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 横向きの視界で見る部屋。

 視界が変わっても変わり映えのしない部屋。

 だらけていた手で、そばに落ちている硬い感触を拾い上げる。

 画面には11時10分と示されている。

(休みでよかった)

 出勤日にこの時間に起きたなら、社会人失格だ。

 久しぶりにこんな時間まで寝ていた。

 ベットの上、仰向けの体勢に寝転がり天井を見る。日焼けして茶色のムラが目立つ天井はお世辞にも綺麗とは言えない。眠気の残った頭でしばらく天井を見つめ、起き上がった。

「…ニュース」

 画面をスクロールし、検索エンジンで調べる。予測変換に出るようになった文字を打ち込むと該当のニュースがずらりと表示され、目を滑らせる。

 連続殺人犯が捕まったという情報はない。

 4人目の犠牲者に関する情報も、ない。

「…殺人はなかった」 

 ニュースのコメント欄は最新順で並んでいる。『殺人はなかったのか?あったのか?』『速報なんもない』『もう打ち止めか、犯人も飽きたんだろ。あとは逃げられるかどうかだな』と軽い口調で書かれている。

『まずは一つの目標を達成しました。お二人のおかげです。ありがとうございました』

 昨日、俺たちは現場から逃げて、眞田さんの車で帰った。

 宇宙人を捕まえるという意味は、正確には、最所くんにはGPSを取り付けてどこにいるか分かるようにする、ということだった。

 帰りの車中は水を打ったように静かだった。眞田さんは運転中ずっと何かを言いたそうにしていたが、俺と同様、アパートに着くまで口をつぐんでいた。

 俺はそんな眞田さんの似合わない姿が意外だとは思わなかった。

 俺と眞田さんの共通点なんてないに等しいが、清廉潔白とまで言えなくても俺は犯罪とは無縁の人生を送ってきた。眞田さんもそうなのだ。

 昔から知っている子供が大人の見守る前で犯罪をしてしまう想像なんてしていなかった。想像不足だと、監督不行届だと言ってなじることが誰にできるのだろうか。

 窓の外で鳥が飛んだ。パタパタと羽ばたいて、すぐに窓枠の外に行ってしまう。

 ありふれた光景を見て、俺が知らない間に時間は流れていると認識する。俺にこんなセンチメンタルな感情があったのだと鼻で笑いたくなった。

 

 10年。

 

 10年もあれば、人は変わってしまうんだろう。

 昔、引きこもりのドキュメンタリーを見たことがある。

 その中で、ずっと引きこもっていたら妄想が誇大化してしまうという描写があった。人間は人との関わりの中で自己を相対化できるため、自分だけの世界に閉じこもると自意識が社会から乖離するというのだ。テレビの前の俺は呑気にへー、なんて言いながら見ていたわけだが…。

 服を着替え、洗顔などの朝のルーティンをこなし終わると腹が減っているのに気づいた。仕事のない日でも朝飯は8時には食べる習慣がついているし、もう昼ごはんという時間帯だから鳴るのも仕方ない。

 俺は冷蔵庫を開けた。つい先日買い出しに行ったから食材は十分にある。俺一人分を作っても余るだろう。

 よし、と俺はシュミレーションした。

 俺はこれから、最所くんの玄関のチャイムを鳴らす。

 

「こんにちは、もうご飯食べた?」

「いえ、まだです。もうお昼なんですね」

「昼ごはんまだなら一緒に食べない?よかったら俺が何か作るよ」

「え?いいんですか?」

「うん、一人暮らしだから大変でしょ、大したものは作れないけど」

 

 …なんてことは言ってもいいんだろうか。

「……うーん」

 扉の前で立ち尽くすというのも、不審者じみている。

 家の前まで来て、俺に歯止めをかけるのは俺と最所くんの”関係性”だった。以前の俺には母親によって与えられた関わる理由があって、今の俺にはない。俺は彼にどこまで踏み込んでいいものか分からない。寝起きでよく回らない思考のままだからこそ、家を出てここに立ててるんだろう。そう、判断力のない俺が踏み出せるとしたら思考を鈍らせている今だけだ。

 よし、押すぞ、と前を向いた瞬間、内側から扉は開いた。

「うわっ!」

 寝起きの声とは思えない声がでた。

 扉が鼻スレスレで避けられたのも、寝起きということを鑑みれば奇跡的だ。できれば2度と経験したくない種類の怖さだ。もう2度目だが。

「宮藤さん、どうしたんですか?今日はお休みですか?」

 最所くんは扉を開け、黒色の服を着て立っていた。

 俺は身体的な危機に対する緊張と、心情的な緊張がない混ぜになったまま手を上げる。

「あ、うん、そうなんだよ」

「何か俺に用があったんですかね。ここで話すのもなんですから、どうぞ中に入ってください」

「あ、いや俺は」

「お茶くらい出させてください、さ、どうぞ」

「あ、じゃあ…」

 シュミレーション内容と全く違う展開になった。ここまで違うとシュミレーションをしていたという事実が恥ずかしくなってくる。

 部屋を上がり、台所の前を通る。シンクには箸の入ったカップラーメンがあった。残りを捨てるところだったんだろう、それは、もうお昼は食べていることを意味している。

(ご飯があるか聞いてから作るつもりだったんだけど、作ってこなくてよかったな…)

 微妙な空気になるところだった。

 とはいえ、別の問題が出てくる。

 訪れた口実がなくなってしまった。

 なんとなく話したくなってー、っていうのは社会人3年目の言い訳として通用するだろうか。腹を割って正直に言うなら、彼が引きこもっていることに危機感を感じ、話し相手になって安心したいがために来た。本人にそのまま伝えられるわけもない。

 リビング横の襖は閉められている。

 最所くんは鍵を閉めて、すぐに俺がここに来た用件を聞くだろう。

 

 ピンポーン。

 

 予期せぬ電子音が響いた。

 がちゃ、と音が鳴る。

 その後、「ぎゃっ!」と女の子の悲鳴。

「え、あ、開いてるじゃないっ」

「不法侵入じゃん、やば」

「ち、ちがうわよ!試しにやってみただけで、事故よ!」

 5cmほど開いた扉は一度閉まる。

 最所くんが内側から開いた。

「あれー、宮藤さん?」

 開かれた廊下には、両手を顔らへんにあげて電車で痴漢対策をしてるリーマンみたいな姿の京子ちゃんがいた。その後ろからホワホワした原くんの声に名前を呼ばれる。

「あれ?俺、住んでる場所伝えました?」

 最所くんに言われ、京子ちゃんはハッと我に帰って佇まいを直し、ふわっと髪を流した。

「はじめが教えてくれないから聞いたの、こんなとこに住んでるとは思わなかったわ。駅からタクシーを拾って、ここまで来るの大変だったんだから」

 初めて見る私服姿だ。春らしい緩やかな膝丈のワンピースが綺麗に整えられた巻き髪に似合っている。 

 そっぽむく京子ちゃんの横から、夜部くんもちらりと見える。

「なんで宮藤さんがいるんですか?」

 扉の前には私服の3人組が勢揃いだ。

 学生の彼らがここにいるということは今日はまだゴールデンウィークだったか、と間抜けにもそう思った。

 俺は学生服とはまた違う服で賑やかに見える彼らに手短に説明することにした。

「俺はこの隣に住んでるんだよ」

「こんなボロ屋にー?」

「何か特殊な事情があるんですか?」

「…駅近で条件いいんだよここ、その、あんまり大きい声で言うと他の住人が気分悪くするかもしれないからね」

 悪気がないだろう2人を宥める、昼間なので大丈夫だと信じたい。

 あの学園に通ってるお金持ちの子達にすればそりゃあ確かに古びたアパートだとは思うが、目の肥えた彼らにはどう映っているのか。

「へぇ、はじめの家ってこんな感じなんだ」

 京子ちゃんは後ろ手に回し、部屋を興味深そうに見渡している。

 玄関先に3人もいると窮屈に感じるものだ。

 帰ろうか、と考えていると原くんと目が合い、こくんと頷かれた。胸元にある手の指先だけでちょいちょいと手招きされる。

 俺は小さくうなづきを返し、最所くんに一言告げた。

「じゃあ、俺は帰ろうかな」

「え?何か用があったんじゃ」

「ううん、ただ、最所くんの顔を見たかっただけだよ」

 嘘ではなかった、どっちにしろ、3人のいる前で話はできない。

 京子ちゃんと最所くんのいる玄関を出て、原くんと夜部くんに連れられて階段に向かう。

 夜部くんはステンレス製の階段の手すりを背に預け、原くんは段差に座った。俺は、人が来た時にすぐに避けれるように立つことにした。彼らは月末に件数ノルマを達成できなかった支配人のように渋い面持ちでいる。

「宮藤さんは、あの2人って進展できると思います?」

「進展っていうか、まず発展しないとねー、今は無だよ、ビックバン前」

「ああ、…」

 薄々そうでないかな、と思っていたが、京子ちゃんからの指示か彼らの忖度か、2人の時間を作ってやってるようだ。

「どうかな、京子ちゃんは可愛いらしいと思うけど。京子ちゃんが最所くんのこと、気になるって言ってたの?」

 俺は彼らに聞こえていないことを閉じた扉を確認してから言った。

「言われてはないですけど、あんなの、見てれば分かりますよ。本人に自覚がないってんなら、それこそ子供ですよ」

 夜部くんはどこか苛立たしげにメガネを持ち上げる。

 なるほど、忖度の方らしい。

「俺は家に突撃してくる女子って嫌だと思うんだけどな、京子ちゃん聞きやしない」

「アピールしようにも当の本人が学校に来ないんだもん、こんなことしちゃうのも無理ないんじゃない?はじめはどう思ってんだろうねー。はじめ学校来ないし、ライバルは少なそうだよね」

「さぁ、あいつは恋愛に興味ないんじゃないか?そんな感じがする」

(青春だなぁ…)

 青い会話がむず痒い、これが若さか。

 言葉にはしなかったが俺は内心、夜部くんの発言に共感した。

 あの世俗から浮いたように生きている最所くんと恋愛感情が結びつかない。

 扉に向けられた、消化試合を見ているような目から察するに京子ちゃんの想いはから回っているのかもしれない。

 可愛らしい服装だと思ったが、それは彼に見てもらうために彼女なりにおしゃれをしてきた、とかなのだろうか。だとしたら可愛らしい、京子ちゃんの新たな一面を垣間見た。

「はぁ、巻き込まれてる俺らって可哀想だよな…」

 夜部くんはそう年不相応にくたびれ、原くんは俺を見上げ「そういや、宮藤さんって彼女いるのー?」と聞いてきた。

 まあ、子供相手に誤魔化す必要もないだろうと俺は答える。

「残念ながら今はいないよ」

「へぇー、もうそろそろ結婚しないと眞田さんみたいになっちゃうよー」

「…あはは、気をつけるよ」

 陰でめちゃくちゃに言われてるのかなぁ、眞田さん。舐められてるのではなく慕われていると考えるべきか。最近の高校生は遠慮がないな、と思う。

「宮藤さんは大丈夫だろ、結婚しそうじゃん。まともだし。俺、宮藤さんはもっと変わってると思ってましたよ」

「え、俺が?なんで?」

 眞田さんや最所くんならともかく、俺は容姿も性格もごく平均的だと自負している。悲しい自負だが、この年まで生きると自分が特別ではないことに折り合いもついてくると言うものだ。

 最近はそんなことを眞田さんにも言われたのだが、あれは変わってる人から見た普通人は変わってるように見えるって話だろう。

 夜部くんはいたって真面目な顔で、殊更に強調するでもなく言った。

「はじめから宮藤さんの話を聞いていたんです。宇宙人を見たことあるんですよね?」

 俺は彼らがそのことを知っていることにあまり驚かなかった。

 驚くことが多すぎて感情が麻痺しているのかもしれない。

 恥ずかしいとも、あんまり思えなかった。

「…ああうん、でも。俺が見たのは空から降ってくる光だけだよ、円盤とかは見てない」

 長い間、夢だったと思っていた。

 夢だったのか、今は自信が持てない。

「やっぱ、似てるよねー」

「本当だったらすごいぞ、教会が認める奇跡だ」

 2人は階段で身を寄せ合い、何やら話し始めた。

 何を話しているのか、聞こうとした俺の耳に、がちゃと、扉が開く音と同時に声が聞こえてくる。

「わかりました、いまから行きましょうか」

「え、いまから?!」

 最所くんは鍵を閉めて階段に向かって歩いてきた。京子ちゃんは最所くんに慌ててついてきていると言う感じで、目の前までやってくる。

「どこかいくの?」と、俺は聞いた。

「宮藤さんも一緒に行きませんか?お昼がまだでしたら」





 どこに行くのか、その答えは喫茶店だった。

 アパートから歩いて5分の駅に隣接する喫茶店。通勤時に何度も目にしていたが、入るのはこれが初めてだ。ゴールデンウィークでそこそこ人は多いが、11時という昼時には早い時間のため来店後すぐに通してもらえた。

 俺たちがいなくなった後、最所くんと京子ちゃんは玄関でとても健全な話を繰り広げていたそうだ。要約すると京子ちゃんがお昼なのでお腹がすいた、話もしたいと言い、最所くんはそれなら、と喫茶店に行くことになったらしい。

 断ることもできたが、俺は大人一人で彼らに着いて行くことにした。

「良かったのかな、俺も一緒に来ちゃって」

「もちろんですよ。せっかく宮藤さんが家に来てくれたのにあまり話ができなかったから、もっと話したいと思ってたんです。ここの料理は結構美味しいですよ」

「へえ、そうなんだ」

 テーブル席に座るとすぐさま呼び鈴を鳴らした京子ちゃんはハンバーグランチを、夜部くんと原くんはコーヒーゼリー、最所くんはコーヒーのみを頼んだ。

「ちょっと!わたしだけご飯頼んだら食い意地張ってるみたいでしょ?!」

「もう食べましたから」

「帰ってご飯あるからー」

「お腹空いてない」

 店員さんの前でぷりぷりと怒る京子ちゃんに、高校生組は慣れたふうだ。俺はそれなりの金額が並ぶメニューに目を通した。

「俺はご飯まだだからなにか食べようかな、ここって何が美味しいの?」

 2人も頼んでいるコーヒーゼリーはそんなに美味しいのかと興味が湧いたが、大人1人がランチとデザートのフルセットというのも気恥ずかしい。みんなの注文状況を見て京子ちゃんにならうことにした。「ビーフシチューが人気みたいです」との最所くんの助言に従い注文を終えると京子ちゃんは腕を組んで眉を吊り上げていた。

