5




 


 猫が死んでいた。

 黒いアスファルトの上に潰れたゴミ袋のような黒いものが倒れていた。

 小さな体躯に生きているモノの生命力はなく、ボロボロの毛はひどく汚らしい。夜から朝にかけて、超時間誰にも適切な対処をされずに放っておかれていたようだった。

 まっさらな思考で観察していると、猫の耳が、まず動いた。

 見間違えたと思ったが、少し経ち、背のあたりが動いた、ピクピクと痙攣したかと思えば、むくりと大きく動いた。猫は細い足を地面に踏み締めて、起き上がった。

 すでに事切れたと思っていた猫はかろうじて命を宿していて、朦朧とした足取りでこちらに歩いてきた。

 猫からすれば向かっているわけではないのだろう。

 ひたすら歩いているだけ、ただその先に俺がいるだけ。

 人間の傲慢な思考のもとで、そう考えてしまうだけ。

 猫はアパートの敷地に辿り着く前に、再び道の真ん中にうずくまった。

 瞼を閉じる気力もないのか、目は常に開かれていた。

 進行方向をじっと見ていて、その先の俺と目があった。

 まるで同情で気安く触るなと言うような、高潔な目。

 

 きっと、1人でも生きていけると思っているんだ。


 


 

 1


 

 


「いやー、苦しいですね」

 警官服の30代半ばの男が車に乗り込みながら、そう愚痴った。

「実入なしか」

「存在するのか疑問なレベルです」

 同じく警官服の年月が刻まれた皺が目立つ初老の男、安土がわしゃ、と顔を顰めて笑う。対して助手席に座った警官、桃園は浅黒く焼けた頬を険しい顔でシートにつけた。

 2人を乗せたパトカーはゆっくりと発進する。

「やりにくいのは本部から来た人がいちいち捜査方針に指図してくることですよ。あっちはこっちが使えないっていうんですけど、こっちこそ言ってやりたいです。有力な情報をくれるわけでもないのに態度だけはでかい」

「連続殺人事件のハウツー理解してるやつが来いってな、どうせ形式上のもんだろうよ」

「はぁ、そういや、民間に監視カメラの提供を頼んでいるんでしょう?あれまだ結果でないんですか」

「それなら、どこにも映っていなかったらしいぞ」

「まー、一発ってのは、無理ですかね」

 パトカーの中から、周りの車の様子を注意するのは桃園の職業病になっていた。交通課から刑事課に配属されて日は経つが、違反車両の点数ノルマという癖は抜けない。

「死角を縫うように、か。あのー、その不可能性がどのくらいあるのか、よく分からないんですが」

「全然ありえるだろ、日本ではまだ監視カメラの普及は進んでない。令和になっても、いまだに有効なのは地道な聞き込みだ」

 刑事課のベテランである安土はどっしりとした自身の職業論を持っていた。外的な要素により自身は揺るぐことはない、と言うような風体は、愚痴を言いたい桃園からすればつまらないことであった。

「足動かすのはいいんですけどね」と、桃園が口を尖らせる。

「上の言う先入観をなくせ、ってのが引っかかるんですよ。つい二日前の傷害事件の被害者と殺人事件の被害者がたまたま重なるなんてあり得ますか?」

 桃園はシートから頭を離し、ダッシュボードの中の書類を取り出した。

 連続殺人事件の四人目の被害者、田中康平の捜査資料だ。

「襲撃犯と殺人犯は同一人物に決まってますよ」

 被害者の身元の判明が早かったのは今回に限り刺し傷が少なかったからということもあるが、先日の障害事件にあたりをつけていた刑事による手柄らしい、と桃園は今朝同期の刑事に聞いていた。

「普通に考えたらそうだな」

「でしょお?襲撃犯の情報は被害者本人から寄せられてんだから、それを元に聞き込めばいいのに。上は何考えてんですかね」

「いや、それ元に聞き込めよ」

 予想していた回答とは違う答えに、桃園は「え、でも」と返した。

「言ってましたよ?間違った方向に捜査を進めてしまうことこそ恐るべきだって」

 安土はしわくちゃな顔に、に、と笑みを貼り付けている。

「いいんだよ、ハッタリはテクニック、現場の判断ってやつだ」

「…はー」

「どうせ上も口では綺麗事言っても求めてんのは結果だけだ。世間が判断するのも結果だけ。なんだかんだな、現場で極端な人間がいた方が捜査は動く。俺たちがかき集めた情報をうまく調理するのは、俺らじゃねえ。偉そうな上の仕事だ」

 桃園は、聞き込みに行くなら歳の近い刑事の方が話が弾むとは思っていたが、安土をぶれなさという点を信用していた。

 刑事課においてここまで大きい事件となるとマスコミや市民からの目は厳しい。早く結果を出せという上からの圧力も大きく、現場には焦りが生じる。現に何人かの刑事は冷静さを失って、捜査がから回るという悪循環を産んでいる。その際に、安土という初老の刑事の豪胆でいてどっしり構えた落ち着きようは、現場では比較的若い桃園の心にゆとりを持たせてくれた。

 桃園は日焼けで浅黒い手を伸ばして、ダッシュボードに資料を戻した。

「よし、次の住宅街からは攻めてみましょうか」




 

 2

 


 

 

 ゴールデンウィークの短期休暇を挟み、5/7、樺山青海学園は平日を取り戻していた。

 休みの抜けていない生徒たちの作り出したゆるい空気は廊下の賑やかさに繋がっている。

 学校にしては広く真新しい廊下、幾人かの生徒が行き来する中に「はじめ?!」と女生徒の驚く声が響いた。

「あれ?2年生がなんでこの階にいるんですか?」

 呼び止められた最所はじめは意外そうな顔をした。

 京子ははじめに近寄り、低い位置からまじまじと学校にいる制服姿のはじめを見上げる。

「移動教室よ、なに、学校にちゃんと来る気になったの?」

「入学して1週間くらいはきちんと行ってましたよ?」

「1週間って……、はじめが真面目に授業受けてるところ想像できないわね」

「ひどいなあ。俺なりに頑張ってたつもりなんですよ」

 肩をすくめるはじめの言葉に、京子はふふふ、と笑った。

 会話内容への面白さというよりも、久しぶりに学校で会ったはじめとの会話が嬉しい、というのが大きかった。

「あ、そう!また新しい犠牲者が出たの聞いた?」

「今朝のニュースで言ってましたね。これまでより身元の判明が早かったって」

 2人はそのまま、廊下の中心で今朝のニュースの話を始めた。京子の中では、誰かに話したくて仕方がなかったが 放課後の集まりまでは我慢しようとしていた話題だ。勢いのいい問いかけに、はじめは穏やかに返答した。

「人手が増えて捜査のスピードが速くなってるのかもしれません。多分、もうすぐ捕まりますよ」

「そう…、でも、警察に先越されたら私たち宇宙人見られないんじゃない?」

 はじめは、一つ上の先輩の無邪気な発言に苦笑いをする。

「すみません、協力してもらってるのに成果を出せていなくて」

「設置してる監視カメラの映像を飛ばすだけなんだから、大してお金もかからないわ。モニターだってパパの会社のものだし。GPSもまだ使い道ないのよね?」

 第4の宇宙人に使用したGPSは京子が無償でくれたものだった。スマートフォンのアクセサリに繋ぐことでGPSを取り付ける高機能ハック。彼女のつてがなければ手に入れることは困難だっただろう。京子としても映画の切り札で使うような非日常的な道具だ。早くに使い所を見たいという気持ちがあった。

「ないですね、それらしい人すら見つけられていないので」

 はじめは表情をひとつも動かさず、にこやかなまま嘘をついた。

「…なかなか難しいわねえ」

 京子はむっ、と幼い顔を顰めた。京子の眉毛は困った時やうまくいかない時には下がるのではなく釣り上がるという癖があった。よく怒っていると勘違いされがちな京子だが、その怒り顔の中にも悲しみ、戸惑い、ただうまくいかない、さまざまな感情のバリエーションがあると言うことは、はじめには少ない付き合いの中で理解できていた。

 はじめは京子の顔から正しく不満を汲み取った。

 美しい目を緩く瞬かせ、高校生にしては大人びた笑みを見せた。昼の光が刺す学校の廊下で、京子にははじめの周りがキラキラと輝いて見えた。

「まだかかりそうですけど、京子さんに見せられるように頑張ります」

「…そ、そう?まぁ」

 見惚れた照れ隠しに後ろ髪を靡かせようとして、止まった。

 その直後、賑やかな廊下の気温を一、二度下げるような冷たい声が割り込んできた。

「廊下を塞ぐんじゃない」

 声の主は、喜多川先生だった。社会を担当しながら、生活指導も受け持っている。

「…」

「すみません」

 はじめはすぐに頭を下げて、中心から窓際に寄った。京子も道を開ける。

 喜多川は無言で、大柄の体躯をゆさゆさと揺らし横切っていく。

 高圧的で生徒に寄り添うという気概を感じない喜多川という気難しい教師を、京子は嫌っていた。嫌悪を隠そうともしない目つきを向け、喜多川に声が聞こえないくらいの距離になれば京子ははじめに向き直った。

「気をつけなさいよ。はじめ、目をつけられてるかも」

「そうなんですか?」

 他人ごとのような反応に、腕を組み警戒態勢を取っていた京子は脱力する。

「あのね。入学早々こんなに来ない生徒なんかいないわよ。生徒指導のあいつからすればかなり悪印象だと思うわ」

「これからはちゃんと通うつもりですから、気をつけないとですね」

「それはいいことだけど…なんかあったの?」

 京子は腕をほどき、疑問を問いかけた。

 はじめがちゃんと学校に来ることになった。間違いなくいい変化であるし喜ばしいことだが、いかんせん唐突だ。

「ちょっと、ずっとモニターを見続ける生活も疲れてきたんです。こもりっきりってのも、心配されることが多くなってきましたし」

「無理しないのが一番だと思うわよ?夜部も、すぐに見つかるなんて考えない方がいいって言ってたのよね。私だって別に、急かす気はないんだからね」

 京子は不器用にそう言った。

「ありがとうございます。並行して頑張るつもりではありますが、京子さんたちがいるなら学校も楽しいです。学校に通うのもいいことがあるんですよね。ゴミ出しの日しか自然に朝に会えないし」

「ゴミ?」

「もうそろそろ授業始まりますかね」

 慌ただしげに移動する生徒の動きから判断し、はじめは窓際から足を動かした。京子も移動しようとし「あ」と声を上げた。はじめが去ってしまう前に聞いておきたいことがある、と気付いたのだ。

「ねえ、今日は定例会じゃないけど、…音楽室くる?」

 京子達三人は部活に入っていないため、定例会がない日もたまに第二音楽室にてお茶会をしている。ちょうど、京子から原と夜部に声をかけ、今日の放課後にはお茶会の予定を取り付けていた。

