きれいなお姉さん

403μぐらむ

短編

 金曜日の午後、仕事で車を走らせている。

 ラジオから流れるのは事故渋滞20キロの報せ。この分だとあと5分も走れば渋滞の最後尾に付くことになりそうだった。


「今日は6時に帰社することさえ出来なさそう、だな……」




 今夜は交際3年になる彼女と記念日を祝う約束をしている。

 最近になって関係がマンネリ化――特に彼女のほうが――してきたところなので、気持ちのリセットを兼ねて前々から計画していた。

 案の定というか、彼女は当初前向きではなかったけれどなんとか説得して今日の日を楽しみとまで言わせるところまで成功。

 柄にもなくバラの花束も用意してあるし、ちょっと高級なレストランも予約してある。



 渋滞の車列の中で停車したのを見計らって彼女である千佳ちかにラインを送る。


『今日の約束だけど少し遅れそうなんだ。ごめん』


 すぐに彼女からリプライがある。


『せっかくなのに何しているの!? 遅れるってどれくらいよ?』


 30文字にも満たない文量だけど苛立ちの感情がしっかりと込められているのが感じられた。


『この分だと多分9時位にはレストランに行けるんじゃないかと思うけど』


 少し車が進んだのでスマホは置いて運転に集中する。どのみち、彼女からの返答はすぐにはないだろう。

 3キロほどノロノロと進んだところでまたピタリと渋滞の中で停車した。途中彼女からのリプがあったので急いで確認する。


『じゃぁ先に行っているわ。もちろん食事も先に食べておくから』

『うん、それでいいよ。後からなるべく早く行くようにするよ』


 既読マークは付いたがその後それ以上のリプライは全く無かった。


 結局目的地に着いたのは日が沈んだ後の7時過ぎ。機械に取り付ける手のひらサイズの部品一つの配達をして今日の業務は終了。後は遥か彼方の会社に戻るだけだ。




「ヤバ。9時どころじゃないじゃんか!」


 会社を出たところで9時40分過ぎ。最初の約束を2時間以上過ぎているし、再度約束し直した時間さえも大きく過ぎてしまっている。


 花束を抱えて地下鉄に走り込み大慌てで予約していたレストランに向かう。



 閉店も間際のレストランに飛び込む。


「すみません、今日予約していました初芝はつしばと申しますが……」

「あ、ああ初芝様。やっとおいでになられましたか。心底からお待ちしておりました」


 そう年嵩の店員さんはいうと俺をレジ前に案内する。

 俺も何のことかわからずにそのまま後をついて行く。


「お会計はこちらになります」


 渡されたのは請求書だった。その金額は36400円也。


「はい? これって」

「若い男女のカップルのお客様が召し上がれましたディナーコースとワイン2本のご請求となります。そちらの女性のお客様よりお支払いはご予約の初芝様からと伺っております」

「そ、その女性って今もいます?」

「いえ。そうですね、2時間ほど前にはお帰りになりました」


 ちょっと待って。もう帰っている? あと男女のカップルって言っていなかったか?


「男連れだったんですか?」

「はい。とても仲睦まじい感じが出ており私共も微笑ましく見させていただきましたよ」



 支払いを済ませ店を出る。俺の昼飯代2ヶ月分近くがパアになった。


「そんなことよりも聞きたいことがある!」


 すぐに千佳にラインを送るが既読さえつかない。


「何だよっ畜生。電話するか」


 ラインで電話をかけるがやはり一向に繋がる気配がない。


「じゃあ普通の電話だ」


 そういえば千佳に普通の電話をかけるのは何気に初めてだな、なんて下らないことを考えながらスマホのアドレス帳から千佳を選びタップする。


『恐れ入りますが、お客さまの電話機からはお繋ぎできません。ご了承ください』


 一瞬意味がわからず再度電話をかけ直す。


『恐れ入りますが、お客さまの電話機からはお繋ぎでき――』


 ぷち。

 赤いアイコンをタップして電話を切る。


「なんなんだよ……」


 あんなにも綺麗だと思っていたバラの花束は安っぽい造花にしか見えなくなり街角のゴミ箱に押し込んだ。






 気がつくと自宅の最寄りの駅にいた。時刻はもう日を跨ぐような時間帯になっている。真っ暗な駅前には酔っ払いを拾うタクシーさえいない。

 自宅のアパートまでは徒歩で15分ほど。その道程をトボトボと歩いていく。


(あれはフラれたってことだよな……。新しい男と飯食って支払いだけ俺に回して連絡はブロック……。なんでだよ、どうしてだよ……千佳。嘘だって言ってくれよ)


