3
1
「ん…」
目が覚める。
肌に、布団の感触。
暖かな朝の匂い。
広がる天井。入居して1ヶ月もすれば、見慣れた天井だ。
(家に、帰ってきてたのか)
目を瞬かせて、微かな鈍痛が後頭部から広がってくる。
(頭、おもい)
軋むように体も痛い。
息がしづらくて、寝苦しい。
比較的に不快な朝だ。
楽になるように、ごろ、と横を向く。
至近距離。
目を閉じた眞田さんの顔があった。
「うわあああああ?!」
俺は布団を捲り上げて後ろ手で逃げた。
壁に背をつける。急速に覚醒した意識で、眞田さんが一組の同じ布団で寝ていた。と認識する。なぜ。どうして。どっどっど、とバイクみたいな鼓動の高鳴りが壁から伝わってくる。頭のてっぺんから背中を通り、足先までをぬるりと駆けていく冷たいもの。
嘘だろ嘘だろ嘘だろ
高速回転して現状把握をする脳みそ。
記憶は、ある。頭を締め付ける痛みは酒を飲みすぎたからだ。結局、何杯飲んだのか。教育係に居酒屋に連れて行ってもらい、浴びるほど酒を飲んだ。昨日は、俺も眞田さんに尊敬に似た気持ちを抱いた。適当に見えてできる人ではあるよな、かっこいいな。なんて思い直して、見直した、けど。
そこまでは親しくはなってない、そんなに軽い男じゃない、俺は!
はっ、と体を触る。
服は、スーツではない。いつも寝巻きで着ているスウェットを身に纏っている。
(服、…着替えてる?!なんで?!)
「う、るせぇな、…お前の叫び声、いい加減ここ追い出されるぞ」
眞田さんに、眉間にくっきりと皺を寄せて睨まれている。
眞田さんはモゾモゾと布団の中で動くと、伸びをするように床に置いてあったスマホに手を伸ばした。
不機嫌な顔を、犬みたいに大きく口を開けて歪めてから起き上がる。捲られた布団からスーツではない、丈の足りない服を着た体が出てくる。
「もうこんな時間か。宮藤も支度しろよ、出勤だろ」
「え、あ」
「あー、体いてぇー、敷布団薄いんだよ…」
ぶつぶつ言いながら、眞田さんは気だるげに洗面台に向かっていった。その姿を目で追ううちに、部屋の全体像が見えてくる。まともな家具が体半分ほどの冷蔵庫と平テーブルくらいしかない、ほぼ内見状態の殺風景な部屋。よく見れば、見慣れているのは天井くらいのものだった。徐々に理解ができてくると、リビング横の閉められた襖が静かに開いた。
「おはようございます、宮藤さん」
現れたのは、ジャージ姿の最所くんだった。
襖を閉じて俺の前まで来る。
「叫ばれてましたけど、すみません。うちに虫でもいましたか?」
寝起きに見るには毒なほどに綺麗な顔に、心配そうに眉を下げられた。
「え、いや。ごめん。勘違いで、…虫ではないよ。大丈夫」
「そうですか、よかった。布団が1人分しかなくて、狭かったですよね。ぐっすり寝れたようならいいんですが」
「あ、うん。…おはよう」
俺は認識を修正した。
ここは俺の家ではなく最所くんの部屋だ。
「俺が片付けますので布団はそのままにしておいてください」
最所くんに渡された鞄を持ち、寝巻き姿で外に出て、俺は自分の部屋に戻った。
断続的に響いてくる頭の痛みに耐えながら、しゃこしゃこしゃこ、と洗面台で歯磨きをする。口内を2周すると吐き出して口を濯ぎ、鏡に映る平凡な顔を見る。彼らの整った顔を見た後の自分の顔は、普段よりもずっと締まりのないものに映る。
(こんなのばっかりだな)
覚えていないとか、記憶が曖昧とか。
(しっかりしろよ、俺)
スーツに着替えて準備を終えたあたりで、扉がコンコンと叩かれた。開けると、眞田さんがぴしりとしたスーツ姿で立っていた。ネクタイの襟元を正して、同じく廊下に出ていた最所くんに声をかける。
「じゃあ行って来るわ。はじめー、じゃーな」
「いってらっしゃい」
階段を降りてからも最所くんは外廊下から見送ってくれた。
アパートの裏に周り、契約者の駐車場と少し離れた区画、大家さんの駐車場に眞田さんの車は停めてあった。近くで、麦わら帽子を被った大家さんがしゃがみ込んで庭の手入れをしている。
「大家さん!おはようございます!」
眞田さんがハキハキと挨拶をした。俺も挨拶をする。大家さんはあたりを見まわし、振り返ると「あら〜」と膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった。
「すみませんね、ここ停めせてもらっちゃって。助かりましたよ」
「いいのよぉ、たまに帰ってくる息子のための駐車場なんだから。昨日は楽しかった?」
「ええ、今朝も盛り上がっちゃって、うるさくなかったですか?」
「あらそうなの?耳が遠くてねぇ。年々聞こえなくなってきて、年取るのはいやね」
「いえいえ、まだお若いですよ」
大家さんは目を開けて「まー」と言い、口に手を当てた。
「口が上手いのねぇ。宮藤さんの会社の方って言ってたけど、葬儀社さんの営業さんってことよね?」
「うちをご存知なんですか?嬉しいな。あ、俺の名刺渡しておきますね。今後もお世話になることがあるかもしれませんから。眞田です」
「そりゃもう、この辺りでは有名よ!お隣の森下さんもそこの互助会に入ってるのよ。ほらもう歳でもしょわたしもね、息子に負担かけるのも申し訳ないから、元気なうちに用意しておかないとって思っていたの。もし、連絡したら眞田さんが出てくれるの?」
「もちろんですよ、事務員が出ても俺が引き継ぎますんで、ご不安なこととかあれば気軽に電話してきてください」
「そぉ〜」
眞田さんの爽やかな笑みに、名刺を受け取った大家さんは嬉しそうだ。
車の扉を開けてエンジンが入れられる。車内から、手を振る大家さんに頭を下げる。眞田さんからタバコの確認をされて、許可すると窓を開けて吸い始めた。車が進むにつれて朝の不機嫌は鳴りを顰め、柔らかな微笑を向けられる。
「扱いやすいばあさんだな。互助会入ってくれそうだ」
「なんていうか、流石ですね」
もう唾をつけている。口を挟む隙もなかった。
アパートの大家さんが会社の会員だと俺が気を使うんだが、眞田さんは関係ないんだろうけど。
「で、全く、覚えてないのか?」
眞田さんは進行方向を向いたまま聞いてきた。
「…はい。居酒屋に行って、…最所くんが俺たちに会いに来たことは覚えてるんですけど、その後は」
「お前、酒弱いんなら控えとけよ。はじめの話の途中でもう無理ってぶっ倒れたんだぜ」
あんたが飲ませたんだろ,という怒りを抑え、俺は謝る。
「すみませんでした。ちょっと、飲みすぎたみたいです。はじめくんとはどんな話をしたんですか?」
「5人目の宇宙人を見つけたんだとよ。写真、ラインで送っといた」
俺はスマホを開いた。
ラインの新着を開くと、眞田さんから一枚の画像が送付されていた。
送られてきた画像は白黒の写真。背広を着た中年男性が1人道を歩いている場面を斜めの上の角度から撮影している、言いようのない不気味な雰囲気の画像だ。
「これが??」
「5人目の宇宙人」
眞田さんは左手でハンドルを握り、右手でタバコを吸う。
「これがそうだって言うんですか?ただの人間にしか見えませんよ、っていうか、なんの映像の写真なんですか、これ。監視カメラの画角みたいなんですけど」
「ああ、なんか色々言ってたが…」
眞田さんが話の途中でふああ、とあくびをする。吐き出された煙の苦い匂いが鼻腔をくすぐった。
「犯人を入れて、5人目なんだと。詳しくは帰ってあいつに聞け」
これだけだと何が何やら分からない。彼は俺のお隣さんなのだ、また聞く機会はあるだろう。正直、聞きたいとも思えないのだが、話の途中でぶっ倒れたというのは誇張が含まれていたとしても、彼には失礼なことをしてしまった。
俺は画像をもう一度見て、スマホを閉じた。
「そうします。…あの,俺の服って、起きたら着替えてたんですけど、なんでか知ってますか?」
眞田さんは「は?」と呆けた顔をした。
「自分で部屋戻って着替えてただろ。そんで、律儀に戻ってきてぶっ倒れた。おいおい、それも覚えてないのか?」
「………」
俺は、はぁあぁーと息を吐き出した。「まじで大丈夫かよ」という眞田さんの声に自己嫌悪が増していく。
「言わないでください、俺も自分で嫌になってきました」
情けをかけてくれたのか、眞田さんからの追撃はなかった。
会社の駐車場に着き、助手席から降りると同じく、一つ左横に黄色い軽の車が停車した。森さんは運転席から出てきて俺を認めると、不思議そうな顔で片手を広げた。
「あれ?宮藤くん、おはよー、通勤電車じゃなかったっけ?」
「森さん。おはようございます」
「お。はよー」
運転席から出てきて、眞田さんが俺たちの近くにやって来る。
森さんは笑みをぴしっ、と硬直させた。
開いていた片手を握り、震える人差し指を出して俺と眞田さんを交互に指す。
「や、やっぱり、2人って…」
「たまたまです!!」
何言い出すか分からないために、俺は全力で話を遮った。
「さっき駅から歩いてたら送ってもらえることになったんですよ!いやー駅から会社まで地味に道のりが長いので助かりました眞田さん!」
空気読んでください、という目で眞田さんを見るとニヤニヤと返される。
「おー、あんまりにも宮藤が可哀想な背中してたんでな。この借りはいつか返せよ」
森さんは顔を真っ赤にした。熱い頬を覚ます様にぶんぶんと手を振る姿は可愛いと思うが、俺は乾いた笑みを返す。
「や、やだっ、もーなんだー。てっきり朝帰りかと思ったわよぉー、大スキャンダル号外かと思ったわぁ!」
「ははは」
ずきずきと、かすかな頭痛。
仕事に車を使うことが多いため、酒は抜けたと思いたいが、頭の鈍痛だけは拭えない。
(久しぶりにあんなに飲んだから…)
俺は恨みがましく遠くを見た。眞田さんは支配人のデスクで支配人と話している。
「うっす、頑張ります」
「頼むよー、眞田くんがうちの柱なんだから!」
早い時間の受注だ、支配人に激励をされているから単価が見込めるお客だろうか。眞田さんが話を終えると、俺も支配人に呼ばれて向かう。