 とはいえ聞いたものの、普段の様子から参加の期待はあまりできない、と思っていたのだが、はじめは「行こうかな」と答えた。

「え、ほんとっ?」

「皆さんがよかったらですが」

 京子の顔色が、ぱあと弾けるように明るくなる。

「そう、今日はね、美味しい紅茶を持ってきたの。原がダッフルワーズを作ってくるらしいのよ。原のことだから多めに持ってくるだろうし、はじめの分もあると思うから安心して?ダッフルワーズって、あれ自作できるって知ってた?全然作り方わからないから今日教えてって言ってあるんだけど、はじめも一緒に聞いて損はないと思うわよ」

 嬉しさががあからさまに滲んだ話し声に、はじめは微笑ましいものを見る目になる。

 年上とは分かっているが、京子の幼い体躯と感情をすぐ表に出してしまう性格は、小さい子供を見ているようで癒されるものがあった。

「京子さんはまっすぐで可愛らしいですね」

「っえ?!」

 予期せぬ言葉に言葉を詰まらせて、京子は顔を赤くした。

「そ、そんなことな、あるけど!」

 京子の高い声が、廊下を行き来する生徒達の声と足音に紛れる。

 血縁上の関係はない兄と、隣人宮藤以外とほとんど会話をしない日々だったはじめにすれば、日常は戻ってみれば賑やかで騒がしいものであった、と思い出させる。

 はじめは一つ笑った後、抱えていた事柄を京子に相談しようと思った。

 相談相手として兄と宮藤を考えていたが、京子であっても適していると、ふと思ったのだ。

「京子さん、ちょっと頼みたいことがあるんですが」


 


 3


 


 連続殺人事件の四人目の被害者、田中康平。

 液晶に表示されるニュースの被害者の名前には見覚えがあった。

 夜の公園で目に入ってしまった、免許書の文字列。

 知っている、忘れるわけない。俺はなんなら、その人が殺されて宇宙人であるとレッテルが貼られることを望んでさえいたのだ。あんなふうに、連続殺人を犯す異常者に滅多刺しにされることを望んでいたのだ。忘れられる、わけがない。

 便器の前に座り込んで吐き続け出るものも無くなった朝、休ませてほしいと会社に連絡をした。

 昨日の時点で会社のことは頭の片隅にあったが、夜に会社には繋がらないし、急激に体調が悪化したのは上司は帰っている時間帯からだった。だから早朝、ということになってしまった。

 当日に急遽休みの連絡という社会人としてどうかと思う連絡にまず驚かれたが、この際だから連休にしなさい、と電話越しに支配人は言ってきた。

 具体的になんて言われたかは覚えていないけど、俺の有給が溜まっていた、と言っていた気がする。

 怒られることは当然覚悟していて、怒られた方がマシだとさえ考えていたが、支配人の声は心配そうだった。逆に労われるような言葉すら言われ、自己嫌悪が増して、気持ち悪くなって電話を切るとまた吐いた。

 連休にしなさいという話は断ったが、そんなに、死にそうな声をしてたんだろうか。

 俺は生きてるのに。




(捨てようかな、もう)

 水場で口の中の酸味を濯いでいると、夜に作ったカップヌードルが横のシンクの上に置きっぱなしになっていた。蓋を開けて確認する。麺は一日、激辛の赤い汁に浸されぶくぶくと膨れてしまっていた。腹の中に何も残っていなくても食べる気にはならない。無心で気怠い腕を動かして、カップラーメンを持ち上げた。

 

『岬』

 

 頭が締め付けられるような感覚に、シンクに傾けたようとした手を止める。

(……食べなきゃ…)

 俺は一度目を閉じて、カップラーメンを元の位置に戻そうとした。しかし、腕が上手く動かずに目算よりも低い位置のままシンクの淵に当たった。反動で漏れ出した一筋の液体が、排水溝に飲まれていく、赤色。

「っ!」

 脳裏にフラッシュバックした昨夜の光景に、手が離れ、ひっくり返った麺は無惨にシンクにぶち撒かれた。

 一面の、赤。

 カンカン、と階段の音が鳴っている。のどかな鳥の鳴き声が聞こえて、飛び立つ音。外を走る車の駆動音が、やけに近くに感じる。感覚が過敏になっている。正しくない行いをするときに、心理的な負担は無視できない。頭をかけ巡る考えが、目の前の散乱した赤色とごちゃごちゃになって。

「っう、…」

 俺は両手をシンクについた。

 出るものはもうないから、胃の引きつりだけが襲ってくる。

 頭を下に向けたまま、手探りで蛇口を捻り水を出す。

 ジャー、と強い水圧に押される麺の赤色は次第に薄まっていく。

「は、ぁ、…はっ」

 耳鳴りがする、気がする。

 迷う必要なんかない、俺が目にした残酷な光景を、すぐにでも警察に言うべきだ。

 社会人であれば誰だってそうするし、そうしないのはおかしい。でもはじめくんとの繋がりがバレてしまう。殺人犯でなくても襲撃犯なら、未成年でも少年院行き?親がいないのにどうなるんだ。学校も退学になるかもしれない。違うだろ、なんの罪もない被害者が死ぬのを見ていたんだぞ。良心の呵責を感じないわけがない、今もこんなに苦しいのは俺も責任の一端を担っているから。死体なんか見慣れているじゃないか。あれは宇宙人なんだから、死んだって問題はないはずなんだ。この歳になって、まだそんなことを言って誤魔化そうとしてるの不思議なことなんてこの世にひとつもないのよ。

「は、っは…っ」

 思考が暴走している、目まぐるしく回転する脳みそに追いつけない。

 シンクの中から赤色が消えて、俺は蛇口を閉めた。

 重たい頭を抱え、地面にへたり込む。

 立っているよりかは楽だった。座っても、空間の上下がひっくり返ったみたいに、不快さが身を襲う。

(気持ち悪い、…気持ち悪い、気持ち悪)

 全部、夢だったらいい。

 朝起きて、横には最所くんは住んでなくて。

 連続殺人事件なんか、俺の関係ないところで起きていて。

(………)

 どのくらい床に座っていたのか。

 俺は、家にいるから、無性に隣を気にするから気が散ってしまうんだ、と頭で考えた理屈により立ち上がった。とにかく、家から離れたかったのかもしれない。高い位置に飾っている時計の針が正午を回った頃。昨日から着用している服は吐瀉物で汚れてしまっていたから、適当な服に着替えて家を出た。

 最所くんの家の前を通り、階段を降りた。外の空気を吸えば少しはマシになるかもしれない、という望みもあったのだが、空は曇天に沈んでいた。

 分厚い灰色の雲が完全に日の光を遮って、カンカン照りよりは歩きやすい、というくらいだった。

 街に出ると、平日の雑踏は比較的に落ち着いていた。ふらふらと歩いても人にぶつからないと言う点は、良かったと思えた。体を動かしていると、暴走していた脳内のアレコレも冷めるように落ち着いてくれる、ようだった。

 10分ほど街を歩いていれば、すれ違う人が傘を持っていることに気づけるくらいには、俺の思考能力は正常に戻りつつあった。頭の端に避けられた”考えなければいけないアレコレ”を置いて(傘、持ってきてないな)と考えるくらいには。

 家を出るときには、そんな日常の当たり前を予測できる頭ではなかった。折り畳み傘が入っている通勤用カバンは持たず、財布と鍵だけ握りしめて出てきたのだ。

 空を見上げると、ぽつ、と肌に水があたる感触がした。

 断続的に細かな水は振り続け、頬を濡らす。

 視界では色とりどりの傘が広げられていく。傘を持たない何人かは、我関せずというように歩き続けている。俺は、目的地もないのに小雨の中歩き続ける気にもならず道沿いの大型商業施設に入った。軽く濡れた肩を払い、一息つく。頭を締め付けていた痛みも、地の底のようだった気分も、だいぶマシになった。

(これなら、仕事に行って問題なかったな)

 安直に、そう思った。その次には、端に置いたままにしていたグロテスクな記憶が頭を覗かせて、奥歯を噛む。

(いや)

 もし休まなかったら、会社で殺人事件を見たと言うことを誰にも悟られずに行動しなければならなかった。心の処理もできてないうちの相当の負荷により、仕事のミスをしている自分が想像できる、と考え直す。

(眞田さんに、相談する…?)

 俺が光を見たことを眞田さんに伝えれば、何か対策を講じてくれるか。あの光は夢じゃない。あんな眩しい光が人間の体内から出てくるわけがない。殺された田中康平は宇宙人。分かりやすい方程式だ、俺にとって縋りつきたくなるほどの理屈。でも、宇宙人であったとして、無惨に殺されたのだとして、それは現実の法律ではいったいどんな結果になるんだ?

(…許容を超えてる。どうなるかなんて、想像できない)

 法律は無力な人間を卑劣な犯罪から守ってくれる。だがそれは無論、守った側の人間の話で、犯した人間からすれば法律というのは情のない冷たい規則にすぎないのではないか、という考えが頭を掠めた。人に迷惑をかけさせしなければ人間は生きていてもいい、と考えていた他でもない俺が、大枠からはみ出すような思考をするなんて、どうかしている。自分が自分じゃないみたいだ。今にも足元が崩れ去ってしまうような焦燥感を覚えている。

 俺は最所くんをどう足掻いても助けることはできないのではないかと、無力感を思い知らされている。

「っ、!すみませ」

 思考に深く沈んでいた俺の目の前に人が横切り、慌てて避けた。

 避けた人がこっちを怪訝そうな顔で見る。俺は頭を下げてそそくさと横切ろうとし、視界の側面で幾つかの絵が壁に飾ってあるのが見えた。

 ショッピングモールでは稀に、空いたスペースでちょっとした展示が行われていることがある。

 パテーションに貼られた油絵は空の絵が多かった。赤い空、青い空。一つ、白一面の絵があった。よく見れば繊細なタッチで描かれており、一色の白というわけでもない。

 歩きながら眺めていると、視界が真っ白なキャンバスから、赤に変わった気がした。

 女の人が驚いた声を上げた、と思ったら、視界が低くなって、急にぐん、と体が止まった。

「っえ、?」

「大丈夫すか?…休憩室、空いてたっけ」

 意識が、明滅から戻ってくる。俺は後ろから誰かに腕を引っ張られて、それを支えに地面との接触を避けていた。

「こっちに」と短く言われ、膝の辺りを掴んでいる手にぐい、と腕を引かれる。

 見ず知らずの体調不良者を助けてくれる親切な人、なんだろうか。

「ほんとに、すみません、すぐに」

「顔色最悪だから座ったほうがいいっすよ、俺の展示の前で吐かれても困るんで」

「…え」

 初対面にしては遠慮のない口ぶりに床から目線を上げると、前を進む横顔に頭を軽く下げられた。

 腕を引いているのは、茶髪に耳にピアスをした男性。

 俺よりも若い、と感じたのは彼の表情がどことなく幼いからだ。って、この思考、以前にも。

「ども」

 その人物を認知し、俺は、さぁあ、と血の気が引く感覚がした。

「ど、どうも」

 神坂條様のお孫様とこんなところで会うとは、思わないだろ。

 1週間ほど前に、俺は神坂條家にて彼と会った。俺が喪主に対して言い放った誤解による無神経な言葉を咎めた張本人。血の気が引いたのは、そう、確実に、この方は俺に対して嫌な印象を抱いているだろうからだった。