 住宅街に不釣り合いな煌々とした明かりを漏らすコンビニは自宅がもうすぐだという証。


「腹……減ったな」


 昼にサンドイッチを一つ齧っただけで遠方の客先まで納品を言いつけられたので朝からまともに飯も食っていない。

 腹はたしかに減ってはいたが食欲があるかといえば否となる。

 自宅には食い物らしきものはなかったと思うが、俺はそのままコンビニをスルーして行こうとしていた。


「あっ、初芝くんっ」


 声を掛けられたのでそちらを向くと、同じアパートの隣に住む2つ年上の町谷史香まちやふみかさんだった。


「あ、ぁぁ……町谷さん。こんばんは。こんな遅くに出歩いちゃ危ないですよ……」

「大丈夫よ、近所だし。それよりも初芝くん、なにかあったの?」

「えっ!? いや、別に何もないっすよ」

「嘘よ。何もないっていう割には顔が真っ白いし、背中だって丸まってこの世の不幸を全部背負ったみたいな負のオーラしか出てないよ」



 町谷さんに手を引かれて有無を言わさず連れて行かれる。アパートの俺の部屋、を通り過ぎて隣の町谷さんの部屋に通される。


「町谷さん駄目ですよ。いくら知り合いだってこんな深夜に俺みたいなの連れ込んじゃ」

「つべこべ言わないの。こんな状態のキミを放ってなんておけないわよ。ねぇ、ご飯食べた? ゼッタイに食べてないでしょ? 今からちょっとしたもの用意するからそれを食べてからお話しようね」


 反論する余地もなく町谷さんはアパートの用足りないキッチンにも関わらず手際よく調理をしていく。


「夜中だし材料もあまりなかったから作り置きと簡単なものだけだけどお腹が空いていると気持ちの方も落ち込みがちだから先ずは腹拵えしてね」


 ほうれん草の味噌汁にぶりの照焼きとだし巻き卵、キャベツの浅漬。久しぶりに食べる手作りの味に感動すら覚える。


「凄くうまいです。ほんとありがとうございます」

「ゆっくり食べてね」



 食べ終えた食器だけは洗わせてもらった。片付けまで町谷さんにやらせるのはさすがに気が引けたのだ。


「落ち着いた? じゃぁ、何があったか話しちゃいな。案外とスッキリするかもよ」

「では、最初から話しますね。あんまり気持ちのいい話じゃないですけど」

「いいって。このおねーさんが何でも受け止めてあげるからね」

「……話しますね。実は今日――」



 町谷さんには日頃から無茶振りで強要してくる会社の話や千佳に男ができて別れ話もなくいきなりフラれたような状況になったことなどいろいろと腹に溜め込んでいたものを話した。

 一度口から出てしまうとそれこそ堰を切ったように止めどなく愚痴や文句や不服、果ては怨嗟に至るまで溢れんばかりに出てくる、出てくる。

 途中から気持ちが昂ぶり過ぎたのか俺はみっともなくも町谷さんの前で泣き出してしまう。

 それでも町谷さんは俺を抱きしめ頭を撫でてくれて俺の溜まりに溜まった不満をぜんぶ吐き出させてくれた。


「大丈夫、だいじょうぶ。わたしが全部聞いてあげるからね。ぜーんぶ吐き出していいからね」


「まぢやざ~ん!」


 女性の前で無様にも号泣してしまうのはなんともみっともないがどうやっても止めることが俺には出来なかった。




「んん……ん」


 いつの間にか眠ってしまったようだ。ということはもしかして町谷さんのお宅に泊まってしまったということなのか?

 目も開けずに考えてみるが、自分の部屋に帰った記憶がない以上泊まったことに間違いはなさそう。

 意を決して目を開けると目の前に町谷さんの顔。


「うわっわぁ」

「うーん、どうしたのよぅ。朝から騒がしいわね……」


「いやだって、どうして町谷さんまで床で寝ているのですか? しかも俺と一緒の毛布かぶって!」

「だってぇ、昨日の夜順平じゅんぺいくんの頭をナデナデしてたら順平くんが寝ちゃったじゃない? そうしたら最後まで面倒見るのは当たり前じゃなーい?」


 寝起きのポワポワした感じで凄いこと言ってくるよな。つっかなんで俺のこと名前呼びになっているんだ?


