第4話



 あれから少し経って、僕と花乃は公園のベンチで横隣りに座っていた。

「もう、気持ち悪いの、平気になった……?」

「うん、ありがとう。おかげで少し楽になった」

 花乃に買ってもらった冷たいジュースを額に当てながら、花乃に答える僕。

 どうして公園にいるのかと言うと、あの時、まだ気分が悪くて立てないでいる僕に、花乃はおろおろと当惑しながらも、

「と、とりあえず、公園、行こ……? こ、ここにいたら、車とか危ないと思うから……」

 と、僕の肩を支えながら公園まで連れて行ってくれたのだ。

「よ、よかった……。お、お買い物に行く途中で正ちゃんがうずくまってるのが見えたから、ど、どうしたのかなってすごく焦っちゃった」

「そっか……。ごめん、買い物に行く途中だったのに邪魔するような事をして……」

「だ、大丈夫! ちょっとお夕飯の買い物を頼まれただけだから……」

 謝る僕に、折れてしまわないか心配になるほどの勢いで首を横に振る花乃。

 そんな花乃を見て、僕は安堵の息を吐く。

 変わらないな、花乃は。こうして話すのは久しぶりだけれど、辿々しい喋り方も、少しオーバーなリアクションを取るところも、何も変わっていない。



 そして──困った人を放っておけない優しいところも。



「しょ、正ちゃん。それ……」

 と。

 ふと花乃が、戸惑うような仕草で僕の顔を指差してきた。

「ひ、左の頬、血、出てない……?」

「え?」

 言われて、左の頬を触ってから手のひらを見てみると、確かに少量の血が付着していた。

「ああ、あれのせいか……」

「あ、あれのせい……?」

「いや、なんでもないよ」

 すぐにかぶりを振る。

 まさか、瑠璃に顔を掴まれた時にできた傷とは言えるはずもない。

 瑠璃と花乃は、未だに親交があるのだから。

 二人の仲を裂くような真似なんて、できるものか。

 それにしても、花乃に言われるまで全然気が付かなかったな。血が垂れるほどの量でもなかったから、それで気にならなかったのかもしれない。

 ていうか、僕の顔を見た時点で瞬時に気付けたはずなんだけど、なんで花乃は今になって指摘したのだろうかと疑問が鎌首をもたげたが、すぐに慌てていたせいかと思い至った。

 道端で顔を青くしている僕を見て、頬の傷が視界に入っていても認識はできなかったのだろう。ケガの具合よりも、まずは体調を優先すべきだと咄嗟に判断したせいで。

「い、痛い……?」

「いや、痛くはないよ。触ると少し痛いけど」

「ちょ、ちょっと待ってて」

 言いながら、花乃は肩から提げていたポシェットから絆創膏を取り出した。

 それから紙袋から中身を取り出して、おずおずと無言で僕の頬に絆創膏を貼り始める花乃。僕は僕で、絆創膏を貼ってもらえるのを静かに待つ。

 初夏にも関わらず、ほんのりと冷たい花乃の指が頬に触れる。それが少しだけくすぐたくって、どこか懐かしい気分になった。

 そういえば、とふと追想する。



 小さい頃、花乃と手を繋いだ時も、ちょっと冷たい手をしていたっけ──。



 イギリスのことわざで、冷たい手をした人は心が温かいというのがあるらしいけれど、あながち間違いではないかもしれないな。

「お、終わったよ正ちゃん」

「……ごめん。絆創膏使わせちゃって……」

「う、ううん! いつも常備してるし! だから、気にしなくて、いいよ……!」

「そっか。ありがとう」

「で、でも、お風呂に入ったあとは貼り替えてね?」

 うん、と頷きつつ、花乃に貼ってもらった絆創膏を指で撫でる。もう僕の体温で温かくなっているけど、不思議とまだ仄かに冷たいような気がした。

 その後、どちらからともなく無言になる僕と花乃。久しぶりに話すせいもあってか、お互いに話題が出てこない。

 そうして少しばかり沈黙が続いたあと、いそいそと僕の隣りに座り直した花乃を見て、こっちから口火を切ってみた。

「今日はありがとう。公園まで付き添ってくれたり、絆創膏を貼ってくれたりしてくれて」

