第2話
あれは今から四年前、小学校を卒業して長い春休みを満喫していた頃だった。
あの時は、もうじき中学生になるお祝いに買ってもらった新しい自転車に浮かれて、あちこち走り回っていた。それこそ、バカのひとつ覚えみたいに。
そんな時だった。偶然道端で会った瑠璃に、お互い笑顔で手を振りながら近寄ろうとしたその瞬間──
不意に曲がり角から現れた軽トラに、瑠璃が勢いよく跳ね飛ばされたのは。
あの瞬間は、まるで悪夢でも見ているかのようだった。いっそ夢であればいいと何度願った事か。
けれど、僕の願いが神様に届く事はなく、瑠璃はぐったりと道路脇に横たわっていた。
その時、僕は放心していた。一体何が起きたかわからず、茫然自失としていた。
すぐさま瑠璃に駆け寄ろうともせず、スマホを持っていたのに救急車すら呼ばないまま。
次に襲いかかってきたのは、純粋な恐怖だった。
頭から血を流しながらアスファルトの上でぐったりとしている瑠璃を見て、僕は恐怖に取り憑かれてしまったのだ。
その後の事は、正直よく覚えていない。ただ気が付いた時には、自転車で走り去っていた。
あてどもなく、逃げるように全力で自転車のペダルを漕ぎながら。
どうして軽トラに轢かれた瑠璃を置いて逃げてしまったのか、自分でもわからない。今でもあの時の光景を夢で繰り返し見ては後悔している。
逃げる必要なんてなかったのに。
僕になんの落ち度もないのだから、ただ落ち着いて救急車を呼べばよかっただけなのに。
もしもあの時、もっと早く適切に処置していれば、瑠璃はこんな風にならなかったのかもしれないのに、と──。
だけど僕は、目の前で起きた事故に頭がパニックになってしまい、ただその場から逃げる事しか考えられなかった。
幸い、あの後にたまたま事故現場を通りがかった人の迅速な対応のおかげで二次被害が起きる事もなく、瑠璃もなんとか一命を取り留める事ができた。
ちなみに、事故を起こした軽トラは、瑠璃を轢いたあとに数十メートル離れた先のガードレールにぶつかって停止していたらしく、救急車が駆け付けた時にはすでに死亡していたのだとか。
後々わかった事だけれど、運転していたのは高齢者の方で、どうやら運転中に心筋梗塞になったらしく、そのせいで目の前を歩いていた瑠璃に気付けず、スピードが出たまま轢いてしまったのだろうというのが警察の見解だった。
なぜ僕がそんな事まで知っているのかというと、事故当時、近所の家に設置されていた防犯カメラに僕が映っていたらしく、それで詳しい話を聞くために警察が家まで訪ねてきたからだ。
その時まで僕は、自分の部屋で布団を被りながらブルブルと震えていた。
事故から数時間経ったあとでも、僕は誰にも相談しないまま、情けなくもひとりで怯えていたのだ。
幼馴染が目の前で轢かれたというのに、何もせず逃げてしまった僕を、誰かが糾弾しに来るんじゃないかと思ったら、外に出るのが怖くて仕方がなかった。
だから部屋の中にずっと引き篭もる事で、現実から逃げようとしたのだ。
その後、先述の通り、警察から事故の詳細を訊ねられ、それから瑠璃が近くの病院で入院している事も聞かされた。
そして、こうも言われた。
あともう少し遅ければ、命を落としていたかもしれないと医者が口にしていた、と。
そして事故の後遺症で、下半身付随になってしまったようだ、とも。
その話を聞いた時、僕は頭が真っ白になった。
瑠璃が助かったと知って安堵したのも束の間、下半身付随になったと聞いて、その場でくず折れるほどショックを受けた。
幸いと言ったら不謹慎になるかもしれないけど、運転手が任意保険に入っていたおかげでお金の心配は必要はないようだけれど、どこにも身寄りがない人だったようで、運転手の遺族が謝るに来る事はなかったらしい。
その時の怒りも相乗しての事なのだろう──後日、父と一緒に瑠璃の入院先を訪ねようとした際、病室前で瑠璃のお父さんに鬼気迫る勢いで胸倉を掴まれながらこう言われた。
お前が逃げたせいで娘が危うく死にかけるところだった。
お前がもっと早く助けを呼んでいたら、娘は下半身付随にならなかったかもしれないのに。
お前が轢かれていればよかった。そうなっていたら娘が下半身付随になる事もなかったのに、と。
僕だって、代われるなら代わりたかった。いっそ僕が死んで瑠璃の障害が無くなるのなら、命を投げ捨ててもいいとすら考えていた。
でも、そんなの神様にしか出来ない事で。
僕にはどうする事も出来なくて。