「もう少ししたら宮藤くんが担当した仏壇の納品があるだろう?予行練習は必要だ。田中丸くんと2人で、今日は仏壇の納品に行ってくれるかな」
ボードには仏壇納品6件とマーカーペンで書かれた横に俺と田中丸さんのバッチが貼ってある。アルバイトさんが他もう4件を担当するようだ。
仏壇の納品は大安の日がいいと言われている。大安日である今日は、合計で10件の納品日ということになり、アルバイトだけでは人手が足りない。
「はい。あの、そうすると営業社員が店舗からいなくなりませんか?」
店舗に来客するお客が受注を希望することもあるため、営業社員は1人は店舗にいるようになっている。かなりガバガバな采配であることが多いが、念の為に聞いておく。
「眞田くんが午前早いのと、夕方の遅いので近場での受注だからすぐ戻ってくるんだよ。ゴールデンウィークは来客も少ないし、誰もいない時にきたら俺が対応するから、年寄りが仏壇の受注すると自分の用意してるみたいなんだけどねぇ、あっはっは」
支配人の不謹慎ギャグに、俺は愛想笑いで返す。
「分かりました、田中丸さんはどちらにいるか知ってますか?」
「ああ、田中丸くんは裏で準備してるところだよ」
早いな、と俺は思う。ボードを再び見ると、一件目の配達は到着時間10時と書かれている。住所によっては早く出ないと予定時間を過ぎてしまうそうな納品時間だ。急いで裏に向かうと、ヒョロリと縦に長い人がダンボールを車に積んでいるところだった。
「田中丸さん」
「あ、宮藤くん。今日はよろしく」
腎臓か肝臓が悪いのか、土色の顔をした田中丸さんは振り返って、幸が全て削がれたような疲れた笑みを朝イチから浮かべている。
「よろしくお願いします。これも積んでいいんですかね」
「ああ助かるよ、この並びで入れ込んでくれるかな」
いくつかある段ボールを手に取り、言われた通りに詰め込んでいく。
田中丸さんはサイドドアから車に入り、荷物を押し込むと上体を出した。腰に手を当てて、伸びをする田中丸さんはただの伸びでも見ていてハラハラする。土色の顔も相まって、それほど年寄りというわけでもないのに折れかけの枯れ木のような印象を抱いてしまうのだ。後輩である俺が重いものは率先して運ばないと、と取り掛かる前に思わされる。
「ふぅ。これで全部積み終わったからさっそくだけど、行こうか」
乗り込むと、車は出発した。
運転主の田中丸さんの代わりに位置情報アプリでそこのお客の住所を検索していると「宮藤くんと回るの、そういえば初めてだね」と、穏やかな口調で言われる。
「そうですね、そんな気はしないんですけど」
2人きりで話したことは数えるほどしかないが、田中丸さんは話しやすい人だ。
初見時は雰囲気から明るいとは言えなくても、田中丸さんはよく話しかけてくれて人がいい。先輩から進んで話しかけてくれると後輩としては接しやすく、助かっている。
「もう受注には慣れた?あれから、何回やったんだっけ」
「初回以来出させてもらってないんです。俺としては早く場数を踏みたい気持ちはあるんですが」
「ああ、仕方ない。仕方ない。うちには眞田くんがいるから、眞田くんの休みの時か多い時の補助要員かしか受注はないんだよ」
「それは、楽ですね」
「情けないことだけどね…」
田中丸さんは弱々しい苦笑いを浮かべた。
「眞田くんに任せた方が売り上げが上がるから」
「そういうことですか」と、俺は納得する。
ようは、受注が少ない日は眞田さんにすべて任せると言うことだ。
この部門では仏壇や礼品の受注だけでなく、納品も業務に含まれている。配達を他の業者に頼んだとしても、仏壇の組み立てや説明などは専門でないと難しいからだ。
仏壇は重いため2人がかりでないと厳しく、仏壇の納品はアルバイトか、手が空いた業務社員が行くことになっている。
俺も眞田さんにつきっきりの時に何度かVIPのお客の仏壇の納品に付き添った。あれも、教育担当の俺に納品の仕事を見せるためであって、普段は眞田さんが行う仕事ではない。
最近の田中丸さんはバイトさんと一緒に周り、仕事のやり方を教えていたが、相手が仕事を覚えて独り立ちしたんだ、と田中丸さんは話した。
「今日はバイトくん2人が別で回ってるんだよね。そうなると仏壇は彼らに任せて店舗でゆっくりできるかな、なんて呑気に考えてたんだけど、そう甘くなかったよ、ふぅ」
田中丸さんは浅く息を吐く。
「俺は店舗にいるより、こうやって納品の仕事をしていた方がいいですね」
「ええ、俺は店舗の方がいいよ、重いし,疲れるじゃない」
「葬儀で遺体が入った棺は混んでいたので、重いものを運ぶのには慣れてます」
少しイタヅラっぽく言うと、田中丸さんも常時困った顔をにやりと笑わせた。
「それもそうだね。俺も、宮藤くんが仏壇を運べないとは思ってないよ。人間の体って重いよね。俺も葬儀部門にいたことあるんだよ」
「あ、そうなんですね、俺と同じですね」
「俺は体を壊してね。事務所で倒れちゃったんだ」
「えっそうなんですか」
ごほ、と相槌のように田中丸さんは咳き込む。
「あの頃は今ほど人がいなくて、月50件の葬儀を3人で回してたんだよ。宮藤くんも、若いからって無茶したら人間の体って一回壊れたら元に戻らないから、気をつけた方がいいよ」
「…大変でしたね、それは」
深く聞かない方がいい話だろうか、田中丸さんは昔はここまで体調が悪そうな人ではなかったのかもしれない。
「仕事だからねぇ。って言ってもここも、楽なのは今だけなんだ。盆の営業はこの部門に一任されてるから、夏に入れば地獄になるからね」
「盆って、そんなに大変なんですか?」
「そりゃもう。飾り付けもやるから、ここ。夏は忙しくなるよぉ」
お客の住所には余裕を持って到着した。2人がかりで仏壇を玄関から入れ込む。5月とはいえ仏壇を車から家に運んでいれば額には汗が滲んだ。
「すみません、クーラーが効いていなくて。わぁ、…綺麗ですね」
本体を設置して、仏具を取り出していると、出迎えてくれた女性がクーラーをつけにやってきてくれた。年は4.50くらいのお淑やかな女性が仏間の座布団に座って、俺たちの作業を見守る。
「あの、うちも初盆ってしていいんですか?」
しばらく作業をしているとそう問いかけられた。
俺は仏壇を見た。仏壇は祖霊社だが、一般的な神道とは違うように見受けられた。リンと香炉、蝋燭も仏具に入っている。
「亡くなったうちの親は別の宗教で、うちはむかし初盆をやっていたんです。でも私の代で宗派が変わったので、どっちに合わせたものかと考えておりまして。あの、どうしたらいいんでしょうか…一般的には、みなさんはどうしてるんでしょう」
横で作業をしていた田中丸さんが振り返ってお客に答える。
「宗派が違えば仏壇の前でお経を上げるお願いをするのは難しいかと思いますが、もし故人様の宗派に合わせてお盆をしてあげたいと言うことでしたら、提灯や盛り籠などを仏壇の横に飾るだけでもいいかと思いますよ。もし気になるようでしたら、提灯は白木のものでいいかと思います」
「そう、ですか。白木の提灯があるんですね。そうしようかしら…やってあげたい気持ちがやっぱりあって、提灯って、白木のものも種類はあるんですか?」
「はい、ありますよ。まだパンフレットはできていないんですが、去年は5.6種類ほどありましたね。盆の時期が近づけば弊社からパンフレットが届くかと思いますので、そちら見ていただければ。あ、ご不安なこととかありましたらお答えできるかと思いますので、お気軽に電話されてくださいね」
田中丸さんがへら、と笑うと、お客も釣られたように笑った。
仏具を田中丸さんに聞きながらすべて並べ終え、田中丸さんが香炉に線香を立てた。俺もならって手を合わせる。納品が終わると、お客は手のひらサイズのお茶のペットボトルを2本渡してくれた。
「お疲れ様です、これ、よかったら」
「ありがとうございます」
他の職業よりも葬儀というのは専門的で、儀式的な面が強いからか葬儀の仕事はお客からのお礼が多々ある。こういうお茶だったり、お菓子だったり、葬儀部門での忙しい日には腹ごなしに助かっていた。
古い仏壇の回収をして、お辞儀をして家を後にした。
「さっきの家はなんの宗教だったんですか?」
お茶を一つもらい、車を発進させた田中丸さんに質問する。
「神道と似てるけど仏具が違って、俺の知らない宗派だと思うんですけど」
「ああ、神道ではないよ、貧見仏山の会だよ。宮藤くんって、新興宗教の担当をしたことはないんだっけ?」
「新興宗教はなんどかありますが、その宗教は一度もありませんね…、」
「10年立ってないくらいの新興宗教だからねぇ。信者さんも一時期に比べたらかなり減ったんだ。かなり揉めたのも知らないかな?四年前くらいにニュースになったと思うよ」
「その時期はちょうど他県に行っていたと思います」
「大学、他県なんだっけ」
「はい、葬儀もこっちに研修で半年いただけで、他県に移ってから本格的に受注をしていたので」
「だったらそうか、貧見仏山の会はこの町発祥の宗教だからね。今でも稀にだけど信者のお客さんは来るから知っておいて損はないと思うよ。貧見仏山の会」
「貧見仏山って、あの山のことですよね」
俺は車の窓から外を見た。この町に山といえば、電波塔が建設された一つしかない。
貧見仏山に付随して思い出すのはクレーマーだ。
あの人は電波塔の設置に携わる会社の人間だった、そう考えると、この町に住んでいる以上、貧見仏山との繋がりは俺にもあるのだ。
「うん、結構いい宗教なんだよ。貧見仏山を神様として信仰しててね、教義は厳しくないから信仰しやすいと思う。でもそんな宗教だから、電波塔の設置の時には神聖な山に対する冒涜だって言ってさ、前にかなり揉めたんだ。俺もよくは知らないけど電波塔は県主導の設置だったらしくて、警察も出てきて、結構な騒ぎだったよ」
