呆気なく指先から奪われ、流れるような動作で隣に座っていた彼女の口元へと運ばれて行く。

 吸い口にその柔らかな唇が触れて煙草を挟み込むと、先端に灯された橙色の火が鮮やかに瞬いた。彼女の艶かしい吐息と共に棚引く煙を尻目に煙草を変換するように左手を差し出すと、何をどう勘違いしたのか分からないが、わざわざ左手に煙草を持ち替えて、空いた右手を差し出した手のひらの上にそっと乗せる。まるで意図の分からず、彼女の右手と表情を交互に見比べるが、視線が合った際に僅かばかり微笑んだくらいで、再び煙草に口を付けた。

 どうも彼女には煙草を返す気は無いらしい。溜め息を溢して天を扇ぐ。雲一つ無い快晴の空だった。



 発端となったのは昨晩の事。仕事から帰宅した際に彼女がやたら不機嫌だったので、余り気は進まなかったが理由を聞くと、通販で頼んでいた煙草が配送ミスで届かなかったのだと言う。

 しかもそれが原因であろうやけ食いならぬやけ吸いの結果、大量の吸い殻がベランダにある灰皿の中で山を成しているのが見え、事態の深刻さを雄弁に物語っていた。

 手持ちはあとどれくらいあるんだと尋ねるが、今ので全部吸いきったとの事だった。このまま新しい煙草が届くまで地雷原と化した彼女と過ごすには余りにも胃に悪いという事で、不本意ながら一先ずは手持ちの煙草を半分を分けるという事で落ち着いたのだが、問題となったのは彼女は自他共に認めるチェーンスモーカーであった事だ。

 案の定というか想定通りと言うべきか、結局彼女は一晩で手持ちの煙草は吸い尽くしてしまっていた。


 翌朝、目覚めてから昨日のささやかな酒宴の後片付けをしつつ、ベッドの上に散らばったままの脱ぎっぱなしの衣類を簡単に畳んで、まとめてベッドの端に置いておく。

 キッチンでコーヒーを入れる用意をして、洗面所で簡単に身支度を済ませて再びキッチンへと戻る。出来立てのコーヒーをタンブラーの中程まで注ぎ、冷蔵庫の中身をざっと確認してメモを取るとそれを片手にベランダで朝の陽射しを浴びながら欠伸を一つ噛み殺した。

 まだ熱いコーヒーを啜りながらぼんやりと今日と明日の予定を組み立てて行く。最低限買い物には出るとして、部屋の掃除くらいはしておきたい。

 タンブラーの蓋をして、先程片付けの際に回収しておいた煙草の箱を取り出す。都合良く最後の一本らしいそれを咥えようとしたその時、どうも背後で彼女が起き出したらしく、振り返ってみれば、この世のものとは思えぬ呪詛を撒き散らしながら流動体の如くベッドから掛け布団と共に落下してゆく様が見えた。その姿に溜め息を溢し、煙草を箱に戻してから彼女の元へと歩み寄る。

 彼女を抱き起こし、掛け布団と共に落下して再び床にぶちまけられた衣類を手渡して洗面所へと誘導する。

 ややあって、一先ずは人前に出られる程度の身支度は済ませたらしい彼女は未だに重たい目蓋を擦りながら隣にぺたんと座る。手渡したタンブラーを受け取り、息を吹き掛けた後にゆっくりとコーヒーを啜る。もう随分とぬるくなったはずのコーヒーに顔をしかめるあたり彼女の猫舌も筋金入りだな、とそんな事をぼんやりと考えていた。

 それから暫くの間、彼女の意識が覚醒するまでは肩にもたれ掛かかられて転た寝する彼女をつついたり、腕を抱き枕代わりに絡み取られたり、と各々が好き勝手に怠惰な時を過ごす。

 どれ程の時が経っただろうか、コーヒーを飲み終えた彼女は側に置かれていた煙草に漸く気が付いたようで、これ見よがしに手に取ると軽く振って中身を確認すると素知らぬ顔で最後の一歩を取り出した。それを彼女が咥えるより早く取り上げてライターを取り出す。

 信じられないものを見るような表情で彼女はこちらを見てきたが、昨晩手持ちを半分くれてやったにも関わらず、昨日の段階で全て吸いきってしまったのは彼女だ。ついでにいうのであればくれてやった煙草を吸いきった後に再びねだってきたので、またその半分をくれてやっている。即ち、手持ちの3/4もの量を彼女に渡した訳だが、それらを一つの遠慮も無く吸いきったのは彼女自身だ。つまるところ、これ以上遠慮する理由も無い。


「ねぇ、その煙草ちょーだい?」


 身を寄せるようにしなだれ掛かり、蕩けるような甘ったるい声色で彼女はそう言った。微かに漂う紫煙の香りの中に彼女のモノが混ざり合う。腕に伝わる柔らかな感情を余所に最後の一本を死守するようにそっと隠した。

 結論の見えきった下らない押し問答を繰り広げながら、煙草を片手にじゃれ合う。このやり取りの終着点こそ分かりきってはいるものの、毎度毎度自分の意見が必ず通ると思われるのもシャクだ。昨日の晩からおよそ十二時間ぶりにして、その回数は最早測定不能となった「一生のお願い」が行使されたが、鼻で笑い一蹴してやった。

 どうも彼女は煙草が絡むと著しくIQが下がる傾向にある気がする。普段がマトモなだけに最早禁煙させた方が良いのではないかと思うのだが、同居人が吸ってるのに私だけ禁煙だなんて拷問にも等しい悪辣な所業だとかわめきたてるに違いない。

 妥協に妥協を重ねた不平等な結末の内容は、お互いが半分ずつ吸うという事になった。いつもの事ではあるのだが、どうにも彼女に対しては甘くなってしまいがちだ。それはこちらの性格というよりも彼女自身の気質によるものが大きいのだろう。後輩属性とも言うべきか、思えば昔から甘やかされ上手であったように感じる。



 このまま彼女に吸い付くされるであろう事に溜め息を溢し、彼女の方を見やった。にぎにぎと揉み混むように捕まえた指を絡ませる傍ら、実に旨そうに煙草を呑む彼女と視線がぶつかり合う。

 勝ち誇ったような、と表現するには無邪気過ぎるその透いた視線の奥。何やらよからぬ事を考えているらしく、にまにまと含みのある笑みを浮かべていた。彼女は絡ませていた指を手解き、腕を掴む。そのまま手繰り寄せるようにして自らの元へと引き寄せると、無防備な唇を己のもので塞いだ。そして、肺に溜め込んでいたらしい紫煙の残滓を口移しで流し込む。口の端から僅かに漏れ出る煙には目もくれず、口の中を食らい尽くすような一方的な蹂躙であった。

 漸く満足したらしい彼女はそっと唇を放し、薄く伸びる銀色の糸を舌先で絡め取ると、こちらに見せ付けるようにしてわざとらしく飲み込んで見せる。そして、緩慢な動作で煙草の灰を落として再び自らの口元へと運んだ。元より本気では無かったとはいえ、もう奪い返すだけの気力は残って居なかった。今度はただ咥えたまま煙を静かに燻らせるだけで、それ以上の事は何もしない。


 天に昇る紫煙を眺めながら、僅かに残る煙を追走させるようにそっと吐き出す。煙は緩やかに混じり合い、やがて虚空へと消えていった。

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『鎖と煙』 『雪』 @snow_03

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