「え、なんとなく? だめ?」

「いいえ、駄目じゃないですけど。びっくりしたかなって」


「ふーん。じゃあびっくりついでだからわたしのことも史香って呼んでよね」

「え? 何がついでなんスカ?」


 そう言ったら頭をペチコーンって叩かれた。史香さん呼びは強制らしい。



 朝ご飯も用意してもらう。自宅に帰ってもなにもないので助かる。

 トーストとコーヒー。

 他にもなにか作ろうとするので史香さんを止める。


「これで十分です。あとで食材分は支払いますね」

「これくらい気にしないの。ねぇ今日はどうするの?」


「どうするって?」

「あの女のところに踏み込まないの? 別れるのはその女なら当たり前かもだけどお金も取られたらなんか損じゃない?」


 金は痛いけど正直千佳とはもう関わり合いになりたくないので勉強代ってことで終わりにしたい気持ちのほうが大きい。


「なんか腹立つけど順平くんがそれでいいって言うならわたしもそれ以上は言わないことにするよ」


「史香さんがいろいろと考えてくれているのにすみません。今の俺はこれ以上のダメージは受けられないみたいです」


「かもね。いっぱい泣いていたしね」

「それは……」


 史香さんはニヤリとしていたからからかってきただけだと思うけど。もうあれはダメージでかいので封印してください。羞恥で身体が熱いです……。



 一旦自宅に帰り風呂など入って身支度を整えたら史香さんと出かけることになっている。

 史香さん曰く、「こんなときに一人で部屋に閉じこもっていたら良くないことばかりしか考えなくなるよ」とのこと。

 確かに今の俺は超の上にスーパーとかメガとかの接頭辞がダブルで付きそうなくらいにはネガティブになっているのは間違いなさそう。

 こんな俺と一緒にいてくれるという史香さんはもう女神としか言いようがないのではないだろうか。

 そんなこと言ったら「何馬鹿なこと言っているの」なんて叱られそうだけど。


 白色のノーカラーシャツに濃い青色のチノパン。ファッションを考えるだけのリソースがなかったのでタンスを開けて最初に目についたやつをそのまま選んだ。

 顔を洗いヒゲを剃り髪形をいつものようにする。ただのルーティンなので何も考えずに最低限の身だしなみだけ整える。


「まだ9時半か」


 史香さんとの約束は10時。なのでまだ時間は十分に余っている。感傷に浸っているつもりは全く無いのだが、まったく千佳のこと考えないなんて言うのはどうやっても無理。

 千佳との幸せな未来を夢見ていたのだから、それが水泡に帰してしまった今では何も手につかないって言うのが本来なのだろう。

 史香さんの言っていた通り一人になった途端、俺の何が悪かったのだろうという自責の念がぶくぶくと泡立つように浮かび上がってくる。


「それにしても、町谷さん……じゃなかった、史香さんには申し訳ないことしてしまった」


 大の男が、仕事が辛くて彼女にフラれて、たまたまアパートで隣同士になっただけの女性の部屋で頭を撫でられながら号泣するとかさすがにナシだと思う。


「恥ずかしいやらみっともないやらで情けなくなる……おっと、駄目だ、駄目だ」


 史香さんに怒られてしまう。しかも千佳のことだけじゃなく史香さんとのことまで悪い方に考えてしまっているなんて。


『暫くは何があってもネガティブ思考禁止だからねっ! 何でも悪く考えないでポジティブハッピー思考じゃないといけないよ』


 史香さん部屋を出るときに鼻を指でツンツンされながら注意されたんだった。


「過ぎたことをクヨクヨしたって仕方ないことはわかるんだけどね。そうは言っても昨日の今日だしなぁ、しょうがないよな」


 こういうときに馬鹿言って騒げる男友達でもいれば少しは違うのだろうけど、学生時代の友人とは疎遠になってしまったし、職場に友だちなんて言えるような同僚は一人もいない。