「山を神様に、ですか?めづらしいですね」
「昔から山に対する信仰はあったんだよ?山は神聖なものだからねぇ」
遠くから見ても綺麗な山なりの形をした山は、海のない町のシンボルのようにある。
「知らなかったです。あとでくわしく調べておかないと」
うちでされるお客様の情報はほとんどが葬儀部門からの引き継ぎであるため事前に宗派を知った状態で受注をすることもあるが、古い仏壇を一新したいという飛び込みのお客もめずらしくない。
今日のように知らない宗派があるとお客様への対応に詰まってしまう。お客の信用を失ってしまう事態を防ぐために、今日知れたことはよかった、というようなことを言うと、田中丸さんはうんうん、と頷いた。
「どんな仕事でもそうだと思うけど、葬儀に関する仕事って、深すぎて日々勉強だよねぇ」
「はい、お客から突然知らないことを聞かれたりもしますし」
「そうそう。もう俺も、向いてないやめようと思った時は何度もあるんだけどさ。ふぅ。子供がいるから、ここまで長くいただけで」
「田中丸さんのお子さんっておいくつなんですか?」
「高校生だね」
「大きいんですね。もっと小さいのかと思ってました」
「すっかり身長も越されたよ。毎日顔見てたはずなんだけど大きくなるのって一瞬でねぇ。中学に上がってから反抗期で、可愛い時期は」
話の途中で、ぶーぶーとスマホのバイブ音がした。
車がちょうど信号で止まると、田中丸さんはポケットから取り出したスマホをつけて、露骨に眉を下げた顔で俺に画面を見せる。
「うわぁ店舗からだ。ごめん宮藤くん、出てくれない?」
「あ、はい」
受け取り、俺が代わりに応答のタップをする。
「はい、宮藤です」
『あ、宮藤くん?田中丸さんは今出れないってことかな?』
電話先の声は森さんだった。
後ろの声がガヤガヤと騒がしく、電話の音がひっきりなしに鳴っている。俺は耳を澄ませて森さんの声を聞く。
「はい、要件聞いたら田中丸さんに引き継ぎますので」
『あのね、田中丸さんのお客から電話があって、どうしても田中丸さんと話したいっていうのよ。要件なんだけど、聞いても聞いても話してくれなくって。なるべく早く折り返し連絡して欲しいってことで』
「らしいです」
俺は森さんの話を端的に運転席の田中丸さんに伝えた。
「えー、またぁ。こっちから折り返し連絡するって伝えてくれる?こわいなぁ、なんだろ、何もしてないと思うんだけど、ごめん、どこかで止めてかけ直してもいいかな」
「俺、運転変わりますよ」
コンビニに寄り、運転を変わると田中丸さんは電話をかけた。
「お世話になっております。田中丸です。あ、はい!先日はお世話になりましたー、はい。よかったです。問題はなかったですかね。いえいえ、こちらこそ。あ、はい?そうなんですか!」
電話越しなのにペコペコと頭を下げて、穏便な締めの言葉を言い電話を切る。ふぅ、と息を吐く田中丸さんに俺は声をかけた。
「大丈夫そうでしたね」
「クレームじゃなかったけど、まいったよ、孫に子供が生まれたって報告されてもなぁ。この人、こういうの多いんだよ」
困り笑いのような顔でそう言われたので、俺は「田中丸さん、物腰が柔らかいから話していて安心するんでしょう」と返した。
「えー、話し方は意識してやってるわけじゃないんだけどねぇ、ただ寂しいんだと思うよ。旦那さんが亡くなって家に1人だから」
田中丸さんはお客様への親身な接客が評判の担当者だ。売上は眞田さんほどではないが、一定のラインを維持していて堅実な印象だ。
「宮藤くんも葬儀やってたなら分かると思うけど、親切にすれば返してくれるものだよね。そうじゃなかった?」
「そうですね。あの頃は忙しすぎて、あまり考えられていませんでしたけど…」
「もうこの部署の立派な受注者だもんね」
田中丸さんに、俺は曖昧に返す。
「そんな、…立派かは分かりませんけど」
「盆に宮藤くんもいてくれるのはありがたいよ。2人だけだと捌けないくらいなんだ。去年からの葬儀した家全部だからなぁ。さっきの電話、店舗のほうは忙しそうな感じだった?」
「あ、そうですね、後ろの方が慌ただしかったような」
「戻ったらなにか頼まれそうだね、ゆっくり行こうか」
田中丸さんはおどけて言った。俺もつられて笑う。
田中丸さんはこうやって人を安心させることに長けている。人の警戒心を解く、独特の雰囲気がある。葬儀部門で働く人は、基本的には優しい人が多いと個人的に思っている。他者の死への慈しみがなければ長続きしない職業だからだ。
「…田中丸さんは、被害者がうちで葬儀をするって噂はしってますか?」
「え?そうなの?」
田中丸さんは頭のこめかみをかいた。
「知らないなぁ、この部門にいると、あっちの情報は入ってこないからなぁ」
午前中の納品を終えると、一度店舗に戻って午後の仏壇を車に積み込んだ。
休憩室で次の納品までゆっくりしていると、田中丸さんは追い出されるように支配人に外の仕事を任された。急な受注希望の電話が入ったらしい。俺は店舗の来客対応要員として残された。午後2時からの納品に間に合うように、との期限付きを言い渡された田中丸さんは「昼ごはん…」と蚊の鳴くような声で言い、ふらふらと出て行った。
噂に詳しい眞田さんに例の葬儀の噂について聞こうと思っていたが、店舗に眞田さんはいなかった。午前中に予定していた受注がお客からの申し出により時間をずらした結果、早くに昼飯を食べてから行ったらしい。さっそく朝に支配人が考えていた流れからズレている。
1人だけ楽をしている引け目があったが、俺はお昼を食べ終え、休憩室でもらったお茶を飲む。
田中丸さんが昼ご飯を食べれたらいいが、お客によっては受注が長引いてしまう可能性はある。
その時はサンドイッチとかおにぎりとかを助手席で食べてもらおう。田中丸さんは結婚しているが、弁当ではなかったと記憶している。葬儀部門にも勤めていたと言うから車中食には慣れているだろう。
『犯行は三日おきとなると明日は危険ということになると思いますが』
『警察は夜遅くの外出を控えるように近隣住民に対し広報を行ってはいません。警察の対応については批判が出ており、一刻も早い犯人の逮捕が望まれています』
俺の耳は休憩室に響くニュースの音を拾う。
被害者は現時点で3人。
やりすぎだ、と思う。
連続殺人は、重ねるほど証拠を増やしていくため合理的ではないと、犯罪心理学の専門家がコメントしている。
俺の目は、被害者の写真が載るわけもないのに、あざがうつるのではないかと、確かめようとしている。ニュースでは白い魂についての言及はない。ネットではリーパーなんて言われて騒がられているのに、この情報と需要の乖離がテレビが時代遅れだと言われる所以だろう。
(白い魂、って、改めて、変な言い回しだな)
白い魂の噂はこの事件の第一発見者のインタビューからと言われている。
第一発見者は、単に魂と言うんじゃいけなかったんだろうか。わざわざ白い、と足さなくても通じる気がするが。
(いや、だからウケてるのか…?”白い魂”って一つの造語みたいになってるのが他と差別化できてる、とか。スカイフィッシュみたいな感じか)
同じような言い方をすれば、ホワイトソウル。…センスが悪い。
スカイフィッシュってかなりキャッチーだったんだな。UMA感がある、まあ、正体は虫なんだけど。近年正体が判明して、カメラに映った蛾や蝿だと言うことだった。虫の残像をUMAだなんて言ってたって一時期信じていた身としてはかなりアホらしいが、オカルトはエンターテイメントなのだと割り切れれば今でも楽めるのだろうか。
宇宙人が人になり変わっていて、それを宇宙人が処理している、といっているのは、今のところ最所くんだけだ。調べても広大なネットですらそんな話は持ち上がってない。魂狩り、死神などのワードは頻出してるが、オカルトであっても毛色が違う。
高校の3人組は最初くんのいってることに同調しているだけだろうし、眞田さんは、…面白がってるだけなんじゃないか。
大人になって、オカルトのインチキな部分も愛せる心づもりというものを聞いてみたい。
喉を濯ぐようにお茶を飲む。
頭の痛みはだいぶ和らいできた。
昨日の居酒屋での記憶がよく思い出せないが、眞田さんの反応を見るにそんなに取り乱してはいなかったんだろう。
恥っていうのは過ぎ去れば猛毒になる事もあれば忘れて無味無臭になる事もある。最所くんも例に漏れないはずだ。彼の黒歴史は今も更新されているわけで、近くで見ている分には若干の痛々しさと身を削る思いがするが、現実で起こり得るほとんどの問題は時間が解決してくれる。
(でももし、本当に宇宙人なら…)
人に成り変わってる宇宙人、それはどんなものなのか。
宇宙人にあざはあるのか、噂のことは気になっている。
(…安良さんに聞いたら分かるのかも)
葬儀部門で働いてる安良さんと俺が関わった時間は半年ほどだが、安良さんは2何度か飲みに誘ってくれて、話せる関係だ。彼女に聞けばすぐにーーー。
(いやいや、馬鹿か)
俺は頭を振った。
毒されてきてる、2人に。
仕事中にこういうことは考えるべきじゃない。
先日失敗して痛い目を見たばかりだ。
(いい加減、しっかりしろ)
俺は空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。
事務所に戻ると、事務員さんが机の間で3人ほど固まっていた。顔を寄せ合ってヒソヒソと話をする様は昼休みのJKのように見えるが事務員制服である。中には森さんもいる。俺は挨拶をして横を通り抜けようとして、腕を引っ張られつんのめった。
「なん、ですか」
普通に危ない、非難の声をあげようとして、森さんの様子がおかしいことに気づく。
腕をがっしりと掴んでる手は森さんのものだ。
下を向いてどこか深刻な顔をしている。
細い指に無駄に力がこもってる気が、しなくもない。
どうしたんだろう、腹でも痛いんだろうか?
