第3話



 その言葉に、つい足を浮かせそうになった。

 もちろん、急に立ち上がったら瑠璃にぶつかる危険性があったので、とっさに堪えたけれど、それでも目を瞠るくらいには衝撃的だった。

「じゃあ、最近になって花乃が僕を避けるようになったのって……」

「ああ、やっぱりそうなっちゃったんだ。予想通りの結果ね」

「予想通りって……」

 事もなげに言う瑠璃に、思わず言葉を失くす。

 意味がわからない。というより意図がわからない。

 なぜ瑠璃が、敵に塩を送る……ってわけじゃないけれども、恋敵になりうるかもしれない花乃にそんな真似をしたのか、皆目見当が付かなかった。

「どうして、なんて思ってるでしょ?」

 と。

 まるで僕の考えを読んだかのように、瑠璃が言葉を発した。

「だって腹立たしいじゃない。自分の気持ちを誤魔化しながら正ちゃんのそばにいようとするなんて。だったら、最初から好きだって自覚させた方がまだ健全でしょ?」

「……それはそうかもしれないけど、でも瑠璃はイヤじゃないの?」

「イヤじゃないわ。だって──」

 そこまで言ったあと、瑠璃は唐突に鼻が当たりそうなほど顔を間近に寄せて、



「だって、正ちゃんは私だけの恋人ものだもの」



 瑠璃の開いた瞳孔が僕を映す。恐怖で引き攣っている僕の顔を。

「どれだけ花乃が正ちゃんの事を想っていても──どれだけ正ちゃんのそばに居続けようとしても、正ちゃんが私の恋人ものだって事は変わらない。正ちゃんが花乃の恋人ものになるって事はないのよ。つまり、今さら何をしたって無駄って事。あはっ。花乃ったら可哀想~」

 依然として顔を寄せながら、瑠璃は笑声をこぼす。

 顔が近過ぎるせいで表情は読めないけれど、きっとピエロのようないびつな笑みで。

「まあ花乃の事だから、私に遠慮して正ちゃんに告白しない可能性もあるけどね。でももし、花乃が正ちゃんに告白しようとしたら、その時言ってあげるの。正ちゃんは私と付き合っているのよって。だから、今さら告白しても遅いのよって」

「……それって、花乃が瑠璃に一言断ってから僕に告白しに来るって事?」

「そうよ。律儀なあの子の事だから、必ず私のところに報告してから正ちゃんに告白するはずに決まってるわ。

 だから正ちゃんは、それまで何も言わないでね。私の楽しみが減っちゃうから」

「………………」

「やだ。正ちゃんったらまた黙り込んじゃってー。何か言ってくれないと、私がすごく悪そうに見えちゃうでしょ? それとも、私が悪いって思ってるの?」

「いや……」

 首を振る。瑠璃は何も悪くない。悪いのは僕だ。

 瑠璃のこんな風に歪めてしまったのは、すべて僕のせいだ。

 でも、だからと言って、瑠璃の事故とは一切無関係の花乃を巻き込むのだけは違う。それだけは看過できない。

「けど、どうしてそんな事をする必要があるの? だって花乃は……」

「友達なのにって言いたいの? それが何? 友達だったら妬んだらダメなの? 友達だったら不幸を願ったらダメなの? それとも正ちゃんは、私だけ辛い目に遭えばいいと思ってるの?」

「そんな事思ってないよ。僕はただ──」

「ただ、何? 花乃にもっと優しくしろって説教したいの? それとも、本当は私と別れて花乃と付き合いとか? 花乃、素直で大人しくって可愛いものねー。しかも私と違ってちゃんと歩けるしー。だから私よりも花乃を選ぶのねそうなのねそうなんでしょ?」

「痛っ……」

 またしても、瑠璃の爪が僕の頬に食い込む。それも今度は両手で鷲掴みするような触り方なので、なおさら強い痛みが走った。

「あ、ごめんなさい痛かったわよね? でも正ちゃんが悪いのよ正ちゃんが私を否定してくるから。正ちゃんは私と付き合ってるに、花乃の心配ばかりするから不安になっちゃったの。ねぇ、正ちゃんは花乃を選んだりしないわよね? 正ちゃんはずっと私のそばにいてくれるのよね……?」