「ほんと、あんたたちは気が使えないわよね…」

 店内は人は多いが、客層がいいのか騒がしくはない。程よい音量のBGMが居心地の良さを演出している。

 勝手知ったるというふうに、京子ちゃんと原くんが水を持ってきてくれた。最所くんはみんなより一足早く届けられたブラックコーヒーに口をつけている。

 窓際のテーブル席に俺たちは3.2で分かれ座っている。京子ちゃんの左右には原見くんと夜部くん。俺の横には最所くん。

「でね、あいつに2回も当てられたのよ、この前!」

「どんまーい」

「あいつって誰?」

「あいつって言ったら、あのヒゲモジャのことよ!」

「喜多川だろ?」

「喜多川って、生活指導の先生かな」

「そうよ!」

「よくわかったね、はじめ先生の名前覚えてなさそーなのに」

「威圧的な先生だからちょっと覚えてるよ」

「でしょ?!態度がでかいのよねあいつ。私、出席番号の関係も日直でもなかったのになんで私ばっかり当てるのかしら」

「京子ちゃんに対して、そんなことよくやれるよねー」

「単に自意識過剰なんじゃないか?」

「巻き髪だからでしょー、普通に校則違反だもん」

「地毛よこれは!」

「え、それは嘘でしょ」

 オカルト研究部の集まりの中にいて話についていけるだろうか、という杞憂は注文を終えて5分もすればなくなった。

「はは」

 彼らは高校生らしく学校生活について雑談を始めた。たわいもない雑談中に時折混じる、最所くんの落ち着いた笑い声は高校生らしく無邪気だ。決して大きく笑っているわけでもないのに耳が拾ってしまうのは、彼の性質が普通の人に比べて澄んでいるからなんだろうか。見た目だけでなく声も綺麗というのは神の采配を疑ってしまう。

 この子達に囲まれた最所くんは普段よりも等身大に感じる。

 俺が喫茶店に着いて行こうと思ったのも、彼らがいるということは大きい。2人きりだと何を話せばいいか分からなかっただろうが彼らがいれば話題は尽きない。

 最所くんは、普通だ。

 あんなことがあった後にも関わらず。

 昨日のあれは夢だったんだろうか。

 なんて考えも浮かんでくるくらいには俺は彼と接することに少なからずの緊張をしているのに、彼には微塵も感じない。振る舞いが一変してしまっても恐ろしいが、普段通りすぎるというのもそれはそれで薄らと恐ろしい気がしてしまうものらしい。

 雑談が途切れたタイミングでそれぞれの料理が到着した。

 ビーフシチューは口に入れると肉がほぐれ、値段に見合った美味しさをしていると思うが、俺はあまり味わう気分にはなれなかった。

「みんなはどうやって知り合ったの?」

 俺は彼らに問いかけてみた。

 部外者である俺が彼らの学校生活の話ばかりの中にいるのも居心地が悪い、俺は彼らの人となりを知る必要があり、その足がかりとして質問をした。

 原くんがコーヒーゼリーを口に含み、答えてくれる。

「普通にTwitterだけどー」

「Twitterか、今時はそれが普通なのかな、Z世代というやつかな?」

「一般的かはわからないですけど、インスタやってる奴とTwitterやってる奴って別れますよね。Twitterやるやつは大体中学からやってる」

「入学前に入る高校名で調べたりとか、新入生のアカウント探すのもあるあるだよねー。誰が作ってるのか知らないけど、ハッシュタグで繋がれるようになってたり」

「へー、俺の時もそう言う風潮はあったかなぁ」

 もう記憶が曖昧だ。それこそ10年前くらいになる。

 あの頃にもSNSはあったが今よりも閉じていたと思う、ネットとリアルはパッキリと別れ、ネットに顔など晒すなど考えられなかった。二ュースや流行を見ていると、今のSNSは限りなくリアルと同化していると感じる。

「俺はハッシュタグで潜ってたら見つけたんです。サークル勧誘のアカウントに辿り着いて、面白そうだったからDMを飛ばしました」 

「みるからにやばいアカウントだから、普通のやつは送らないよねー」

「中途半端な人が入ってきても困りますからね、見ますか?」

 最所くんの言葉に頷くと、夜部くんが画面をこちらに向けてくれた。

 うっわあー。

 Twitterアカウントのヘッダー、アイコンには、何年前の黒歴史サイトだってくらい黒背景に赤字文字で『オカルト研究部』と書いてある。これで文字の間に十字架があれば一気に2000年代だ。この子達が少し変わってるのも、これを通ってきたと思えば納得できる。

「私は直接はじめからDMが来たわ、インスタでね。ぜひ入りませんか?って。やけに具体的に活動方針とか活動場所とか言ってくるから、興味を持って返信したの」と京子ちゃんが、育ちの良さを感じるナイフの持ち方で、ハンバーグを切りながら言う。

「へぇ、京子ちゃんにはオファーがあったんだね。怪しいと思って断らなかったんだ」

「別に」

 目は合わないが、俺の質問にそっけなくも答えてくれる。

「会う場所は学校だったから変なことはできないだろうと思ったし、実際会ってみたら想像と違って…ー」

 言い終わる前に京子ちゃんはほんのり顔が赤くなった。

(ああ、)と、俺は内心、彼女の変化に納得する。

 それはびっくりしたことだろう。どんな変人だと興味本位で会ってみたらこんな美青年がいたのだ。女性はギャップに弱いという。恋愛のファーストコンタクトとして、こんなに落差のあるものもない。

「京子さんはオカルト好きで有名でしたから、ぜひ一緒にやりたくてお誘いしたんです」

 最所くんは京子ちゃんの火照りに気づかないのか、平然と罪深いことを言う。

「そ、そうかしら。周りに言ってはいたけど、それまでなんの活動もしてないわよ」

「蟻巣宮財閥のお嬢様だから、噂が広まりやすいんじゃない?」と原くん。

「有名税ってやつね。まあ行動することに躊躇いもなかったわ、”求めよ、さらば与えられん”。我が家の家訓よ」

 誇らしげな京子ちゃん俺は複雑な心境でいた。

 最所くんが禍々しいモニタールームにて、監視カメラ映像を見ることができる設備を作るため工作を頑張った、と言っていたことは俺しか知らない。

 眞田さんが以前放った”サークルの資金源”という言葉が重く感じてしまう。

 目当ては金…そんな風に最所くんが考えているとは思いたくない。

 だんだんと、京子ちゃんが最所くんのパトロン支援者に見えてきた。

 そういえば、とふと思う。

 京子ちゃんがあの部屋のモニター類を用意したのなら彼女が最所くんの住所を知らないのは何故だろうか。あの大きさのモニターがあの量となれば、業者が運ぶものだろう。郵送だけ最所くんが手配をして、というのは考えづらい。

「あのさ」

『連続殺人事件についての』

 喫茶店のテレビから、キャスターがリーパーの話をし始めて,俺は声を止めてテレビを見る。

 神経質な客に注意でもされたのか、奥から店員がパタパタと歩いてきて、チャンネルを変えた。

 ペットの可愛らしい映像が流れる無害な番組に変わるテレビを、京子ちゃんは見上げる形で睨みあげる。眉を吊り上げ真剣そのもののの顔で、前に向き直った。京子ちゃんの目の前には最所くんが位置している。

「ねえ、今どうなってるの?3人目の被害者が出てから何か変化はあった?」

 隣のテーブルに座る客に聞こえそうなほど、あまりに堂々と話すものだから「あんまり、外でそう言う話は…」と止めようとして、最所くんがあっさりと首を振る。

「残念ながら、何も得られてません。犯人もスティグマも見つけるのは想像以上に難しいみたいです」

「そっかあ、簡単には行かないねー」

「まあそうだろうな」

 2人はおとなしく納得した。

 受け入れ方から、彼らの間でスティグマという呼び方は定着しているようだ。

 京子ちゃんだけは納得いっていないように口を尖らせた。

 ナイフとフォークを音を立てずにプレートの上に置いて、腕を組む姿は、明らかに不機嫌そうだ。

「すみません京子さん、俺なりにやってはいるんですけど、なかなか、そう甘くはないみたいで」

 最所くんが謝ると、京子ちゃんは肩を跳ねさせた。

「えっ、あ、ああ。それはいいのよ。すぐに見つかっても拍子抜けだし。すぐに見つかると思うほど楽観的でもないつもりよ。私が気になったのはそうじゃなくて、はじめはさ」

「はい?」

「もう話したの?…宮藤さんに」

 ぽつり、と溢された声に「はい」と最所くんは短く返した。

「…あっそ」

 京子ちゃんはナイフとフォークを掴み、また食べ始めた。

 なんだか、甘酸っぱい何かを見た気がした。

 俺はなんとも反応ができずに食べ終わったビーフシチューの代わりに水を飲む。

 コーヒーゼリーの入っていた器をカラにした原くんが間延びした口調で話し始める。

「見つけるまでにどんくらいかかるのかなー、卒業までには見つかるよね?」

「この事件がそんなに続くとは思えないな。警察が犯人を捕まえるまでに見つからない確率の方が高い。普通に考えて、ただの学生である俺らが頑張って見つけられるんならもうとっくに警察が見つけてる。そうだろ?」

「あのね、集まってこれからもやってこうって言ってるのに気を削ぐこと言う?」

「俺は現実的なことを言ってるだけだ」

「はやく見たいねえ、宇宙人。俺、宇宙人に会えたら聞きたいこといっぱいあるんだ、まず、何で地球に来たのかでしょ?今までも来たことあるのか、と、他の国にもいるのかは優先で聞いときたいなー」

「宇宙人って日本語が通じるの?」

「えー、だってはじめの話だと宇宙人は人間に擬態してるんでしょ?通じなきゃおかしいじゃん。ねえ、みんなの質問ないなら俺が一番最初に聞く人でいい?」

「そうですね。特に決めてないので、いいんじゃないでしょうか」

「やったー」

 子供らしい会話が繰り広げられている。

「みんなは最所くんの話を信じてるんだね」

 他意はないつもりの言葉だったが、京子ちゃんの目が途端に鋭くなった。

「信じたわよ。信じられた、じゃなくて、信じられるものをはじめは持ってるって言った方がいいわね。私たちはただの学生じゃないわ。はじめがいるから、はじめの力があるから大人を出し抜けるのよ。はじめは特別だもの」

 言葉の端々に無視のできない棘がある。

「はじめくんの、力…」

 京子ちゃんは例の超能力のことを言っているのだろうと分かるが、やはり大人である俺には、肌が痒くなるような気恥ずかしさがある。それに、彼らに対して、最所くんが俺と同じ情報量を与えているのか分からない。俺は探りを入れるように言葉を濁した。

「それって、なんのことを言ってるのかな」

 我慢ならない、と言ったように。京子ちゃんはハンバーグを平らげると、ナイフとフォークをまた置いて机の下に手を隠した。

「はじめ!出し惜しみなんかしないで見せてやればいいじゃないの!」

 テーブルの上に掲げた小さな手にはトランプの箱が握られている。

 京子ちゃんの突然の行動に、オカルト研究部の面々もすぐには反応できていなかったが、最所くんは「では、借りますね」トランプを受け取った。

「兄さんには見せたことがあるんですが宮藤さんにお見せしたことはなかったですね。食べ終わった食器を下げてもらえればやりやすいので、店員さんを呼んでもいいですか?」

 はじめくんは呼びつけた店員さんに開いた食器を下げさせると、トランプの中身を取り出した。シャッシャとトランプを切る。テレビでよく見るマジシャンのような鮮やかさで、広くなった机にトランプの弧を描く。全てのカードが裏返しのまま、最所くんは手のひらでそれを示した。

「宮藤さん。一枚、裏にして持ってください」

 セリフすらもマジシャンかのように言った。

 というより、これは見た目、マジックそのものだ。

 俺は特に悩まずに中間の一枚をペラリとめくり、相手から裏にして持つ。

「ハートの10、違いますか?」

「……すごい」

 俺は、トランプの表を上に机に置いた。

 間違いなくハートの10がそこにある。

「これがアブダクションの証拠よ」

「アブダクションって、宇宙人の人体実験、か」

 1960年代以降にアメリカで「宇宙人に連れ去られた」と主張する人が増えた。それぞれがUFOの内部で宇宙人に何をされたかは多種多様だ。体をいじられた、体内に何かを埋め込まれた、性交をさせられたと言う人もいる。

「それくらいは知ってるのね。見ての通りよ。はじめには間違いなく超能力があるわ。能力が本物である以上、はじめの言葉には説得力がある。はじめの言う宇宙人に連れ去られたっていう話を信じる根拠になるわよね。これでも信じられないって言うなら、もう一つあるわ。私たちにとってはそっちの方がよほど驚かされたんだから!」

「それ、言ってもいいのー?」

 原くんは穏やかに口を挟む。

 夜部くんは静観をしている。

 京子ちゃんは俺を疑っている。

 それは実は無駄な突っ張りだ、と俺は思った。俺は今に至って彼らを否定したいわけじゃない。否定することができない、といった方が正しい。

 俺はトランプを捲る前から、最所くんにカードを当てられるだろうと予測がついていた。マジックの小細工でも説明出来るレベルの芸当であっても、最所くんには俺たちにはない不思議な能力があると俺は受け入れてしまっている。

 それくらい、ここ数日間の間に起きたあれこれは俺の根幹を揺さぶっている。俺はもう、大抵のことは受け入れてしまえるんだろう。

 だが、京子ちゃんの論理には飛躍がある。最所くんが特別だからと言って宇宙人が実在することはイコールにはならない。

 京子ちゃんは腕を組んで俺を見据える。

 京子ちゃんだけじゃない。夜部くんも原くんも、俺は3人に、この場所に首を突っ込んできてもいい人間かどうか測られている。

「…まず、言っておきたいことがあるんだけどさ。誤解させたなら申し訳ないけど、俺は最所くんの話を疑ってるわけじゃないよ。外野の俺がここまでのこのこ着いてきて、君たちを否定しようと思うほど性格が悪くはないつもりだよ」