「た、大した事は何もしてないから、き、気にしなくていいよ。お、幼馴染なんだし」

「……でも、花乃はよかったの? なんていうか、その……」

 一度、そこで言葉を切る。本当に口にしていいのかどうか判断できずに。

 そんな煮え切らない僕に、花乃は不思議そうに小首を傾げて、

「な、なに……?」

「……いや、最近僕の事を避けていたみたいだから、こんな風に話していて大丈夫なのかなって」

 意を決して言った僕に、花乃は少し驚いたように目を見開いたあと、気まずそうに口ごもった。

 ややあって、

「ご、ごめんなさい……」

「? なんで花乃が謝るの?」

「り、理由は言えないけど、正ちゃんを避けていたのは本当だから……。だ、だから、ごめんなさい……」

「いや、よく目は合ってたし、嫌われているわけじゃないって事はわかってたから、別に謝まらなくてもいいよ」

「う、ううん! やっぱり謝る! だ、だって、約束破っちゃったから……」

「約束……?」

 一体何の事だろうと首を捻る僕に、花乃は少し躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「お、覚えてない? る、瑠璃ちゃんが事故に遭っちゃって、正ちゃんが周りの人から悪口を言われるようになった日の事……」

「覚えてるよ……」

 忘れるはずがない。忘れられるはずもない。

 あれから僕は、針のむしろと言わざるをえない日々を送るようになったのだから……。

「まあでも、自業自得みたいなものだから……」



「そ、それは違うよっ!」



 と。

 自嘲的なセリフを吐いた僕に、花乃はこの日一番大きい声を出して否定した。

「あ、あの時も言ったけど、正ちゃんは悪くないよ。瑠璃ちゃんを轢いたのは正ちゃんじゃないもん。別の人だもん。み、みんな、その事を忘れて正ちゃんに冷たい事を言ったりして、ひ、酷いと思う。る、瑠璃ちゃんのパパとママは、加害者の人が死んじゃったせいで、正ちゃんに八つ当たりしちゃってるせいもあるかもだけど……。る、瑠璃ちゃんは正ちゃんの事をもう許してるのに……」

 そんな事はないよ、とは言わなかった。

 花乃は今の僕と瑠璃の関係を知らない。

 瑠璃自身もどうやらその事に関してはあえて黙っているようだし、僕も下手にその件で口を開くわけにはいかなかったからだ。

 それに、何より。



 瑠璃はきっと、まだ僕の事を許していない。



 そうでなければ、あんな風に僕を束縛するはずがない。

 きっと「恋人になったら許してあげてもいい」と言ったのも、僕に罰を与え続けるためなのだろう。たぶんどちらかが死ぬまで、ずっと。

「そ、それに、逃げちゃったのはよくなかったかもしれないけれど、で、でも、それは瑠璃ちゃんが車に撥ねられたところを見てパニックになっちゃったせいだし、し、仕方がなかったと思う」

 あの時──

 瑠璃の事故を目撃しておきながら、通報もせずに逃げ出した事が周囲に広まって、みんなから白い目で見られるようになった、あの時。

 花乃だけは僕を遠ざけようとはせず、今みたいにずっと励ましてくれた。

 高校に入学して、花乃が僕を好き避けするようになるまで、ずっと、ずっと──。

「ありがとう、花乃。花乃だけは僕のそばにずっと居てくれたよね。すごく心強がった。

 けどさ、逃げ出したのは紛れもない事実だから、周りの人から叩かれるのは当たり前なんだよ。花乃だったら、きっと僕みたいに逃げないで助けを呼べたりしたんだろうけど……」

「そ、そんな事ない! わ、わたしだって、正ちゃんと同じ状況だったら、れ、冷静に対処できた自信なんてないもん……」

「それでも花乃なら、逃げるような真似なんてしなかったはずだよ。瑠璃とは一番の親友だったし、僕みたいに見放したりはしなかったと思う。

 だから僕みたいな奴は、幸せになるべきじゃないんだよ。法律的には問題なかったとしても、人道的には間違った事をしたのは事実なんだから、みんなが邪険にするのも当然だと思う。僕は一生、この罪を背負って生きていくべきなんだ……」

