麻里子の部屋に電話をした

春風秋雄

また終電を逃した

麻里子の部屋に電話した。

携帯ではなく、わざわざ家電にかけたのは、家にいなければそのまま帰ろうと思ったからだ。俺が「家に行ってもいいか」と聞けば、麻里子はどこにいても「いいよ」と言って、すぐに家に帰って俺を待ち受ける。無理しなくていいというのに、いつも「無理はしていない」と言って何もなかったように俺を向かい入れてくれる。麻里子はそういう女だった。

「もしもし?香坂君?」

電話のディスプレイに俺の番号が表示されたのだろう。麻里子は部屋にいた。

「これから行ってもいいか?」

「いいよ。どこにいるの?」

「新橋。タクシーで行くから20分くらいで行ける」

「わかった」

麻里子はいつものように、俺を受け入れてくれた。


俺の名前は香坂省吾。34歳の独身だ。4年前に税理士の資格を取得して、独立して会計事務所を経営している。麻里子は俺が独立するまで働いていた会計事務所の同僚で、俺より2歳年下の32歳で独身だ。税理士になる気はあまりないらしいが、仕事は速く正確で、優秀な職員だった。麻里子とは気が合って、一緒に働いている時は、週に2回は一緒に飲みに行っていた。事務所の先生に対する愚痴や、顧問先から我儘を言われた愚痴などをこぼし、時には恋愛相談などものってもらっていた。俺の家は千葉県の柏市なので、終電を逃すとタクシー代は高速を使わなくても15,000円くらいかかる。その時は、麻里子が部屋に泊めてくれた。もう数えきれないくらい泊っているが、麻里子と男女の関係になったことは一度もない。俺は麻里子を女性として見ていない。決してブスではないが、美人でもない。はっきり言って俺のタイプではなかった。俺が女性として見ていないことは、麻里子本人も自覚しているようで、男の俺を泊めても安心して寝ている。初めて麻里子の部屋に泊ったときは畳の上にゴロ寝だったが、2回目に泊ったときには、新しく布団を一式用意してくれていた。それからは、俺はいつもその布団に寝かされる。麻里子のマンションは恵比寿にある築40年の古いマンションだ。2DKの間取りで、別々の部屋に寝るので俺が泊っても気にならないのだろう。俺が事務所を出て独立してからは、それほど頻繁ではなくなったが、それでも月に1回は、どちらかが連絡して一緒に飲みに行く。その度に麻里子の部屋に泊っていた。そして、麻里子と飲んでいない時でも、他の友人やお客さんと飲んで遅くなった時でも、俺は麻里子に電話をして泊めてもらっている。


麻里子の部屋に入ると、麻里子はいつものように酔い覚ましのコーヒーを淹れて待ってくれていた。

「今日はお客さんと?」

「いや、友達と飲んでいた。実は昨日、彼女と別れたんだ」

「ふーん。この前、もう別れるかもしれないって言っていたけど、結局別れたんだ」

「うん。やっぱりダメだったね」

「私が知っているだけで、もう3人目じゃない?」

「そうだっけ?」

「そうだよ。いつも色々アドバイスしてあげているのに、どうしてうまくいかないんだろうね?」

「どうも俺に原因があるらしいんだよな。優しいけど、男らしさがないとか、気配りは出来るけど、女心に鈍感って言われるんだけど、俺にはサッパリわからない」

「なるほどね。確かに香坂君は、そういうとこあるよね」

「そうなの?優しいけど、男らしさがないってどういうこと?気配りは出来るけど、女心がわからないって、どういうこと?」

「まあ、言葉で説明してもわからないでしょう」

「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ?」

「今のままの香坂君がいいって言う人を探すしかないんじゃない?」

「これだけ振られ続けると、そういう女性はいないんじゃないかと思えてきたよ」

「それより、明日は仕事でしょ?」

「今は決算に入っている顧問先はないし、アポイントは午後からだから、明日の朝一旦家に帰ってから事務所へ行くつもり」

「そう。私は仕事だから、朝は一緒に出てよね」

「わかっている。いつものように8時に出ればいいのでしょ?」

「わかっているなら、私はもう寝るよ。香坂君と違って、私は朝早く起きないと、準備で時間かかるんだから」

「了解。じゃあ、俺はシャワー浴びてから寝るね」

俺が麻里子のところに泊るときは、だいたいこういう感じだ。

朝起きると、麻里子はトーストと目玉焼きとコーヒーの朝食を用意してくれている。俺はトーストをかじりながら、麻里子は良い奥さんになると思うのに、世の中の男連中は見る目がないなといつも思っていた。