「…」

 俺の弁明に、京子ちゃんは品定めをするようにじ、と見つめ。

「なになに、マジックやってんの?」

 陽気な声が横入りをしてきた。

 馴れ馴れしいセリフを吐いた男は金髪でダボっとした服装をした、いかにも軽薄そうな男だった。連れ歩くように左右には露出度の高い女性がいて、男の腕に腕を絡ませている。

「どんなの?俺,こういうのタネ分かっちゃうんだよねぇ」

「えー、うそぉ」

「絡むのやめなよ。早く行こう?」

「タネも仕掛けもありませんよ。俺にはトランプの裏が透けて見えるんです、千里眼のようなものですね」

 最所くんはサラッと返答した。

 左右の女性が彼を見て、興味をぐんと増したように見えた。

「へぇー、結構設定作ってんじゃ「え、ね!やって見せてよー」「見たい見たい!」

 派手な見た目の女性が2人してグイと寄ってきた。後ろに追いやられた男は「えぇー」と情けない声を出すが、男も真ん中から女性達の横に移動してテーブルを見る。

 最所くんはちら、と俺を見た。

「いいですよ」

 ハートの10を裏返してかき集めたトランプをシャッフルする。

 綺麗な弧を作り直して、人差し指です、す、と弧から5枚抜き出した。

 5枚を裏返して捲る。

 10・J・Q・K・A 

 ロイヤルストレートフラッシュ。

 驚くことに、全てのマークが揃っている。

「えー?ばらばらじゃーん」

「ばか、すっげぇってこれ。な、動画撮ってもいい?ワンチャンバズるぜこれ。もう一回最初から、シャッフルしてさ!」

「待っててか、君かっこいいよね。その制服ってどこの高校だっけ?!」

 彼らのテンションが増幅していく。シンプルに声が大きいために周りからの目が集まって来る。男がいそいそとスマホを構え、女性たちはトランプではなく最所くんに身を寄せたところで、ばん!、と京子ちゃんが机を叩いて立ち上がった。

「きゃっ」

 女性が小さな悲鳴をあげて体を離す。

「…行きましょう」

 眉を吊り上げてそう言う京子ちゃんに俺は「すみません、もう出るので開けてもらえますか」と続いた。

 トランプを集めるのを手伝って、最所くんが箱にしまうと俺たちは席を立った。金髪男とギャルは露骨につまらなそうな顔をして去っていく。

 正午に差し掛かろうかという時間帯では店前で順番を待つ客が多くなっていた。迷惑な茶化しを入れられなくても、俺たちは席を立つ頃合いだった。

 会計に立ち、財布を出そうとする彼らに「俺が払うよ」と言うと最所くんは首を振った。

「俺が誘ったのに、悪いです」

「これくらいはさせて、こっちは社会人なんだから」

 うちは薄給だけど金を使う機会がないので貯金はある。ズボンから財布を取り出して今にもお金を出しそうな彼を手で制す。

「でも…、」

 最所くんはなおも申し訳なさそうに渋った。

「無理されなくても大丈夫ですよ?4人分となると負担ですよね」

 …もしかして、守銭奴だと思われてる?

「いやいや」

 いやいや流石に、最所くん。

 ここで奢らないほど小さくないからね、千円の件で勘違いされてない?年下にお昼ご飯も奢れない大人だって思われてたら嫌すぎるよ?

 大丈夫だ。最近引き落としたし1000円札を財布に入れて、買い出しには行ったけどそこまで使ってないはず。いざとなれば大人にはクレジットカードっていう魔法のカードがあるんだ。

 俺は財布を広げレジに金を出した。

 4852円。

(…コーヒーゼリー頼まなくてよかった…)

 財布の中に5000円だけが入っていた。

 お金持ちの高校生の通っていた喫茶店だ、それなりの痛手を負って喫茶店を後にする。

 

 



 店を出れば散会か、と考えていれば京子ちゃんの気が収まらなかった。

「はじめ、ああやって安売りするもんじゃないわよ!」

 最所くんは一瞬パチクリと目を瞬かせると「すみませんでした」と困った顔で謝った。

「京子ちゃんってこう言う人だから、気にしない方がいいよー」

 原くんが最所くんを慰め、夜部くんは彼らの後ろに腕を組んで立っている。

 俺たちは駅に備え付きのベンチに腰を下ろしていた。京子ちゃんが「あの人達のせいで話し足りない!」と言ったからだ。別の店に行くには腹が満たされているため、駅前のベンチに座ることとなった。

 プリプリと虫のいどころが悪い京子ちゃんには、主に原くんが緩衝材のように受け流している。

「でもさあ、あの人たちが言うみたいにあれ、動画にすればすごい再生されそうだよね。はじめ,顔いいから。すごい拡散されて色んな人が見れば、みんなも宇宙人のこととかアブダクションとか、納得するんじゃないの?」

「なっ、だめよそんなの!なに考えてんの?!」

「えー、出し惜しみするなって京子ちゃんが言ってたんじゃん」

「それは。と、とにかく、そんなのだめ。やり方が美しくないわ!」

「なにそれー、また家訓?」

「違うわよ、美学よ」

「美学」

「原にはなさそうね」

 夜部くんは帰りたそうに駅に吸い込まれて行く人混みを見ている。俺も彼と同じ気持ちだった。

「美学じゃお腹は膨れないからねー」

「そういうところよ、あんた」

「あ、ねぇ宮藤さんってどんな仕事してるのー?」

 原くんがベンチの横、ちょうど夜部くんの対になる位置に立つ俺に聞いてきた。

 京子ちゃんはあからさまに顔を俺から逸らす。

 彼女の俺への心象は会うたびに最低ラインを更新している気がする。もうこれから回復することも期待できるかどうか。俺が彼らと居続けるのは京子ちゃんにとって好ましくないだろう。

「葬儀社だよ。眞田さんも同じ。といっても、葬儀じゃなくて礼品とか仏壇とか、葬儀後の営業をする部署なんだけど」

「俺、聞きたかったんだけどさ。葬儀会社ってやっぱ幽霊出るのー?」

 眞田さんといい、オカルト好きの鉄板話題らしい。

「宮藤さんはそういう体質なんでしょ?心霊体験の一つや二つありそうだよねー」

 追い打ちをかけられる。

「えーーと…そうだなあ。ちょっと待って…」

 最所くんはどの程度まで話をしているのか知らないが、黒歴史を掘り返される心構えくらいはしておいたほうがよさそうだ。

 安良さんと話した時に仕入れておけばよかったか。

 最所くんを見ると、お手本のようにニコリと微笑みを返された。

「宮藤さんがいるので、その話もしたいんですがいいでしょうか?」

「…その話ってなによ?」

 京子ちゃんがぶっきらぼうに返す。

「宮藤さんは、ファティマの予言ってご存知ですか?」

「あ、…うん、名前は知ってるよ。西洋で起きた奇跡のことだよね」

 恥ずかしながら、オカルトに興味があった時期にわりと早めの段階で知った事柄だ。日本でもかなり有名ではないかと思う。そのものは知らなくてもアニメやゲーム、小説で題材にされているから、名前だけは知っている、という人は多そうだ。

「随分昔にネットで調べたきりだから、よく覚えてはないけど」

「ファティマの予言については夜部君の方が詳しいかな」

 最所くんは後ろを向いた。夜部くんはくい、とメガネをあげた。

「ファティマの予言というのは、1917年、ポルトガルのファティマという村で起こった聖母マリアの出現とその予言に関する現象のことです。子供達の前にマリア様が現れて予言を授けそれが当たったこと、も有名ですが、ファティマと言えば太陽が踊る奇跡の方が有名ですかね。大観衆の目撃者は7万人を超え、協会公認の奇跡の一つになっています」

 原くんが腕を伸ばして、説明し終わった夜部くんの脇腹あたりを「えーい」とこづく。

「なんだよ」と、夜部くんは気恥ずかしそうにする。

「ああ、そんな感じの話だったね…、懐かしいな」

 こう言う話をしていると、いかにもオカ研っぽい。

 最所くんは「ありがとう」と夜部くんに言った。

「オカルトはどんな話にも懐疑的な意見がつきものですが、この話も例に漏れません。こんなに多くの人が見ているならもっと情報が出てきてもいいはずなんですが踊る太陽を捉えた実際の写真は一枚だけ。映像はなく、気象データにもそれらしいデータはない。懐疑的な方々により考えられている主な説は集団ヒステリーです。写真はフェイクで、人々が見た踊る太陽は幻覚だということですね。幻覚であるから写真には映らず、気象データにも残らない。現実的です」

「いや、甲府事件ではカメラでUFOを取ろうとすると何か別の力が作用したようにシャッターを切ることができなかった、という証言がある。現実的に説明できないからこそ奇跡なんだろ。7万人もの人間が奇跡を目撃したという証言自体は本物なんだ。それだけで充分、それすら疑うって言うなら話にもならない」

「そうだね。なかなか7万人もの目撃は捏造できないと思う。フェイクの多い写真っていう媒体を根拠として信じることができなくても、証言のみで大抵は二つの立場に別れる。証言を信じても、幻覚ではなく大気光学現象という説もあるみたいだ。幻日により太陽が踊ったように人の目に映った、当時の人にはそんな現象を知らないから勘違いしたって。それにしても、指定されたその日にたまたまそんな現象が起こった、ということは奇跡的だけど」

「疑いようがない、自明だ」

(これ、…口喧嘩なのか、議論なのか)

 最所くんと夜部くんの言い合いは内容も濃いが熱量もある。迂闊に口出しできない雰囲気の中、京子ちゃんが「また始まった」と呟いた。

「いろんな説があるんだねー」と原くん。

「わざわざ否定しなくたって、信じた方が面白いのにー」

「言わせたい奴には言わせておけばいいのよ。頭で理解できる物事しか受け止められない不躾な連中なんでしょ」

「科学が進歩すればするほど過去の神秘を暴こうとする人は出てくるよ。ねえ、宮藤さん」

「っえ?」

「宮藤さんの体験に似ていると思いませんか?」

 完全に蚊帳の外だと考えていた俺の前に「ちょっと待って」と声を出したのは京子ちゃんだった。

「10年前の光の話よね?あれ、本当なの?…いまいち信じられないんだけど。はじめの話よりも、宮藤さんの話こそ信じられる根拠が薄いじゃない」

 隣で、原くんがバツが悪そうな顔をする。

「うわ京子ちゃん、本人前によく言えるねー」

「だって」

 京子ちゃんは俺を見上げた。眉が吊り上がって、意志の強い目がいつもよりも揺れている。

 面と向かって疑われることは、俺の話を信じられないことには耐性がある。

 こうやって、真実かどうか真剣に議論される土俵に立たされることの方がおかしい。有名なファティマの奇跡と並列処理をされるようなものではない。

「ううん。京子ちゃんの意見は、俺もそう思うよ。俺も、あの時の記憶を夢だと思ってる。あんなのは夢だと考えた方が理屈が通るから」

 俺は最所くんの問いに遠回しの否定をしたつもりで、京子ちゃんに言葉を返す。

「似ているかと聞かれれば似ているかもしれないけどね、俺もあの頃にはその話を知っていたから、それで夢に出てきたのかもしれない」

 京子ちゃんは機嫌を治すどころか、ますます眉間に皺が寄っていく。

 難しい、と思う。この時期の子供は大人というほど悟り切ってもおらず、子供というほど単純でもない。

「でももちろん、俺がそう思ってるからと言って君たちの信じているものを否定したいわけじゃないよ。そこは、勘違いしないでほしいと思ってる」

「いいえ宮藤さん、わたしも、勘違いをされているのなら気分が良くないから言うわ」

 京子ちゃんは両手を膝に置いた。

 スカートを握った拳が布に皺を作っている。

「わたしは、オカルトを信じない大人が嫌い。でもそれ以上に嫌いなのはね、理解してるって寄り添ってるフリをしてくる人よ。味方みたいなフリをして、内心では私たちを軽く見て、あしらってくる人。聞き分けがいいフリをしてその場を乗り切ることしか考えていない大人が私は嫌い。あなたがそのままそんな人だと言い切るつもりはないけれど、」

「京子さん」

 最所くんが、嗜めるように名前を呼ぶ。

「話が脱線しています。今はこっちの話をさせてもらってもいいでしょうか。京子さんの信じる信じないは一旦置いておいてもらって、ファティマの奇跡にしたって、100年後に生まれた俺たちには伝聞でしかないでしょう。宮藤さんの話を信じられないのならファティマもそうですよ。京子さんは神秘を暴こうとする不躾な人側ではないんでしょう?」

「それは、その。…そうだけど」

 京子ちゃんは最所くんの非難に似た言葉に小さくなってしまう。

 最所くんの言葉の響きにはかすかな糾弾が感じられ、俺は少なからず驚いていた。

 強い言葉で誰かを非難することは穏やかな彼のイメージとは離れている。

「そうね、ちょっと、話の流れも考えずに言い過ぎたわ。…ごめんなさい」

 頭を下げてくる京子ちゃんに、俺は居た堪れなくなった。

「いや、そんな。気にしないで」

「話を戻しますね。俺はファティマの奇跡に違う解釈も可能だと思っています。この話に出てくる踊る太陽を、UFOだとする解釈です」

「は?」

 夜部くんが信じられないものを見たというくらいに目を開く。

「高度に発達した技術は魔法と見分けがつかない、と言いますが、同じように。宇宙人が高度に発達した文明を持って奇跡の再現を可能であるとします。宇宙人というのは、そういう説明をするなら神といいかえたっていい」

「…、」

 夜部くんは眉を顰めて話を聞いている。

 位置関係的に背を向けている彼らには見えていないだろうが、俺には彼の顔がはっきり見えた。俺は最所くんの言っている言葉に夜部くんほどの驚きを感じられず、ひとまず反応をせずに続きを聞く。

「これはそう悪くない仮説なんです。七万人もの目撃証言、その中には地元の新聞社や警察も含まれていたと言う話なんですが、それほどの数の証言が捏造されたと考えるのは苦しい。7万人全員が集団ヒステリーや、気象現象の見間違いをしたと考えるのも現実的ではないでしょう?踊る太陽はその踊り方の証言まで残ってるんです。踊る太陽は実際に起きたと考える方が自然ですし、神よりもUFOがやってきたと考える方が現実的なんです。宇宙人の存在は、私たち地球人類の存在が証明してしまっているようなものですから」

