白映え

千桐加蓮

白映え

 私と姉は九つ離れた姉妹だった。姉の文学碑を造るという話を聞いたのは、私が高校に入学してすぐのこと。その日は大雨が降り、満開だった桜の大半が散ってしまっていた。


 それから一ヶ月半が経ったと思う。ちょうど、梅雨の時期に入った。

 私は、駅前のパンケーキ屋に、とある男と向かい合って座っていた。外は小降りの雨が降っている。

 店内は、恋人だったり、高校生や、それより少し年上の人たちが楽しそうに喋っている声が響いている。

 文学碑と言っても、彼が自宅の庭に小説の一文を刻んだ碑を建てるというのだ。

羽留はるさんが選んでほしい。ある程度絞ったから」

 私は、依頼されたのである。

「碑に刻む一文、選べって言われても」

 話しているというよりも、呟きのように小さい声を、彼は聞き逃していなかった。

「頼むよ、そのパンケーキ、奢るしさ」

 へりくだったように言ってくる。

「それに文学碑って、自分の庭に建てるんですよね。文学碑っていうんですか? お金も掛かりそうだし」

「お金には、困っていないんだよ」

 私は、聞き流すようにフルーツがたくさんのっているパンケーキのさらに上にのっているバニラアイスの部分を掬う。

「私、伝えたと思うんですけど、姉が書いた小説読んだことがないんですよね」

 一口食べたあと、へたり込むようにソファー型の椅子に深く座り込んだ。



 姉が訃報を耳にしたのは、私が小学校六年生の時。

 姉は当時大学生だった。

 教員免許の資格を取ることを目標に、東京にある中堅の教育学部に通いつつ、新人賞に自分が書いている小説を応募していたのである。

 姉が書いていたのは、児童文学ではなく、大人向けヒューマンドラマや、時代小説であったらしい。

 その当時、小学六年生で、読書よりも外で鬼ごっこやドッヂボールをすることの方が好きだった私には、それらを読もうとする発想すらなかった。


 両親も高校生になった今の私に、姉の書いた小説を勧めるようなことはしてこなかったというのに。

 

 彼の依頼は母親から教えられた。強制的な言い方で、話だけでも聞いてきなさいという圧力に負け、雨の日の正午、彼と駅で待ち合わせをしたのだ。

 私たちは、パンケーキ屋の窓側の一番隅のテーブル席に座っている。

 

 東京に本店を置く、若者のに人気のあるパンケーキ屋が、神奈川県にもニューオープンする。

 このことを知っていたので、そこに来てパンケーキを一緒に食べてくれるのであれば承諾する、と彼に対して上から目線の対応をした。

 だが、彼は文句を言うことなく、澄ました顔でブラックコーヒー飲みながら一点を見ている。若者といえば若者の部類に入るのかもしれないが、三十路過ぎの、姉がお世話になっていた高校の先生である。私は、彼のことをよく知らない。

 見た感じ、私と同い年であれば、高校デビューを果たせず、教室の隅で本でも読んでいるようなタイプだと想像する。


 はじめは、御曹司のように仕立てのいいスーツで待ち合わせ場所までやってくるのかと思っていたが、今目の前にいる彼は、薄めの長袖Tシャツに、深緑の両脚の側面に大型のポケットがついた少しゆったりしたシルエットのカーゴパンツを履いていた。ラフな格好である。