「違う違う!」

 またしても花乃が大声を上げる。こんな花乃を見るのは小さい時にケンカした以来だ。

「し、正ちゃんは幸せになっていいんだよ。あ、あれは不幸な事故だったんだから……。だ、だから、正ちゃんが加害者の人の分まで罪を背負う必要なんてないんだよ?」

「でも、僕は……」

「し、正ちゃん」

 と。

 不意に花乃が僕の手を取った。

 昔と変わらない冷たい両手で、僕の手を覆う形で。

「い、いきなりこんな事を言ってもすぐには無理かもしれないけど、わ、わたしだけは正ちゃんの味方でいるから……。ま、前にも約束したと思うけど……」

 その言葉に、ふと脳裏に似たような光景が甦ってきた。

 瑠璃の事故以来、周りが僕に悪口雑言をぶつける中で、花乃だけは今のように優しい言葉を掛けてくれた時の事を。

「思い出したよ。三年くらい前にも、同じ事を言ってくれたよね」

「う、うん。結局、約束破っちゃったけど……。ほ、本当にごめんなさい……」

「いや、さっきも言ったけど、花乃が謝るような事じゃないから……」

「で、でも今度はちゃんと約束するから!」

 ぎゅっと花乃が僕の手を力強く握りしめる。

 まるで自分を鼓舞するかのように。



「こ、今度は、絶対正ちゃんのそばから離れないから!」



 花乃は言う。

 顔を真っ赤にしながら──手を小刻みに振るわせながら。

 一体いつから──それこそどれだけの想いを抱きながら今の言葉を言ったのだろう。

 その気持ちを窺い知る事はできないけれど、それでも、僕を避けるようになってからずっと後悔していたのだろうというのは言わずとも理解できた。

 そして、かなりの覚悟を持ってさっきの言葉を発したのも。

 それは、前髪の隙間から覗ける決意に満ちた瞳を見ればすぐにわかる。

 本当に、花乃は変わらない。

 昔から控えめで内向的だったけれど、人のためならば確固たる意志で行動できるところも。



 そんな花乃だからこそ、僕は──



「そ、それでね、正ちゃん。今はまだ言えないけど、正ちゃんに聞いてほしい話があるの。たぶんすごくびっくりしちゃうかもしれないけど、それでも正ちゃんに言いたい事があるの。い、いつになるかはわからないけど、その時は聞いてくれる……?」

 訥々と語る花乃に、僕は「うん。わかった」と小さく頷いた。

 とある事を胸中で決心しながら。

「あ、ありがとう、正ちゃんっ」

「でも、その前に僕も聞いてほしい話があるんだ」

「? な、なに?」

 きょとんとした顔で訊ねる花乃に、僕は一度深呼吸してから緊張を解きほぐす。

 そして──



「実は僕、付き合っている人がいるんだ」



 やにわに一陣の風が吹いた。そばの柳の木をほのかに鳴らしながら。

 そんな、あたかも世界が止まったかのように静寂に包まれた中で、花乃の長い黒髪が風に攫われて後ろに靡く。



 驚いたというよりは、見るからに傷心に満ちた面持ちを僕に向けて。

 