「えっと。それが、つまりどうなるの?」

 京子ちゃんは前のめりになり、最所くんの声に聞き入っている。

 原くんは薄い目を緩く瞬かせて、カピバラのような仕草は可愛らしい。

 他の3人はそれぞれ個別の反応を見せた。

 地動説をはじめて提唱したコペルニクスのようだ。

 俺としては、衝撃はなかった。

 同じじゃないかと思ったからだ。

 真田さんのオカルトならなんでもいいと言う考えではないが、大した違いもないように思える。神と宇宙人をおなじくオカルトの括りにするなんて、信仰心を持っている人からすれば滅多な考えなんだろうが、あいにく俺にはたいした宗教観も持っていない。

 誰かが信じて、誰かは否定している。そういうものとしては変わらない。

「ではなぜ、宇宙人はその存在を神秘に包まれたままなのか、という話です。理由は複雑なようで簡単ですね。宇宙人が公の場に姿を現さないから。そしてそれは逆説的には、姿を現さないのだから宇宙人は存在しない、もしくは地球に訪れることができるほどの高度な文明を持った生命体が地球の周りに存在しない。ということになってしまいます」

「え、そうなの?なら、宇宙人じゃなかった、ってことになるんじゃないの?」

「ですが、俺たちはこの町で白い魂が発生していることを知っていますよね。白い魂という神秘と、宇宙人が現れていないことの矛盾を解消する説はあります」

「…一度来たけど、分かりやすい”宇宙人”はもういないってことか」

 夜部くんが言葉を発した。

 3人は後ろを向く。

「どう言うこと?なにー?」

「はじめが言っているのはフェルミのパラドックスのことだな。宇宙人が現れないことに対する解釈の問題だ」

 最所くんはこくん、とうなづいた。原くんはまたメガネのブリッジを指で押さえた。心なしか苛立ったような顔つきで、カフェでの会話よりも荒っぽく聞こえた。

「色々な定説はすでに出ているけど、白い魂が宇宙人であると仮定すれば解釈の幅は狭まる。宇宙人が過去に地球に来て白い魂を人間に植え付けたが、技術的な問題で最近は到達できていない。もしくは、宇宙人来訪の目的はすでに人間になり変わるという形で果たされ人間と接触を持たないと言う意思のもと動いているという動物園仮説、くらいだろう」

「うん、それらの解釈は、宇宙人がどういう目的で地球に来たかによって変わるんだと思う。俺が思うに、ファティマの奇跡が宇宙人だとしても、この町にいる宇宙人とは目的も種族も違う。ファティマの後に白い魂が見られたなんて記述は見当たらないし、この町限定の話だからね」

 俺は2人の話についていけているのか、自信がなかった。

「俺は一つの立場に立って主張したいと思ってる。目撃情報がこの街にしかないのは、この町にしかその宇宙人は降りてきてないから。今まで話題にならなかったのもおそらくは最近。宮藤さんの見た10年前の光、その日にこの町にいる宇宙人は地球に降りてきて人間に成り変わった。俺はそう考えています」

 話が終わると周りの喧騒が遅れて耳に入ってきた。

 駅前の人混みは多く声も多い。ボリューム調節なんてできるわけもないのに、そう感じるほどに、俺は彼の台詞に聞き入っていた。

「そ、そう。なんだ」

 自分に言われているのだと、口を開いたがまともな言葉は返せなかった。俺の頭は彼の言葉を吟味していなかったからだ。急に情報を詰め込まれたようなもので、俺は軽く混乱をしていた。その代わりに、彼が教祖になればその宗教は成功するのでないか、と、馬鹿げた想像が頭をよぎっていた。

「そんなこと、考えたこともなかった」

 京子ちゃんがわずかに上気した顔を上げる。

「…考える価値があるわ。ちゃんと考察、えっと検討したいわ!ここじゃ人が多いからそうね、今から学校にでも行って」「俺は帰るよ」

 目を伏せた夜部くんがベンチの前を横切った。通りがかりに原くんを低く、平坦な声で呼ぶ。

「原も家にご飯あるんだろ」

 まるで、言いたいことはたくさんあるのに飲み込んでいるような顔で、夜部くんはそっけなく去っていった。

「あ、まってー、宮藤さーん、奢ってくれてありがとー」

 ぶんぶんと手を振って小さくなっていく原くんに俺は手を振り返す。

 残された京子ちゃんはポカン、と駅の入り口に向かう彼らを見る。

「急に機嫌悪くなって、なによ」

「俺たちも解散しましょうか」

「えっ」

「3人で検討会というのもつまらないでしょう」

 京子ちゃんの顔にはまだ時間あるのに、と書いている。監視カメラの提供をおそらく無償で受けているのならもう少し付き合っても良さそうなものだが、それでも、京子ちゃんはしつこく食い下がることはなかった。ベンチから立ちあがり、同じく立ち上がった最所くんに向き合う。

「ねえ、はじめ」

「はい?」

「私たち、うざい?」

 伺うような声に、最所くんは優しげに微笑んだ。

「そんなこと、来てくれて嬉しかったです。あまり遅くなるとリーパーがうろついてる危険性があるから、早めに解散した方がいいとは思っていたんですよ」

「…そうなの?」

「はい。京子さんにもし何かあったら責任取れませんから」

「そ、そう?……確かにそう、かもね」

「俺も近々学校には行きますよ。俺だってテストには出ないといけないって言うのは知ってるんです、もうすぐありますよね?」

「次の定期テストは定例会の日と同じよ」

「あれ?そうでしたっけ、偶然ですね」

 最所くんは適当なところが眞田さんと似ているかもしれない。長い時間を共に過ごしているなら影響を受けていそうだ。

 京子ちゃんは未練がありそうな顔のままだったが「じゃあ、私も帰るわ。はじめ、ちゃんと学校来なさいよね」と解散を受け入れた。

 去り際の京子ちゃんに俺は努めて笑顔で手を振った。

「帰り道には気をつけてね」

「…ええ。宮藤さんも、バイバイ」

 手振りはなかったが口でそう言ってくれた。

「待ちなさいよー!」

 2人を追いかける形で駅に向かっていく後ろ姿を見ながら、俺はだんだんと冷静になって行く自分を自覚していた。




 

「今日はご馳走になっちゃって、すみません」

「いいよ、年上が奢るのは当たり前だし。それに、そう言う時はすみませんより、ありがとうって言われるほうが俺も嬉しいかな」

 先輩風を吹かせた風になったが、嫌な顔はされなかった。

「ありがとうございます。宮藤さん」

「俺のほうこそ誘ってくれてありがとう。3人と、ちょっとだけ仲良くなれた気がしたよ」

 発する1文字1文字を意識的に紡ぐ。

 俺は最所くんに普通に返せている、と思う。

 この後にどこかに寄る用事もない俺と最所くんは同じアパートに向かっていた。

 犯行を警戒してのことか、駅前の警察官は連日よりも多かった。ゴールデンウィークの人の波は多く、大勢の声が重なり合っている。

『こどもの日』と右から左に流れる駅の電子モニターが目に入る。今日び住宅街でも鯉のぼりは見かけない。小さな子供が近くにいない独身男性にほぼほぼ関係のない祝日だが、今日は5月5日。明日でゴールデンウィークは終わりなのだ。

「話せてよかった。いい印象持たれてないみたいだったからさ。俺、感じが悪かったから。京子ちゃんは…、嫌われちゃったかもしれないけど」

「いえ、それは違いますよ。宮藤さんに対してじゃなくて大人が嫌いだからなんだと思います。経験則から大人というカテゴリに当てはまる宮藤さんに敵対心を持ってしまうというだけで、それは宮藤さんの責任ではありません」

「そうかな」

「京子さんと夜部くんは接して分かったと思いますが、原くんも大人のことはつまんないって言ってました。大人の大多数はオカルトを非科学的だって馬鹿にしています。大なり小なり、3人ともそう言う経験があるんでしょう」

 耳の痛い話だ。

「そっか、…最所くんもそうなのかな」

「俺は」

 おそらく再会して初めて、最所くんは言葉を詰まらせた。

 答えを探すように目を動かす。逡巡して、涼やかな声を出した。

「子供を踏み躙る大人は嫌いかも知れません。子供の言っていることが真実であることもあるじゃないですか」

 俺が質問をしたのに、なんとも返せず数秒黙ってしまった。

「そんなこともあるのかな」

 我ながら情けない返答だ。

「…あ、そういえばさ、なんで京子ちゃんは最所くんの住所を知らないの?モニターを用意したのが京子ちゃんなら、知らないのは変だと思うんだけど」

 俺は質問する。大して聞きたい話題ではなかった。ただ、話をずらしたかった。

「ああ、隠してたつもりはなかったんですけどね。一緒に電化店に行ったんですが、郵送先を書いている時にはすごくテンション上がってましたから、覚えてなかったんじゃないでしょうか」

「ああ、なんか、想像できるな」

「俺からも進んで言いませんでしたし。やっぱり、危険ですからね。やる気もある人たちなので遠ざけたい気持ちはありました」

「そっか」

 関わらせたくない、という考えは理解できる。最所くんはこのまま隠し通す気なんだろう。その気にさせてから隠すというのは不誠実である気がしたが、俺が彼に不誠実であると責めることはできない。してはいけない気がしている。

「京子ちゃんたち、最所くんを心配してたね」

「想像以上に俺のことを考えてくれてたみたいですね」

「休みが明けたら学校に行ったほうがいいよ」

 言おうか迷っていたことを、この機会に言うことにした。

 駅からアパートまで徒歩で10分ほどの猶予がある。俺が最所くんと話せる時間は実のところ少ない。お隣さんというだけで、話せるタイミングは朝のゴミ出しの数分くらいのものだ。それだってたまたま時間が合えばだから、コミュニケーションを十分しているとは言えなかった。

 思えば、最所くんと再会してまだ1週間も経っていない。目まぐるしく過ぎ去って行く凝縮された時間に、俺はついていけていない。

「あんなにいい友達がいるんだ。いかない理由はないと思うよ」

「もともと一段落ついたら戻るつもりだったんですが、楽には行きませんね」

 最所くんはにこ、と笑う。

 俺はうまく笑えなかった。昨日あんなことがなければ、俺は流されるように笑っていただろう。

「…そう」

 京子ちゃんにはますます嫌われてしまったが、彼らについて行った収穫はあった、と俺は考えていた。彼らと接している時の最所くんを見ていると、なんとなくでも感覚的にでも分かってくることがある。

 最所くんがこうやって美しく微笑むと周囲はヒラリとはぐらかされているのだ。魅了されるように、魅入られるように。言っていることは無茶苦茶でも、最所くんの話には人の耳を傾かせる魅力がある。その感覚は俺にも身に覚えがあった。

「最所くんはすごいね」

「なにがですか?」

「俺は圧倒されることばっかりだよ。なんだか信じられなくて、非現実的なことだから、なんか,頭がふわふわしてきてさ」

「現実ですよ。もう少しで手が届く、直感があります」

 他の人が言うなら与太話でも彼の直感はバカにできない、真実味がある。

「GPSは、止まらなかったんだよね」と、確認する。

「はい、朝になれば出勤していましたね」

「殺人は起こらなかったんだ」と、念押しする。

「そうですね」

 淡々と会話を回して行く。俺の頭は意識せずとも殺人について考えている。

 なぜ昨日、連続殺人は起こらなかったのか。

 3日ごとに行われていた殺人が止まった理由、彼が襲撃してから止まったという符号。

 殺人犯が襲おうとしていた相手が別の誰かからターゲットを先に襲撃されてしまったら、そうなるのだろうか。俺には分からない。この町で一体何が起きているかなんて一介の会社員である俺に分かるはずがない。

 踏み込んで言葉を放った。

「あんなことを続けるのは、俺はいいことだと思わないよ」

 隣を歩く最所くんを見ずに言う。

 なんとなく、目を見て言うことは躊躇われた。

「昨日の行動は犯罪だ。立派な傷害罪だ。それは分かってるよね?」

「相手は宇宙人ですよ?」

 涼やかな声が横から聞こえる。

「宇宙人を懲らしめたなら、それは犯罪ではないでしょう?」

 冗談を言っているのだと思った俺は「いやいや」と空気を変えるように言おうとして、最所くんは続けて言った。

「例えば宇宙人が地球に襲来するパニック映画は五万とありますよね。地球人がどう見ても人間にしか見えない宇宙人をバットで殴ったとして、傷害罪です、と手錠を構える空気読めない警察は登場しませんよ」

 その台詞はもしかしたら彼にも冗談のつもりだったのかもしれない。

 俺には冗談に聞こえなかった。

 顔がこわばった。

「いや、…でも、最所くんはあの人に何もされていないじゃないか。それは、その正当防衛はこっちが襲われた時の話だよね」

「では、先制的自衛権と言ってもいいですね」

 最所くんはぎこちなく返答する俺に、歌うようにそう言う。

「侵略をしようとしている敵を野放しにすれば将来的な危機に繋がります。攻撃は最大の防御と言いますが、先制的自衛権は国家間で使われる用語ですけど、地球と宇宙間でも似たようなものですよね」

「…………」

 驚いて、言葉を失ってしまう。

 ここまでだったのか、と、再確認する。

 最所くんは俺とは違う価値観のもとで行動している。一般的な常識などいとも簡単に踏み越えてしまうと思わせる、狂気を感じた。

「……」

「もし、宮藤さんが思うところがあるなら通報してくれて構いません。宮藤さんがそうしたいなら、俺は納得できます」

「……いや、通報する気はないよ」

 俺はかろうじて答えた。

 俺がしなければいけない人道的な道義的なことは、今日、高校生と飲食店に行くことじゃない。警察に通報することだった。でも,俺はその道を選ばなかった。

 最所くんの犯した犯罪行為を警察に突き出す気はなかった。

 なぜかと聞かれたら、第一には保身だ。

 俺は彼の共犯者だ。

 人が来ないように見張り、彼がしたことを知っていて黙っている。

 社会人である俺たちは未成年よりも犯罪行為は致命傷になる。

 殺人が起きなかっただけで襲撃された被害者を宇宙人だと確定することはできない。彼が人間である可能性はあり、俺はなんなら高いと思っている。だって、あの中年男性は普通の人間にしか見えなかった。俺には最所くんのような超能力はない。