「宮藤くん」と呼ばれ「はい?」と返事をする。
「宮藤くんって彼女いるんじゃないの?」と椅子に笑ったおっとりした年配の事務員さんが言い、同じく椅子に座ったキビキビとしたまとめ役の経理さんは肩を揺らして笑っている。その様子から体調不良ではなさそうだと分かるが、本当になんだ?
「宮藤くん、幸せって一体なんなのかしら」
「え、」
(急に重…)
俺はそんな高尚な質問に急に答えられるほど徳の高い人間ではないのだが、俺は答えないといけないみたいだ。
他の2人は面白い試合でも観戦でもしてるように俺たちを見ていて助け舟を期待できそうにない。
「えー、…足るを知ること、ですかね」と、当たり障りのないことを言ってみる。
「そうね、全くそのとおりだわ」
森さんは天を仰ぐように蛍光灯を見上げた。
「分かるわ…私もこの歳になって、理想を追い続けるのが幸せなのか、ここらで現実的な落とし所で妥協するか、揺れているもの」
「はい?」
なんの話だ?
「宮藤くん!」
「はい!」
条件反射で、同じ勢いで返事する。
「合コンをしない?」
そう言って、やっと手を離してくれた。
「…急ですね」
腕が圧迫されて血が止まってたんじゃないかってくらいの力強さだった。軽く腕を振って血を巡らせ、森さんを見る。こちらには目を合わせてくれない、マスカラの乗ったまつ毛は悲しげに揺れている。さっきまで俺を掴んでいた拳を宙に握りしめて、噛み締めるように言葉を紡いでいく。
「急じゃないわ、遅すぎたくらいよ、時間は待ってくれないのよ宮藤くん。1秒1秒は今も過ぎ去っているの、私たちを置いてね。そう、やっぱり昔のお見合い制度って必要だったのよ!」
(森さん、ヤケになってないか?)
勢いがヤケクソだ。
森さんは少し変わったところがあるとは思っていたが(天然っぽい)事務室で事務員さんに囲まれてのこんな挙動は初めて見る。対照的に、2人の事務員さんは楽しげに、声を押し殺すように笑っている。
「あの、何かありました?」
「何か、ううん、何もなかったのかも知れない。何もないことが問題なのよ、予感はあったの、でも、あれってそうだったのかしら」
さっきからいい口が問答的だ。よく意味がわからない。
「はい?」
「そうだったんだと思う?!」
「ちょ、落ち着いて、う」
がし!と肩を掴まれ思いっきりに揺さぶられる。
ふ、二日酔いにかなり効く。
「ちょっとちょっと、いくらなんでも可哀想よー」
「そーよ、宮藤君は何にもわかってないのよー?」
横に座る事務員さんに諌められると、森さんは手を離してくれた。助かった。俺は口元を押さえた手を離す。
森さんは両手を膝にしとやかに置いて、顔を下げた。
赤いリップの唇が小さく震える。
「眞田さん、普段はカップラーメンよね?」
「え、…は、はい、そうですね」
さっきから緩急がすごい。
俺は座ってる3人に合わせて中腰をするのも辛くなってきたので、手が離れたことをこれ幸いに背を伸ばした。
「朝、眞田さんのカバンの中が見えちゃったの」
やはり眞田さん関係か、と思う。
これまでの付き合いで森さんの眞田さんに対する気持ちは見てきた。ここまで取り乱すとなると、眞田さんに関することしか俺には思いつかない。
「…可愛いピンクの、お弁当袋だったわ」
「え、それって」
神妙なセリフが示す意味に、俺は驚いた。
「まさか、そんな話聞いたことありませんよ、眞田さんに彼女なんて」
「その反応だと…相手は宮藤くんじゃないみたいね」
「なわけないでしょ。何かの勘違いじゃないかと思いますよ」
昨日眞田さんは最所くんの家に泊まって、朝は一緒に通勤したのだ。森さんが本当にピンクのお弁当を見たとして、最所くんが作って渡したと言うのもしっくり来ない。
「でも、ピンクのお弁当なんて彼女以外ないじゃないのよー」
横から飛んできた言葉に森さんは「うっ」と銃弾でも食らったような声を出して机に沈んだ。事務員さん達は湧くように笑う。俺はあまり笑えなかった。
突っ伏して「そりゃ彼女がいないわけがないとは思ってたわよ、でも、でも推しに似てるんだもの〜…」と喚く森さんは見ていて苦しいものがある。
あまり見かけないくらいの美人なのに年齢が彼女を追い詰めているんだ。
「ええと」
かける声の見つからない俺に、ひとしきり笑い終えた事務員さんが話しかけてくる。
「宮藤くん、今フリーなんでしょ?いいじゃない、合コン行っても」
そこに着地するわけか。
男の恋は名前をつけて保存、女の恋は上書き保存。なんてどこかの誰かが言っていたが、森さんの失恋は新しい恋での上書きしかない、とでも女性陣の話の中でなったのか、俺は納得しかけて。
なんで知ってるんだ、と思考が止まった。
「えっいつのまに別れたの?」なんて言う事務員さんに、きびきびとメガネをあげ経理さんが勝ち誇って見せる。
「眞田さんが言ってたわよ?隠しても無駄なんだから」
「…そうですか」
あの人の関わる噂のえげつない速度には辟易する。やっぱり、信用できない。
「宮藤くんまだ若いんだから、引く手数多でしょ、男の25なんて一番モテる年代よ」
「やっぱり合コンで上書きするしかないっ安心して宮藤くん、わたしの知り合いの女の子みんなレベル高めだから!うんと、期待してOKだから!」
「行くなら感想聞かせてねー?」
「えー、そうですねえ…」
四方八方から浴びせられる言葉たちをどう捌くか、困っているとフロントから救いの声がした。
「宮藤くーん、お客が来たから対応おねがーい」
「あ、はいはい!はーい!」
小走りで「にげた!」という非難の声を振り切り、表に出る。
テーブルには妙齢の女性が1人座っていた。品のいいお客は仏壇に関して分からないことが多いようで、俺の話を最初から最後まで熱心にメモも取って聞いてくれる。
来店されるのがこういうお客ばかりだと楽なんだが仕事だ、選り好みもできない。
(一番後輩っていうのも、嫌になるもんだなあ)
ほとほと感じていたが、どうして女性が2人以上揃えば1の言葉には恋愛なんだろうか。
ここの社員はみんなフレンドリーでいい人たちなのだが、大半の事務員さんがプライベートにずかずかと乗り込んでくるのは、俺がこの場で一番の年下だからなのだろうと推測できる。女の人というのは年下の男に対して遠慮がなく、特に色恋方面の興味感心の圧が強いと感じている。
どこかから俺より年下が配属されないだろうか、うちの部署は人が足りてるから、ないんだろうけど。
2
午後の納品も問題なく終わり終業した。
最寄りの駅を降りると、俺はアパートに向かわずに大通りに出た。信号の交差点を渡り進む先、歩道橋のそばには平屋のスーパーがある。
一人暮らしの質の維持というのは大変で、俺の場合は週一で買い物に行かないといけない。車を持っていないから一度に買い、運べる量は限界があるためにそうなってしまう。
「宮藤さん?」
道を歩いていると名前を呼ばれ、振り向く。
「こんにちは、こんなところで会うなんて奇遇ですね」
すぐ後ろに最所くんがいた、駅を降りてすぐの車の行き交う大通り、この道で会うのは初めてだ。
「こんにちは。奇遇、だね」
最所くんは今まで見た彼の私服で一番ラフな格好で立っていた。
黒色のジャージスタイル。
ダボっとした服を着ていても様になるのはさすがというべきか。改めて、絶世の美青年である。並んでいると周りからの視線が刺さるのは気のせいではないんだろう。これは外を歩くのも大変そうだ。彼の衣服の適当さは、服で目立たないように下方修正を狙ってるのか、とすら思えてきた。
「宮藤さんも買い物ですか?」
「うん、最所くんも?」
「はい、よかったら一緒に行きませんか?」
傾げる動作に合わせ黒髪が靡く。
親しげに笑う彼は見た目だけでなく、人間的にも可愛げがある子だと思う、が。
(えーと…)
快く了承したが、2人っきりになると途端に何を話せばいいのか分からない。
(気にならない、と言えば嘘になるんだけど)
話したい事柄はいっぱいある。しかし、彼の家庭の事情などは俺が聞くべきことではないと感じている。
こう言う場面では学校のことを聞くのがセオリーだと思うが、彼は学校に行っていないので自然に話題は狭まる。
高校生にしては高いくらいの身長に、このなり。コミュニケーションも問題なく、数人の友人関係を形成できている。普通に学校に通えば羨ましいリア充生活を送れるだろうに、なぜ自宅に篭りきりなのか。謎だ。
「一人暮らしって家事とか大変じゃない?」
俺は、無難な話題を頭から捻り出した。
「洗濯は面倒ですかね、コップは使い捨ての物を使ってるので、食事は特に面倒ではないです」
紙皿紙コップ、俺も一時期、皿洗いの面倒さに気をやられ試してみようかと迷ったことがある。大事なものを失うラインである気がしてやっていない。それでも家に1人でいると自分が生きていけさえすればいいかと生活のハードルは下がるもので、毎日違う料理を作って家を綺麗に保つなんて実家の母親はすごかったんだなぁと、亡くなってからも日々痛いほど理解してくる。
「食事が面倒じゃないってすごいね。俺は最初の頃はもう、かなり面倒だったよ。今も手抜きだからなぁ」
到着したスーパーの店内はわりかし落ち着いていた。
俺と彼は入り口でカゴを持って、俺は意識して、彼の一歩後ろに位置した。