 しばらくして風が吹き止んだあと、花乃は掠れたような小声で、

「そ、そうなんだ……」

 と相槌を打った。

「そ、それって、もしかして瑠璃ちゃん?」

「うん……。二年くらい前からずっと……」

「そっか。そっかあ……」

 そっかあと三度呟いたあと、花乃はおもむろに俯いた。

「……よ、よかったあ。る、瑠璃ちゃん、昔からずっと正ちゃんの事が好きだって言っていたから、すごくホッとした。と、とってもお似合いだと思う」

「花乃……」

 思わず花乃の名を呼ぶも、それ以上言葉が続かなかった。

 それからしばし沈黙が続いた。顔を俯いているせいで表情は窺えない。けれど傷付いた顔をしている事くらいは容易に想像が付いた。

 その後、時間にして数分くらい経ったあとだろうか──花乃はそっと僕から手を離して、ゆっくり立ち上がって踵を返した。

「わ、わたし、そろそろ行くね。お、遅くなる前に買い物に行かないと……」

「……うん。今日は色々とありがとう」

「ううん。それじゃあ、またね……」

 と、依然として背中を向けたまま、花乃は僕に向かって小さく手を振ったあと、歩道に向かって歩き出した。

 その背中を黙って見送る。とぼとぼと歩く花乃の小さな背中を見つめながら。

 ふと、はなをすするような音が聞こえた。それはやがて小さな嗚咽となり、時置いて、泣き声へと変わった。

 そんな花乃の震える後ろ姿を見て、我知らず立ち上がるも、すぐに思い直してベンチに再び腰掛けた。

 花乃を呼び止めたところでどうする。花乃を傷付けたのは他ならぬ僕だ。そんな奴が声を掛けたところで傷口に塩を塗るだけだ。

「ごめん、花乃……」

 小さくなっていく花乃の後ろ姿を横目で見ながら、僕は独りつ。

 胸が痛い。心が張り裂けそうだ。

 覚悟はしていたつもりだったけれど、こんなにも辛いとは思わなかった。

「それがなんだって言うんだ……」

 一番心を痛めているのは花乃自身だ。僕の痛みなんて些事にもならない。

 しかも僕は、あろう事か瑠璃との約束を破ってしまった。

 恋人との約束を破って、花乃に瑠璃と付き合っていると言ってしまった。



 ほんと僕は、どれだけ瑠璃の気持ちを踏みにじれば気が済むのだろう──。



「それでも……」

 それでも、どうしてもあのままにはしておけなかった。

 いずれ瑠璃から聞かされていた事かもしれないけども、それでも僕の口から告げたかったのだ。

 今の瑠璃は精神的にかなり危うい。花乃に対する感情もいまいち掴みきれない。

 友達だと思ってはいるようだけど、いつ縁が切れても構わないと思っている節がある。

 だからこそ、花乃が僕への想いを瑠璃に打ち明ける前に、今ここで暴露したかったのだ。



 どうせ花乃を傷付ける事になるのなら、僕から言った方がまだマシだと思ったから。

 その方が瑠璃との関係も気まずくならずに済むと思ったから。



 それに、花乃ならきっと僕なんかよりもっと良い人を見つけられる。

 何より、僕は瑠璃から離れられない──離れるわけにはいかない。

 瑠璃を見捨てようとした責任は必ず取らないといけない。

 いつか瑠璃の心が癒えて、僕を必要としなくなる日が来るまで。

 その時にもう、きっと花乃にも良い人が見つかっているだろう。

 それがいつになるかはわからないけども、みんなが幸せになれる未来が訪れたらいいなと心から願っている。

「こんな事、瑠璃に言ったらまた自罰的だって笑われそうだな……」

 それでもいい。

 花乃や瑠璃が少しでも救われるのなら、僕はどれたけ傷付いても構わない。

 たとえそれで、周りから自己満足だと揶揄されたとしても。

 不幸な自分に酔いしれたいだけの悲観論者ペシミストだと罵られたとしても。



 それが僕に花乃と瑠璃にしてやれる、たったひとつの冴えたやり方だと思うから──



「好きだよ……」

 いつしか、雨が降り始めていた。

 ポツポツと天上から降る小雨に打たれながら、僕は祈るように呟く。



「好きだよ、花乃……」



 だから、幸せになってほしい。

 本当は僕が幸せにしてあげたかったけれど、それはもう絶対に叶わない事だから。

 だからせめて、この願いだけは神様に届いてほしい。



 これまでずっと僕のそばにいてくれた彼女が、幸せになってくれますように。

 初めて恋した女の子が、いつも笑顔で送れる日々を送れますように──。



 雨が降り続ける。だんだんとその雨足を強めて。

 そうして僕は、まるでバケツをひっくり返したように降る雨に打たれながら、瞼を閉じて空を仰いだ。



 いつしか流れていた涙が、雨と一緒に枯れるまで──

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好き避けしてくる幼馴染がいるけど、恋人がいる僕にはどうする事もできない 戯 一樹 @1603

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