 職場なんて皆自分のことでいっぱいいっぱいなやつばかりだからな。あいつらが他人を思いやる気持ちなんてものを持ち合わせているようには思えない。


「そういや、出かけるって何処に行くんだろう?」


 史香さんからは出かける以外は何も聞いていない。隣人とはいえ他人の間柄なのだからそう変なところには行かないとは思うけど、想像すらできない。






「わいんでぃんぐろーど!!」


 俺らは史香さんの運転で近県の高原までやってきていた。


「空気か美味いっすね。それにしても史香さんが自動車を持っていたなんて知らなかったです」

「そりゃ、言う機会がなかったからね」


 まあそうか。それにしてもなんとなくゆるふわな見た目の史香さんが乗る車がスポーツタイプのオープンカーとは思わなかった。

 しかも運転は普段と人が変わったようにアグレッシブ。それでいてドライビングスキルがやたらと高いのには余計に驚いたよ。


「史香さんってドリフトとかできちゃう人ですか?」

「できるけど、公道ではやらないよ? 危険だし迷惑だもんね」


 やっぱりできるんだ。R45のカーブを軽くタイヤを鳴らしながら曲がっていたから何となくそうじゃないかと思っていた。今から心のなかでは頭文字Fって呼ぼうっと。



 今まで普段はあまり話す間柄ではなかったけど、いざ話してみるといろいろと共通点などあったりして話ははずんで道中はとても楽しかった。

 ひと時とはいえ千佳のことがまったく頭から消えていたのは史香さんのおかげだと言えるだろう。


「お腹すいたね! 順平くん、なんかいいお店ないか検索してよ」

「了解っす。えっと……近くにある牧場のレストランが美味いって書いてありますよ。星4の評価っす」


「じゃあそこにしよう。ナビ頼んだよー」

「おっけー。次のコーナー抜けたら左折でーす」




「牧場で牛さんを見たあとにステーキとかハンバーグを食べるのってなんだか微妙よね」

「まぁ、さっきの牛が出てきているわけじゃないので気にしないでおきましょうよ」


「そうね、言い出したらキリないから止めておきましょう。そうだ、今度おうちでもハンバーグ作ってあげるね」

「いやいや、そんな申し訳ないこと出来ないですよ。昨日だってお世話になっちゃったし今日だってここまで運転してもらっちゃったじゃないですか?」


 目的地がわからなかったので運転を代わるって言えなかったんだよな。帰りは俺が運転変わったほうがいいよな。自動車保険はスマホでワンデイ保険に入れば十分だろうし。


「そういう他人行儀なのってすごーく嫌だなぁ。もう少し、気安く接してくれたらいいのに」

「気安くって言われてもそう簡単には出来ませんって」


 名前呼びするのでさえ躊躇するくらいなんだよ? 他人行儀って言われてもそもそもお隣さん以上の関係は昨日までなかったのだから仕方ないと思うのだけど。


「ねぇ順平くん、まだ食べられる?」

「大丈夫ですけど」

「じゃあ、これお願い。もうお腹いっぱいで食べ切れなさそうなの。でも、お残しはよろしくないじゃない?」


 史香さんはすすすっと三分の一ほど残ったステーキを俺の方に寄越す。ご飯も残ってはいるがステーキも結構残っている。


「肉だけでも食べたほうがいいんじゃないですか? せっかくなのに」

「そんな事言われてももう食べられないんだもん。残りは任せたよ」


 史香さんの食べかけを食べることは史香さんがいいと言うならば特に思うところはない。さすがにこの年になって間接キスがどうしたこうしたなどと戸惑うことはなくなった。

 知らない人の残り物は完全に無理だけど史香さんのなら寧ろご褒美かもしれない……などと気持ち悪いことが頭に浮かび始めたのでさっさと食べてしまうことにする。


「いい食べっぷりね。順平くんは今夜のご飯は何がいい? 何でも作るわよ」

「腹いっぱいなところで夕飯のことなんて考えられないですよ。それに今夜もなんて史香さんにわるいですよ」

「もう、遠慮とかもナシでね。わたしがしたくてするんだから。そっか、お腹いっぱいで考えつかないのね。それもそうよね」


 このあと牧場を散策したり近所にあった丘の上の展望台で眺望を堪能したりしてのんびりと有意義に過ごすことが出来た。ちょっとしたことでもはしゃぐ史香さんが可愛かった。




 帰りは予定通り俺の運転で。

 ゆっくりと安全第一を心がける。


「史香さん、ほんと今日はありがとうございました。今日、もし一人で過ごしていたら今頃は全てに悲観してとんでもないことしていたかもしれないです」

「わたしが順平くんの助けになったのなら何よりだわ。今後も仲良くしてくれたらわたしも嬉しい」


「もちろんです。俺の方こそ史香さんとはいい関係を構築したいと思っています」

「それならもう安心ね」


 しばらくすると助手席からは静かな寝息が聞こえてくる。昨夜からずっと心配をかけ続けてしまった。反省しなければならないな。

 確かに結婚まで視野に入っていた千佳との別れは断腸の思いといっても過言ではなかった。しかし、こうやって史香さんと一日過ごしてみると千佳の普段からの言動がどんなに酷いものだったか思い知らされる。