大学時代の友人から、荒井美紀さんという、なかなか綺麗な女性を紹介してもらった。年齢も28歳で俺より6歳も若い。今度こそうまく付き合いたいと思う。仕事も順調だし、そろそろ結婚も考えなければならない。柏の実家にいる両親は、同居はしなくてもいいから、早く孫の顔を見せろとうるさい。それでも一人っ子の俺は、いずれは親の面倒をみなければならないと思っているので、結婚相手にはそれを理解してもらわなければならない。その点、荒井さんは俺と会う前に、紹介してくれた友人から俺の事情を聞いていたようで、それを承知の上で俺と会っており、将来両親の面倒をみることに抵抗はないということだった。こんな女性を逃したら、二度と俺の結婚相手は現れないのではないかと思った。

荒井さんとの交際は順調に進んだ。3回目のデートのとき、まだ早いかなと思いながらもホテルに誘うと、荒井さんは何も言わず付いてきてくれた。俺は有頂天になった。このまま順調に交際を続け、何とか結婚まで進もうと考えていた。


荒井さんを紹介してくれた友人を、お礼を兼ねて飲みに誘い、夢中で話していたら、終電を逃してしまった。しかたなく俺は、麻里子に電話をした。

「もしもし?香坂君?」

「悪い、また泊めてくれないか?」

「いいけど、どうして携帯にかけてこないの?」

「部屋にいなかったらタクシーで帰ろうと思っていたから」

「部屋にいなくても、いつもすぐ戻るからいいよって言ってるじゃない」

「それが申し訳ないなと思って」

「・・・」

「麻里子?どうした?」

「やっぱり香坂君の気配りは、ちょっと的が外れている気がするな」

「え?そうなの?」

「まあ、いいから。とりあえず来なさい」

「わかった。15分くらいで行けると思うから」


麻里子の部屋に行くと、いつものようにコーヒーを淹れて待っていた。

「いつも悪いね」

俺がそう言うと、麻里子はチラッと俺を見てコーヒーカップを俺の前に置いた。

「本当は悪いとは思っていないくせに」

俺は苦笑いするしかなかった。

「今日は友達と飲んでいたの?」

「うん。俺、新しく彼女が出来て、その人を紹介してくれた友達にお礼を兼ねて飲んでた」

「彼女できたんだ?」

「今度こそ、上手くいくと思うんだけどね」

「交際は順調に進んでいるの?」

「この前、初めてホテルに行った」

一瞬麻里子の表情が変わった。

「ごめん、独り身の麻里子にそんな話はしない方がいいね」

「今度は振られないようにしなさいね」

「そう言えば、さっき言っていた、俺の気配りは的が外れているというのはどういう意味?」

「別にいいじゃない。私は気にしていないんだから」

「いや、今後他の人に対しても、間違った気配りをしてもいけないから」

麻里子は少し考えてから話し出した。

「香坂君から連絡があって、今までそんなことはなかったけど、状況によっては私だって断りたい時は出てくると思うの。例えば今日は体調が悪くて香坂君の相手をしてられないとか、落ち込んでいて、一人でいたい時とか」

「そういう時は遠慮なく断ってくれていいよ」

「携帯に電話くれたら、どこにいるかわからないだろうから、断りやすいけど、部屋に電話してきたら、部屋にいることはわかっているのに、断りづらいじゃない。いちいち理由を説明するのも面倒だし。じゃあ、電話に出なければいいじゃないかってことになるけど、香坂君は今まで仕事のこととか、急用で何回か連絡くれているから、そういう要件だったら困るだろうなと思って電話に出るでしょ?」