 ショッピングモール内のバックヤードにつながる扉を開ける。

 彼は俺よりも年下ではありそうだが、お客の親族に対して仕事以外での接し方を図りかねているうちにあれよあれよ、と物置きのような一つの部屋に通された。

 何脚かのパイプ椅子が乱雑に並べられており、それ以外は机と、カバンとかの荷物が端に避けられてある。よろけて椅子に座らされたが、俺の気分は良くなるどころの話ではなかった。

 初対面で最悪な出会いだったのに、第二コンタクトでこの有り様。

 大したことはないとアピールしようと腰を浮かそうとすると「ここで休んでりゃいいでしょ」と、怒ってるのかと思うほどぶっきらぼうに言われ、詰んだ。

「ちょっと俺、立ってるから」

「了解」

 神坂條様は扉を開けて、奥にいる誰かに話しかけてから出て行ってしまう。ええと、と考える暇もなく、開けられた扉から入れ違いに入ってきた女性に、俺はまた驚かされた。

「宮藤、水は飲めそう?」

「…な、なんで、安良さんがここに」

「そうねえ、婚約者の手伝いってところかしら」

 黄色のスカートを靡かせる安良さんは、いたずらっぽく笑った。

「安良さんじゃなくて、これからは神坂條さんでお願いね」

 婚約相手、あの人だったのか。

「宮藤は今日休みだったのね」

「安良、…神坂條さんこそ」

「もう辞めてるわよ、昨日が最終日だったの」

 

 



 安良さんは「ちょっと待ってて」と言って、水を持ってきてくれた。

 冷えたペットボトルは自販機で買った物だろうと推測できて、お金を渡そうとしたが「病人にお金請求するほど冷たい人間に見える?」と心外だとばかりに断られた。

「俺、病人ではないですよ…、悪いです」

「いいから大人しくしてなさい。ここも、展示者は使っていいことになってるから気にしなくていい」

 そう言われ、両肩を細い指で優しく抑えられる。

「あんまり言いたくないけど、よくそんな顔色で外に出てたわね。落ち着いたらすぐに帰ること、いい?ひとまず水、飲んだほうがいいわ」

「…えと、はいじゃあ。…いただきます」

 安良さんの声に強制力を感じて、蓋を開けて水を飲む。

 冷たい液体を嚥下すると、脳がふわりと癒される感覚がする。俺が思っていたよりも、体は何倍も疲弊していたのか。ごくごくと飲み進め、3分の1は一気に飲んでしまった。

「いい飲みっぷり。見た目よりも大丈夫そうかな」

「いろいろ、すみません…」

「いいのよ、あ、なにか食べ物とか買ってきましょうか?」

「いえっ、いいですいいです」

「こう言う時は頼らないとだめよ?」

「はは、…気持ちだけで、水だけでも充分ありがたいです。ありがとうございます」

「そ」

 ペットボトルの蓋を閉めて感謝を伝えると、安良さんは引き下がってくれた。

 あまり人に親切にされすぎると居心地が悪くなるタイプである俺には、この水くらいの恩恵でギリギリだったりする。何がギリギリなのかというと、感謝に対して申し訳なさが勝つということだ。安良さんは多分、俺のそう言うめんどくさいところも理解してくれている。

 安良さんは黄色のスカートを押さえて、俺の横のパイプ椅子に腰掛けた。

 ここに、俺がよくなるまでそばにいてくれるつもりらしい。

「宮藤が神坂條様家の担当だったなんてねぇ。あの人、聞かなきゃなんも言わないんだから」

「俺も、びっくりです」

 どこかの誰かに嫁いだのではなく身近な人が婚約者だったという衝撃は抜けない。世間は狭いというが、狭すぎだろう。

(展示者…って言ってたな)

 あの壁に飾られていた展示品、ずらりと並んだ絵画の数々は神坂條様の描いた油絵だと言うことになる。

「お仕事は画家なんですか?」

「ううん、仕事は最近転職して、水道関係」

「プロと遜色ないと思います。俺は絵が描けないので素人意見ですが、展示をするってこともすごいことだと思いますし」

「展示をやるのはこれで3回目で、徐々に名前は知ってもらえてるみたいなの。何回かは絵も依頼も受けて、あ、自慢みたいになってるかしら」

「すごいじゃないですか。綺麗な絵ですもんね」

「私もよくはわからないのよ。でもたまにね、評論家みたいなお客さんが来てこの画風は古い!って言って帰ってくの。あとであの人って有名な先生とかなの?って聞いたらただの商店街の絵が好きなお爺さんだったりするのよ、どう思う?」

「そんな人いるんですか?」

「なんでもいるわよ。お店のレビューとかを見ててもさあ、なんでこんなに偉そうなの?!って言うレビュワーっていっぱいいるじゃない」

「絵描きも客商売なんですね、大変だ」

「次から文句言うなら来なくていいって張り紙するわ」

「いやいや、反感を買うと面倒ですよ」

「私たちはクレーマーに慣れてるからね」

 目があって、はは、と笑い合う。

「旦那にも余計なことはするなって言われてるからやらないけど、やりたい気持ちだけは常に持ってるわ。クレーマー上等よ!」

 腕を組んでわざと大袈裟に言う安良さんに、気分が軽くなる。

(旦那か)

 安良さんに恋愛感情を抱いたことはない、と自分の中で結論づけたものの、やっぱりちょっとだけ、神坂條様が羨ましい。

 ここまで人に合わせられる人が婚約者というのは、誰だって羨ましいはずだ。

 安良さんとのここでの巡り合わせはよかったと思えた。

 現実に、浮遊していた体が馴染む感覚がする、たわいもない話に心が落ち着く。

 極端に狭くなっていた視野が自然に広がって、一息がつけたような気分になる。

 しばらく話して俺は椅子から立ち上がった。

「よい、しょ」

「もう大丈夫なの?」

「はい、水を飲んだらマシになりました。それに」

 若干ふらつくのは空腹も手伝っていそうだ。腹ごなしをすれば治る、という感覚がある。

「せっかくなので、ちゃんと作品を見たいです」

 彼女にせっかく会ったのならいつも通りの自分として接したい。

「そう。ちょっとは勉強してるから説明できるわよ?」

 好意に甘えて展示場所まで連れられて戻った。

 先ほど見たのはパテーションの表一面だけだったが、裏側の展示物も空の絵ばかりが飾ってある。それらをゆったりと、時には立ち止まって安良さんから絵の説明を受けられることは、なんだか贅沢な時間だった。

「空がお好きなんですね」

「そうみたい」

 白い絵と赤い絵は直視できなかったが、朝方の澄んだ空気感を感じさせる青空の前に足が止まる。

 中学、高校も美術は5段階評価で2が最高であったくらいの美術オンチである俺でも昂って疲弊した神経を和らげてくれるような青に感嘆の息が漏れる。

「絵の依頼をする人の気持ち、分かります。こんなにたくさん空の色ってあるんだなって、普通に生活してたら忘れてしまうのを気づかせてくれるというか」

「本人に直接言ってあげてよ。喜ぶと思う」

「そうですかね、いや、見当違いの感想だったら恥ずかしいですから…」

 他のお客が隣に来る。展示物を見る人の数はそれなりにいる。青空の前から移動を始めた俺は言葉を途切れさせた。

 進行方向すぐ先の、パテーションの折り返し地点にて神坂條様が立っていてバチリ、と目が合ったからだ。

 それまで妙齢の女性とにこやかに対応していた神坂條様に「まだ帰らないんすか」と打って変わったそっけない対応をされ、若干怯んだ。

「宮藤、まだ全部しっかり見てないもの。ねぇ」

 集まる視線に、俺は表情筋を意識して笑顔を向けた。

「はい。是非、全部拝見したいです。どれも素敵な作品ばかりで」

「営業の人の言う世辞は素直に受け取りづらいもんですね。あのさ、俺、水飲みたいからここ立っててくれない?」

 神坂條様は安良さんにそう言うと、俺たちが彼の目の前に着く前に裏にまわって見えなくなった。

 安良さんは「もう」と言って言われた通りにその場に立ち止まる。部外者の俺もその横にいることへの違和感はあったが、とりあえず立ち止まった。

 絵画鑑賞をしているお客は5人程度。ベルトコンベアーのように流れている。安良さんの手が開かず俺まで対応しないといけないという事態には、多分ならないだろう。この微妙なタイミングで帰るわけにいかない。帰り際くらいはまともに神坂條様にお礼を言いたい。彼が俺を支えてくれなかったら、もっと酷い状態になっていた可能性もある。

「ごめんね。余裕ないのよこのところ。後で叱っとく」

「あ、いえ、あはは…」

 謝られて、曖昧に笑ったが刺々しい態度はそれなりに心に来ていた。

 誰にでもああいう態度の人なら俺も割り切れるが先ほどの一般客との対応を見るにそうではなさそうだ。

 よほど例の件で信用を失墜させてしまっているのか。あの一件のことだけでなく、彼の俺を見る視線の鋭さはもしかして彼女への牽制が含まれているのではないか、という勘弁したい考えも浮かんでくる。

(安良さんのこと狙ってるって勘違いされてたら嫌すぎるな…)

 気分が下がっていると安良さんに横からじ、と見られた。下から見上げるつぶらな瞳はどことなく不思議そうで、どこか確信的だ。

「彼となにかあったわけ?」

「え?」

「距離感変じゃない?」

「えっと」

 安良さんには隠せないか、と俺は判断した。

「仕事で一度怒らせてしまったことがあって…」

「へぇ、めずらしい」

(眞田さんにもそう言われたっけ)

 周りからの評価と自分自身の能力に差があるのかもしれない。

「いや、俺、結構ミスしますよ。器用じゃないんです、もともと」

「そりゃあ、ミスなんて誰にでもあるけど、わたしだって何度も葬儀で失敗したわ」

 横に立つ安良さんの瞼のアイシャドウのピンクに目がいく。明るい黄色いスカートも合わさって彼女自身が発色が良く空間に映えている。外の曇りと対照的にここには色が多い。だからまるでここの辺りだけ色づいたように見える。

(やっぱり、変わったんだろうな)

 勘違いではなく、以前の安良さんの姿はもっと色味が落ち着いていた。通勤の自家用車はえんじ色だったし、仕事中と休みで違うこともあるだろうが、飲み会の際にはアイシャドウなどはつけていたとしても気付けないくらいだったと思う。

 鮮やかな絵画の数々を見ていれば分かる。

 芸術家の婚約者の影響を受けて安良さんは変化したのだ。

 一周忌だったから、一年前か。

「神坂條家の担当だったんですか?」

 安良さんは瞳を瞬かせた。

「言ったっけ?」

「いえ。神坂條様はうちで葬儀をされてますし一年前の話だったら、安良さんが接する機会があるなって。偶然にしては出来過ぎですし、その方がしっくりきたから」

「まあ、そうね」

「どんな出会いだったんです?」

「えぇ、言わせるの?」

 聞くと、笑った後に前を向いた。

 俺も彼女から目を離した。

「大した話もないわよ。多分、葬儀の仕事がすごく特殊なのよねえ。何日かしか仕事で接さないのに、打ち合わせとか葬儀してるうちにその家族に感情移入しちゃうくらい知れちゃうし、相手方の心の距離も近くなる」