彼と出会ったことは偶然だったが、了承したことには俺は若干の下心があった。
浮世離れした雰囲気のある彼の私生活を垣間見れるチャンスだと考えたのだ。
商品が並ぶディスプレイを横目に彼の後を歩き、
「白菜一玉88円?!」
陳列する白菜を片手にはしゃいでしまった。
安いスーパーだとは知っていたが、これはあまりにも激安だ。
「それってすごいんですか?」
前を歩いていた最所くんが横に立つ。
「安いよ、普通白菜の半玉って言ったらさ」
俺は白菜一玉88円がいかに相場より安いかを伝えた。熱意が伝わったのか「じゃあ俺も買おうかな」と手に取る最所くんに俺は何度目か分からない感心をする。
「偉いね。ちゃんと自炊してるんだ」
「いいえ、カップラーメンが基本ですよ。すみません、ちょっとカゴに入れてきますね」
カゴに白菜を一つ入れた最所くんは、間をおかず隣のコーナーに移った。
俺もついて行く。カップラーメンが棚に無数に陳列されたコーナー。どのスーパーでもここが一番種類が豊富だと思うのは俺だけだろうか。現代人の需要に応えた結果だろう。
最所くんは手前の列からさっそくカップラーメンを取り、進みながらカゴにどんどん入れていった。選んでるという感じではなく、目についたものを捨てるように雑にカゴに入れている。
10個以上はカゴに盛り付けられたあたりでUターンして帰ってきた。
なんというスムーズな動作。
いや、タイムアタックでもしているのかと思った。
急がず全然吟味して欲しいのだが…、俺の存在が急がせているのかと思ったが「お待たせしました」と言う最所くんは有無を言わせなかった。
(これは、食事の用意が面倒じゃないわけだ)
白菜はカップラーメンの山に埋もれてしまっている。
まぁ、、分かる、高校の時期ってカップラーメンが異常に好きだよな、と懐かしくなる。
20を超えると栄養価も気にしないとまずいよなあ、なんて頭が働いて職場の昼ごはんでしか食べなくなったな。
うどん、そば、ラーメン、統一感のないインスタントまみれのカゴを見ていると見覚えのあるラベルを見つけた。
「あ、それまずいからやめた方がいいよ」
老婆心から指を指す。
眞田さんと昼食を囲んだ時に食べたえのきわかめラーメン。スーパーに並んでいるのが不思議なほど、これでもかってほどの無味無臭のまずいラーメンだ。
「そうなんですか?じゃあ、やめておこうかな」
最所くんは言われると元の棚に戻した。
俺は今、初めて彼にいいことをしたと思う。
最所くんも「教えてくれてありがとうございます」と微笑んでくれる。俺もつられて笑を返す。
「宮藤さんもカップラーメン、よく食べるんですか?」
「人並みにはってくらいだよ。家では適当に作ってるけど、会社では食べるかな。そうだ、美味しいのあったら教えてくれない?」
こんなに多種多様に食べているのなら知っていそうだ。
「美味しい、ですか、あんまり食べたカップラーメンの味を覚えてないんですけど、…あ、これは覚えてます」
図書館で索引でもするように白い指が空中をなぞり、一つを手に取った。
赤々としたラベルには赤いラーメンの画像、その左端に激辛、とぶっといフォントで書かれている。
「辛いのが好きなんだ?」
「食べ応えがありますね。人間って刺激になれると辛さしかまともに味がしなくなるらしいですが、人は慣れる生き物だって言いますけど本当なんでしょうね」
世の中を悟り切ったような口調で、変わった表現を使われた。
好き、というわけではないんだろうか。
「宮藤さんは辛いのは苦手ですか?」
「ううん、買ってみようかな」
辛さの程度によるが売ってるものなら大丈夫だろう、と俺は激辛カップラーメンをカゴに入れた。
それからは、彼は俺の動きについてくるだけだった。
できる限り賞味期限の遠い肉、卵、保存最強冷凍うどん、ああ、調味料もなくなりそうだったな、なんて独り言を言いながら店内を徘徊する俺に、彼は相槌を打ってただついてきた。
後半は付き合わせているだけで申し訳なくなり、最所くんは他に買うものないの?と問いかけても「俺はもう充分です、見てるだけでも楽しいので気にされないでください」と完璧な笑顔で言われ「そう?ならいいけど」と言うしかなかった。俺も、ルーティンで決めている食材の買い出しを不十分で終えるのは生活の効率が悪い。
しっかりと買い込んだレジ袋を手にスーパーを出ると外は一変して薄暗くなっていた。山の麓の電波塔が薄く光っていることを視認できるくらいには暗い。
帰り道のアスファルトには俺と彼の2つの影が闇に溶け込んでいる。
スーパーから家までわりかし近く、そこまで時間もかからずアパートの敷地に着くと「猫、いませんね」と彼が呟いた。
「…そうだね」
俺も確認してそう返す。
暗い空間は見えづらいがぱっと見、動く物体はいない。
「警戒してどこかに移動したんでしょうか。それなら、大家さんも安心できますかね」
「うん…」
最所くんはぐるりとあたりを見回してから階段を登り始めた。
カンカンと音を立てて上がっていく途中、俺は彼に問いかけた。
「最所くんは猫、嫌いなの?」
後ろの、綺麗な緑がかった瞳がキョトンと俺を見る。
「そんなことはないと思いますが、なんでですか?」
「いや、なんとなく、そうなのかなって思っただけで…」
俺は口窄めた。好きなものを聞くならまだしも嫌いなものを聞いて会話が盛り上がることはない。
「言われてみれば、あんまり好きとか嫌いとか考えたことはなかったですね。何か猫に嫌な記憶があるわけでもないですから、嫌いではないと思います」
「あ、そうなんだ」
なんだか安心したような。依然腑に落ちないような、変な気分になる。
「宮藤さんは猫、好きそうですよね。犬派か猫派で言えば猫派っぽいです」
「え、どうかな、どっちも飼ったことないからどっち派とかはないんだけど、俺も猫は嫌いではないよ。普通に可愛いと思うし」
「俺も可愛いと思います」
「かわいいよね。犬みたいにじゃれてくれるわけじゃないけど、肉球とかが特に」
変な会話の流れになっている、と考えていると「はい、そう思います」と最所くんはうなづいてくれる。年下に合わせられてるなぁ、と感じるのは大人としてはきついものがある。
階段を上がり切り、階段に近い方に住む彼が先に扉に手をかける。
俺もカバンから鍵を取り出して「宮藤さん」と声をかけられた。
「もし宮藤さんが良ければですが。少し話しをする時間をいただけませんか?」
「話しって、今から?」
最初くんは窺うような顔でこくんとうなづく。
「昨日の説明が途中だったと思うので改めてきちんと話したいんです。お茶くらいしか出せませんが、今から、うちで」
俺は多少、ためらった。
彼はいい子だと思うが俺は、最所くんのそう言った部分に触れることに苦手意識が生まれ始めている。オカルトが絡んだ最所くんは普段の人当たりのいい人格を加味しても暴走気味に映る。
「うん、いいよ」
俺は鍵をカバンにしまい、招かれるまま彼の部屋に入った。
本来なら俺から切り出すべき提案だ。断るのは道理がなっていない。昨夜の非礼を詫びて、きちんと最所くんの話を聞くべきだ。
殺風景な部屋に入ると、最所くんはカップラーメンを台所に積み、冷蔵庫を開けて白菜を入れる。台所にはポットくらいしかなく、俺をテーブルの前に座らせるとポットでお茶を注いでくれる。
(どんな夜ご飯になるんだ)
冷蔵庫が開けた時、不可抗力で俺にはその中身が見えた。最所くんは何もない新品のような中に白菜のみを入れていた。
「どうぞ」
出されたお茶のコップは小さめの紙コップ、どうやら、彼は本当に紙皿紙コップ生活をしている様だ。
(生活力、思っていたよりも低いのかな)
ミステリアスだった彼の私生活が見えてくる。
熱を帯びた紙コップを持ち、緑茶を飲んだ。
今日はお茶をたくさん飲む日だ。
「こうしてると、昔を思い出しますね。宮藤さんもこうやって、家に来た俺にお茶を出してくれました」
「あ、そう、だったかなぁ」
言葉を濁す。自信を持って返せるほど、俺は過去の出来事を鮮明には思い出せていない。この感情は後ろめたさだ。
「うん。そうだね、今もあの頃と同じようにお隣さんだ。最所くんはあの頃と雰囲気が変わったね」
「そうですか?自分ではあまり分かりませんが」
「変わったよ、なんていうか…明るくなったよね」
俺は思っていた印象の変化とは違うことを口にした。
「ああ、あの頃の俺は、そうですね。明るくしていられるほどいいこともありませんでしたし、嫌なことも多かったですから」
最所くんは言葉を区切って、微笑んだ顔を向ける。
「宮藤さん、今日は線香の匂いがしますね」
「え?あ、ほんと?」
俺は、カップを置いて腕を鼻に近づけた。自分の鼻では分からない。
「匂うかな。ごめん、仕事柄匂いがつくんだよね。気になる?」
「いえ、俺は嫌な匂いだとは思いません。昨日も同じ匂いがしていましたが、お仕事終わりだったんですよね」
「あ、うん、昨日も」
昨日も線香の匂いしてたのか。スーツ、早めにクリーニングに出そう、と考えていると最所くんは頭を下げた。
「お疲れのところすみませんでした。宮藤さんが俺の不登校を気にしていると兄さんから聞いて、早く弁明をしないといけない、と思って急ぎすぎました。体の方は大丈夫でしたか?」