 確定する方法は一つしかない。あの人が第四の被害者になることだ。

(これじゃあ、新しい犠牲者が出ることを望んでるみたいだ)

 人間として正しくない考えであることは分かっている。でも、どうしろって言うんだ。

 最所くんはどう言うつもりで、俺をあの場面に呼んだのだろう。

 まさか本当に分からないわけない。

 襲撃が犯罪であることもそうだし、猫を保健所に連れていけばどうなるのか、彼が知らないとは思えない。

 最所くんは、どこかおかしい。

 変わってしまった。

 得体が知れない。

 しかし糾弾ができないほどに俺は、揺れている。現実的な考えと空想の間で。だからこそ、彼の揺るぎなさはしっかりとした考えを持てない俺を揺さぶる。

 揺るぎない人間というのは、その根幹に何かがあるのではないかと人に思わせる。

 自信がない男より、自信のある男の方がモテるのも納得できる。きっと、自分の揺らぎに不安を抱えて生きる人間にとって、そういう人と過ごしている方が安心するんだろう。それは根拠のないものほどいい。明確な根拠があれば、それがなくなった時に崩れ去るのではないかという不安定さを含んでしまう。

 俺が最所くんに不安を抱いているのは、彼の揺るぎなさに心当たりがあるからだ。空想を支えている根幹があるのだと、俺ははじめから知っていた。

 俺は空を見た。空は灰色の雲に覆われている。雨が降るのかもしれない。早く家に帰り着きたい。

「あの日の光はどこの記録にも載ってなかったんだ」

 これは幼い日の彼には言っていないことだった。

「あの日、光を見たのは俺だけだった。俺の見た光が現実だったなら、記録や映像、気象データ、何かしらのデータとして残って、俺だって、あれは宇宙人が襲来してきた光だって信じられたかもしれない。信じ続けることができたかもしれない」

 多感な子供の心に危うく傷をつけてしまわないように慎重に言葉を選ぶ。

「最所くんが俺のした話を信じてくれてたのは本当に嬉しいんだ。でも…いまじゃ俺も自分の記憶を疑ってるくらいで」

「あなたは間違ってません」

 横を向くと最所くんはまっすぐ俺を見ていた。

 たじろぐほどに真摯な目だ。

「俺はずっとそう考えています。いままで」

(なんでそこまで)

 すれ違う人たちの目が彼を追っている。人混みの中にいて、最所くんの美しさは異質だ。

 有無を言わせぬ存在感が言葉の説得力を補強しているのだと、働かない頭で思った。

「世界中の誰に否定されても、俺が証明してみせます」





 アパートに戻ると、俺はすぐに風呂に入った。

 頭を支配するモヤモヤがサッパリするかと思ってのことだったが、風呂から上がっても気分は良くはならなかった。空がまだ明るいのに風呂上がりで、テーブルの前にあぐらをかき、タオルで雑に髪の水分を飛ばす。

 俺は髪を乾かしながらテーブルの上のハンカチを見ていた。

 本棚の上に置いていたハンカチをテーブルに移動させたのだ。

 今日こそは、なんて思ってみたが、無駄だった。

「…やっぱり思い出せない」

 そう結論づけて、次第に申し訳ない気持ちが襲ってくる。

 このままでいいんだろうかと、情けなく思う。

 俺は彼が間違う場面を目の前で見てきて、これからも間違いを犯しかねない子供に干渉できる立場にいるのに、何もできずにいる。

(俺はこのまま、黙ってることしかできないのか)

 違う、と思う。正しくない、と思うのと同じくらいに、俺は自分の起こす行動に自信が持てない。

 宇宙人を信じるとか信じないとかも含めて、俺はまとまった考えが持てないでいる。

 自分にとって不都合だから信じない、と言うのは道理がなっていない。日常を生きていく中での物事の処理は人によって差があるものなんだろうが、俺は出来る限りは感情を切り離して、客観的に判断するべきだと考えている。今までの人生もそうしてきたし、その結果,自分自身に原因があることについて。つまり自分にとっての不都合な側面でも俺は受け入れてきたつもりだった。しかし俺はどうも、最近、自分の周りで起きている事柄への客観視が難しくなってある自覚があった。

 それはなぜか。

 物騒な殺人事件が絡んでいるから?

 最所くんが昔の知り合いで、守るべき子供だから?

 おそらく、これに関しては俺の中でなんとなくの答えがあった。

 ハンカチを見る。

 薄く白いハンカチは綺麗に折り畳まれて、確かにある。

 俺は、ハンカチを自分があげたものだと思えなかった。俺の周りで起きていることを、自分のことだと思えていない。どこか別の世界で起きている俺には関係のないことだと無意識に考えている。だから、判断の一歩目にも立てないでいるために客観視ができないんだろう。どこか宙に浮いているような非現実感が常にあり、現実に対して身が入らない。

 俺は色々な物事を受け入れてるわけでもない。

 俺は、受け流しているだけだ。

 彼らの真剣さも、熱意も、想いも。

 その場を乗り切ることしか考えていない、いやな大人だ。京子ちゃんの言葉が何時間も経って自分のことだと、痛く受け止めている。

 仕事でもプライベートでも、きっと、俺はそういう風に生きてきた。

 楽な生き方だからだ。下手に自分の意見を持って他人に反発するよりも、エネルギーも使わないし、周囲の関係も拗れない。最善とは言えなくても、最悪にはならない。ましな処世術だ。いかに敵を作らないか、いかに味方を増やすか。そんな姑息な考えで生きている人間は俺だけじゃないはずだ。

『ねえ、この町って昔から魂を見たって噂があるって知ってる?』

 心をくすぐるような甘い声を思い出す。

 彼女は本棚の前のこの辺りにいた。

 俺はここで彼女を否定した。

 俺の反応は、俺らしくなかった。

 あの時もいつものように、受け流せばよかったんだ。そうすれば、彼女はまだ俺のそばにいてくれたのに。

 冷静になれば正しい判断はできるのに、あの時の俺は過剰に否定して、彼女は驚いただろう。彼女が俺に反感を抱いたのは自然な流れだ。自然すぎて、誰かのせいにすることもできないくらい、俺のせいだ。

「…もし本当だったら」

 本当なのと、全くの見当違い、どっちの方が俺にとっていいんだろうか。

(謝りたい)

 自分が嫌になることばっかりだ。




 2


 


 最所くんと会ってからというもの、いままで機械のようにこなしていた日常のあれこれが噛み合わない感覚がある。家の布団の中という安全な中にいて目を閉じても、リーパーと公園での最所くんが雑念となって落ち着かせてくれなかった。浅い眠りのまま時間は過ぎ、朝になれば妙に覚醒した頭でニュースをチェックする。

 リーパーに関するニュースはない。

 事件から日が経てば、世間を騒がせていたはずの凶行は記憶から薄れて行く。つい先日までコメント欄は連続殺人に関するものばかりだったのに、今日のコメントは芸能人の不倫と、政治家の不祥事に関するものばかりだ。

 ニュースサイトを閉じて、カメラで撮ったシフト表を確認すれば今日から6連勤だと気づく。

 体が言いようもないほどにだるい。眠りが浅すぎたのか、初日からこんな調子ではもたない。

 気合を入れるように大きな動作で仕事に行く準備をした。今日はゴミ出しの日ではない。身軽な体出てたが、気分は重かった。




「宮藤くん顔色悪いね〜葬儀会社がそんな顔だとお客が不安になっちゃうよ?」

 出勤すると、はっはっはっと調子のいい支配人の不謹慎ギャグを朝から受け、森さんに合コンの話をまたフラれた。すげなく断ると森さんは残念がったものの、俺にスマホの待受を見せて『私の推しが今日も可愛くてー』とはしゃいでいた。推しというのはどうも男性アイドルらしく、どことなく真田さんに似たアイドルを見て見てと言ってくるまでには、とにかく、元気にはなれたみたいだ。

「この時期にですか?ずいぶん急なんですね」

 礼品の来客対応をして事務所に戻るとそんな声が聞こえてきた。

 経理さんと話している中居支配人の声は太く張りがあるため、自分の席に座っていてもよく聞こえてくる。

「中途なんだよ、いわゆる縁故採用ってやつになるのかな」

「へぇ、うちでもあるんですね」

「あるよぉ、身元がはっきりしてる人ってだけで採用には安心できるからね。昔の人事はねぇ、新卒よりも」

 経理さんは支配人デスクの横にあるホワイトボードに数字を書き込みながら、昔話に移行していく話を聞いている。

「宮藤くん知ってる?新入社員が来るって噂」

 事務の森さんがひょこり、と俺の近くにやってきた。

「人も噂も、移り変わりが激しいですね」

「あはは、たしかにねぇ。噂っていうか、支配人がああ言ってるからもう確定なんだけどね。どんな人が来るのか楽しみじゃない?営業の社員だって言うから男性だと思うんだけど、もしかしたらかわいいー女性かもよ?」

「からかわないでくださいよ。どんな人でもいいです」

「ええ、本当にどんな人でもいいわけじゃないでしょ?嫌な人が来たら嫌じゃない。嫌な人よりも楽しい人の方がいいでしょ?」

「ゼロか百かですね」

 俺は少し笑った。学生時代の転校生でもあるまいし、会社の異動、転勤、中途入社を楽しみにする人はごく少数だろう。中途入社はまだいいが、転勤なんかは憐憫の気持ちを抱く。

 だるい体を伸ばし、椅子の背に体をつける。

「真面目な人だといいですね。仕事の邪魔をしないなら実際、どんな人だっていいです。森さん、これで合ってますよね?」

 書き込んだ発注用紙を森さんに見せて、仕事の確認をする。

「え?…うん、漏れはないわね」

「じゃあこれ、発注をお願いします」

 書類をまとめて森さんに渡すと、俺は立ち上がった。

「裏で納品の仕事とかありますか?」

「今日?そうね。たしか、さっき業者の人が来てたけど」

「手伝います」

「え?今すぐじゃなくていい仕事よ?お客が来るまでゆっくりしてたらいいのに」

「何かしてないと落ち着かないんです」

 森さんはパチクリと大きな目を瞬かせる。

「宮藤くんは真面目ねぇ。ずっと気を張って疲れないの?」

「いや、気を張ってるわけではないんですけど。仕事中は自然とそうなる、というか」

 俺は誤魔化した。本心では、忙しさにかまけていたいだけだ。午前の受注の仕事はなく、店舗には俺と眞田さんが来客対応で残されているために、二等分された仕事量は極端に少ない。暇な時間は考えたくないことが最悪な方向で想像が膨らんでしまう。

「そう、大変なお仕事だもんねぇ。事務員だから、宮藤くんの苦労も全部は理解できてるわけじゃないけど。身内が亡くなったお客さんはかなり気が滅入ってるわけじゃない?落ち込んでる時の人の扱いって難しいと思うわぁ、なかなか、すんなりと吹っ切れることなんてできないもの」

 はぁ、と頬に手を当てて森さんは身に覚えがあるように言う。

「そうですね」

 俺は気のない返事になった。

 森さんは発注用紙を自分の机の上に置き、戻ってきた。

「手伝ってくれるならもちろん嬉しいわ、チャチャっと終わらせちゃいましょうか!」

「はい」

 裏に行くために事務所を出ようとすると「あっ」と声を上げて森さんが立ちどまった。

 しゅば、と事務所の入り口の壁に身を隠し、フロントを覗き見をしている。

「どうしたんです?」

「しー、あれ、あれ」

 森さんの指が刺す方を見ると、あのクレーマーが中央のテーブルにどかりと座っていた。

 ぎょ、としたが、対面にはすでに眞田さんが座っていた。

 社員間では振る舞われない100点満点の営業スマイルに対し、お客もよく見れば先日とは打って変わった柔和な態度で話を弾ませている。

 一つ煽るようにコップを傾けると、お客は立ち上がり見送られて行った。

「大丈夫でした?」

 ちょうどのタイミングで眞田さんが対応を終えたためフロントで鉢合った。眞田さんは書類が握られた手を振ってきた。

「会員になってくれたぞ」

「ほんとですか?何言ったらあの人が会員になってくれるんですか」

「クレーマーって最初の印象が最悪な分、相手の対応が良かったら評価がひっくり返ったりするもんだぜ。恋愛漫画でよくあるだろ「なにあいつ、優しいところあるんじゃん…、あんなに酷いことされたのになんでっ気になっちゃう!」

「…なるほど」

 と言ってみたが、真似ができるかと言われれば自信はない。

 廊下から覗き見る状態のままの森さんは眉を困らせ、いろんな感情がこもっていそうに首を振る。失恋の回復はまだ時間がかかりそうだ。

「あー疲れた、早く飯食おうぜ。午後でかい打ち合わせ入ってんだよ」

 森さんをちらりと見ると「後でいいわよ」となぜか小声で送り出された。

 昼にはまだ少し早かったが、眞田さんの行き先はここから片道40分はかかる遠くで、今食べないと食べ時を失うと言うので付き合った。急かされる形で、事務所に置いていたカバンを休憩室に持ち込む。

 休憩室には何人かの事務員がいた。事務所の電話が忙しい日には時間を分けて交代で昼を食べることがあり、早い時間に当てられた事務員さんたちは弁当を広げている。会話はテレビのニュースに関する話題で、耳をそばだてると、芸能人の不倫で盛り上がっているのだと分かった。

 テレビに映るニュースではたしかに芸能人の不倫をとりあげている。

 俺はカバンからサンドイッチを取り出した。眞田さんはピンクの弁当箱を取り出す。男が持つにはあざやかなピンク色の弁当は2日目になると新鮮さがない。

「眞田さんはファティマの予言って、知ってます?」

「ファティマ?ああ、しってるオカルトの中でも有名なのだ。なんだ、宮藤からそういう話してくれるようになると嬉しいもんだな」

 眞田さんは大袈裟にうなづいた。

「自分に正直に生きた方が楽だよな、うん」

 俺は成長を見守る親みたいな言葉に首を振った。

「眞田さんがそういう話が好きだから話しただけです。昨日、最所くんと、あのサークルの子たちと話す機会があってファティマの話をされたんですよ」

「休みに学校に行ったのか?ああ、住所教えたからあいつらが来たのか」

「はい、ちょうど俺が最所くんの家にいる時で」

「おい」

 じと、とみられる。

「なんですか」

「仲間はずれか?俺も呼べよ」

 子供か。

「眞田さんは最所くんの家に頻繁に行ってるわけじゃないんですね」

「あいつ俺に冷たいんだよ。携帯も電話機も持ってないからこっちからは連絡取れねぇし、そのくせあっちからは色々と頼んでくんだよな。直接行く機会はお前よりないと思うぜ」