 安良さんは懐かしむようにそう言った。

「宮藤にもあるでしょ?そういう経験」

「はい、お客との信用が大切な仕事だと思います。人生の節目に関わらせてもらってるわけですから、責任重大だなって。でも,少なくとも俺はご葬家の方とそう言う雰囲気になったことはないです。2人がなんでそうなれたのかは気になりますよ」

「んー、…逃げさせてくれないわね」

 普段からパッキリとした性格をしている安良さんが、言い淀む。照れてるのだろう。そんな場面をいままで見たことがなかったので新鮮だ。

「じゃあ、話すけどね。遺品に、一枚の絵があってさ、旦那が小さい頃にお父さんに書いてあげた唯一の絵だったの。棚に入れて大事に取っておいてたのをお祖父様が持ってきてて、それで、担当だからそれについて色々話を聞くじゃない?」

「はい、遺品と遺影写真の話はマストですね」

「そうそう」

 神妙に頷く声は最初から狙ってたわけじゃない、と弁明しているように聞こえておかしい。

「で、親族控室でなんとなしに彼にその話したら「知らなかった」って動揺されてさ。しちゃいけない話だったのかと思って私も緊張してたら、横にいたおじいさまに「息子には好きなことやってほしいって言ってたんだぞ」って言われて、泣いてた。気持ちを隠しても親には分かってたんでしょうね。どんな気持ちで言ったんだろうって考えたら私も涙出ちゃって、それが、すごく心に残ってて。葬儀後に訪問してるうちに、ね」

 家族経営の会社の社長として働いていた中の交通事故。

 神坂條様の父親の人生は不遇なものだったのかもしれない。

 別になりたい夢があっても、家族のために自分を殺して進んでいたのかもしれない。

 そんな父親の姿を近くでずっと見てきた神坂條様の中には、複雑な想いがあったのだろう。

「秘密ね?」

「もちろんです。教えてくれてありがとうございます。なんだ。大した話じゃないですか、とても素敵な話です」

 本心はそれから先の馴れ初めも聞きたかったのだが、はぐらかされることにした。

 安良さんが展示を見るために近づいてくるお客に微笑みかけ、俺もならう。

「それはどうも。どうなのかしら、画家として売れたら会社員よりお金持ちになるのかな?」

「旦那さん、絵で食べていきたいって言ってるんですか?」

「芸術なんて何も知らない私に心配されるのって、ねぇ。素人からぐちぐち言われるの嫌だろうから,聞いたことないわ」

 結婚相手の仕事のことだ、生活に直結する事柄に対して妻なら心配になって当たり前だ。

 安良さんの声の、微妙なニュアンスからそう読み取れて俺は何を言うべきか少し考えてから口を開く。

「婚約者なら、よく知らないからって遠慮する必要はないんじゃないか、と思いますけど。部外者の俺が言えることでもないですが、絵の説明をしてる時の安良さんなんだか楽しそうに見えましたし…、」

 好きと詳しいってなにか違うんですかね、と続けて言いかけて、他人が偉そうなことを言ってしまっているだろうかと止まった。

「すみません、偉そうに」

 前に向けていた目線を安良さんに戻すと、彼女の表情は想像よりも穏やかにそこにあった。

「変わらないわね、宮藤は」

 俺は、どきり、とした。

 トキメキとかではなく、動揺で。

「そうです、かね。停滞してるんでしょう、で!」

 突然、揺れる心を叩き直すようにばしん!と背中を叩かれた。

 押し出されるように2.3歩前に出る。

 女性の力だからそこまで強いわけではなかったが、急だったのでびっくりした。むせる。

「嫌ね、いい意味でに決まってるでしょ」

「けほ、は、はぁ」

「思慮深くて優しくて、節度を持って踏み込まないっていうか。宮藤のいいところよ、私もご葬家なら宮藤が担当がいいもの。眞田さんはー…うまいこと乗せられていつの間にか高額になってそうで嫌」

「はは、たしかに。それはそうかも」

 俺の性格は単に気が弱いというだけな気がするが、素直に受け取る。

 安良さんからそう褒められるだけでも、自己嫌悪に浸っていた自分がいくらかマシになる気がした。

「変な話、応援したいって気持ちも心配と同じくらいあってさ」

「だから難しいんですね」

「そういうこと」

 俺には彼女の気持ちが分かる。言及しないことで目を背けることはできる。

 安良さんは、もし旦那さんが絵で生きて行きたいと言ったらどうすればいいのか測りかねているように見える。自分はどうすればいいのか、自分の中に答えがなくても誰かに質問したところで、正解がないから困るのだ。

 この世界に存在する問題の大抵は正解がないのに、失敗は明快にあるからタチが悪い。

「……難しいですね」

「そうね」

 俺もわからない。自分自身に背負わされた問題の対処に迷っている。

 安良さんと違って、俺は最初から間違ってしまっているのかもしれない、正解なんて探すまでもなく決定的に。

「外、晴れてきたわね」

 窓の外の曇り空の切れ間から日が刺している。

 2人して絵に背を向けて同じ方向を見ているので、安良さんにも見えている空。

 青と灰色が混ざった色に、数本生える電柱、空というキャンバスに線を引くように一羽の白鳩が飛ぶ。

 俺の心には物質の寄せ集めでなんの感慨も抱かない風景だが、もう直ぐ戻ってくる神坂條様の目にはどう映るんだろう。

(感性の違いなんだろうな)

 ふと、そう思って、腑に落ちた。

 現状の俺がどうしようもないのは誰のせいでもない。俺を形作ってきた俺自身のありようが生んだことだ。

 俺は彼女たち夫婦の仕事やプライベートの話の中でも繊細な部分に踏み込んだと言う自覚がありながら、この流れは有耶無耶になって俺の預かり知らないところでいつか形になる問題なんだろうなとも感じていた。

 そういう感傷が突如湧いて、まるで何もなかったみたいに消える。

 安良さんは俺を優しい人間だと評価してくれたが俺はそんないい人間じゃない。

 葬儀の仕事をしている時だって、機械的に物事の処理をして業務的にご葬家と接していたことは多い。出棺の時に泣いているご葬家を見ても心が動かなかった。故人になんの思い入れもなさそうなご親族の相手をするのに楽だと思う自分がいた。

 仕事が好きとかやりがいとか、そんなものを仕事に求めたことは一度もなかった。

 でも,俺には仕事が必要だ。

 仕事というよりも、役割が必要なんだと思う。

 これと言って、これこそが自分であると主張できるだけの何も持っていないから役割に依存している。

 俺はそんな自分が嫌いだ。

 自覚するたびに、このままで良いのか、と急かされている気分になる。

(色々と、貧しいよな。俺って)

「夢を見てる人を応援したくなるのは、私がつまらない人生を選んでるからだって思うのよ」

「え?」

 安良さんは前を向いていて、空気に溶けるような声量で言った。

「堅実に、失敗しないようにって、そんな生き方しかできないから見てて救われる気持ちになるのね、きっと」

 そう、なんてことないように言った。

「……」

「宮藤?」

「っあ、はい」

 返事を忘れた俺に、心配そうな顔が下から覗き込んでくる。

「大丈夫?やっぱり具合悪そうね」

「あ、いいえ、大丈夫ですよ」

「でも、ボーとしてるでしょ?タクシー呼びましょうか」

「これでもだいぶ具合は良くなってきましたよ、もう平気です」

 手を振ってアピールする。

 彼女の方向を向くと、神坂條様が奥から歩いてきているのが見えた。

 俺はいつのまにか近づいてしまっていた彼女から一歩遠のき「神坂條さん」と名前を呼んだ。

「ん?」

「幸せになってくださいね」

 神坂條さんは一瞬きょとんとした後に、花が綻ぶように微笑んだ。

「もちろんよ」

 

 


 

 合流した後には俺から申し出て、何時間か展示の手伝いをした。と言っても大したことはしていない、いてもいなくても変わらないほどの手伝いだったが、例の如く察しのいい神坂條さんには俺の性分がバレていたんだろう。「じゃあ宮藤、片付け手伝ってよ」との思いやりに甘えて、何か返さなければという気持ちは晴れた。

 2人と別れてショッピングモールを出ると、外は夕暮れになっていた。

 曇りの晴れた赤色の空、と言って仕舞えば陳腐だけど、夜になりかけて、宇宙の黒が混じった繊細な色合いは綺麗だ。

 日々の生活の中で空のことなんてすっかり忘れていた。目に入っているはずなのに意識に入ってなかった。

 俺がみていない間にも空は目まぐるしく、神坂條様の描く絵のように鮮やかに移り変わっていたのだろう。

 それに、今まで気づけなかったことは勿体無い生き方だったのかもしれない。

「よー!」

 という、俺の感傷を弾き飛ばす太い声が聞こえてきたのは、駅前の大通りを歩いている時だった。

 酔ったリーマンが騒いでいるのかと横目で見れば、見知った顔が道に寄せた車の窓から覗いていた。

 時刻は夕暮れ、もう仕事が終わり帰宅ラッシュの頃合いだ。

「なに黄昏てんだよ、また失恋かー!映画の主人公かー?!」

「っ、ちょ、うるさい!!人がいますから!」

 駆け寄ってはったたく勢いで運転席の男に文句を言うと、に、と笑みを返される。

「乗れよ、送ってやる」

「…はぁ」

 断ってもうるさそうだったので乗り込んだ。

 眞田さんはハザードを消して車を走らせる。

「宮藤がいない間に新入社員きたりよぉ、色々あったんだぜ?」

「…ご迷惑をおかけしてすみません、明日からはちゃんと行くつもりです」

「別に、このまま辞めるんじゃねえかって心配はしてねえけどよ」

 仕事終わりと思えないほどハキハキと喋る眞田さんの声を聴きながら、外の夕陽を浴びている建物群を目に映す。大通りを直進し、交差点で左に曲がった。ここから俺の家まであと10分もかからない。

「眞田さんの家、こっち側でしたっけ」

「いいや、逆だな。途中で宮藤にあったのはラッキーだったぜ」

 その不自然な言い振りに、窓に映していた目を眞田さんに向ける。

「この辺りに用事でもあったんですか?俺を乗せて、いいんです?」

「宮藤、俺は割と、人付き合いのランクづけには年月を上に位置付けてんだよ」

「?なんです、急に」

「あいつ、反省してるっぽいぞ」

「…」

 俺は思わず黙ってしまって、すぐにしまった、と思った。

 いい加減なくせに変に聡い眞田さんにかかれば、その反応だけで彼と俺の間に何かあったと気づかれてしまう、と。

「公衆電話から電話かかってきて相談された。『宮藤さんに嫌われたかもしれない、どうしたらいいかな』だってよ。あいつが俺に相談って隕石でも降るのかと思ったわ」

「そう、ですか」

 俺が休み中にどこに行ってるのか眞田さんが分かるわけがないので鉢合わせたのは偶然なのだろうが、大声で声をかけてきたのは意図がありそうだ。

「ま、頼られるのは悪い気はしなかったけどよ。お前、体調不良になるほど気にしてんのか?そりゃお前はそうか、はじめほどじゃないが宮藤とも割と仲良くなったからな。お前は真面目なやつだって知ってる。犯罪者なんか、嫌いにもなるだろうよ。俺だって他人なら厳しい」

「…」

「でも俺はいい加減なやつだからな。俺は他人よりも身内が大切だし、一度も喋ったことのない誰かよりも身内を守る気概で生きてる。宮藤は軽蔑するかもしれないがな、俺はむしろ安心してるんだぜ。身内が犯罪者にならずにすんだんだ。俺が言っている意味が分かるか?」

「…分かりますよ。最所くんを嫌いになってなんていません、眞田さんに軽蔑ができる立場でもないです」

 窓の外の景色が緩やかに進行している。

 車に乗るということは、歩きよりも早く家に帰り着いてしまうということだ。

 俺は家に戻って彼と何を話すというのか。

 話さないという選択肢は不自然だ。

 最所くんの相談を受けた眞田さんに送ってもらってることもある。2人義兄弟の絆は未だ掴みきれていないものの、俺は彼らのチームワークに道を塞がれている形だ。

 俺は何について話すべきなのか。

 宇宙人のこと?