「ああいや、昨日のは単に飲み過ぎってだけだから大丈夫だよ。こっちこそごめんね。昨日の記憶、覚えてなくて。最所くんと道で会ったところまでは覚えてるんだけど、でも、眞田さんから例の画像はもらったんだ。これだよね」
俺はスマホを開き、ラインに送られてきた画像を表示して机に上に出す。
「5人目の宇宙人、だって」
「はい、この人が4人目の被害者になる人です」
「…そう」
何からつっこんだものか。
画面には道を歩いている中年男性を斜めの上の角度から撮影した白黒写真。
「その男性のアザはただのアザじゃない。俺は、スティグマと呼んでます」
俺の脳には京子ちゃんの言葉が再生された。
『宇宙人には痣があるのよ』
「その写真だと見にくいですね」
最所くんは立ち上がって、閉じられた襖を開けた。
顕になる部屋は畳5畳ほどの空間。
同じ間取りの部屋を持つ俺にも同じ空間は備え付けられている。
俺が布団を敷いて寝室として使用しているならこの部屋はなんと形容するべきなのか、俺には思いつかなった。
畳の上にはテレビ大のモニターがあった。
一つではなく、台もなくそのまま置かれた5台ほどのモニターが決して広くない空間を圧迫してしまっている。
それだけでも異様であるのに、画面には白黒の映像が映されていた。
最所くんは、自然にその異様な部屋に入っていった。
かち、という音と共に部屋の電球がつく。
明るさによって部屋の中身がより見えてくる。
モニターの画面には五つの画角の映像が映し出されていた。
「この町の監視カメラです」
「…」
モニター
監視カメラ
そんなものが最所くんの家にあったのか。
監視カメラの映像なんて犯罪のニュースなどでしか見る機会がないからだろうか、モニター達の映す映像は禍々しい。
「道路に看板を置いただけでも警察は目をつけるみたいだから、現実的にはこれが精一杯でした」
「…ひとりで、こんな」
「1人ではできませんでしたよ。1人でやろうと思っていたんですが、すぐに限界を感じました。京子さんがいなければこれはないです。京子さんの家が持つ会社の監視カメラの映像をこの部屋に飛ばしてもらってて、この町では5箇所ですね」
最所くんはモニターの下に置いてあるタブレットを手に取った。
京子ちゃんの家はこの町に5ヶ所会社を持っているとは、お嬢様だとは紹介されたが、この町の権力者の1人と言っていい。次に会うときはもう少し畏まったほうがいいだろうか、なんて、考えている場合だろうか。今。
電球が付いていてもほんのりと暗く感じる部屋で、タブレットのモニターよりも強い光が空間に白光を放つ。
「このカメラで捉えたものを編集したものです。学校の支給品なんですが付属のソフトで編集できました」
彼の指差す画面には、高い位置から見下ろすように夜道を歩くスーツを着た男性が1人映っている。俺のスマホに入っている画像とは違う画角で男性も別人だ。
「第1の事件、歩道橋下で発見された34歳の男性。これがその男性です。被害者の写真と照らし合わせたので間違いはないと思います」
指が画像をタップする、1人の男性は顔が見えるように建物の横を通り過ぎていく、画像だと思ったそれは映像だった。
監視カメラにしては高画質だ。男性の疲れ切った顔がよく分かる。
画面の男性の顔は、角度が違うためにそうだと断言はできないが、たしかに第一の被害者と雰囲気が似ている。私立樺山青海学園の音楽室にて、大きくプリントされた被害者の顔は日が経っても忘れそうにない。
「目が虚で歩き方もおかしい。顔のこめかみのあたりに痣がありますね」
「…それが、スティグマ?」
最所くんはそうだ、と言うようにうなづく。
「日本語訳は烙印。ギリシャ語では奴隷や犯罪者に刻まれた印を意味し、のちにキリスト教では聖痕を意味するようになった言葉です」
「聖痕は、…キリストの磔刑の傷の場所に現れるっていう傷のことだね」
昔に仕入れて使う機会もなくしまわれていた知識を引っ張り出す。
にこり、と笑った最所くんの指が、軽く画面をタップする。
再度静止画になった男性の顔が拡大される。白黒の画面でもこめかみの辺りに、直径は2センチくらいの濃いシミのようなアザが視認できる。
「この男性の通勤経路がたまたまこのカメラが設置された道だったんです。駅から会社へ行く途中みたいですね、過去のデータももらって事件が起こるまでの変化がよく分かりました」
横になぞるようにスライドすると、同じような画角の映像が再生された。同じ画角だが別のデータだ。ぱらぱら漫画のように男性のみの位置が変わらず、夜道の風景が高速で切り替わっていく。
「クリップにして変化をまとめたものです」
長さにして20秒ほどの動画を、巻き戻し、再生し、巻き戻し。
「少しづつ大きくなっているのが分かりますか?」
男性のみにフォーカスを当てると、こめかみの痣は徐々に、よく見れば少しづつというくらいではあるが、大きくなっているような気がする、自信はない。
「うわさの、白い魂と合わせて考えて」
高速で移り変わっていく画面を最所くんは片手で持っている。
「この痕から魂は体の外に出るという仮説を立てました。犯人は魂という情報を宇宙に返すために体から取り出した。このあざが宇宙人であることの証拠そのものですから、ひどく傷つけられてるのはあざを目立たなくするためだと俺は考えてます」
学校での話は他にオーディエンスがいたからまだマシだったのだと思い知る。昨夜に泥酔していまったことが悔やまれる。今は一対一で、逃げ場はない。
「…この人、どうやって見つけたの?」
聞くと、最所くんは画面を裏返した。す、と指をモニターにつけ操作している。
「ずっとカメラの前に座って見てました。24時間回ってる5つのカメラから、被害者を探し出すのにはそれなりに苦労しましたね。学校に行く時間ももったいないので常に張り付いて、それでも寝る時間は必要なので寝てる間の映像は倍速で再生したり」
彼にとっては苦労話のつもりなんだろうが、程度としては「学校の体育祭の準備が大変で」とかそんな気軽な世間話のようで、この部屋の異様さにはそぐわない。
俺は、彼には監視カメラの監視が日常になっていたのだと気づく。
最初くんの不登校はこのためだったのだと、今更ながらに気づく。
それは、執念と呼べるものなのではないかと俺は思った。
「この設備を用意するのにもお金がありませんから京子さんをサークルに誘ってその気にさせるのも時間がかかりましたね。でも、こうして成果も出せたので頑張った甲斐はありました。こめかみのあたり、分かりますか?」
最所くんは画面を表にした。
画面は切り替わり、5人目の宇宙人だと言う男性が写っている。背広を着た中年男性は、仕事終わりの疲弊を顔に滲ませている、普通の人間に見える。
「俺には…ただの人にしか見えないよ。ただのサラリーマンにしか見えない」
画質のいいデータの、男性のこめかみのあたりには小さな黒い痣がある。でもそんなの、そこら辺を歩いている一般人にも同じようなものはあるだろう。
第一の被害者の顔が似ていることは受け止められるが、5人目の宇宙人は受け入れることができない。
「アザがある人なんて外を歩いたら何人もいるよ。なにか、この人がそうだって言える根拠があるの?なにかその、カメラの前で宇宙人らしい行動をしたとか、顔が割れて変身したとか」
俺のバカみたいな言葉に、最所くんはふる、と首を振る。
「サークルのみんなにも、兄さんにも説明して分かってもらえるとは思っていません。言葉とか、文字とかの伝達手段じゃ疎通できない、曖昧で、抽象的な感覚から来る確信なんです」
ハキハキとした口調にあわず、はぐらかすような言葉だ。
「…最所くんの超感覚的なものだってこと、かな」
「はい。みんなには分からなくても俺には分かるんです」
なら、根拠はないのと同じということだ。
最所くんの背後のモニターの画面はリアルタイムで動き続けている。
「宮藤さん」
「っ」
呼びかけられて、止まっていた思考が揺さぶられた。
顔を上げると、最所くんは俺の横に座っていて、触れそうなほど近くに彼の顔があった。俺は息を飲んだ。
「一緒に、この宇宙人に接触しませんか」
「接触っ、て…」
「実際に会おうと思っています。話くらいはしたいです」
いきなり何を言うんだ、この子は。
「ま、待ってよ。ちょっと待って。その人に宇宙人ですかって聞くってこと?そんなの、間違ってたらどうするの、その人がただの人間だったら」
「その時は謝ります」
これが若さなのか、最所くんは大真面目にそんなことを言う。
「俺は超能力が芽生えてから日が長いんです。画面越しじゃなく、実際に会えばより宇宙人かどうか分かると思います。その日にちについてですが早いほうがよくて、明日を予定しています」
「え、あ、明日?!」
「三日おきの犯行に備えて、犯人より前にこの人に接触したいんです。あ、宮藤さんには何をして欲しいわけではないです。何かあった時にかけつけられるくらいの立ち位置にいてくれれば。何も、俺も怖いもの知らずなわけじゃない。2人が居れば安心できますから」
何か、と言う響きが不穏だ。
何が起こるって言うんだ、宇宙人が、何かをしてくるって言うのか。
色々と、何もかもが急すぎる。
俺は一体、なんでこんなことに巻き込まれているんだ。
これも、俺のせいなのか?
過去の俺が招いた事態なのか?