 彼の髪はボサボサで、度が強そうな黒縁眼鏡をかけている。大御所そうなオーラも、威厳があるようにも見えない。


 現在は、教師を辞職して小説を書いているという話だけは母親から聞いていた。

 くれぐれも失礼のないように、と言ってくるものだから、立場が偉い人なんだろうと少しビクついていたというのに、ひ弱そうな印象しか持つことができない。



「読んでなくても、構わないよ」

 彼は、ぎゅっと目を閉じる。わざと目を閉じているのではないかと思うが、私は彼から視線を逸らし、A四の紙に印刷されている、切り取られた小説の一部分に目を通す。

「私、言葉を読み取る能力、一般人より欠落してるので、この文たちの根本的な意味、ほんとわかんないです」

 そう言って、足をさすった。

江場えばさんが選んだ方がいいと思うんですけど、ダメなんですか?」

 江場さんを見る。一度テーブルに置いていたブラックコーヒーを持ち直していた。

「羽留さん、頼むよ」

 江場さんの力がなくなってしまったような細い声が聞こえる。

「目、合わせてくれないですね」

 私の言い方が冷たかったのだろうか。江場さんはブラックコーヒーを飲む手が止まった。やはり私の顔を見ることなく、やや目線が下になる。

「羽留さん、お姉さんとよく似てますね」

 雨の音がこの時だけ大きく聞こえた。

「すみません、気分を害したでしょうか?」

 申し訳ないと、おどおどした声で言ってきた。

「別に、むしろ嬉しいですけど。お姉ちゃん、美人だったらしいから」

 私は心の中でふふっと笑った。内心とても嬉しかったが、江場さんからは不安そうな気を感じる。

 顔には出ていないのか、江場さんが人の感情を読み取るのが苦手としているのか。はたまた、私の顔を見ていないのか。

 チラリと江場さんを見る。私は声にならないため息を吐いた。江場さんが私の顔を見ていないことに気付いたのだ。

 江場さんが私の顔を見るように、パンケーキが美味しそうだの、普段は何の飲み物を飲むのかなど話題を振ってみたが、目線は私の顔ではない。パンケーキのお皿らへんである。


 私のパンケーキが食べたいのかと揶揄ってみたが、そっと吐き出すように遠慮された。

 照れているのかと揶揄ってみても、柔らかく否定される。


「お姉ちゃんとの間に子どもがほしかった、って本当ですか?」


 ようやく私の顔を見た。今までの空気感がガラリと変わる。

 棘が刺さるような、もうすでに突き刺されたと言わんばかりの表情をした江場さんが、小さく驚きながら顔を上げ、やがて申し訳ないと言わんばかりにペコリと首を下に下げ、上げた。

「お姉ちゃんが、私に言ったんですよ」

「なんて、言ったんですか?」

 私は一呼吸置いて

「江場さんの子どもが産めたら、きっと、それだけで満足な気がする。あの人を一人にしたくないなって思っているの」

 私はぎこちなく微笑んで、きっと両想いだとも言っていたことを伝える。

「お茶目な人でしたね」

 懐かしむように、目を細め、私の微笑みを微笑みで返してくれた。


長谷部はせべさん……いや、ここでは彼女のことを名前で呼ばせてもらおう。志由しゆさんは本当に魅力な女性だった」

 江場さんはそう言って、お姉ちゃんのことを振り返り、私に言い聞かせてくれた。




 志由さんにはじめて出会ったのは、ちょうど今日みたいな小降りの雨が降ってた六月だった。

 彼女の担任でも科目担当教師でもなかったけれど、彼女が密かに男子生徒の間で人気であることは耳に入っていた。名前だけは知っていたよ。入学してすぐだった。高二の男子諸君らが、長谷部志由さんという一年一組の女子が綺麗で頭が良くて評判だ、ってね。