 先日見た光の光景?

 俺は彼の言うことを信じたのか、どうか?

 

 

 

 

「えっ、はじめくん今日が誕生日なの?」

 子供は静かにうなづいた。

「クリスマスイブと同じ日なんだね。あらかじめ聞いておけば何か準備できたのにな」

「まぁまぁ〜、誕生日おめでとう!なにかいるなら言って?おばさんなんでも買ってあげるわ」

 母親はチキンロースを机に置いて張り切って言う。母さんは帰ってきたばかりなのに机の上には豪華な料理が並んでいる。母親は手際がいいから料理を早く作り終えることができた。速さ自慢も味自慢も、母親がすれば嫌味にもならない。父親は一言も発さずにその料理を自身の皿に切り分けて口に運んでいる。

「プレゼント、ってこと、ですか?」

「急に言われても困るよね」

「なんでもいいのよ?おばさん、はじめくんにならなんでも買ってあげる。ね、はじめくん、嫌いな食べ物あるかしら。お肉は食べれる?ご飯は食べちゃったならお腹空いてないかなぁ」

「え、と。ご飯は、まだで……」

 小さな子供が居心地の悪くないように、皿と箸を手に、母親は明るく声をかけている。

「母さん、グイグイ問い詰めるなよ、困ってるだろ」

 俺とばかり接して母親とはあまり関わりがなかったから不安だったんだろう。隣に座る俺に身を寄せ、はじめくんは腫れた目を向けた。ハンカチを貸したのに長袖で涙を拭いたから目が赤くなっていた。小さな頭を撫で「目,腫れてるけど痛くない?水で洗う?」と目元を優しく指で撫でると、はじめくんは小さく首を振った。

「お母さんにはここで食べるか聞いておいた方がいいよね。お家にご飯があるだろうから、一度帰って,また来る?ケーキだけでも食べに来なよ」

 はじめくんは下を向いて口を結んだ。

 泣いている理由は答えてくれなかったので、俺たちも無理には聞かなかった。

 小さな手のひらがぎゅう、とハンカチを握る。開封してから涙も拭かれずに新品同様のそれは、綺麗なままそこにある。

「…あの、このハンカチを、借りたいです」

「ハンカチ?」

「これがいいです。だめですか?」

 誕生日プレゼントのことだと気づくと俺と母親は「そんなものでいいの?」と口を揃えた。

「それならあげるわよ。商店街で福引があるでしょ?ボランティアで手伝ったらお礼にって景品の余りもらってね」

「家にいっぱいあるんだよ。置くところがないからって俺の机の上に置くのやめてほしいんだけどさ」

「いいじゃない、高校入ってから勉強サボってるでしょ」

「そんなことない、はじめくんの前で適当言うなよ」

「返しにきます、絶対」

 はじめくんは頑なにそう言った。

「俺は絶対忘れないから」

「そう?そこまで言うなら…」

「だから、それまで、俺のことを覚えていてください」

 顔を上げて、なんだかあまりに真剣に言うものだから、俺と母さんは目を見合わせて笑った。

「忘れるわけないよ」 




 

(本当に無神経なのは俺だな)

 昔の彼を忘れて、今の彼を軽く見て。

 冷たい人間、そう思われても仕方がない。

「宮藤は信じる気になったのか?」

「…俺も、…被害者は宇宙人だと思います。宇宙人はリーパーに殺された、それだけです」

 

 最初くんの犯罪行為は、被害者がリーパーに殺されるという形で精算された。

 

 俺の感情と現実への処理として、そう考えた方が整理がつくと言うのだから酷い話だ。

 

 俺は確実に正しくない。間違えてばかりだ。

 

「悪いな」と、眞田さんは言った。

「いいえ、理屈だけで信じるようになったわけじゃないです」と俺は答えた。

(同じ光だった)

 見間違えるわけない、あんな光。目に焼き付いて離れない

 興奮して、寝れなくて。

 朝起きてすぐに母親に連絡した。

「俺、昔に光を見たことがあるんです。空から降ってきた、白い魂の、たぶん。もっと大きいバージョンの光。俺はその日に、自分が特別な人間になったんだと思いました。そんな経験、聞いたことがないでしょう?滅多にない、特別な経験をした人間なんだと浮かれました。いろいろな人に言ってまわって信じてくれたのは最所くんだけでした」

 父親からの暴力にさらされる安心できない家庭。

 幼い彼の心に、俺の話す世界はどれほど輝いて見えただろう。

 彼を誤った道に進ませたのは俺なのではないかと、子供に毒を植え付けたんじゃないかと。最所くんと再会してから、ずっと後悔していた。自分の中に閉じ込めてなきゃいけなかったんじゃないかって、考えてもしょうがない過去の選択について。

「そうかよ。そりゃ、羨ましい経験だなぁ、おしいい加減元気出たかー?着いたぞー」

 眞田さんから声をかけられる。

 車がアパートに到着したのだ。

 運転席の眞田さんは捻った上体をシートにつけて、後部座席に手を伸ばしている。

「出ました、出てますよ、とっくに。送ってくれてありがとうございました」

「いいってことよ。これ、俺が自腹切ったんだけどな。好みとか知らねえから後で文句言うなよ。2人で分けて仲直りしとけ」

 そう言い、掴んだ小さな箱を自身の膝に置く。中を開いて幾つかあるケーキから一つ小ぶりなショートケーキをとり、器用に片手で閉じた箱を次に俺の膝に置いた。

 眞田さんはショートケーキを片手に「大人らしくお前から話しかけてやれよ」と言った。


 

  

 

 

 ケーキの箱を手に車から降りる。

 去っていく車の駆動音が遠ざかるにつれ、何か別の音が俺の耳に入ってきた。

 

 ざく、ざく

 

 嫌な記憶を引き摺り出すような土の音に、体が無意識に強張る。体の危険信号に歯向かうように、音のする方向に足を進める。ちょうど、アパートのゴミ置き場の裏側に位置する花壇を、大家さんが手入れしているのだろうとの推測が立っていた。心を落ち着かせて、挨拶をしようというだけの気持ちでそこに辿り着く。

「なに、してるの」

 しかし予想に反して、花壇の土を弄っていたのは彼だった。

 しゃがみ込んでいた制服姿の最所くんは俺に気づいて、立ち上がった。

 制服姿の彼を見るのは2度目だ。

 手には柄の部分が真新しいスコップが握られている。

「猫が死んでたんです」

 最所くんは、俺の歩いてきた方向を指した。

 駐車場と、その通りの道路。

「そこで、車に轢かれてました」

「…そう、残念、だったね」

 俺の声はぎこちなくなった。最所くんは、ここ最近に起きた色々な物事を一切感じさせない風だ。

「ここに埋めてあげてたんだ」

「見てしまった以上そのままにもできなかったんです」

 猫というのは最近居座っていたという子か。

(死んだのか)

 俺は花壇の前に立って手を合わせた。

 最所くんも向き直って、横で手を合わせている。

 小さな猫だったのか土はあまり盛り上がっていない。

 遂には俺は一眼も見ることができなかった。

「お花は…、紫陽花が咲くから、いらないのかな」

「ここに埋めたら栄養になります。きれいな紫陽花が咲きますよ」

「そうだね」

 俺は最所くんの言葉にうなづいた。

 死んでいた猫を埋めてあげるというのは間違いなく心優しい行為だ。

 大家さんが土を弄ったときに死体を掘り出さないとは言えないが、埋めてあげてまた掘り返しを提案するのはどうかと思えた。

「膝元に土ついてる」

 薄く土の色がついたズボンの膝あたりを指差す。

「帰って洗わないとね」

 屈んで膝についていた土を払う。

「ごめんなさい」

「大したことじゃないよ」

「俺はここで、宮藤さんのことを待ってたんです。謝りたくて」

「……」

「見てもらいたかったからキスしました。そうしたら落ち着くと思ったから」

「え?」

(きす?)

 俺は姿勢を直して彼の唇を見た。

 彼が、俺に?

 そんなことあっただろうか、記憶に薄い。

 記憶を辿ると、確かにそれらしい感触がした、気がするのだから最所くんの言うことは事実なのだろうか。

(ごめんなさいって言われても…)

 他に謝ることがあると思うのだが。

 いかんせん殺人現場が衝撃的すぎた。あんなことがあった後に、その事実は馬鹿らしいほど小さい。

「いや、大丈夫だけど、それは。謝らなくていいよ。てんぱって、よく分からないことしちゃう時もあるだろうし、それは気にしてない」

「優しいですね、宮藤さんは」

「そんなことないよ」

「俺は宮藤さんの優しさに甘えてしまってるんだと思います。目的に突っ走って、宮藤さんのことを考えきれてなかった」

 ギラついた夕焼けに照らされたまつ毛の影ができて、悲しげに微笑んでいるように見える。

「あんなものを見せて、俺は宮藤さんを傷つけました。怒ってください」

「………」

 色々と、言う言葉が頭を駆け回った。

(そうかもしれない)

 俺は怒らないといけないのかもしれない。きっと、怒らないといけないんだろう。

 大人として、世界を知らない子供が間違えれば正しい道を教えてあげなきゃいけない。

 明確に正しいことなのに、俺は彼にしたくない。

 謝っている彼の姿を見ていたくない。

 彼に謝られても、気持ちがスッとするどころか罪悪感のような居心地の悪さが芽生えてくる。

(俺は、はじめくんに怒りたくないんだ)

「俺さ、この前、夜部くんに会ったんだ。少し…はじめくんの発言に驚いてた」

「え?発言ですか?」

「神様は宇宙人だって言ってたよね。そのことで」

 彼は「ああ」と合点がいったようにうなづく。

「学校でのあれはそういう態度だったんですね。ファティマの奇跡は俺が主張したい説の引き合いに出しただけだったんですが、彼はミサにはちゃんと出てるみたいでしたから考えてみれば当たり前です。宮藤さんには、そのことで心配をかけてしまったんですかね。すみません。振る舞いには気をつけるべきでした」