 史香さんがとてもいい女性なのか、千佳が逆にとてもわるい女性だったのかは交際経験の少ない俺では判断をしかねるが、今なら絶対に千佳を選ぶことは無いと思える。


「あいつ自己中で我儘で俺のこと普段から僕の如く見下していたんだな。そういうのが甘えていて可愛いなんて思っていた俺がおかしかったんだよな……」


 傷が深く致命的になる前に別れられたのは正解なのかもしれないと考えられるようになってきた。なんというか目が覚めた、というような感覚といえばわかりやすいだろうか。

 千佳を失ったら俺はもうおしまいだなんて思っていたけれど、たった1日だけど過ぎてしまえば意外と冷静に物を考えられるようになるものだ。


 太陽が山の端に消えていき空が夕闇の色に染まっていく。俺のこころも闇に染まりそうだったけど史香さんが星となり月となり道標になってくれたのかもしれない。


「やっぱり感謝しかないよな……」






 千佳と別れて3ヶ月が過ぎた。思っていたほど元カノのことは引きずることはなく、もうアレがどうなっていようとまったく気にならない。それもこれも史香さんのおかげだとは思うけど。


 昼下がり、ポケットに入れていたスマホからラインの通知が鳴る。


『順平の帰りは何時になりそう?』

『今日は9時を過ぎそうだから、史香は先にご飯食べちゃっていて』


 史香さんとの距離感もただの隣人よりももう少し踏み込んだ関係になっていた。お互いに呼び捨てになったし、俺も敬語は使わなくなった。


『昨日も遅かったじゃない。もうそんな会社辞めて転職を考えたほうがいいよ』

『そうだな、俺もそういうのを考えている。サビ残安月給パワハラ紛い。もう沢山だよ』


 物の考え方も今までよりも完全に前向きに考えるようになってきているのを感じる。以前なら転職なんて考えすら浮かばなかったもの。

 こういうところも史香さんのいい影響を受けているんだと思っている。


 はっきり言うと俺はいま史香さんに惹かれている。千佳のぶち開けた心の穴にすっぽりとタイミングよく入ってきたなんていうと史香さんが都合よく誑し込んだみたいな言い方になるけど実際に助かったのは俺の方。

 ブラックホールに吸い込まれそうなのを助けてくれたのは史香さんなのは違いないし、そんなのぜったいに惚れるに決まっている。間違いない。

 希望的観測かもだけど、史香さんの方も俺のこと悪くは思っていないと思う。もし違うならあんなにも優しく接してくれるわけないもんね。


「明日は定時に上がって史香に告白する。定時上がりすら拒否されたら会社はその場で辞めてやる」


 一応転職活動はしていたので転職先には当てがある。今の会社を辞めさえすればすぐにでもと先方には言われているので、明日ここを辞めたとしても来月には新しい会社に勤めることができる。