 僕は講師だから、授業を終えたらすぐに帰宅できる。

 だけどその日、小降りの雨が降るという予報がなかったものだから、僕は傘を持っていなかったんだ。

 だから、雨が止んでから帰ろうと思っていた。

 けれど、雨は強くなっていく一方、急用ができて、帰らなきゃ行けなくなってしまってね。

 バス停留所までは歩いて五分、走って三分といったところだった。僕は講師室から出て、小走りでバス停留所まで向かったよ。

 バス停留所には先客がいてね。うちの高校の女子生徒だった。




 私はここまでの話を聞いて、確信したと言わんばかりの表情で聞いた。

「それが、私のお姉ちゃんってことですよね?」

 彼はそっと笑う。

「そうだよ、確かに綺麗な子だった。雰囲気が特にね、そう思った」

 私は、パンケーキを半分食べ終えたところで、江場さんはコーヒーのおかわりを頼んだ。

「何を話したんですか?」

「初めは何も話さなかったよ、早退するのかなくらいには思ったけど。生徒たちはお昼休憩が終わる頃で、まだ五、六限が残っていたから」

 コーヒーのおかわりがテーブルに置かれ、江場さんは小さく店員に会釈をした。

「五分くらいして、バスが来た。乗ろうとしたら志由さんがやっと出したかのような声で僕を呼んだ」



「江場、せんせ……ちょっと、歩くの辛くて……」

 


 って言ってた。彼女の顔は白く、足も少し震えていたし、さすがに無視はできないと思ったね。

 運転手のおじさんに一様声はかけて、彼女の黒いスクールバックを持って、手を貸した。

 志由さんは立つのがやっとみたいだったけど、僕が一歩歩いて、彼女も一歩踏み出した瞬間、その場で彼女が崩れてしまって。

 結局、僕が負ぶって一番後ろの五人くらい座れる席に、二人で座った。

 そこで、彼女の名前と、体が弱いことを知った。長ったらしい病名で僕はよくわからなかったけど、余命宣告されているとか、そういう話もしてくれた。

 当時、そういう類の小説が流行っていたからね、現実で同じようなことが起こるんだと少しは驚きはした。

 けど、何故僕に暴露したのか不思議でたまらなくて、聞いた。



「なんで、僕に話したの?」

「先生は、変に反応したりしないかなって本能的に思ったから」



 バスが駅に着いて、彼女は歩けないから家まで送ってほしいって、その場で申し訳なさそうに手を合わせてきた。このまま乗っていたら、またバスは高校まで行ってしまうし、用事もあったし、彼女の傘を帰りに借りることを条件に承諾した。




 思い出し笑いにしては、あまりにも切なく見てる私にもヒリヒリとした苦く、ほんのり甘い記憶が伝わる。

「彼女を背中にのせた時、あまりにも軽くて壊れてしまわないか心配になるほどだった。その時、長期入院をするって話していたから尚更」

 江場さんは小さく笑って続きを話す。

「元気づけになっていたのかわからないけど、暇だったら小説でも書いてみなよ、って提案をしたんだ。もし書いたんだったら、読みたいって言った。国語教師なんだ、添削くらいはできる、とも付け加えてね。その後、彼女は一回だけ添削を頼んできた」

 江場さんは、小さなため息を吐いて私を見た。

「五万文字程度の中編小説、出来は良かった素直にそう思った。誤字や構成に問題はあると言えばあったけれど、キャラクターが斬新だったから、よく覚えている」

そう言って、彼はA 四の紙に印刷されている文の一つを指さした。

「彼女は、人間の存在について問いを立てる話しを多く執筆した。決して、明るくはないだろう。でも、説得力のある話に僕は素晴らしいと賞賛した」

 江場さんは指した指を紙から離し、ブラックコーヒーを一口飲む。 

「なんで、お姉ちゃんに告白しなかったんですか?」

 彼は自傷気味に笑う。

「伝わるように言えば良かった、って今になって後悔しているよ」

声に力がない。表情が曇っていく。

「二か月前に、初めてお姉ちゃんのお仏壇に手を合わせに来たって聞いたんですけど」

「罪悪感に溺れていたから、っていうのもあるけど、ちゃんと来るべきだと思ってね。随分と遅くなってしまった」

「それで、長谷部志由の文学碑を造るっていうことですか?」

「もっと、早く素直になるべきだった」

弱弱しく、江場さんは声を発した。

「僕はね、親も祖父母も高校に上がる頃には他界してて、母方の親戚に預けられた。その家はお金には困っていないようだし、僕のこともお金で解決させようとしてばかりだった。扱いは酷かったけれど、教師になるならっていう条件で大学には行かせてくれたから、それだけは感謝している。志由さんにも出会えて、君とも話せるわけだし」