「うん……」

 静かに頷く。今にも泣きそうな瞳で見つめてくる瑠璃の後ろ髪を撫でながら。

「僕はどこにもいかないよ。ずっと瑠璃のそばにいるから」

「本当? 絶対私と別れたりしない?」

「うん。僕は瑠璃だけの恋人ものだよ」

 今の言葉でようやく安心できたのか、瑠璃は僕の頬から両手を離して、そのまま首に両腕を回して抱き付いてきた。

「よかった~。正ちゃんがいなくなったら私、今度こそ生きていけなくなるところだった」

「……大丈夫。僕はいなくなったりしないから」

「うん。信じてるよ正ちゃん」

 瑠璃の頬が僕の頬に触れる。擦り合わせるように密着してくる瑠璃に、僕もちょっとでも力を加えただけでも折れそうな細い腰に片腕を回す。

 そうして瑠璃は、マーキングするかのように頬を擦り合わせながら、耳元でぼそっと囁いた。

 あたかも、呪いを掛けるかのように。



「──今度は、私を置いて行かないでね」



 ■ ■ ■



 瑠璃の家から出ると、いつの間にか空が暗雲に覆われていた。いつ雨が降り出してもおかしくない雰囲気だ。

 そんな曇天の下を、僕はとぼとぼと独りで家路を歩く。

「明日も、瑠璃の家に行かなきゃ……」

 意図せず胸中の呟きが漏れる。吐息と共にこぼれたその呟きは、初夏の生温い柔風に流れて空中に霧散した。

 いっそ柔風と一緒に、この鬱々とした気分もどこかに飛んでしまえばいいのに。

「鬱……そうか。鬱な気分になっているのか、僕は」

 どうやら、独り言が漏れるまで自分の心境にも気付いてなかったらしい。

 それだけ追い詰められているという事なのか、はたまた何も考えられなくなるほど精神的が摩耗しているのか。

「どちらかというと、両方な気もするけれど……」

 ふう、と嘆息を吐く。曇り空も相俟ってか、今日はやたらと気が滅入る。そのせいでやたらと独り言が多いのかもしれない。

 幸い、田舎特有の閑散とした町中を歩いているから奇異な目を向けられる心配はないけれど、知り合いに見られたら頭がどうかしているのだろうかと心配されそうだ。

「心配……心配か。はは……」

 思わず自嘲的な失笑がこぼれる。

 この期に及んで、僕はまだ誰かに温情を掛けられたいと思っているのだろうか。死にそうになっている幼馴染を見捨てて逃げ出したようなクズなのに。

 だとしたら、とんだお笑い草だ。

「悲劇の主人公ぶりたいのかよ、僕は……」

 足を止めて自分に毒吐く。自分の愚かさにほとほと呆れ果ててしまったせいか、次第に眩暈がしてきた。

 たまらず、そばの塀に背中を預けて、ずるずるとその場で屈む。

 なんだか、今日はすこぶる体調がよくない。不眠症なので寝不足も祟っているのだろうけど、それ以上に精神的に参っている気がする。瑠璃のせいにしたくはないけれど、瑠璃に会ってから特に。

 別段、瑠璃の事は嫌いじゃない。嫌いじゃないはずだ。そのはずなのに、瑠璃の事を心のどこかで忌避している自分がいる。

 そんな事、間違っても思っていいはずもないのに。

 だからこそ。

 だからこそ、こんなにも陰々滅々とした気分になっているのだろうか。



 本当は疎んでいるくせして、そうじゃないと自分に言い聞かせながら瑠璃に会いに行く毎日が。



「ふざけんな……」

 そうだ。ふざけた事を言うな。

 お前にそんな事を思う権利なんてあるのか?

 天真爛漫だった瑠璃を壊したのは誰だ? お前だろ正太郎。

 お前が瑠璃を壊して歪めておかしくさせてしまったんだ。

 それともお前は、また瑠璃を見捨てる気か?

 本当は好きでもなんでもない僕を無理やりそばに縛り付けて、それで自分の心を保とうとしている瑠璃を置いて、自分だけまた逃げる気か?



 ──お前は、ゲスにも劣る外道に堕ちる気か?



「僕は瑠璃が好きだ僕は瑠璃が好きだ僕は瑠璃が好きだ僕は瑠璃が好きだ」

 うずくまりながら、何度も自分に言い聞かせるように呟く。

 さながら、自身の体に刻み込むように。

 血が滲むほど、ナイフで傷付けるかのように。

 僕は瑠璃の事が好きだ。だから、瑠璃と会うのに憂鬱な気持ちになんてなってはいけない。会いなくないと思う事すら論外だ。



 だって僕は、瑠璃の恋人なのだから──。



「うぷ……っ」

 ふと襲ってきた胃液が迫り上がってくる感覚に、咄嗟とっさに口許を抑えて嘔吐感をにがす。

 何を嘔吐えずいているんだ僕は。瑠璃の事を考えただけで気分を悪くするなんて、この先一体どうするつもりなんだ。これからも──この先もずっと恋人として瑠璃に会いに行かないとダメだっていうのに。

「はは……。この体たらくで本当に恋人なんて続けられるのかな……」

 と。

 体調がすぐれないせいもあってか、つい弱気なセリフを吐いてしまった、そんな時だった。

 ふと、すぐ真横に人の気配を感じたのは。

 ……まずいな。道端でうずくまっている僕を見て、通行人が足を止めたのかもしれない。下手に救急車を呼ばれる前に、なんとか誤魔化さないと。

 そう思って、すぐに顔を上げてみると──

「え……?」

 思わず目を瞠る。予想もしていなかった人物が目の前にいた事に。



「正、ちゃん……? だ、大丈夫……?」



 目元が隠れるくらいの長く野暮ったい黒髪。蚊が鳴くような囁き声。

 そこには僕のもうひとりの幼馴染──花乃が、心配そうな顔でこちらを見つめながら佇んでいた。

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