どれだけ瑠璃のお父さんに罵倒されようとも、土下座して謝る事しかできなかった。
だけど一番謝りたい人……瑠璃と会う事はできなかった。
瑠璃本人が、僕に会いたくないと拒絶したのだ。
無理もなかった。だって僕と会わなければ、あんな事にはならずに済んだのかもしれないのだから。
それからしばらくは、瑠璃の家に毎日のように行っては門前払いを食らうという日々を送っていた。一目すら瑠璃に会えないまま。
その間、僕の周囲も様変わりしていった。
まず、僕の母が蒸発した。
誰が情報を流したかは知らないけれど、事故の一件がネットで拡散されたせいで、僕だけでなく両親まで世間の批判に晒されるようになり、それに耐えかねた母が「ごめんなさい」とだけ書かれた置き手紙だけを残して、ある日突然家から出て行ってしまったのである。
それから友達も全員僕から離れていった。幼馴染を見捨てたゲスだと罵倒されて、メッセージアプリのグループからも外されてしまった。
それでも、中学校だけは真面目に通った。これ以上父親に心労を掛けるような真似はしたくなかったからだ。
当然というかなんというか、事故の件もあって学校ではすごく浮いていたけれども。
そして父は、母の蒸発と僕の件も重なって次第に心を病むようになり、僕が中学生になって三か月ほど経ってから、勤めていた会社を退職せざるをえなくなった。
今は生活保護でなんとかやっていけているけれど、正直苦しい。高校の教材費等は生業扶助という制度のおかげでお金を支給してもらっているけれど、生活費はギリギリなので倹約は必須だ。
もちろん、国の税金で生かしてもらっているので、贅沢したいなんて口が避けても言えないし、ワガママすら言っていいような立場ではないというのは頭では理解している。
ただ、今でも社会復帰できずに毎日布団の中にいる父を見ていると、もしも僕の身に何かあった時にどうなってしまうのだろうと思う時がある。
昔は母がやっていた家事も買い物も、今は僕が全部している。昔から仕事一筋だった父に、家事をやる能力があるとは思えない。
まして、今は精神を病んでしまっている。そんな時に僕がいなくなってしまったら、父は一体どうなってしまうのだろうと、言いようのない不安で押しつぶされそうになるのだ。
世間ではこういうのをヤングケアラーというらしいけれど、そんな被害者ぶるつもりは微塵もない。
被害者は父と母──そして瑠璃とその両親だ。
僕のせいで、父と母が離れ離れになってしまった。
僕のせいで瑠璃を障害者にさせてしまった。
僕が、みんなの平穏な毎日を壊してしまった。
そんな僕が、幸せになんてなれるはずがない──。
「あははっ。正ちゃんったらまた死にそうな顔をしてる~」
と。
いつの間にか僕の顔を覗き込んでいた瑠璃が、童話に出てくるチェシャ猫のように歪な笑みを浮かべていた。
「死にそうな顔というより、死にたそうな顔かな? でもダメよ。正ちゃんは私の恋人なんだから。私を置いて死んだりしたら一生恨むんだから」
「……わかってるよ。瑠璃と恋人でいる限りは自殺なんてしない」
「うん。いい子ね、正ちゃん」
よしよし、と幼子をあやすように頭を撫でてくる瑠璃に、僕は抵抗せず無言で俯く。
「ほんと、正ちゃんは可愛いわね。思い切って告白してみてよかった。あの時告白してなかったら、こんな楽しい時間は過ごせなかったもの」
「………………」
「もう。なんでここで黙っちゃうかなあ。ここは『僕も楽しいよ』って言う場面でしょ?」
「……うん。僕もだよ」
「もっと嬉しそうに言ってよー。まるで私が弱みを握って無理やり言う事を聞かせているみたいになっちゃうから、そういう顔はやめてほしいんですけど」
「ごめん……」
「ごめんじゃなくて、他に言う事があるでしょ」
「…………、好きだよ瑠璃」
「うん。私も好きよ、正ちゃん」
言って、僕の首元に抱き付く瑠璃。
そんな瑠璃の細くて今にも壊れそうな肩に、怖々と僕も両手を回して触れる。繊細なガラス細工を扱うように。
そして想起する。瑠璃と恋人になった時の事を。
あの時の僕は、母親が蒸発したばかりで、心身共にボロボロな状態だった。
それでも瑠璃の家に謝罪しに行く事だけは忘れず、何度もすげなく追い返されては肩を落として帰路に就くという毎日を過ごしていた。
そんなある日、また追い返されてしまうんだろうなと半ば諦めの境地で瑠璃の家を訪ねてみると、いつもならインターホン越しに冷たくあしらってくるおばさんが、なぜか今回だけは怨讐に満ちた顔をしながらも僕を家の中に入れてくれた。