「辛かったですね」

 そっと言う。

「そんなことも忘れてしまうほど、志由さんが記憶を塗り替えてくれた」

 江場さんは微笑む。

 もし、本当に救済という言葉が存在するのであれば、江場さんはお姉ちゃんに救済され、自分の道を見つけたのだろう。

 私は、紙に書かれている気になった一文を、音読してみる。

「一人ぼっちの君に、私は問いたい。幸せは考え方ようでどうにでもなる。何よりも大事なことは——」


「――愛だよ」

 江場さんは、最後にそう付け加えた。

「愛を表すのは、とても困難」

 私は、江場さんの独り言を聞きながら、フォークに刺したパンケーキを口いっぱいに頬張った。そして、注文し、届いてはいたが、あまり口をつけていないオレンジジュースを飲む。

「ご馳走様でした」

そう言って窓の外を見る。雨が小降りになっていたことに気がついた。

「お姉ちゃんが元気になってほしいって江場さんが望んでいたように、お姉ちゃんも江場さんに元気になってほしかったんだと思います。一人ぼっちの先生が明るくなってくれたら嬉しいって」

 私は、自分が頼んだパンケーキを完食した。


 パンケーキを頬張りながら江場さんの方を見ると、嬉しそうに泣いていて、咄嗟に私は自分のおしぼりを渡した。

「ごめん」

 江場さんは涙を拭く。

「本当は、志由さんのために何かしてあげたいとずっと思っていたんだけど、僕にできることは限られていたから」

 江場さんはゆっくりと顔を上げた。

「もう一つだけ、羽留さんにお願いしてもいいかな?」

私は頷く。

「文学碑ができた暁には、是非見てほしい」


 パンケーキ屋さんから出て、外を歩いた。すっかり雨は止み、雲間から日が差しはじめていて心地良い風がそよいでいた。


 きっと、江場さんは、自分の中でお姉ちゃんを弔うために文学碑を建てるのだろう。

「ごめんね、長居させちゃって」

 江場さんの表情は柔らかくて、爽やかな印象を抱いた。

「大丈夫です、こちらこそ楽しかったです!」

 私も自然と笑がこぼれる。今日は楽しい一日だったと思う。久しぶりにパンケーキを食べて、学校以外の人とたくさん喋って、大好きな人の話を聞けたのだから。

「あ、江場さん」

 私が思い出したように小さく笑ってみせ、彼を呼んだ。彼は私の顔を見る。

「お姉ちゃんが病気で亡くなる前に江場さんに『I love you 』言ってもらえて嬉しかったって言ってました。本当は、告白してたんじゃないですか? 『I love you』って、日本語で言うと愛してるです。告白したも同然ですよ」

 私がそう言うと江場さんは、嬉しそうな笑顔になる。ほんの一瞬で会ったばかりの時とは変わり果てた、綺麗な表情になる。そして、震える声で言葉を発した。

「『I love you』は、言っていないけど……。意訳では伝えたんだよ。伝わっていたらしいね」

晴れやかに、空を見上げて微笑していた

「とても、素敵ですね」

 江場さんはまた涙を浮かべながら笑った。その笑顔は今日一番輝いていた。


 お姉ちゃんの文芸碑には、最後の完結作品に書かれていた、死神が人間へ告白した時の言葉が刻まれた。


『いつも一緒ではなくていいのです、こんな奴もいたと思い出すくらいが丁度良いのです』


 二人の一番の幸せは、このことをいうのだろう。


 彼の姿は白映えに包まれていた。

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白映え 千桐加蓮 @karan21040829

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