「ううん、多分。どっちが悪いってわけじゃなくて、お互いの信じたいものが反発したんじゃないかな。よくあることだよ。…やっぱり今日、学校に行ったんだね」

「はい。もう引きこもる理由がありません。久々に行きましたが案外楽しかったです。生意気な言い方になるけど、高校生も悪くないというか。これからは毎日通うつもりです」

 だから心配しないでください、と続くようだった。

 はじめくんはウソをついているようではない。 

 はじめくんの目的は”宇宙人の証明”だと言っていた。

 どのレベルまでいって証明達成だとするのか疑問だったが、ここで彼は手を引くということだろう。あの光を目撃することで目的は達成された。もう危ないことはしない、ということだ。

 それでいいんだろうか、と思う自分がいることは、意外でもなかった。

 神坂條夫婦にあてられたんだろう。

 俺は2人が羨ましいと思った。将来の確約でもなく、あんなふうに、お互いを尊重できたならどれだけいいだろうと。同時に、自分のはじめくんへの接し方に嫌気がさした。

「あのさ、俺も、はじめくんに言いたいことがあるんだ」

 昔、俺の周りにはたくさんの楽しいことがあった。

 ゲーム、友達、映画、漫画、刺激の一つ一つに囲まれて、彼の存在は埋もれていった。

 彼を、彼らの家庭を、世界に無数にある出来事の一つとして処理をした。

 俺は彼に対して不誠実だった。

 頭を下げ、謝罪をする。

「いままで、信じてくれたのに、信じてやれなくて、ごめんね」

「そんな、顔を上げてください」

 肩に手を添えられて顔を上げると、慈しむように微笑む彼と目が合う。

「俺のことを考えてくれていたんですね。…すみません、俺はそれが嬉しいと思ってしまう」

「気にかけてくれる人のことを考えるのは当たり前だよ」

 はじめくんは緩やかに首を振った。

「そんなことありませんよ。それって、すごいことです。すごく優しいことだと思います。昔からそうです、宮藤さんは優しかった。俺のことを面倒だと思っても仕方なかったのに」

「はじめくんを面倒だと思ったことなんて一度もないよ」

「…なんで」

 微笑みから、切なげに眉を寄せる。どんな芸能人より美しく見えるのは身内の贔屓目だとは思えない。

「なんで、そんなに優しくしてくれるんですか?」

「なんで、って」

 そんなの、簡単な問いだ。

 小難しい理屈なんか必要じゃない。

 俺は、同じくらいの位置にある頭をぽんと、撫でた。

 頭の形を確認するみたいに手のひらで一周する。あんなに小さかったのにずいぶん大きくなったなぁ、と再確認する。

「はじめくんはまだ、かわいい子供だからなぁ」

 幼さを残した端正な顔はわずかに目を丸くしている。小学生の頃の彼にはよくしたことだが、大人びた彼の子供らしい表情は微笑ましい。

 柔らかい黒髪を優しく撫で付けて髪型を綺麗に戻した。

「俺にも詳しく聞かせてくれないかな。はじめくんが宇宙人に連れ去られた話を」

 話さなければならないのに後回しにしていたことを一つ一つ聞こう。

 俺が彼と誠実に向き合うために、必要なことだ。

 知るためには自分から内側に入らなければいけない。

 当事者になるために。

 



 4

 



「宇宙人に攫われたのは、5年前の12月23日です。その日は寒波が迫っていて外は吹雪いていました。施設の門限も過ぎ外出禁止を言い渡されていましたが、俺は散歩をしたいと思って外に出ました。施設の人に悪いとは思っていましたけど、俺は、少し前には夜に散歩をしないと寝付けなかったんです。母さんが死んで施設に移って日も経っていなかったくらいの時はなおさら顕著でした。時刻は夜10時ごろだったと思います」

 

 

「施設は開発されていない山岳部にあるので、散歩するコースといっても田んぼの周辺をなぞるくらいしかできません。民家が見渡す箇所に3、4件しかないような田んぼの付近を歩いていると、突然上から強い光がさしました。視界が白に染まって、おそらく、気絶したんだと思います。目が覚めると、俺は椅子に縛り付けられていて、真っ白い室内には俺以外に宇宙人がいました。2人の宇宙人は俺に背を向けて、白い球のようなものをガラスケースに入れて観察をしているようでした。宇宙人は〇✖︎✖︎とそれを指差して言いました」



「UFOの内部の記憶はそれだけです。時間が跳躍した感覚、というか。俺は気付けば田んぼ道に血まみれで倒れていました。宇宙人は俺に背を向けていたので顔は見ていません。外側も、光に包まれていて見ることはできていません。真冬の寒さが覚醒させた要因だとは思いますが気絶した割にはまだ外は暗かったので、UFOの中にいた時間は数時間の話だと思います。俺はそのままの足で自力で施設に戻って、職員の人たちは驚いてましたね。病院に連れて行かれて、施設を抜け出したと打ち明けると怒られもしました」


 

「しばらくは一連の出来事が夢だったかどうか曖昧なままだったんですが、その日から、UFOで脳を弄られたのか超能力が目覚めていて、能力を試すうちに次第に確信したというわけです」


 

 俺は自分の部屋ではじめくんの話す言葉を聞いていた。

 テーブルの上に置かれた二つの不揃いのカップには熱い緑茶が入っている。眞田さんから頂いたショートケーキのお供に最適ではないだろうが、うちには牛乳もコーヒーも紅茶もない。

 はじめくんの話を、俺の相槌や疑問点を挟みながら聞いている間に、お互いの皿はすでに空いている。

 あらましを聴き終えて、俺はまずお茶を飲んだ。

 頭で消化できていないうちに何か心にもない言葉を発してしまう前に、考える時間が欲しかったのだ。

 まず心に浮かんだのは(嘘っぽい、と、…思ってしまう)だった。

 というより、彼のセリフは常に台本じみている。普段と比べて今はどうとか、そう言った判断がしにくい。

 宇宙人に連れ去られて人体実験をされることをアブダクションという。

 経験談は割とありネットでも閲覧可能なそれらを寄せ集めてつぎはぎにしたような話。

 田んぼに舞い降りるUFOなんていうのはUFO大国アメリカだけでなく日本でも使われる文面。甲府事件などが有名か。周りに目撃者がいないステージは物語に勝手がいい。ロズウェル事件でもあれは物証があるが、牧場だった。

 UFOでの出来事を気絶してよく覚えないっていうのも、後々の証言に矛盾ができないためと思えなくもない。

 宇宙人の顔を描いてみてほしいと言ってみようか、と考えていたが、この証言内容では無理そうだ。

 宇宙人に遭遇した証として体の傷を提示する例もあるのだが、はじめくんは前髪に隠れているこめかみの傷が施術の際の傷跡だとは言わなかった。道に血まみれで倒れていたという表現は暗に匂わせているが、彼の中でわざわざいうことでもないと判断したのか…。 

 あの光を2度見た俺にとっては彼の話は荒唐無稽ではないわけなのに、こうして疑いを持ち続けているのは、彼に対して申し訳なく思う。

(それでも引っかかるのは、父親のDVがあるから)

 その可能性は眞田さんから示唆されていた。

 もし、はじめくんのこめかみの傷が父親からのDVだとしたら。宇宙人に襲撃されて脳をいじられたという作り話は、彼の精神を守るための嘘である可能性がある。考えたくもない事実だが、可能性から除外するわけにはいかない。

 また、違う考え方もできる。グリーフケアの観点から、ナラティブアプローチという考え方がある。人は誰しも自分だけの物語を持っている。大切な人を亡くした遺族の中には相手の死に対して超自然的な解釈をしていることがたまにある。たとえば、長年連れ添っていた旦那が亡くなった後に、庭に住み着いた野良猫を旦那の生まれ変わりだと信じる女性がいたりする。発言者自身も超自然的な解釈だと自覚していることが多いが、傾聴者はそれを否定せず、肯定的に相手の物語的真実を聞くことが大切なのだとする考えだ。

 死を事実として受け止めることができるほど、人間は思っているよりも強くない。最所くんは母親を自死によって亡くしている。関係があるかもしれない。

「信じるよ。教えてくれてありがとう」

 考えて、頭を使った後に俺はそう言った。

 俺はここで真実を問い詰めたいわけではない。

 たとえ嘘であっても、彼を守るための嘘なら信じるべきだ。信じるべきでない場合というのは彼が虚言癖であったり自身の主張を通すためだけに俺たちを騙している場合だろうが、その可能性は彼に限ってない。

 俺は今に至って重要なことをつかみかけていた。

 大切なことは、信じたい気持ちがあるかどうかだ。

「…はじめくんは、犯人は捕まると思う?」

 俺はコップを置いて聞いた。

「覚えてますか?犯人は現場でナイフを落として、拾わずに逃げていきましたね」

「あ、うん。カランって音が、した気がする」

「排水溝かなにかに入ってしまって、すぐに取れないと察したんでしょうね。俺たちが逃げた後にまた現場に戻ってきた可能性は捨てられませんが、犯行が予想以上にお粗末だってことは明らかです。ナイフが見つからなくてもいづれはボロを出すと思います」

「そっ、か」

「あとはもう、警察の仕事ですよ」

 俺は、体の重みが無くなった心地がした。

 好きなことをやった方がいいと大人ぶって言ったはいいが「それでは宮藤さん、また犯人探しを一緒にやりましょう」なんて言われてはどうしようかと内心ヒヤヒヤしていたさもしい俺だ。

 はじめくんもお茶を煽る。

 しゃべり疲れたのかもしれない。俺が色々と聞くものだから彼にはかなり喋らせてしまっているが、ジャンルがジャンルなだけに俺も語れる言葉を持たない。

「犯人が人間かもしれないと思い始めました。だったら、俺みたいな感知能力を持った人間が他にいるということで、ありえなくもないです」

「…そうだね。そうだと思う」

 宇宙人を見分けることができる彼のような人間が他にもいて、殺人を犯している。

 可能性で言えばあり得る。というより、彼一人がそんな能力を持っている特別な人間だと思えないという方が近い。自分に近い人間が、たまたま宇宙人に攫われて、それが世界で一人だけの特別な人間である確率はどのくらいのものだろう。途方もない数字であることだけは理解できるが、疲れた脳はそれ以上を考えられなかった。

 眠いのではなく、とにかく安心して、糸が切れたみたいに気が緩んでいる。そんな俺を察してくれたのか彼は切り上げた。

「もうこんな時間ですね。すみません、長居してしまって。ご迷惑にならないうちに帰ります」

 コップを置いて立ち上がるはじめくんを俺は呼び止めた。

「あ、いや。迷惑なんてそんな」

 反射的な引き止めだった。

「はじめくんはもっと大人に甘えていいんだよ」

 昔、俺は彼を下の名前で呼んでいた。口に馴染む感覚がある。

「俺が手伝えることなんて全然ないけど、なんでも言ってほしいよ。はじめくんは、はじめくんのやりたいことをやった方がいい。大人になったら、やりたいことなんて、滅多にやれない。どんどん麻痺して、自分がやりたいことがなんなのか分からなくなっていくから」