「昨日来てたら一緒にご飯に行けたのに」

 高校生4人に大人1人はバランスが悪かった。眞田さんがいれば多少は居心地の悪さを緩和できたかもしれない。喫茶店の後の会話だって、一対一でなければあんな発展はしなかったかも。

「何だよ、来て欲しいのか?一人暮らし寂しいか?宮藤の手料理が食べれるんなら家に行ってもいいかもなあ」

「いや、なんでですか」

 ニヤニヤ顔の軽口を流していると、休憩室に入れ替わりの事務員さんが入ってきた。離れた場所に座る他の事務員さんに気軽に声をかけている。

「事件、ないみたいよねぇ」

「リーパー、だったかしら?これで止まったんじゃない?」

「よかったけど,捕まってもないのよ?怖いわよ」

 俺は袋から取り出したサンドイッチを頬張った。家に買い置きのカップラーメンが切れて、朝に駅前のコンビニで買ったものだ。気がかりなことが多く気を散らしていた自覚があったが咀嚼すると体からフッと力が抜ける。

(よかった)

 犠牲者が出ていないことについて、素直にそう思えた。

 人死なんて起こらないほうがいい。

 当たり前の考えだ。

(…昨日は、もっと心配になってしまったな)

 リーパーと聞くと、自然と最所くんの姿を連想するようになっている。

 4人と共にいる最所くんは、等身大の高校生らしかった。問題は後半だった。不思議なもので、その場では彼に魔法をかけられてたのか飲み込んでしまうのだが、彼の大演説は自身の理屈を通すための暴走じみていた。それが若さなのだといえばそうだろうが、異様なまでの熱量が気にかかる。およそ年頃の子供らしくない何かに突き動かされているように俺には見えた。

(なんであそこまで)

 無意識に力が入っていたのか手のひらがチリ、と痛む。サンドイッチを持っていない方の握っていた手を広げる。軽く揉み動かして痛みを和らげると、ジワリと肌に白色が広がっていく。

 自分でも肌色が悪いと思う。

 仕事が詰め込まれてなくてよかったのかもしれない。朝から、脳天から痺れるような気分の悪さがある。

(眞田さんと、最所くんについて話をしたい。職場ではできないけど機会を見て)

 眞田さんはおにぎりに巻かれたサランラップを外しながら「ファティマねえ」と呟いた。

 眞田さんは、襲撃事件から一貫していつも通りを装っている。俺はかなり、そんな眞田さんに心境的には助けられているんだろう。

「第一と第二の予言が当たって、第三の予言はよっぽどのことで公表されなかったんだろ?」

「何年か前に公開されてませんでした?内容は覚えてませんけど、なんだったかな」

「それ、疑われてんだぜ。本当はもっとやばいことが書かれてたんじゃないかってな。世界の滅亡とか、第四時世界大戦とか、宇宙人が攻めてくるとかな」

「へぇ、…宇宙人」

 休憩所のテレビに目を映したのは予感があったわけじゃなく、なんとなくだった。

『続いてのニュースです。不審者による傷害事件です。公園で何者かに襲われ、犯人は逃亡、現在まで見つかっていません。目撃情報から、犯人は黒色の服に茶髪の10代なら二十代の男性とされ、』

「犯人かしら、あれの」

 事務員さんの声。

「襲おうとして失敗してたってこと?」

「ええー、リーパーって若かったのねぇ」

 重なり合う高い声が耳を素通りしていく。

 眞田さんはおにぎりを弁当に戻して、椅子から立ち上がった。

「飯は後にするか。ちょっと付き合えよ。吸えるだろ?」

 

 

 

 

 会社の喫煙所に人はいなかった。カバンを下に置き、眞田さんはタバコケースから取り出した一本を俺にくれ、もう一本を口に咥える。

「あれだけじゃ無理だ」

 キャスターが報じていた情報では辿り着かない、と眞田さんは言った。

 ライターで火をつけ、俺にもくれる。煙を吐く眞田さんとは違い、俺は先端に火のついたタバコを持ったまま突っ立っている。

「なんで…」

「あの人が襲われたって警察に駆け込んだか通報したんだろうな」

「で、でも、通報するなんて…それじゃあ」

 まるで人間みたいだ。

 背筋にオカンが走る。

 これではあの人は、正常な判断能力を持った人間だとしか思えない。

「間違いだったんでしょうか」

 考えたくない可能性。

 思考の外に追いやっていたことが、現実となって現れた。

 俺の問いかけは否定を求めていた、だが、眞田さんは「止めたほうがよかったかもな」と答えた。

 冷静な声に絶望的な気持ちになる。

 胸のあたりを冷たいものがぬるりと走る。

 焦燥感からか、喉が張り付くように渇いている。

 とてもタバコを吸う気にはなれない。

「そんな、いまさら…、今更ですよ。そんなの。眞田さんは最所くんの話を信じてるんでしょう?」

「俺は自分の見たものしか信じない。俺が信じてるのはあいつの超感覚だけだ。あいつには俺ら凡人にはない感覚がある、でもそれだけで、言ってること全部鵜呑みにできないだろ」

(なんだよ、それ)

 眞田さんも俺と同じだったのだ。

「これから、どうするんですか」

「あいつが行動しようとしたら抑えるしかないだろ。傍観を決めて間違った行動を許してしまったわけだから、次は止めねえと少年院送りになっちまう」

「っ他人事みたいに言わないでくださいよ、俺たちが止めてたらこんなことにはならなかった!」

 軽く、上がった肩を叩かれる。

「落ち着けよ、不審に思われたらどうするんだ」

「…」

「まさかあんなことするとは思わねえだろ、騙されたようなもんだぞ。話くらいって言うから見張ってたんだ。未成年の行動力って恐ろしいわ」

 眞田さんは、はあ、と煙を吐いた。ため息のように。タバコ特有の苦い匂いが鼻をつく。

「いや、少し考えれば想像はできてたかもな、あいつならやりかねないって」

「……」

 俺は一呼吸をして、タバコを咥えた。

 タバコは大学時代、一時期吸っていたが就職してからは出費が嵩むので自費で買うことはなくなった。肺に取りいれて、吐き出すと、頭のモヤがクリアになる。

「俺は、思っても見ませんでしたよ。最所くんがあんなことをやる子だなんて思ってなかった。俺は、10年前の彼しか知らないので」

「そうか。10年もあれば人が変わるには十分なんだろうよ」

「…最所くんって、どんな子だったんですか」

 聞くのが遅かったのかもしれない。でも聞かなければいけなかった。これから先延ばしにすることこそ、どうしようもない。

「教えてください。俺は最所くんのことを知らなすぎます」

「俺も知ってるとは言えねえよ」

 タバコの灰が灰皿にトン、と落とされる。眞田さんはまだ長いタバコを潰して、壁に背中をつけて腕を組んだ。

「俺は出てからもちょくちょく施設に顔出してるんだ。施設は結構イベントごとを重視しててな。手伝いにOBで参加することが多かった。あいつと初めて会ったときはー、あいつが小5だったから5年前か。クリスマス会で俺はサンタクロースの格好してさ、あいつの誕生日が24だったから余分にプレゼントをやったよ」

 10年前に引っ越して5年前から施設にいるということは、母親とは2人きりで5年間ほど暮らしていたのだと計算する。

 最所くんは、施設に入ったのは母親が亡くなったからだと言っていた。最所親子に何があったのか俺は知らない。死因は事故か病気か…あるいは、最悪の予想もできる。

「頭に包帯を巻いてたから、よく覚えてる」

「…怪我をしてたんですか?頭って、大丈夫だったんですか?」

 まず頭に浮かんだのは、母親の死と何か関係しているのかも、だった。

 事故であれば2人とも巻き込まれた形が想像できたからだ。

 最悪の予想、自殺、よりも事故の場合はマシなのだろうか。

 人の死に優劣をつけていいのか、と俺の頭がささやく。

「病院には見てもらったみたいだから大丈夫だったんだろ。問題は結果じゃなく、経緯だよ」

 眞田さんは極めて不愉快げに顔を歪める。初めて見る顔だ。

「転んだところにちょうどガラスがあって切れてしまったって言ってたらしいが、所長も、他の職員も、父親のDVじゃないかって疑ってた」

「…え?」と、俺は間抜けな声を上げた。

「あいつは何言ってもなんか含んでそうなやつだから、ってのはあるんだろうが。それでも、あいつの背景を知ってりゃ自然な考え」

「ま、待ってください、なんですかその話。それって、そんな、DVって」

 慌てて会話を止める俺に、眞田さんは疑問符を浮かべた顔をしている。

「知らなかったのか?10年前にはその父親と一緒に暮らしてたって言ってたけどな」

「それって」

 俺は、タバコを持っていない方の手で口を覆った。

 辿り着く思考が受け止めきれない、予想外の方向からの衝撃に頭を揺さぶられるような、ショックだった。

「…俺、全然、その、きづかなくて」

「気にすんなよ。虐待するやつは見えないところを狙う。父親の暴力も人が少ない休日の昼間とかだったらしい。気づかなくて当たり前だ…って言うのが、宮藤の気休めになるか分からないけどな」

 繋がる事実。

「なんて、ことだ。だから…俺の家に、最所くんを避難させて」

 彼の母親は俺の家に息子を避難させていた、なんて、考えもしなかった。

「そうなんだろうな。離婚して母親が家を出てからも追いかけてくるような奴でな。何回も引越しても見つかって、そのうち引越しをするお金がなくなって家に入り浸るようになって。そんで、暴力。母親は現実に耐えきれなかったのか新興宗教にはまりだしたらしい。この町じゃ有名だった”貧見仏山の会”ってやつをな。最後には、自殺したんだと。自殺現場にはあいつも一緒にいて、見つかるのが遅かったら栄養失調で死んでいたかもしれないって、あいつから聞いたよ。施設にくる前に父親とは縁を切ったって言ってたけど、頭の包帯を見て疑うのは当然だろ?」

 淡々と紡がれる言葉。

 おそらく、それ以上の地獄が、想像を絶する現実が最初くんにあったのだ。

 最悪なのは、それが作り物でもフィクションでもなく、あくまで俺たちのすごす日常と地続きになっていることだった。虐待に関連するニュースは何度も目にしていたが、こんなに身近にあったなんて。俺は考えもしなかった。

「なんて言ったらいいか…なんだ」

 沈黙する俺に、眞田さんは頭を荒く手でかく。

「施設にはそういう子供もいる。俺は片親が事故で死んだから入ったんだが、親がいても子供を育てる能力がないんだ。俺とあいつはオカルトが好きっていう共通点もあって話があってさ、しばらく施設に顔出して話してるうちに頭の包帯の言い訳が変わったんだよ。宇宙人に連れ去られて気づいたら血まみれで倒れてたんだと、俺に堂々と言ったもんだぜ。あの時は笑うのもできなかった、だってよ」

 続く言葉はなかった。言葉に出してしまうと、彼への隠れた感情が浮き彫りになることを恐れているように見えたのは、俺がそうだからか。

 眞田さんはもう一度ため息をつくとタバコを手に取る。俺は一度しか吸っていないのに指先まで迫ってきた熱を八つ当たりのように灰皿に押し当てた。


 

 

 休憩室に戻り手早く昼食を済ませると受注に向かう眞田さんと別れた。喫煙所では、襲撃犯について知っていることを周りに気づかれないように行動するしかない、という結論になった。俺はうなづいた。そうするしかない、と思った。

(いいんだろうか)

 自問自答して、答えは正しくはないだろう、と思うだけだ。

 正しくない行いをする時に心理的な抵抗は無視できない。嫌悪感が襲ってくる体を、俺は無視した。

 事務所に戻ると中居支配人から午後の予定を伝えられた。一件新しく仏壇購入の検討をしたいという電話があり自宅にパンフレットを届けて欲しいとのことだった。お客は会社から近くの散髪屋で徒歩でも行ける距離。パンフレットを入れたカバンを持ち表から出て空気を吸うと、口に残った苦味が溶ける。

「あ、宮藤さんだー」

 大通りに足を踏み出すと、聞き慣れた声に足を止めた。

 手をまっすぐ上げて俺を呼び止めたのは原くんだった。横には夜部くんもいる。両人とも私服姿だ。

「どうしたの?今日は二人だけで来たの?」

 そばに京子ちゃんと最所くんの姿はなかった。

 原くんは間延びした口調で「ゴールデンウィーク最後の日だから遊んでただけー、あっこのカラオケ行ってたんだけど、京子ちゃんは習い事があるからって途中で帰ってー」と言う。うちに遊びにきたわけではなく、たまたま会社の前を通りがかったようだ。

「せっかくの休みだもんね。ちょっと待っててくれるならお菓子持ってこようか。和菓子じゃないのあったと思う」

「いいよ、ハロウィンじゃないんだから。俺ら高一だよ」

 ゆるい原くんにしては眉を上げて、恥ずかしそうにした。

「あ、そう?」

 俺は、原くんは洋菓子が好きだから前回の眞田さんからのお菓子を断ったのだと思っていたのだが、子供扱いしすぎたか、と反省する。

「そうだね、子供じゃないか、もう」

「そうだよー」

 夜部くんも「どうも」と小さく頭を下げる。

「こんにちは。もうお開きで、駅に向かってるところだったのかな」

「うん。電車で帰る」

「気をつけてね。あ、今日もやっぱりオカルト話とかしたの?」

「ううん」

 世間話のつもりの一言だったが原くんはふる、と首を振った。

「俺はそのつもりだったんだけど気が乗らないんだって。それでカラオケ行って、あんま盛り上がらなかったんだけどさ。なんか」

 原くんは夜部くんに目線を向けた。

「もうサークル辞めようかなって言っててさー」

「おい、言うなよ」

「え…何かあったの?」

 夜部くんは口をつむぐ動作の後にメガネを指で調節する。

「単に価値観の相違です。はじめとは合わないかもとは思ってたんです。被害者のあざをスティグマだと呼ぶあたりでおかしいとは思ってましたが、ファティマの奇跡と1人の目撃談を同列に語るなんて、ありえない」