俺は頭がクラクラしてきた。
「兄さんには昨日の時点で了承をもらっています。俺はできれば宮藤さんにも一緒にいてもらいたいんです。…どうでしょうか」
予想できていたが、眞田さんは最所くんのこんな依頼にも軽く受けてしまったんだろう。眞田さんも俺も明日は普通に出勤なのだが、いつか痛い目に遭わないかな、あの人。
俺は手のひらで自分の太ももを擦る。
ざらついたスーツの感触が気を落ち着けてくれるような気がした。
「確認なんだけど、見ているだけでいいんだよね」
「はい」
「…そう」
ここまで聞かされて見て見ぬふりができそうにもない。
俺が彼に、そんなことはしてはいけない気がする。
大人である俺たちが見ていれば、最所くんも危ない目には遭わないだろう。5人目の宇宙人とされた人が言われもない疑いをかけられ、激昂してしまった際のストッパーは多いほうがいい。
「分かった。俺もいくよ」
俺は彼の目を見てそう言った。
最所くんは、ほっとしたように、ほろりと綺麗に笑う。
至近距離で見る彼の顔の造りは神が計算したように完璧なパーツで配置されている。
薄く澄んだエメラルドグリーンの瞳が細められ、その虹彩の輝かしさに吸い込まれそうになる。
「やっぱり、宮藤さんは優しいですね。ありがとうございます」
「…」
「集合場所はルート的に男性が通るであろう公園を予定しています。時間はお二人の仕事終わりに合わせたいと思っていますが俺は携帯を持っていないので時間を指定して、どうしました?」
「あ、っごめん。ちょっとびっくりしちゃって」
俺は硬直から復帰した。最所くんは彼の顔を見て固まった俺に「何かついてますか?」と整った顔を指で撫でる。
「いや、そうじゃなくて、すごい綺麗な顔してるなって」
馬鹿正直に言うと、最所くんはきょとんとした後に綻ぶように笑った。
子供らしい顔から一転大人びた笑みを向けられ思わずどきり、とした。
「宮藤さんは俺の顔、好きですか?」
「え」
す、すごいこと聞くな。
びっくりする。これがイケメンというものなのか。
「えっと、うん。かっこいいと思うよ。羨ましいと思うくらいに…セクハラっぽいね、ジロジロ見て、ごめん」
家に戻り、扉を静かに閉める。
背中を扉につけて、俺は少しの間立ち止まった。電気のついていない暗い部屋に「言わなきゃよかった…」と漏れ出た声が響く。
最所くんには公園の名称と時間を伝えられた。隣町の公園は俺も何度か買い物ついでに横切ったことがあった、アパートから歩きでも行ける距離だ。時間は仕事が長引くかもしれないことを考慮して夜9時の集合となった。
どっと、後悔が襲ってくる。
最所くんと再開してからというもの、俺の生活は平穏さを失ってしまったみたいだ。俺はオカルトを避けたいのに彼らは手を引っ張って引き込んでくる。「宇宙人に会いに行きましょう」「うん、分かったよ」ってなんだそれ。正気とは思えない。俺は最所くんの美貌による催眠術にでもかかっていたんだろうか。
「…明日か」
急な腹痛にでもならないだろうか。それか、急に雷雨になったり。いや、小雨くらいならあの2人だ、なんなく雨天決行する。腹痛で行けなくなったなんてのは俺は自分を許せない。
俺は扉から身を離した。
考えても無駄な現実逃避を振り払う。
もしも、なんて考えても意味がない。それに、もし俺が過去に戻れたとしても最所くんに「行く」と言うんだろう。
(そうしないといけない気がする、…俺が蒔いた種なのかもしれないんだ)
俺はしゃがんで、毎日のルーティンで扉に備え付けられたポストを開いた。
アパートのポストは一階にはない。一階にずらっとポストが並んでいるマンションはチラシを入れやすいだろうが、うちは2階に上がらないとポストできないという、狙ったわけでもないんだろうポスティング対策がされている。それでも根気強い人は階段を上がってでもねじ込んでくるため、中には数枚のチラシがはいっていた。
チラシと水道引き落としの封筒の束を机に置いて電気をつけ、明るくなった部屋で仕分ける。
チラシの中には中には白い手紙が入っていた。
なんとなしに封を開けると一枚のハガキが出てきた。表には”結婚しました”の文字。
「え、」
すぐに封を裏返す。差出人は安良さんだった。
俺はたまに人間の生きる速度、について考えることがある。
いつも、じゃなく暇な時にふと、日常の隙間に忍び込んでくるように頭を掠める。
安良さんを最後に会ったのは異動の前の出勤日だ。
半年ほどの研修後にすぐに異動が決まった俺に「頑張って、宮藤なら大丈夫」と安良さんは声をかけてくれた。俺は安良さんを頼りになる先輩として信頼していた。同じ部署では一番というくらい。
安良さんは感情を乱すことない堅実な仕事ぶりに加えて、性格はサバサバとしているので変な気なく絡みやすいと男性社員から評判は高かった。もちろん女性社員とも仲が良く、俺の同期の女性社員からも慕われていた。
俺は時計を確認する。もう仕事は終わっただろうか。あまり遅くなっても悪い。
仕事の性質上外に出ることが多く誰がどこにいるのか分からないため、業務の円滑のためにほとんどの社員が業務社員の携帯番号を登録している。うちの会社に社用携帯はないためコンプライアンス的にはまずいんだろうが、俺は安良さんに電話をかけた。
何度かのコールの後『宮藤?どうしたの?』と声がした。
「お久しぶりです。今、お時間大丈夫ですか?」
『ちょうど退社したところ。なに?』
「さっき帰ってきてからポストを確認しまして、ハガキを見ました。ご結婚おめでとうございます、と伝えたくて」
安良さんは『ああ』と言う。
『相変わらず律儀ね。突然誘ってごめんね、迷惑じゃなかった?』
「そんな、誘ってくれて嬉しいです。結婚式、必ず行きますね」
『ありがと。自分が祝われる側になると、ちょっと照れるわね』
しばらく会っていないのに電話口でも、しとやかに笑う安良さんの顔が浮かんでくる。
『元気してた?なんかやつれた声してない?』
「あ、…いえ、むしろ仕事が少なくて驚いてますよ。」
『そっちはどんな感じ?そっちの方が残業も人も少ないならこっちより快適だったりしてね』
照れ隠しなのか、安良さんは仕事の話に切り替えてきた。飲み会とかでも聞き役をしているイメージが強いから、自分が主体の会話の流れは苦手なのかもしれない。
3年前に付き合ってるって言ってた例の彼氏がそうなんですか?とか俺が根掘り葉掘り聞くのは、そんな心境を察してやめておいた。
「いや、まだ馴染めてないですよ、葬儀部門が恋しくなります」
『はやく葬儀にもどってきなよ。宮藤が飛ばされちゃって、うちの女性社員はみんな悲しんでたよ』
「ええ?」
『ほんとよ?宮藤は素直っていうか、邪気がないじゃない。反応もまともだし、いじられ体質っていうかさ、可愛がられてた』
男としては微妙な評価だ。
『だからこそ、眞田さんには染まらないでよ?眞田さんが教育係って聞いたんだけどほんと?』
「え、はい」
『え、嫌なんだけど』
ズバリと言われ、不意に笑ってしまう。
「ひどいこと言いますね」
『だってあの人女の敵よ?付き合ってもいいけど結婚はしないって豪語するのよ。わたし眞田さんのそういうところ、直して欲しいのよねえ』
そんなこと豪語してたのか、無敵だなあの人。
『もうね、自分のことハリウッドスターか何かと勘違いしてるんじゃないかと思うわよ。もう30近いのよ?そのまま歳食って行ったらもう見向きもされなくなるんだから、今のうちにどうにかしたらって宮藤、言っておいてよ』
「そんなこと面と向かって言えませんよ。それとなくなら、伝えておきますね」
『うん。絶対、今のうちに変えた方がいいと思うわ、もう遅いかもしれないけど、まだ、モテるうちにね』
「厳しいなぁ」
『世間的には普通のことを言ってるつもりよ』
安良さんと話していると気が楽になってくる。俺はスマホを耳に当てたまま、リビングの机の前に胡座をかいて座った。
「そっちはどんな感じですか?」
『いつも通り忙しいわよ。先月うちの部署、売り上げが全部署で最低だから支配人がいつもよりピリピリしてる。でも、現場は回すので精一杯なの。わたしなんか昨日、2件通夜掛け持ちさせられたんだから』
「そうなんですね、…すみません」
『なんで宮藤が謝るの?』
「あ、いや、すみません」
俺は無意識に出た謝罪に謝罪を重ねた。
『なに、またなにか悩んでるの?』
安良さんは落ち着いて言う。
安良さんには悩み相談をさせてもらったことが何度かある。話しやすくてしっかりと聞いてくれるから、つい、色々と話した。俺の気にしいな性格を理解している彼女に、俺は溢れるように吐露する。
「その、俺の抜けた分の仕事を、誰かがしてるんだなと思うことがあって」
正確には、抜けたのは安良さんのいる部署ではなくて他県なのだが、葬儀部門の業務社員に申し訳ないと思う気持ちは一緒だった。
葬儀部門は万年人手不足で、それでも人は容赦なく毎日死ぬ。盆も正月も、元日だって休みなく働き続けている。
異動してから、俺が今楽をしているのは誰かの苦労の上に成り立っているのだと、罪悪感に似た気持ちが常にあった。
『宮藤は気にしすぎ。人事異動なんか誰のせいでもない。いい時期に異動したと思うわよ。堂々としてなよ』と、安良さんは言ってくれる。
「…はい。ありがとうございます」
安良先輩は人が欲しい言葉を欲しいところにくれる。
葬儀は体力仕事であり、お客との営業であることはもちろん、葬儀スタッフとの円滑なコミュニケーションも求められる。女性はすぐ辞めてしまう、という風潮が葬儀業界ではあったというが、彼女はその持ち前の世渡り能力で続けられているのだろう。
結婚のお祝いをしようと電話したのに、俺のほうが気が楽になる。