 会話が噛み合っていないと自分でも思う。

「なんでも、ですか?」

「うん」

 それでも、紛れもない本心だった。

 多分ずっと、彼に頼って欲しかったし彼に関わっていい理由が欲しかった。役割がないと、俺は人と関わることに臆病になる。

「それじゃあ…、早速なんですけど一つ、いいですか?」

「えっ」

 さっそくすぎる。

 自分で言ったことだが、心の準備ができていたわけではない。

 なんだ。

 ごく、と喉を鳴らす。

「白菜を使ってくれませんか?完全に冷蔵庫の中で眠らせてて、処分に困ってたんです」

 はじめくんは恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 俺の冷蔵庫の中から白菜は消えているが、彼はいまだ手付かずだったらしい。

 俺の部屋に白菜を持ってきてもらい、買ったそのまんまの白菜のフォルムに声が漏れる。

「おお…」

「賞味期限、大丈夫そうですかね」

 一度刃を通してみる。一緒に買った日から1週間もしていない。鮮度は問題ない。

 白菜の半玉はまな板からはみ出て、ひとまず横半分に切った。

「まだ大丈夫そうだよ、でも半玉だから食べ切るの大変かもね。どうしようか、今日作り置きでいくつか作ってもいい?レンチンしたら食べれるようにさ」

 持ってきてもらったのは自分の慣れた道具で調理した方が早いと思ったからだ。

「そうしていただけると有り難いです。どうしたらいいのか分からなかったので助かります」

「いいよ、このくらい。なんか意外だなぁ。なんでもできる子だと思ってたけど料理は苦手なんだね」

「男子高校生ならそんなものだと思いますよ」

「そう?あー、確かに俺もそうだったな」

 それから男2人で台所に立って調理をした。

 座って待っていていいよと言ったがはじめくんは手伝いたがった。気持ちは分かったので食材を切る役は彼に任せ、おれは炒めたり、焼いたり、蒸したりした。包丁を持つと嫌な感じがしたので、正直助かった。

 一応好みを聞いたのだが、何も聞いても「へぇ、それも美味しそうですね」と言って全てかわされたので完全自己流だ。

 八宝菜、野菜炒めをタッパーに詰めて、持って帰るまで冷蔵庫に入れる。せっかく家にいるのだから米も振る舞って食べさせてやろうと言う気になり、料理を机に出す。

 彼女が以前作ってくれたミルフィーユ鍋を見様見真似で作ってみた。鍋はタッパーに詰めるより今日食べてほしい。

「え?宮藤さんは食べないんですか?」

 食べようとする姿を眺めていると驚かれた。

「いや、だって白菜は俺のものじゃないし」

「食材は豚も調味料も入ってますし、こんなに作ってくれた人の前でただ食べるなんて酷いことはできませんよ」

「…じゃあ、いいかな。ご一緒して」

 自分の分の皿も用意して食べてみる。

 割と美味い。腹に染み渡る感覚に、そういえば起きて初めてのご飯だと気づく。

「どうかな」

「美味しいです、すごく」

 口にあったようだ。

「ごめんね、辛いものが好きだって知ってるんだけどうち唐辛子置いてなくて。遠慮せずにお茶もご飯もいただいてね」

「ありがとうございます。お言葉に甘えていただきますね」

 はじめくんは鍋からご飯に箸を進めた。

 ミルフィーユ鍋に米というのはどうなんだと思っていたが、予想外にもりもりと食べてくれる。

 お腹が空いてたんだろうか。日頃カップラーメンしか食べていないなら、栄養素に飢えていた可能性はありそうだ。

 俺も腹が減っているので、それらを食べる。

 白菜と豚肉の程よい甘味が美味しい。

「今日、よかったら泊まっていく?よかったら明日の朝ごはんも作るよ」

「え、泊まっていいんですか?」

「うん、もちろんだよ、あ、」

 一人暮らしの部屋に二つも布団はない、と言い終えてから気づいた。

 彼女がいた時も遠距離恋愛だったし布団を用意するのはまだ先だと思っていた、その後振られたわけで用意しているわけもない。そんな単純なことも考えられなかったとは。

「ごめん、布団一つしかないや…」

 はじめくんに謝罪すると「2人で一緒に寝ればいいじゃないですか?」とさらりと言われた。

「兄さんと宮藤さんも一緒の布団で寝れてましたよ。問題ないと思います」

「そんなこともあったね…」

 はじめくんがいいと言うならいいか、となった。

 はじめくんには一度お風呂と歯磨きのために部屋に戻って、寝巻き姿で来てもらった。隣同士だと移動時間が短いからこういうこともできる。

 土で汚れた部分を軽く濯いだ制服のズボンをベランダのハンガーにかけた。濡れた部分は狭いため、明日の朝には乾く。

「……さすがにキツくない?」

「キツくないというと嘘になっちゃいますけど、なんか、楽しいですね。旅行ってこんな感じなんですかね?」

「ホテルの方が断然に快適だよ」

 予想通り、一般的なサイズの敷布団一組にそれなりの男性2人が寝転ぶというのはかなり窮屈だった。

 一つしかない枕ははじめくんに使ってもらっている。お互い仰向けだから肩がつきそうなくらいで、寝返りなどは確実に打てない密着度。

 布団に潜り込んでみて、うわ、寝れるかな、よくこんなんで寝れてたな、と不安がよぎったのは一瞬で、目を閉じれば眠気に意識が引っ張られた。

「宮藤さん、まだ起きてますか?」

 暗闇の中で彼の声が横から聞こえて来た。

「ん?うん、…」

 返事をしたものの意識は落ちかけている。

 深い泥のような眠気が全身を包んでいた。

「キスのことなんですが」

「きす…?」

 なんのことだっけ、それ。

「未成年と成人がそう言った行為をすれば、成人って捕まるんですよね」

「……………………………」

 一気に、眠気が覚めた。

 どくどく、と鼓動が波打つ。

 これは、心臓に悪い話題だ。

「え、えーと、どうなのかなあ。たしかに青少年保護条例とか、未成年淫行とか罪はあるけど、キスはどう、なのかなあ」

 曖昧に誤魔化した、大人のやり方だ。

「その法律って男性同士でも適応されるんですか?」

「え、あー、ごめん、よく知らないけど、今の時代は男とか女とかあんまり関係ないんじゃないかなあ…、」

「じゃあいまここに警察がきたら宮藤さんは捕まるんですかね」

(え、脅されてる?俺)

 俺は物騒なことを呟き続けるはじめくんに体を向けた。

「え、まって。俺からは何もしてないよね?え、それでも警察に駆け込まれたら俺が捕まるのか?」

 横を向くと、はじめくんはすでに俺に対して体を向けていた。にこ、とイタズラっぽく笑う目と目があう。

「冗談ですよ」

「あ、冗談、かぁー…」

 蠱惑的な笑みに、思わずどきりとしてしまった。

「えー、と」

 動揺も合わさって変にドキドキしている、もうあんなことはやめてほしい。

「あのさ、おれも月とか、宇宙のこと調べてた時期があったよ」

 俺は話題を逸らした。

「地球からは月の表面しか見えないって話、はじめくんから聞いて思い出したよ。たしか、月の自転運動と地球の公転運動が噛み合って同じ周期で回っているからだって話」

「あの頃は色々と話をしてくれましたよね」

「…もしかして、俺がはじめくんに教えたのかな」

「はい」

 すっかり記憶から抜けていた。俺は片手で顔を覆った。

「うわー、ごめん。あの頃の俺、知識ひけらかしたりとか痛いな…」

「10年前ですから忘れてても仕方ありません。色々と変わることだってありますよ。人間の脳って嫌な記憶ほど残るらしいですね。ほら、いじめっ子は覚えてないけど、いじめられっ子は覚えてるって言う話があるじゃないですか」

「うん、よく言うね」

「所詮、刺激があるかどうかなんですね、脳なんて。過去の俺が宮藤さんに刺激を与えられなかっただけです、だから、俺のことを思い出せなかったのも無理はないんです」

 とつとつと紡がれる言葉には言いようのない寂しさがあった。

 彼が寂しそうに見えたのではない、俺にはそう感じた。なんだかその言葉にはそう考えることで現実を飲み込んだような、一瞬の苦しさがあった。

「…はじめくん、ごめ」

「ゲームをしませんか?」

 はじめくんの声は切り替わるように明るくなった。

「ゲームって、トランプ?」と俺が聞いて、はじめくんは「宮藤さんとならそれも面白そうですが」と前置きして「どっちがより昔のことを覚えているかゲーム、です」と言った。

(自信ないな)

「いいよ」

 俺は、彼のしたいことは何でもしてやりたいという気持ちで快諾した。

「向かい合っていると口の動きで読めてしまうかもしれないので、背中を向けませんか?」

「うん」

 言われるままに、ゴソゴソと狭い布団の中でみじろぎをして背を向ける。

「最初はー、誕生日にしましょうか。お互いの誕生日。宮藤さんは8/2です」

 なぜ知っているんだろう、疑問に思うものの、俺は答える。

「12/24、クリスマスイブだよね」

 12/24は、俺が彼と10年前に別れた日でもある。

(…思い出したんだ)

 クリスマスイブ、夜にリビングでテレビを見ているとインターホンが鳴った。

 出ると彼は玄関で泣いていて、聞いても泣いている理由を話してはくれなかった。俺は涙を拭うために部屋にあったハンカチを渡した。母親が「もう大量に貰っちゃって,しばらく困らないわねー」と俺の机に置いていた、商店街の福引のあまりである賞品のハンカチの一つを箱から開けたのだ。クリスマスイブだったから家にケーキはあって、彼が一度夕食を食べに家に戻ってから、家族と一緒に食べた。

 次の日、彼と母親は家を出たらしいと母から聞いた。

「一緒にケーキを食べたよね。あの時はチョコレートケーキだったっけ。ショートケーキは美味しいって言ってたけど、チョコは好きなの?今度から、一緒に食べるならはじめくんの好きなものにしたいんだけどうぇ?!」

 ぎゅ!と突然後ろから伸びた手に抱きしめられて、俺は飛び上がりそうになった。

「ドキドキしてますね」

「っえ、あっ心臓の音、うるさかったかな」

 背中を向け合っていたはずのはじめくんが、なぜか俺を抱きしめている。

 真後ろに位置することになる彼の口から出てくる声がくすぐったくて身を捩った。気になるのはそれだけではなくなんだろうこの手は。回り込んできた彼の手が俺の心臓辺りに位置して、かなり変な体制になっている。

 トドメとばかりに、彼は俺の首筋に触れてきた。

(っぎゃ!)

 声には出さなかったが、ぞわわ、と背筋が泡立つ。

 スーと息を吸ってる音がよく聞こえる。

(これ、匂い嗅がれてないか…?)