ただ一言、「瑠璃があなたに会いたいって言うから仕方なく」と口にして。
そうして、事故以来初めてとなる瑠璃との対面に、内心今すぐ逃げてしまいたい衝動に駆られながらも、開口一番に土下座して何度も謝罪の言葉を口にした。
本当に申し訳ない事をした。
僕に出来る事なら何でもする。
というような言葉を、ベッドに座る瑠璃に対し、床に額を擦り付けながら何度も繰り返し呟いて。
そんな僕に、瑠璃は生気のない表情でおもむろに口を開いて、
『……だったら、私の恋人になって。そしたら、許してあげてもいい』
その言葉に「どうして?」と訊ねると、瑠璃はこう続けた。
『昔からずっと好きだったの。だから私と付き合ってほしい』
その条件を、僕は呑んだ。
正直、瑠璃の事は仲の良い幼馴染としか見ていなかったけれど、それで許してもらえるのなら、僕の気持ちなんて些事も同然だった。
そうして僕は今も瑠璃との恋人関係を続けている──。
「……幸せだなあ。こうして正ちゃんと一緒にいられて」
と。
僕が追想している間もずっと首元に抱き付いたままの瑠璃が、感傷に浸っているかのような声音でおもむろに口を開いた。
「ほんと、昔の私に教えてあげたいくらい。あなたがずっと好きだった人は、今は私の恋人なのよって」
……どうして瑠璃は、ここまで僕の事を好いてくれているのだろう。特に何かをした覚えはないのに。
そんな考えが表に出てしまったのか、瑠璃はいったん僕から顔を離して、
「あ、もしかして正ちゃん、なんでこんなに好かれてるんだろうって不思議に思ってる? いいわよ、今日は気分がいいから特別に教えておげる。
覚えてるどうかはわからないけど、私が小学二年生の頃かなあ。正ちゃんと花乃と三人で帰っていた時に雷が鳴り出しちゃってさ、その時に正ちゃんが『大丈夫。僕がいるから怖くないよ』って、ずっと私の手を握ってくれたの。
それからかなあ、正ちゃんの事を仲の良い幼馴染から好きな男の子として意識するようになったのは」
まったく覚えがない。小学生の頃、よく瑠璃や花乃と一緒に帰っていたのは覚えているし、低学年の頃まではよく手を繋いでいたのもなんとなく記憶はあるけれど、瑠璃が言うようなエピソードに覚えはない。たぶん忘れてしまったのだろう。
「あの時の正ちゃん、本当にかっこよかったなあ。花乃も言ってたわよ、手を繋いでくれたおかげで、雷が鳴ってても怖くなかったって」
「え、花乃とも手を繋いでいたの?」
「本当に覚えてないのねー」
くすくすと笑声をこぼす瑠璃に、僕はなんとなく気まずくなって目を逸らした。
「あ、花乃と言えば、最近様子が変わったって事はない? 正ちゃんを避けるようになったとか」
思わず一度逸らした目線を瑠璃へとすぐさま戻す。さも図星を突かれたと言わんばかりに。
「あー。その反応、やっぱり心当たりがあるんだ~」
「な、なんでわかって……」
「ふふ。なんでだと思う?」
はぐらかすように小首を傾げながらニヤニヤと唇の端を引く瑠璃に、僕は黙って見つめ返す。
「わからない? どうして花乃が正ちゃんを避けるようになったか」
「……勘違いかもしれないけれど、もしかして僕の事が好きなのかなとは思ってる」
もっとも、これは級友に教えてもらった事ではあるけども。
「正解。ニブチンな正ちゃんでも、そこまでは気付けたんだねー。じゃあ、いつからだと思う? 花乃が正ちゃんを意識するようになったのって」
「いつからって言われても……」
そんなの、わかるはずがない。最近になって花乃に好意を持たれていると教えてもらったばかりなのだから。
「私と同じよ」
と。
まるで見当が付かないでいる僕に、瑠璃は端的に答える。
「瑠璃と、同じ……?」
「そ。私と同じ時に好きになったの。つまり、雷が鳴っていた時の話ね」
「……それ、花乃本人から聞いたの?」
「いいえ。でも見たらわかるわ。完全に恋に落ちた女の顔だったもの」
「でも、まだ七、八歳の頃の話でしょ?」
「あら、恋に年齢なんて関係ないわよ。女はいくつになっても女なのよ。たとえそれが幼児でもね」
「…………」
そういうものなのだろうか。よく女の子は幼少期からませているとは言うけれど、男の僕にはよくわからない世界だ。
「もっとも、本人は全然気が付いてなかったみたいだけれど。だから私、花乃に言ったのよ。『私、正ちゃんの事が好き。いつか恋人同士になりたい』って」
牽制のつもりでね、と小さく舌を出す瑠璃に、
「……それで、花乃はなんて言ったの?」
と訊ねる。
「応援するって、笑顔で返してきたわよ」