確かにそうかもしれない。俺が麻里子を気遣って部屋に電話していたことは、かえって迷惑だったのか。

「他の人はどうかわからないし、私の場合も今まではそういうことはなかったから別にいいんだけど、少なくとも、私に対しては香坂君の気配りは的外れかなと思う」

俺は、ここに来るまでの楽しいテンションが、一気に盛り下がって来た。麻里子にここまでダメ出しをくらったのは初めてだった。

「それに、・・・」

麻里子は何か言いかけて言い淀んだ。

「それに何?」

「やっぱりいい」

「何だよ。言いかけたのなら言えよ」

麻里子は俺に促されて口を開いた。

「香坂君は、やっぱり女心をわかってない」

「え?どういうこと?」

「もう私は寝る」

麻里子はそう言って自分の部屋にこもった。


急に仕事が忙しくなった。顧問先の決算が3社重なったからだ。3社とも3月決算なので、5月末までには決算書を提出しなければならない。2社は電子申告だが、1社は年配の社長さんで、紙の決算書にこだわりがあるらしく、印刷して渡さなければならなかった。

荒井美紀さんとは、結局うまくいかなかった。俺はショックだった。荒井さんに惚れていたのかと言われれば、自信はない。そういう意味では失恋というショックではない。俺はいままでも良いところまでいっても、最終的に振られてしまう。特に今回の荒井さんは、何度か体も重ね、絶対に結婚まで行くだろうと思っていただけに、男として自信を失くしてしまったということだ。そして、何よりもショックだったのは、その原因が俺にはわからないということだった。あることがきっかけで、俺たちは言い合いになった。俺からすれば些細なことだったのに、どうして荒井さんがそこまで怒っているのか理解できなかった。荒井さんは、私がどうしてここまで怒っているのかわからないということであれば、これから先、あなたと一緒にやっていくのは無理ですと言って去って行った。

俺はこの半月ほど仕事が手に付かず、遅くとも明後日には決算を仕上げなければならないというのに、まだ3社ともかなりの作業量が残っていた。

俺が事務所で仕事をしていると、携帯が鳴った。俺はディスプレイも見ずに電話に出た。

「もしもし、香坂君?」

「ああ、麻里子か」

「夕飯食べた?良かったら一緒に食べない?それとも、今日は週末だから、彼女とデートかな?」

「今何時?」

「もうすぐ7時になるよ」

「悪い、今3月決算の案件を3件抱えていて、それどころじゃないんだ」

「3月決算を3件?間に合うの?」

「何とか間に合わせなければいけないから、食事している時間がないんだ」

「私、手伝おうか?」

麻里子が手伝ってくれる?それは助かる。

「頼めるか?バイト代ははずむから」

「じゃあ、とりあえず今から事務所へ行くね」

30分ほどして麻里子が事務所にやってきた。コンビニによってきたらしく、おにぎりやサンドウィッチを買い込んできていた。

「何をやればいい?」

「じゃあ、この会社の入力をお願い。会計ソフトは同じソフトを使っているから」

俺が準備していた資料を手渡すと、早速麻里子がキーボードを叩き出した。相変わらず入力が速い。

二人は、時々おにぎりなどを食べながら、黙々とキーボードをたたき続けた。俺が紙の決算書を打ち出す頃には、麻里子は1社分を終え、もう1社の入力に入っていた。麻里子が入力し終えた会社の最終チェックをして、麻里子には休んでもらい、俺が残りの入力をする。すべての作業が終わった時は、夜中の3時を過ぎていた。

「麻里子、やっと終わったよ」

麻里子の返事がない。応接のソファーを見ると、麻里子がソファーで寝ていた。こんなところで寝ては風邪をひく。俺は麻里子を起こそうと、ソファーに近づいた。麻里子の部屋には何回も泊まっているのに、いつも寝るのは別の部屋なので、麻里子の寝顔を見るのは初めてだった。麻里子ってこんなに可愛かったっけ?俺はジッと麻里子の寝顔を見ていた。すると、気配を感じたのか、麻里子が目を覚ました。