「でもな……仕事はそれでいいとしても史香にNOと言われたら今度こそ闇落ちする自信しかないもんなぁ」


 一番前向きにならなきゃいけないところなのにここをヘタれたら元も子もなかったりする。





「課長、今日俺定時上がりします」

「は? ふざけんな。初芝は今から静岡まで納品が待ってるんだぞ!?」


「え? そんなの嫌ですよ。お断りします」

「おまえ舐めてんのか? そんなんだったらおまえはクビだ」


「あっ、はい。それでいいです。じゃ、これ会社都合の退職ということで。お世話様でした」

「え? おぃ……」


 クビは想定の一つだったけど用意してあった辞表が無駄になってしまったな。ま、課長の変顔も最後に拝めたことだし良しとしよう。


「こっちはこれでいいんだけど、あっちはどうするかまったくの無計画なんだよなぁ」


 あっちとは史香さんに告白することだ。セリフもシチュエーションもまったく頭に浮かんでこないのでどうしようか直前の今になっても白紙のまま。


 悩んでいても最寄り駅まで電車は走っていく。今日は史香さんと駅で待ち合わせなのでもし何も思い浮かばなかったら行き当たりばったりでの計画実行になる。


「最悪それでもいいか。考え抜いて失敗した前事例もあるしね」


 少しだけ千佳のレストランでの一件を思い出したけど、俺の中では既に笑い話にさえなっている。そんなことを考えているとあっという間に最寄り駅に着いてしまう。


「あ、順平おかえりっ」

「史香もおかえり」

「「ただいま~」」


「順平、今日は何食べたい? 帰りに材料買ってかえろ」

「いや、今日はそこの居酒屋さんで軽く一杯飲んでいかないか?」


 結局ノープランだけどこのままうちに帰ってしまったらいつもどおりに過ごしてしまって告白のチャンスを逸してしまいそう。だからせめて雰囲気だけでも普段と変えてみようと思った。


「珍しいね。いいよ~久しぶりに生ビール行っちゃおっかなぁ」

「いいね。俺も初めはビールにしておこう」


 そんなこんなで最初のビールで乾杯したら、報告事項だけは最初に終わらせておく。


「今日さ、会社辞めてきた」

「ほんとに? やっと辞めたんだ」

「驚かないの?」

「だって、わたしのほうが順平にあの会社辞めてほしかったし」


 ことあるごとによく言われていたもんな、あんな会社はいちゃ駄目だって。

 次の会社はホワイトっぽいしもうこんな仕打ちは受けないで済むと思う。駄目だったら駄目でまた就活を頑張ればいいかな、なんて思っているし。



 普段食べないような酒のつまみをたくさん頼んで二人で分け合いながら夕食としていく。たまにはこんなのもいいよね。

 さて、お酒も少しだけ進んでしまったことだし酔ってしまう前に決めとかないといけないよな。


「あのさ、史香……」

「なぁに?」


 無性に緊張してきたぞ。心臓がドキドキを通り越してバクバクって勢いで目が回りそう。


「お、俺とっ」

「おれと?」


「俺と結婚してください!」

「……へ? け、結婚。わたしなんかでいいの? あ、あの……そのぉ……えっと……お、お願いしますっ」


 テンパりすぎて『付き合ってください』を通り越して結婚してくれと言ってしまう。いくらなんでもそれは飛躍しすぎ――……え? 史香、今なんて言って?


「史香……もしかして今お願いしますって言った?」

「うん。わたしを順平のお嫁さんにして」


「いいのか? 俺ら、結婚の前に付き合ってもいないけど」

「いいじゃない? 順平とはいつも一緒にいたし生活だって半同棲みたいだったでしょ? それならばいいかなーって」


 このアパートに引っ越してきた頃からの知り合いとはいえ、ちゃんとした交流が始まったのはわずか3ヶ月前。いい感じになったのはつい最近。


 ほんとうにいいのかな。


 俺的にはきれいなお姉さんがお嫁さんになってくれたら飛び上がるほど嬉しいのは間違いないんだけど。


「こんなの聞くのは恥ずかしいんだけど、史香っていつから俺のこと、えっと……好きだったりしたの?」

「結構前から気になってはいたよ。順平って大家さんのお手伝いをしていたり、誰かになにか言われたわけでもないのにゴミ捨て場の整理とか清掃をしていたり、なんというかしっかりした人だなぁって思っていたの」


 そういうところから気になり始めていろいろと俺のこと見てくれて、男性としてもいい人だと思ってくれていたみたいだ。


「そっか。なんか恥ずかしいな。大したことしているつもりはないんだけどね」


 俺なんて史香のことをきれいで可愛くてちょっとえっちそうな隣のお姉さんみたいな目で見ていたのに……。今更だけど凄く恥ずかしい。


「えへへ。わたしが順平の奥さんなんだぁ~。嬉しいなぁ」

「結婚式とか盛大には出来ないと思うけど、精一杯きれいなお嫁さんにするから許してね」


「派手なのは要らないよ。最低でも結婚写真と婚姻届さえあれば無問題でーす」

「それくらいなら俺も頑張れるよ! 任せておいて!」


 年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せと言うけれど、まさかの棚から牡丹餅でこんなにも素敵な女房を手に入れることができるとは思いもよらなかった。

 俺ばかりがこんなにも幸せになっちゃ申し訳ないので、史香のことも全力で幸せにする所存でございます。


「では俺ら二人の結婚を祝してカンパーイ!!」

「カンパーイ!!」


 とびきりの笑顔で見つめ合いながら夜は更けて行く。



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