最初は耳を疑ったわ、と苦笑する瑠璃。
「信じられないわよねー。いくら自分では気が付いてないからって、普通は好きな男を取られそうになったら嫉妬くらいするものなのに。まあ花乃は昔から大人しくて遠慮がちな方だったから、友達の私に譲ってくれたのかもしれないけれど。ほんと、花乃ってそういう優しくて健気なところが──」
──反吐が出る。
カチカチ、とベッド脇に置いてある目覚まし時計の秒針が無機質に鳴る。あたかも、この空間だけ外界から閉ざされてしまったかのように。
おそるおそる瑠璃の表情を窺ってみると、瞳に翳りが差していた。ほとんど能面に近いと言っていい。口許は薄笑みを浮かべているのに、目だけは虚ろとしていた。
ましてや、先ほどまで陽気に喋っていた分、吐き捨てるように口にした今の発言もあって、背筋に冷たい何かが這ってくるような
「ああでも、反吐が出るっていうより、虫唾が走るって言った方が正しいかも。健常者ならではの余裕を見せつけられているようで腹が立つっていうか。昔は花乃のそういうところが好きだったけれど、今も自分の気持ちを誤魔化して告白しないなんて、障害者の私にしてみれば嫌味でしかないわ。その気になれば、正ちゃんとどこにだって行けるくせに」
ぐり、と僕の頬肉を削ぐように瑠璃の鋭利な爪が半弧を描く。痛い。けれど口答えはしなかった。する気にもなれなかった。
口答えする権利なんて、僕にはないのだから。
「知ってた? 花乃ってば今でも私に会いに来てくれるんだけれど、会うたび『正ちゃんが正ちゃんが』って正ちゃんの話ばかりするのよ。たぶん私のために正ちゃんの話をしてくれているんだろうし、あの子にしてみれば善意のつもりでやっているんだろうけど、それが傷口を抉っているだけでしかないってどうして気が付いてくれないのかしら。しかも、わざわざ正ちゃんと同じ高校を選ぶなんて、絶対当て付けでしかないわよね。本当だったら私が正ちゃんのそばにいてずっと笑い合ってたはずなのに」
想像してみる。瑠璃が事故に遭わなかった未来を。
きっと、昔のように弾けるような笑顔を浮かべながら友達と戯れていた事だろう。
瑠璃は走るのが好きな子だったから、もし高校に入学していたら、陸上部に入って今も元気に走り回っていたかもしれない。
そんな未来を、僕が壊してしまった。
瑠璃の人生を壊してしまったんだ──……。
「あら、どうして正ちゃんがそんな辛そうな顔をするの? 今は花乃の話をしているのに」
「……だって、瑠璃が花乃に対してそんな風に思うようになったのって、僕のせいだよね?」
「正ちゃんはなんでもかんでも自分のせいにしたがるところがあるわよね。加害妄想が過ぎるっていうか」
そういうところも嫌いじゃないけれど、と爪で抉った僕の頬を、今度は愛おしげに指で撫でながら莉緒は言う。
「まあ違うとは言わないけれど、花乃に対してムカついてるのは、花乃自身にも問題があるからよ。だって正ちゃんの事はただの幼馴染としか見ていないとか言っておきながら、正ちゃんと同じ高校に行ってるのよ? 正ちゃんの通ってる高校って、かなり偏差値の高い進学校なのに」
瑠璃の言う通り、僕は県内でも有数の進学校に入っている。
別に地頭が良いというわけではないけれど、瑠璃の一件ですっかり友達をなくしてしまった上、母がいなくなって精神的に病んでしまった父の面倒や家事をしなければならなかったので、隙間時間にちょこちょこ勉強をしていたら、いつの間にか成績が上がっていたのである。
もっとも、最初は高校に通うかどうかも最初は悩んでいたのだけれど、その事を父に話したら、
「高校くらいは行っておきなさい。俺もこんな状態でいつ働けるようになるかわからないから、選択肢は多い方がきっといいから」
という勧めもあり、どうせならと進学校を選んだのだ。
おかげで僕の事を知る人がほとんどいない高校に行けたので、瑠璃の件で騒がれる事もなく平穏に過ごせているけれども、まさか花乃まで入学してくるとは夢にも思わなかった。
花乃の成績では、けっこう難しい条件のはずだったのに。
「ほんと、こっちにしてみたら嫌がらせでしかないわ。しかも、本人はいたって善意でやっているんだから、なおさら
「言うって、何を……?」
僕の問いに、瑠璃は意味深に笑みを深めながら、艶めかしく口を開いた。
「花乃は、本当は正ちゃんの事が好きなのよって」
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