「あのー、…どうしたの?最所くん」

「俺、宮藤さんの匂いが好きです」

「…線香の匂い、まだするかな」

「線香じゃないですよ。宮藤さん自身の、お日様みたいな匂いがします」

「なら多分、天日干しの匂いだと思うけど、柔軟剤無臭のやつだから…」

 それってたしか、ダニが死んだ匂いだって聞いたことがある。

 柔軟剤、匂い付きに変えようかな。

 匂いというより香りという方がいいよ、とか、なんだか色々なことが頭を巡って、どれも場違いだと霧散する。

「はじめくん、あの。あんまり動かないでもらえるかな」

「嫌、ですか?」

「いや、ではないけどコソばゆい、っていうか。っ、」

 する、と胸の辺りの手が意図せず動いて、変な声出そうになる。気のせいか足まで引っ付いてきて、人肌の温もりが伝わってきている。

「そ、それ。ごめん、俺結構、肌弱くて」

「あ、そうなんですか」

「うん、その、だから動かないでもらえると助かるんだけど…」

 てか、いつまで抱きしめられてんだ。

 言外に離れて欲しいと伝えたつもりだったが「分かりました」と言ってくれたその手は、ぎゅうぅ、と抱きしめる力を強くして、ガッチリ体を固定された。

「これで動きません、どうですか?」

 え、何にも分かってない。

 ただ離してくれれば解決するんだけど。

「あのまあ、…うん、…いいんだけどさ」

 俺はなんと言ってもどうにもならなさそうな現状に対して、受け入れてみせた。これならまあ、こしょばくはない。

 背中に触れる暖かさには不思議な懐かしさのようなものがあって、しばらくそうしているうちに再び微睡に引き寄せられる。

「あのさ、はじめくん」

「はい?」

「夜に外に出歩くの、もうやめてほしいって言ったらどう思う?」

 口から出た言葉に、後ろから問いかけてくる。

「なぜですか?」

「攫われちゃうよ、また」

 首筋に、暖かい息がかかった。

「怖がらせてごめんなさい」




 4



 

 普段は朝ご飯なんて炊飯器に入った米を握って塩をかける、くらいなんだけど育ち盛りの高校生であるはじめくんがせっかくいるということで、味噌汁、目玉焼きまでは最低限として作ることにした。

 食事を食卓に並べ手を合わせる。

 窓から差し込む気持ちのいい光を浴びた朝でも美しい彼が、それらを黙々と食べている。

 施設では目玉焼きにはソースをかけていたらしいと聞き、台所へソースをとりに行く時に回り込んだ彼の短い後ろ髪に、ぴょんと髪の毛が逆立っているのを見つけた。

 再開してこの方、はじめくんには生を感じさせない無機物感があったが、顔を洗ってもどこか眠そうな顔はそんな印象を感じさせない人間らしさを感じる。

「たまにこうして食べにおいでよ」

 思い切って言ってみると、はじめくんは「いいんですか?」と言った。

「うん、こんなものでよかったら1人分も2人分も大して変わらないよ」

 はじめくんはソースを垂らした目玉焼きを食べて「この料理がまた食べれるなら願ってもないです」と乗り気で言ってくれた。 

「料理ってほどのものじゃないけどね。俺、はじめくんがちゃんと食べてるかどうか不安だったんだ。痩せてるし、…ずっとこもってるからさ」

「よく言われます。人並みには食べてるつもりなんですけど、職員の方に栄養素を取り込みにくい体なんだから人より食べなさいって多くご飯注がれてました」

「想像できるね」

 俺から見ても痩せ型に見える彼がもっと食べなさいと言われている姿は想像に難くない。おまけに美形なものだから周囲はかまいたくもなるだろう。

「吸収不良じゃないかって病院に連れていかれたんですけど、問題なかったです。血液検査とか色々とやらせられたんですけど結局体質だろうと言われました」

「はじめ君のことが心配なんだよ。俺もさ、母親に食事は資本だから食べさえすれば動けるからっていっぱい食べさせられたよ。なんでか知らないけどツマをさ、もうメインかってくらい盛られてた。おかげでツマ苦手なんだ。あれまじでなんだったんだろう」

「想像するとなんだかかわいいですね。宮藤さん」

「可愛いかなぁ。拷問だよあんなのは」

 コロコロと笑うはじめくんの方が可愛いと思う。

 年相応な反応が微笑ましく、漏れるように笑みが溢れる。

 遠慮せずに初めから踏み込めばよかったのだ。はじめくんも初めての一人暮らしには困っていたに違いない。 

「もっと早くに声かけておけばよかったな。あんまり横から口出されるのも嫌かなと思っててさ。年上からあーだこーだって言われるのは、俺は苦手だったんだよね」

 学生時代、教師の進路相談が苦手だった経験から言う。

「意外です。兄さんと仲がいいから宮藤さんは年上が好きなんだと思ってました」

「え?そう見えるかな?うーんまぁ、…眞田さんとは仲が悪くはないと思うけど。会社での付き合いってなると友達みたいに仲がいいとか悪いとかって感じではなくなるからなぁ」

「へぇ、ちょっと、兄さんが羨ましかったくらいには仲が良く見えましたけど」

「え、そう?」

 緩やかな笑みを浮かべているが、なんだか視線がいつもより厳しい気がする。朝は低血圧だったりするんだろうか。眞田さんも朝は機嫌が悪そうだったが案外似ているところが多いのかもしれない。

「はじめくんも大人になったら分かるよ。ああ、子供の時って純粋だったんだなあって」

 手垢のついた一般論を返す。

「早く大人になりたいって考える事が多かったんですが、俺も最近、子供にもいいことがあるって気づきましたよ」

「?そうなんだ」

 最所くんは柔和に微笑んだ。

「はい、子供がやることは大抵受け入れてもらえます」

 

 

 

 

 ご馳走様と手を合わせて、2人で食器類を洗うと、はじめくんは一度家に戻って制服に着替えた。俺もスーツを着て外廊下で待ち合わせた。

 はじめくんは着替えた制服のネクタイを指差して出来はどうかと尋ねてきた。中学時代は学ランだったからネクタイを結び慣れていないということで、はにかむ彼は可愛かった。俺は彼の少しよれたネクタイを結び直してあげると階段を降り始めた。

「宮藤さん、また学校に来てくれませんか?」

「あ、うん。…俺は宇宙人探しの役に立たないと思うけどね」

「宇宙人探しのことではないですよ、安心してください」

「そう?それなら、うん。行きたいよ」

「よかった。お仕事が忙しくないお休みに、来れるのでしたら俺から言っておきます」

「分かった。行ける日が決まったらはじめくんに伝えるよ。俺としても京子ちゃんたちにはまた会って話がしたいと思ってたんだ」

 ひとまず京子ちゃんの心象回復に努めたい。彼女からの心象は最悪でも、個人的には俺は彼女の性格を好ましいと思っている。

「宮藤さんの話もみんな聞きたいと思いますよ」

「…はは、お手柔らかに頼みたいな」

 前回ははじめくんのおかげで俺から話が逸れたが、次は逃げられそうにない。

「俺ももう、記憶が曖昧なんだけどね」

「お母さんを見たんですよね?」

 はじめくんは階段を降りると立ち止まった。

 俺は正直に話そうと思った。彼に話したこと、話していないことの区別が鮮明にはつかないが、自分の記憶を遡って打ち明ける。

「うん、…光の降ってきた夜。深夜に母さんがベランダにいて、でも母さんはその日出張行ってたから家にいるはずはないんだ。もしかして出張先で亡くなってるんじゃなかって心配になって電話したんだけど、普通に繋がったから。馬鹿なこと言うなって怒られたな」

「考えていたことがあるんです」

「ん?」

 はじめくんは顎に手を当てて考える仕草をした。

「ベランダにいた人物が母親であることが重要な気がします。宮藤さんはなんらかの宗教の信者ではありませんよね?」

「そうだね。しいていうなら、浄土真宗かな」

「これは一つの仮説なんですが。人間は視覚から得た情報を脳で再現していますよね。日本で発見される幽霊に足がないのは、日本の幽霊画に足が描かれていないからという話があります。貯水槽に捨てられた殺人事件で、死体が発見される前から現場で女の霊の目撃談があったという話もありました。二つの違いは脳内の知識が一致していれば再現されるイメージが統一化されるというものと、情報を共有していないのに統一化されるというものです」

「えっと、うん。なんとなく分かるよ。夢とかもそうだもんね。瞼の裏は真っ暗なはずなのに色のついた夢を見てる。人が幻覚が見るのも、脳が視界を再現してるからって考えれば理解はしやすいよね」

 なんとかついて行ったが朝に話す内容としてはヘビーだ。

「幽霊という現象は、情報が空中を漂っていると考えればいいんです。それを目から感知して脳で再現すると、そういう現象が起こりえます。宮藤さんは光から何か情報を受け取り脳で処理をして目の前に再現した、として。例えば、ファティマのように聖母の情報を受け取っても宮藤さんには宗教の観念を持たないので、代替としてお母さんが現れたということになりませんかね?」

(……)

「言いたいことは分かったよ」

 荒唐無稽な幻想を論理で補強をしてくれたような。的確な言葉は分からないが、はじめくんの言葉は胸を高揚させる何かがあった。

(京子ちゃんは、こう言う気持ちで最初君の話を聞いていたのかもしれないな)

「俺自身の知識が、再現するイメージを持ってなかったから、ってことだよね?」

「はい。それでも、なんのために宇宙人がそんなイメージを送ってきたのかという問題は出てくるんですが、重要なのはメッセージだと思うんです。何か言われませんでしたか?」

「あの日…」

 何かを言われたような気もするし、言われてないような気もする。

 軽く記憶をたぐっただけで、その時の記憶よりも「夢だったんじゃないの」と呆れて言う母親のことはよく覚えている始末だ。

 俺は一時期、意図的にあの時の記憶を忘れようとしていたことさえあるから記憶は年々薄れていると感じる。

 一概にそれを誰かのせいにしたいわけではないが、現実主義の母親に教わったことは多い。

 

 この世界に不思議なことはない。

 

 何かの神秘を見たと言う人がいても、それは嘘か、夢。

 

 人を疑う考えを当たり前に持つことが大人になるということなのだろうか。

 あの光を二度見た俺が宇宙人の存在を信じないわけにはいかないんだろう。

 しかし、と思う。

 宇宙人が本当にいたとしても、大人になった今なら、自分の生活を維持するためにすることが他にあって、オカルトや不思議話に現を抜かしている暇なんかないとすぐに思いなおることができる。

 そんな冷めた自分がいることは、俺があの頃から変化しているということには、俺にとっては安心材料になって、彼にしてみればつまらないことかもしれない。

「よく覚えてないな、ごめん」

 俺は昔の俺から見ても、つまらない大人になったと思う。

「あらっ、2人ともいってらっしゃいー」

 ホースを持って花壇を水をあげている大家さんが手を振ってきた。

 水を浴びた紫陽花は色のついた花を芽吹き始めている。

 艶やかな青い葉が水々しく、朝の光に反射して色づいている。

 大家さんは腰に手を当てて、俺の横にいる制服姿のはじめくんを見てか、どことなく嬉しそうな様子だ。

 俺たちは、どちらともなく返事をした。

「行ってきます」

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そらのゆめ @derara12124

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