「あ、私寝てた」

「麻里子、ありがとう。やっと終わったよ」

「そう。よかった」

それから俺たちはタクシーで麻里子の部屋に向かった。


麻里子の部屋で、荒井さんと別れたことを話すと

「また振られたの?どうして?」

と麻里子は驚いた。

俺が事情を説明すると、麻里子が聞いてきた。

「何が原因で言い合いになったの?」

「仕事や付き合いで遅くなった時はタクシーで柏まで帰るのかと聞くから、その時は友達のところに泊めてもらうと言ったんだ」

「言ったよ。だって、本当のことじゃない」

「バカだねぇ。そんなこと正直に話してどうするのよ」

「だって、麻里子は友達じゃないか。別に変な関係でもないし。泊まるときだって、別々の部屋なんだから、やましいことは何もないよ」

「あなたって人は、本当に女心がわかってないね」

「いや、だって・・・」

「だってじゃないわよ。自分が付き合っている相手が、何もないとはいえ、異性の家に二人きりで泊るなんて、耐えられないに決まっているじゃない」

「・・・」

「女心がわかってないというのは、私に対してもそうよ」

「麻里子に対して?」

「他の女性とホテルに行ったなんて話、聞きたくないわよ」

「そうなのか?」

「当たり前じゃない。私がいつもいつも香坂君を家に泊めているのは、単なる友達だからじゃない。私はずっと前から香坂君のことが好きだったから。何もしなくていいから、一緒の夜を過ごしたかったの。私は美人でもないし、香坂君には釣り合わないと自覚しているから、私を彼女にしてとか、私のことを好きになってとか、そんなことは望んでない。ただ、少しの間だけでも一緒にいたい。そういうつもりで香坂君を泊めていたの」

「そうだったのか」

「自分ではわかっているわよ。香坂君は永遠に私のことなんか女として見てくれないってことは。でも、女性である私の部屋に泊ることを、平気で彼女に言えるほどの、何でもない存在なんだと思ったら、いくら自分の中では割り切っていたつもりでも、やっぱりつらいよ」

「ごめん。そんなつもりで荒井さんに言ったのではなかったんだけど」

「もういい。今日は帰って。今日は一緒にいたくない。タクシー代なら私が出すから、だから、帰って」

「わかった。帰るよ。タクシー代くらい自分で出すから」

俺は、すごすごと、麻里子の部屋を出た。


マンションを出ると、空は少し明るくなっていた。すぐにタクシーを拾う気になれず、俺はあてもなく歩いた。麻里子に言われたことを頭の中で反芻する。麻里子が俺のことを好きだったなんて、思ってもみなかった。麻里子は俺のことを男として見ていないと思っていた。逆に言えば、麻里子が俺のことを男として見ていないと思っていたから、俺も麻里子のことを女として意識しないようにしようと思っていたのかもしれない。荒井さんとの言い合いを思い出してみる。俺はどうしてあんなにムキになって反論したのだろう。普通に考えれば、荒井さんにゴメンと謝って、これからは麻里子のところに泊るのはやめると言えばいいことだ。それなのに、俺はムキになって麻里子の部屋に泊ることを正当化しようとしていた。つまり、俺はこれからも麻里子の部屋に泊りたかったのだ。それは家が遠いとか、タクシー代がとか、そういう問題ではない。純粋に麻里子の部屋に泊ることが楽しくて、嬉しくて、俺の喜びだったのだ。その喜びを奪われたくないと必死になっていたのだ。

つまり、それは、どういうことなのだ?

俺は、踵を返し、麻里子の部屋に向かって走り出した。


マンションの階段を駆け上り、麻里子の部屋の前に着くと、俺はチャイムを鳴らした。ドアが開く。麻里子が怪訝そうな顔で聞いてきた。

「どうしたの?忘れ物?」

「うん。大事なことを言い忘れた」

「何?」

「俺、麻里子のことが好きだ。麻里子のことが好きだから、タクシー代がもったいないとか理由をつけてここに泊まらせてもらってた。荒井さんにムキになって麻里子の部屋に泊ることを正当化しようとしていたのは、麻里子のことが好きだから、もう会えなくなるのが嫌で反論していた。それが、今わかった」

麻里子は驚いたような顔で、ジッと俺の顔を見ている。

「俺は麻里子が俺のことを男として見ていないと思っていたから、麻里子のことを女として見ないようにしていたのだと思う」

「それ、本当?」

「自分の中でも、はっきりしたよ。俺は麻里子が好きなんだ」

「それが本当なら、嬉しい。香坂君、とっておきの女心を教えてあげようか?」

「え?何?」

「こういう時の女性は、強く抱きしめて、キスしてほしいと思っているものだよ」

麻里子が言い終わらないうちに俺は麻里子を抱きしめ、キスをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

麻里子の部屋に電話をした 春風秋雄 @hk76617661

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