「夜部」

 原くんが諌める。夜部くんはその意味を瞬時には理解できなかったようだったが「っ、あ、宮藤さんの話を否定してるわけじゃなくて」と釈明してくれる。俺は頭を振った。

「それは全然いいんだよ。でも、はじめくんに、二人は協力的だったんじゃないのかな」

「あんな話は初めて聞きました。神様が宇宙人だってのも」

「俺ははじめの話大体信じてるけど、あれは信じるか迷い中ー」

「…あんなのは主張でしかない。他に言ってることと全然、わけが違うだろ」

 夜部くんは意を結したように顔を上げる。

「はじめの言う宇宙人の神の模倣を、ありえない、と断言することはできないかもしれません。ですが、ファティマの予言は教会の認めた数少ない奇跡です。宮藤さんは、教会の奇跡認定がどれだけ難しいか知っていますか?」

「いや、ごめん、知らないよ」

「奇跡と呼ばれる事象は本当はもっと報告があるんです。ですがその中にフェイクや勘違いが含まれていることも多い。わかりやすいのは聖痕(スティグマ)現象ですが、トランス状態で行った自傷行為と、本物の聖痕現象であることの区別は難しいんです。教会がどれほどの労力を注いで検証をしているか。その労力は神秘を保つためです。はじめが言っているのは多くの人の手によって支えられる信仰に対する…侮辱です」

 夜部くんとこんなに向き合って話すのは初めてになる。

 サークルの中では比較的にクールな印象を持っていたが、夜部くんは夜部くんの譲れない部分があるようだ。嗜好や興味よりも、信仰心に近いような俺には理解のしづらい考えでも、夜部くんの意見はそれなりの筋が立っていると思う。

「俺は、宗教とかオカルトには君たちほど詳しくないから大したことは言えないけど、中途半端で申し訳ないけど、最所くんは理由もなく出鱈目を言うような子じゃないと思うよ。ましてや、侮辱なんて意味合いではないと思う」

「さぁ。理由は俺には分かりませんよ。神っていう概念に嫌悪感でもあるんじゃないですか?それに……宮藤さんあの、…俺は別に」

 夜部くんは口を窄めた。原くんも夜部くんの腕を引っ張った後に「具合悪いの?」と聞いてくれる。

「あ、いや、ごめんね。気を使わせてしまって」

 いい子達だと思う。つい一ヶ月前までは中学生だった彼らに気を使わせてしまっている。俺は笑顔を作った。

「いつも、はじめくんと仲良くしてくれてありがとう。俺が言えることじゃないけど、できれば、これからも仲良くしてほしいと思ってる。俺は最所くんも、原くんも夜部くんも、京子ちゃんも好きだから」

 親が友達に言ってたセリフを言う時が来るとは思わなかった。

 夜部くんは黒縁の奥の目を瞬かせて、メガネを持ち上げる。

「俺だって、はじめのことは嫌いなわけじゃないですよ。ちょっと気になっただけで…」

 母もこんな気持ちだったんだろうか、もう聞くことはできないけど、そんなことを思った。

 



 

 ”貧見仏山の会”


 この町で唯一の山、貧見仏山を起点とした新興宗教。山を神として信奉する自然派系の宗教のひとつだ。

 スマホで調べると該当の宗教の確認はできた。

 貧見仏山を神の化身とする性質から貧見仏山の開拓や開発などへの抗議活動が激しく、地元警察と頻繁に揉めていたこと。信者の心中未遂事件に関連する記事なども調べていると出てきた。

 夫婦が亡くなったという痛ましい事件は、夫婦が会への多額の寄付金により生活を困窮させていたことが浮き彫りになり、連鎖的に暗部が取り上げられていったらしい。

 世間からのバッシングに遭い、問題が起きた後にも信者は残っている。宗教の鞍替えは信者にとっては難しいのだろうが、現在は膿を取り出したようにクリーンだと宣伝しているようだ。本当かどうか、過去にあった寄付金も一切なくなった、と書いてあった。

 


 

「宮藤くーん、俺はもう上がるよー?」

 中居支配人が倉庫での作業を終えて事務所に帰ってきた頃には、事務所は夕暮れの赤に染まっていた。俺は自分の机に座って状態でお辞儀をして、スマホの画面を伏せる。

「あ、はい。俺はもう少し残ろうと思います」

「精が出るねぇ、じゃあ、お先に」

「はい、お疲れ様です」

 支配人がタイムカードを押して扉が閉まるとまた事務所に1人だけになる。

 田中丸さんも事務員さん達も定時で上がって、俺は定時になりタイムカードを押したから、押していないのは受注から帰ってきていない真田さんのみになる。

 俺はスマホの画面を開いた。先ほどまで開いていた貧見仏山の会についての記事はあらかた読み終えた。田中丸さんと納品で回った後に気になりある程度調べていたが、田中丸さんの言っていたような悪い噂も、知らなかった事柄も深く潜るとあるようだった。

 貧見仏山の会だけじゃなく、襲撃事件のニュースも検索していた。

 大手ニュースサイトのトピック欄に最所くんの起こした襲撃事件に関する記事は一件だけあった。ネットではいくつかのコメントで連続殺人事件との関連性を疑われていたが、記事は事実のみを記述した文章に終始していた。疑惑の段階で仄めかすことは昨今のメディアにはできないだろう。おかげで、数多の事件に隠れてくれている。

 机の上に自分の受け持った仕事は残っていない。事務所に残っていたのは眞田さんを待とうと思っていたからだったが俺は時間を確認して立ち上がった。遠くない時間に帰ってきたとしても時間がかかっていれば眞田さんは疲れているだろう。

 眞田さんに帰ることをラインして事務所の鍵を閉める。眞田さんは打ち合わせにカバンを持っていくため、事務所によらずに社用車を自家用車に乗り換えて帰れば事務所を閉めて問題はない。





 電車の扉に背を預けていると、不意に電車が大きく揺れた。手すりに捕まって、反動で吐き出すように息を吐くとぐらりと酩酊したように視界がブレた。この年で往来での転倒は勘弁したい。電車から降りると、俺は早足で帰路についた。ゴールデンウィークの間は平日よりも人が少ないため、するすると人をかわして進める。

 駅前の警察官は2人だけになっていた。一日の終わり、長い時間も気を張ってはいられないんだろうが、警官の佇まいから警戒体制の緩みが滲んでいる。

 大通りから小道に入り、アパートまで100mもない。いつぞやの真っ暗な帰り道とは違い、夕暮れは眩しくアスファルトを燃やしている。風に揺れて、左右の住宅の庭の掠れる葉同士の音だけが響く。肌に当たる風の感触が強い。

 なんだか、やけに神経が過敏な気がする。

 紺色の地面の視界から顔を上げたのは、耳が繊細に音を拾ったからなのかもしれない。

 人の消えた道の先、まっすぐの一直線に誰かがいる、と思った。

(最所くん?)

 そう思ったのは、初めはほとんど直感だった。

 夕暮れに染まる人形を視認した後に、ノイズじみた葉の音に紛れながらも重なり合う人の声が聞こえてくる。

 1人はヒョロリと背が高く、黒い服を身に纏って影のように暗い。もう1人はその陰に隠れるようにそばにいて、顔は見えない。

 近づくにつれて、疑惑は確信に変わっていく。

 何を話しているかまでは聞き取れないが、片方の声が最所くんのものだ。

 低すぎず高すぎず、空気に透き通るような声は聞き間違えようがない特徴がある。相手は大人だろう、低い声は彼と同世代だとは思えないほどやつれている。俺の知らない誰かと彼は静かに言葉を交わしている。様子から、談笑をしているようには見えなかった。

 揉めてるのか?

 嫌な予感。焦燥。

 いくつかの可能性を考え、

(もしかして、私服警察?)

 思い至った途端、ざわ、と胸が騒いだ。

 駆け出すのに思考は挟まなかった。

「あのっ、どうしました?!」

 彼らよりもかなり遠くから、俺は声を張った。

 縦長い人が緩慢な動作で振り向こうとする。もたつく足で駆け寄り、彼らの間に割って入る。

 ぬるりと、俺の移動に目を合わせる人。

 一眼見て、警察ではないと分かった。スーツ姿の男からは警察の持つどこか権威的な威圧感を微塵も感じない。40代にも、60代にも見えた。整っていない髪型、目の下のクマが年齢を不詳にさせている。男には生命力がなかった。平凡で、不気味な男だった。

 最所くんは以前に見た黒いパーカー姿で手にはレジ袋が握られている。表情にこれといった異変はないように見受けられるが、俺は彼を守るように前に出た。走ったことで乱れた息を整え、意識して強く声を出す。

「俺は彼の知り合いですが、何か、彼にご用ですか」

 質問には答えず、男は弱く会釈をした。

 拍子抜けするくらいにあっさりと、大通り側に向かい足を進め、溶けるように消えていく。

 なにか、そういった怪談に出てきそうな雰囲気だった。不審者と表現しても過不足ない。俺は男の姿が見えなくなると最所くんに向き直った。

「今の、大丈夫だった?!何かされたり、変なこと言われたりとかしてない?」

 俺の心配に対して、最所くんの反応はフラットだった。

「はい、立ち話をしていただけですよ。宮藤さん、お仕事お疲れ様です」

「え、あ、うん」

「ちょうど良かった」

 片手に持つレジ袋に手を入れ、カップラーメンを取り出した。

「後で渡そうと思ってたんですが、今渡してもいいですかね。昨日は付き合っていただいてありがとうございます。これ、奢ってくれたお礼です。よかったらもらってください。まだ買ってないですよね?」

 パッケージには”激辛、麻婆辛麺、豚骨醤油風味、ゴツ盛り”とデカデカと強調されたロゴが書かれている。

「うん、わざわざありがとう…美味しいって言ってたのだよね?」

「刺激的です」

 余計なことは言わずに受け取る。これはまた、お腹を壊しそうなチョイスだ。水をたくさん飲めばいけるか、どうか。

 一陣の風が吹いた。笑顔の最初くんのきめ細やかな前髪が大きく揺れる。

 顕になるおでこ、カメラでシャッターを切ったように、光景が目に焼きついた。





「からっ!?!」

 カップラーメンにお湯を注いで啜ると、爆発的な刺激に後ろにのけぞった。

「うわ、ぁっあだ!」

 腹筋が上手く作用せずに、そのまま後ろに倒れる。

 口の中に爆弾を投げ込まれたようだ。刺激的って言うか爆発物だ。起き上がるのも気力が要ったが、燃え盛る口内が倒れたことで口全体に広がり、慌てて起き上がって水を飲み、ブワリと広がる辛みに悶絶。グルメリポートをするなら一つ前のより辛さはワンランク上、美味さは分からない、それどころじゃないから。

 前回の反省点を活かし、俺は激辛ラーメンを家で食べることにした。職場で食べると大変なことになると経験済み。家で食べればたとえ何時間かけようが無理のない完食を見込める、という算段だった。

 ひりひりと痺れる舌を水につけ、目の前の真っ赤なラーメンと対峙する。

「…むりかも」

 気力的に負けてきた。

 俺は激辛が不得意である意識はなかったが、認識を改めなければいけない。

 これは人間の食べていいものじゃない、売り物としても店舗に置いていいのかこれ。

 箸で少ない麺を持ち上げて観察する。

 俺は作戦を変えた。麺にまとわりつくドス赤いスープこそが元凶であり、それを唇で口に入る前に削れば威力を大幅に削れる。よし、と。ちゅる、ちゅる、とゆっくり食べていく。唇が痛くなる。食べ方的な美味さも感じないが、元から美味さを感じていないので変わらない。

 最所くん、これの何が美味しいんだろう。本気で分からない。いや美味しい、とは表現されなかったっけ。刺激的か。まあ刺激的ではあるか。

「……」

 ラーメンを吸い込みながら、頭には、風に吹かれた彼の姿がこびりついている。

 横切る彼の揺れる前髪、こめかみの肌に、一筋の皺が見えた。

 ケガのために頭に包帯を巻いていたという、彼の過去。

 昔、彼が家に来ていた時、一緒に遊ぶ俺に対してSOSを発していなかっただろうか。

 冬場で長袖長ズボンを着ていた彼の体に、どんな傷があったんだろうか。

 

 『こんな話つまらないかな?外に遊びに行く?』

 

 『いいえ、話をしてくれて嬉しいです』

 

 健気な子だなあと思っていた。純粋な子だなぁと。

 ただそばにいて話をするだけの存在が、彼にはどのように映ったんだろう。

 

 『いつもごめんなさい』

 

 記憶の彼はよく謝っていた。

 小学生の彼がなぜそんなに謝るのか。

 当時は分からなかった。

 謝ることを強要されていたり、謝ることでなんとかなっている経験があったらどうだろう。

 俺は家庭事情が子供に与える影響についてはよく知らない素人だが、彼の過去に闇があるなら彼に良くない影響を与えていることは考えられた。

 素人が無駄に頭を悩ませても何にもならないと分かっている。でも。

(理不尽じゃないか、そんなの)

 ムカムカと、ひりつくような苛立ちが腹を渦巻く。

 こんな感情を、俺が彼に抱くのは間違っているのかもしれない。身内ヅラをするにも、彼が俺の家に遊びにきていたのは2ヶ月だけ。そのうち、母親と一緒に来る時と彼だけでインターホンを鳴らす時とがあったが、毎週の土日の昼間のみで、会った回数は単純計算で20もない。俺と彼にはもともとそのくらいの関係性しかない。

(それなのに、会いに来てくれた…今は思い出せるんだ)

 あんなにも親しげに慕ってくれるものだから、俺は思い出せるように努めていた。それが礼儀だと思った。全て細部までというと難しいがゆっくりと、記憶は復元されてきている。

 最後に会った日は、テレビで最大寒波だと煽るほどの雪が降っていた。

 その日は、昼に来なかったのだ。そう言う日もあるのだなと考えていた夜になって唐突にインターホンが鳴った。クリスマスケーキが食卓に並び、家族が食卓につくその時に。

 扉を開けると、彼は1人で雪の降る中立っていた。凍えているのかと思って顔を覗き見ると彼は肩を震わせて泣いていた。俺は、彼の涙を拭くために部屋に戻り机の上のーー。


 ガチャ、と鈍い音が扉から聞こえた。


「っ」

 

 その音がなにか理解した瞬間、俺は弾かれたように箸を置いて立ち上がった。扉に近づいて耳を澄ます。トントン、と階段を降りる音が微かに聞こえてくる。スマホで時刻を確認すると深夜と言っていい時間帯になっていた。俺は外に出て、外廊下から下を見た。下には1人の人間が、出歩くにはラフな格好で歩いている。

「どこに行くの」

 夜遅くの無音の空間に響いた俺の音を感じ取り、人物は立ち止まる。見上げる顔は夜でも視認できた。扉を開ける音の方向からほとんど確信を持って声をかけたが、間違いはなかった。

「散歩に出かけようと思いまして」

「こんな時間なのに、どうして?」

「理由ですか?」

 最所くんはイタヅラじみた笑みを浮かべた。

 なぞるように顔を上げ、俺もつられて見上げる。

 夜にしては彼の姿がはっきり見えると思ったら、黒をパッキリと二分するように白の丸い境目が頭上から俺たちを見下ろしていた。

「月が綺麗だからですかね。散歩をするにはいい夜です」

 一瞬空に見惚れて、彼に視線を戻す。

「…危ないよ。こんな夜遅くに出歩いたら。外には殺人犯がいるかもしれないんだよ?夜は家にいたほうがいいってニュースでも言われてる」

「俺はそのリーパーを探してるんですから、いざ会えたらラッキーですね」

 飄々とした、余裕ぶっている様子もない台詞が耳に届く。

(宇宙人を探してるんじゃなかったのか)

 彼にとっては大差はないのだ。俺にはまるっきり違うと思えても、彼の中で理屈は通っている。

 死に急いでいる、遠回しな自殺行為、若さゆえの過ち?

 バカか。

 大人が止めないといけないだろ。

「もしかして、心配して出てきてくれたんですか?」

 俺の焦りをまるで感じとっていないように、最所くんは軽く聞いてくる。

「そうだよ、最所くんはもっと自覚したほうがいい。リーパーに会わなくたって、最所くんみたいな子が夜に出歩くのは危険だよ」

「これは俺の日課なんです、危険な目にあったことはありませんよ」

「それでも、分からないじゃないか。1人でなんて。さっきだって、変な人に絡まれてたよね」

「それは」

 最所くんが困った顔をしたように感じた。

「そうですね。絶対安全とは言えません。なら、宮藤さんも一緒にどうですか?コンビニとかに用事があるなら、前を通る散歩コースだと思いますけど」

「っ、待ってて!」

 俺は彼の提案に食い切りに返事をした。部屋に戻り、出席に丸をつけた結婚式の招待状と、スマホを手にする。鍵を閉めて階段を降りると、最所くんは花壇の横に立って紫陽花の花を見ていた。小走りで駆け寄って握ったハガキを示す。

「ちょうど、ポストに投函したいものがあったんだ。俺もいいかな」

「はい、行きましょうか」





 説明された散歩のコースは全て通ったことのある道だった。この町は俺の生まれ育った故郷だ。大体の場所には行ったことがあるし、見覚えがある。

 小道から大通りに抜けて、橋を渡って住宅街から街に向かう。車道沿いであることは俺を安心させた。深夜でも車が何台かは通るからだ。離れないように適度な距離を保って隣を歩く。

 これでもしまた、彼が何かをしそうになれば俺は止めることができる。

「月、満月ですね。うさぎが見えます」

 最所くんの言うように、俺たちはただの散歩をしていた。歩いていく景色で目に止まったものを指差し、会話を広げれば話せる話題がなくても会話が途切れることはない。

「ほんとだね。こんなにくっきり見えるのも珍しいかも」

「月は絶対に表面しか見えないんですよね」

「聞いたことあるな、それ。よく知ってるね」

「…知識がなくても夜はこうやって空を見ながら歩いてますから、実体験として覚えます」

「散歩、よくしてるんだね」

「癖みたいなものなんです。入学してから最近またはじめました。施設は嫌いじゃなかったんですが門限が厳しくて外に出歩くことはできなかったんです」

 再会した時も夜だった。

 あの日も夜の散歩をしていたんだろう。リーパーがまだ捕まっていないのに、危険を顧みずに。

 橋を渡るとコンビニにたどり着いた。ハガキを投函する時に何かいるものはない?と聞くと丁寧に断られた。散歩コースはコンビニをタッチすると円を描くように、元来た道とは反対からアパートに戻る道を進む。

「あのあたりの方でしたよね。宮藤さんと、俺の住んでたマンション」

 す、と空に向けた指の先、示された方向には貧見仏山が見える。

 夜になり,電波塔が光っている。

「あのマンション、もう無くなってるんですよ。知ってましたか?」

「そうだったんだ。もうあの辺りには行ってないから知らなかった。古いマンションだったからかな。マンションの取り壊しってあんまりないと思うんだけど。住んでる人とか、色々あるだろうに」

「俺は、大家さんが亡くなったんじゃないかと思ってました」

「ああ…、そうかもね、管理する人がいなくなったのかも。何かになってた?」

「15台くらい停めれる広い駐車場です」

「よくあるよね、気づいたら建物がなくなって駐車場になってて、ここって何があったっけって思い出せなくなること」

「戻ってきた日に確認して、びっくりしました」

 最所くんは腕を下げた。

 ゆっくりと、隣を歩く彼の横顔が歩幅に合わせて揺れている。

「たった10年いなかっただけなのに。俺がいない間もここには時間が流れていたんだなって」

 俺も同じことを考えることがある。

 俺が知らない間に世界は変わっていく、人も、街も。

 自分が、周りが変化したことを知らなかったということに動揺する。

 自分は変われているのか、と考える。

 周りの生きていくスピードの違いに、俺だけが取り残されてるんじゃないかと不安になる。

 心がざらつく、嫌いな感覚だ。

「俺は最所くんとまた会えて嬉しかったよ」

 本心から、搾り出すような声になった。

 俺が彼に対して持ち得る真実や、本当の気持ちをかき集めて、まるごと渡すみたいに。そう言った。

「元気そうでよかった」

「俺も、宮藤さんに会いにきてよかったです」

 最所くんが立ち止まり、俺も止まった。

 月明かりに照らされた最所くんの肌は透き通るように白い。

 月から降りてきた空気中の粒子が彼の周りで反応しあっているのではないかと錯覚するほどに、綺麗だ。

「何年も経って、会いに行ったところで迷惑な顔をされるだけなんじゃないかって思うこともありました。勇気を出したのは間違いじゃなかった。宮藤さんは変わらずにこの町にいてくれました。俺の知ってる宮藤さんのままで」

 白い手に手を掴まれ、俺はびくついた。

「俺に触れられるの、嫌ですか?」

 確認されて「ううん、そんなことはないよ。びっくりしただけで」と返す。

「よかった」

 最初くんは俺の手を引く。通りから路地に入っていく後ろ姿についていく。

 俺が驚いたのは、彼の手がしっかりと大人の強さを持っていたことだった。俺と変わらない、ひょっとすれば俺よりも高い背丈の彼に手を引かれている。月光が建物に隠れて辺りの影が濃くなる。見覚えのある道だった。どこで見たのか、均等な感覚で鳴る土を踏む音がする。

 夢みたいな、不思議な浮遊感が体を包んでいる。

 前を歩いていた最所くんが振り返る。

 前進していた俺と顔が触れるほど近くなる。

「え、と」

「宮藤さん」

 耳元に形のいい口を寄せられる。くすぐったくて避けようとするが「動かないで」と言われ,そう言われても、と思う。すでに俺と彼の距離はないに等しいのに、最所くんのひそめた声が俺を縛る。

「声を出さないでくださいね」

 最所くんの手が頬に触れる。前髪の側面を横に撫で付け、耳にかけられる。近距離から澄んだ虹彩に真摯に捉えられ。真剣な顔だった。俺は言うべき言葉を失う。

 ざし、ざし、

 土を踏む音は変わらず聞こえてくる。

「……ぇ?」

 俺は不思議に思った。

 足元を見ると、地面はアスファルトだった。

 思えばアパートを出てから公園や広場は通っていない。

 大通り、小道、橋。散歩のコースは全て整備されたアスファルトの上を歩いてきた。

 ざしゅ、ざし、ざしゅ

 それに今、俺たちは脇道で立ち止まっている。

 じゃあ、この音は何なのだろう。

「ひ」

 後ろから伸びてきた手に、口をふさがれる。

 漏れ出そうになる声を殺される。

 前に立つ最所くんの手が回り込んでいるのだと気づくのに、1秒ほど時間がかかった。

 頭は情報の整理に神経を集中させられて、

 だから。

 ざしゅ!ざしゅ!ざしゅ!

 側面、雑木林の奥。

 真っ黒な木の間に、街灯に照らされた影が重なっている。50mは離れている影が、人間のものだと理解する脳を、意識は拒否をするが、断続的に上げられる弾ける水音が、正体を嫌でも認識させてくる。俺はそれが、何なのか知ってるから。

 ここは公園だ。公園の奥には草むらがある。地面に倒れる影に、上に重なる影が機械的に振り下ろす、黒いもの。

 赤。

「目を逸らさないで」

 見たくない。

「っ、、ふ」

「怖くないですよ、気づかれてません」

 

 怖い。

 

「宮藤さん」

 目を閉じて真っ暗な視界。

「目を開けて、大丈夫です」


 怖い。

 

 

 俺は、最所くんが怖い。


 口から手が離れる。

 ちゅ、

 不似合いな間抜けな音。

 湿った感触。また、塞がれる。

「見てください」

 彼の綺麗な、緑みがかった目。

 突然、明るさが瞼を開いた横から襲ってきた。

 誰かの車がやってきてくれて、ライトを付けたのだと思った。

 だがそれは人工的な光ではなかった。

 この世界に存在する光の明るさを超えている。

 広範囲ではないが、目を鋭く焼く白は暗闇の中にいて一際ギラつき、狭い路地と雑木林を光らせている、既視感のある眩さに息を呑む。

 


 

 白い 光

 

 


 天に召されていくように光は空に登っていき、瞬く間に闇に溶けた。

 


 

 

 カラン




 

 金属が地面に落ちる音がした。

 その音で俺はやっと、ここが夢ではなく現実であることを思い出した。

(現実?)

 こんな景色が現実なのか?

(っ、)

 どっと、汗が噴き出る。

 目の前にいるのは、リーパーだ。

 連続殺人犯。

 100箇所を刺された刺殺体。

 異常殺人。

 異常者。


 

 

 激しい動きをしていた影は、むくりと起き上がったように見えた。光に当てられてた目が暗闇で動く対象物に焦点を絞れない。アスファルトを靴が弾く音だけがしていて、俺は身に迫る恐怖に足を後退させる。

「み、みら、れ」

「向こうに走っていきましたから、問題ないでしょう」

 手が口から離れた。吐き出すように息を吸い込み、バクバクとなる心臓が脳に酸素を運んでいく。長く閉まっていたポンプが開くみたいに、現状の理解が遅れて湧き上がってくる。

「け、けいさつ。っきゅっ、きゅうしゃ!」

 口から飛び出してきたのは現実的で常識的な単語だった。

「いえ、俺たちも逃げます。あの被害者は俺が気絶させた人です。関係性を探られたくない」

 何もしてないのに、苦しくなるほど息が乱れている。

 街灯に照らされた、鮮烈な赤。

 振り下ろすたびに、醜くうごく赤。

 見ていただけなのに、血の匂いがする。

「宮藤さん、見えましたよね、白い魂」

「っ、ぅ、う、ぁ」

 最所くんに肩を回されて、大通りを引きずられるように歩いている。支えてくれる彼の言っていることが耳を素通りして、頷くこともできない。吐き気が込み上げて、鳴る喉の引きつりを察したのか、そのまま横道のファミレスに入る。聞き慣れたチェーン店の音楽。最所くんは俺をソファに座らせ、何か店員に頼み事をしている。凜とした声が、何を言っているか、俺の耳はうまく聞き分けられない。じゅううと焼ける音がする、肉の


「うっ」

 

 世界の上下がひっくり返るような吐き気に襲われ、太ももに顔がつく。

「宮藤さん、こっち」

 口元を抑えることだけを意識して、強く惹かれる手に従いトイレの中に入る。しゃがみ込んで、吐瀉物を撒き散らす俺の背中を、優しく撫でられる。

「逆効果でしたね」

「うっえ、ぁ、げ、、は」

「すみません、こうなる気がしていたんです。GPSが動かなくなって、予感がしたので探しに行こうと思いました。計画には組み込んでいないタイミングでしたが運が良かったです。宮藤さんに見てもらえてよかった。□%×*○ 、綺麗でしたね」

 あたりにひどい匂いが広がる。喉に焼けるような酸がこびりつく。べしゃべしゃ、と便器の水に吸い込まれる吐瀉物。

「宮藤さんが見たのも、あんな光だったのかな」

 さする手が背中から離れて、真横にあるトイレットペーパーを掴むのが視界の端に映った。俺はその手を反射的に掴んでいた。汚いのに、という常識的な感情は置き忘れた。

「こん、こんなの、もう、やめようっ、ぅ、お、おかしい、い、異常だ、こんなの!」


 

 異常。


 

 異常な、現実だ。


 

「こんなの、ふ、普通じゃない!普通、じゃないよ!」

 喚く声を落ち着けるように、最所くんはしゃがみ込むおれを包むように抱きしめる。

「そう、これは不思議なことです。不思議な体験を,俺たちはしましたね」

 服越しに滲んでくる体温。真っ白な頭で、便器の中に、ラーメンの赤色がまじっているのが見える。赤色。ぐるりと、再び気分が悪くなる。喉が引き攣る。嘔吐による生理反応で、涙が滲んでくる。

「もうリーパーはいません、俺たちは今、安全な場所にいますから」

「っ、っげ、は、ぁ」

「大丈夫です、宮藤さん」

 なんで彼はこんなに冷静なんだろう。

「俺がいます。もう怖くないですよ」

 

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