『こっちこそ、わざわざ電話してくれてありがとう。私、明日も仕事だから』
安良さんが電話を切り上げる空気がして、俺は引き留めた。
「あっ、すみません安良さん、俺その、先輩に聞きたいことがあって」
『なに?畏まって』
聞くタイミングとしてはベストではないことを承知で、俺は質問することにした。安良さんとこうやって、周りを気にせずに話せるタイミングはそうないはずだ。
「あの、あまり気分のいい話じゃないと思いますが。…連続殺人事件の被害者がうちで葬儀するって噂を聞いたんですが、本当ですか?」
先輩は一瞬の間の後『いえ?誰?そんな噂してたの』と言う。
『葬儀をどこでしたかは知らないけど、うちでするなら耳に届いてるはずよ』
「そう、ですか」
『それに、遺体ってまだ警察から帰ってきてないんじゃない?私も事件関係の葬儀は受け持ったことないけど、孤独死とかはあるけど、あれはかかっても1日くらいだし。事件関係の葬儀って司法解剖した後に警察の方で火葬を済ませるんじゃなかったかな。お骨で帰ってくるなら検体とかと同じような感じで、骨葬が多いんじゃない?』
安良さんの言葉に、なんだ、と肩の荷が降りる。
「…変なこと聞いてすみません。安良先輩が知らないなら、間違いはないですね」
『わたし、噂には詳しいって自負してるからね。宮藤が彼女と別れたの知ってくるくらいには』
「ひい…」
くす、と安良さんが笑った気がした。
『誰だって気になるわよね。こんな身近で、とにかく物騒だもの。変な噂も耳に入ってきてる。オカルトはよく分からないけど、連続殺人なんて、なんでそんなことするのかしら」
それは、世間一般的な連続殺人事件に対する感想のように思えた。
常識を逸脱した事件が起きれば人はその理由を知りたくなる。その事件が起きた原因について知りたがる。ある人は犯人の家庭環境に要因を求めて、ある人は社会情勢に背景を求めるんだろう。
俺は、ただ早く事件が解決することを願っている。理由なんてなんでもいいから、早く、と。
「そうですね。俺も段々と人ごとじゃなくなってきて…気になってしまって。引き止めてしまってすみませんでした、おやすみなさい」
『うん、今度飲みに行こう』
「はい、ぜひ」
あちらから切れるのを待ってスマホを閉じる。
(アザを確かめるなんて、今の俺にはどうせ出来ない。葬儀の担当者でないなら会葬者としてコンタクトを取るしかないわけで、いつ遺体を確かめられるっていうんだ)
俺は糸が切れたみたいに、座った体勢から床に寝転がった。
「…結婚か」
ポツリと呟いた声が空中に霧散する。
(結婚ってなれば、もう、会社やめるんだろうな)
おめでたいと思う気持ちと寂しい気持ちがどちらもある…この気持ちはなんなんだろう。
告白もしてないのに、振られたかのような喪失感さえ感じている。
結婚報告を聞いてこんな気持ちになるなんて、俺は先輩が好きだったんだろうか、いや、そんな風に思ったことはなかった。
安良さんはたしかに綺麗だったと思うし、人当たりも良くて、一度くらいはこんな人が彼女ならなと思ったことはある。でも俺は最近まで付き合っていた彼女がいたし、彼女と過ごしている時に先輩を思い出したことはなかった。
俺は安良さんが結婚式に誘ってくれたことが嬉しかったから電話をしようと思った。例の噂を聞くことなんか、ついでだ。多くの人から慕われている安良さんが半年しか付き合いのない俺を誘おうと思ってくれたことは本当に嬉しくて、その気持ちは不純なものじゃない。
だからこれは、恋愛感情なんて惚けたものじゃない。
無意識に、安良さんと自分の現状と比較してしまったんだ。
当たり前だが、俺以外の人間も同じように時を過ごしている。
時間の進む速さだけは平等な俺たちは日々それぞれ選択を強いられているわけで、選ぶ道によって決定的に交わらない道を進むことにもなる。
先輩はいつのまにかゴールインをしていた。俺はゴールに向かって進むどころか振られて停滞している始末。
俺はいったい今まで何をしていたんだろう。なんて、ありがちな感傷は苦しく、この苦しさはリアルだと思い知らされる。
世界の進む速さ。
その速さに、取り残されそうになる。
俺は頭の後ろで手を組み、横を見た。横向きの世界に映る本棚の上には、テーブルから移動させた白いハンカチが乗っている。
(俺があげたん、だよな)
まだ、俺はハンカチの記憶を思い出せない。
せっかく返しに来てくれたのに、俺の貧相な脳は真っ当に働かない。
「はぁ、だめだ」
俺は起き上がって風呂に入ることにした。
寝る準備をすませて、布団に入る。
目を閉じると、引っ張られるみたいに意識がしずんでいった。
水の中を潜った時の、ぼやけて行く音みたいに。
俺の周りで起きているうるさい事柄たちが遠ざかっていく。
真っ暗な空間に、急に安良さんの顔が浮かんだ。
安良さんはクールで俺の前で声を上げて笑うことはなかったけど、うすく微笑んで、幸せそうな顔をしている。
あんな人の結婚相手はどんな人なんだろう、きっと俺よりもかっこよくて、立派で、頼り甲斐のある人なんだろう。
安良さんの顔をよく見ようとすると、今度は彼女の顔が浮かんできた。
パクパクと金魚みたいに動く口、「メール」と言っている気がする。
彼女が結婚報告してきたら、俺は傷つくんだろうな。
ありもしない過去の選択肢、なんてのを考えたりして、自分で傷を抉って。1人でいるとなんか、好きだったなって思ったりして。あんなこと、言わなきゃよかった。
できたら、結婚しても報告しないでほしい。なんて言ったらどう思うだろう。
心から祝福なんてできないから、知らないうちに幸せになって欲しいって考える、女々しいやつ。
彼女の後ろに、小さい子供が隠れている。
こんなところにいたのか。
小さな彼は、暗い顔をしている。
何を話せばいいんだろう。
あの時の俺には。
あのできごとがいちばんの武勇伝だった。
『白い光が包んだんだ、それはもう綺麗でさあ、あ、いや実際は目に痛かったんだけど』
無垢な目に見つめられる。
『宇宙人って本当にいるんですか?』
無垢な質問が返ってくる。
『知らない?この宇宙には星がいっぱいあるんだよ』
俺はそれに、手垢まみれの情報を返した。
『地球から見える星だけでもね、俺たちの住んでる地球は天の川銀河なんだけど、そのほんの一部しか確認できない、それでも4000個くらいって言われてる。それだけでもすごいのに、天の川銀河全体だと4000億個、さらに他の銀河も存在しているから掛け算で、1000兆以上にもなるんだよ』
『1000、ちょう?』
兆なんて概念もない子供に。
齧っただけの知識を披露することに、躊躇いはない。
『莫大な数だよね、ちょっと訳わからないくらい。人類は高度に発達した生命体っていうけど、こんなに多かったら数打てば当たる理論で地球並みの、地球以上の生命体がいる惑星があるのは当たり前なんだ。むしろ地球だけこんなに発達したなんてことは考えられないよ』
だから宇宙人は存在する。
俺は図鑑を見せた。宇宙の図鑑だ。
真っ黒なページに無数に散らばす白い点。
途方もない大きさを小さな画面に凝縮した絵を見て、喜んでいるように見えた。
『自分がちっぽけに思えてきます』
だから、自分がやってることの意味を誤魔化せた。
『すごいですね、宮藤さん』
純粋な少年の反応は、俺の何かを満たした。
俺が彼にしたことは決して褒められたことじゃなかった。
嫌な記憶だ。
嫌な感情だ。
俺は彼を代わりにしている。
俺は彼を入れ物にしている。
断続的に画面が切り替わる。
ぱらぱらと雪が舞っている。
『宮藤さん』
寒い中なぜこんな時間に扉の前に立っているのか。
白い肌が寒さでほのかに赤く染まる姿は痛々しく見える。
そんなところに立っていないで、暖かい中に入ればいいのに。
『はじめくん、どうしたの?』
柔らかな暖かさが、撫で付けるように俺を優しく起こす。
瞬きの間にも薄れゆく夢の内容、かろうじて残ったのは記憶から再生された映像だ。
(はじめくん)
はじめくんって呼んでたなあ、と寝ぼけた頭で思った。
どうりで、みんなが最所くんを”はじめ”と呼ぶのに違和感がないはずだ。
背伸びして起き上がる。カーテンを開けると、窓枠に四角で切り取られたような青があった。
雲ひとつないまっさらな青。
朝の空にも見えないが、星があるのだと忘れそうになる。
空を見上げなくなって久しい。
3
「おっ田中丸くん、いい調子だねー」
支配人の明るい声が響く。きゅきゅ、と小気味のいい音を立てて成績ボードに書かれる50の数字を、俺は自分の席から見ていた。
100万仏壇は言わずもがな、50万の売り上げは営業のいい達成ラインだという感覚が俺にも形作られてきた。
支配人に肩を叩かれ、恐縮そうにデスクから離れる田中丸さんに声をかける。
「田中丸さん、すごいですね。どちらに行かれてたんですか?」
「いやぁ、この近くだよ。葬儀が大きいところだったからねぇ、仏壇も快くぽん、とね。ふぅ。宮藤くんは午前何してたの?」
「俺は店舗で来客対応です、礼品をいくつか受けたくらいですよ」
「いいじゃない、俺のお客いたかな?」
田中丸さんは俺の机の上にある発注書を見る。俺は机に置いた袋詰めにされたお菓子の詰め合わせを手に取った。田中丸さんに声をかけた理由だ。
「お一人いましたよ。このお菓子、お世話になった担当者にって言われて、これを」
小さな巾着にごろごろと和菓子が入った可愛らしい見た目のそれを渡そうとすると、田中丸さんはにへら、と困ったように笑う。
「体壊してからお菓子を食べるとキツくて、医者にも止められてるんだよねぇ。宮藤くん、よかったら食べてよ」
「あ,そうなんですか?」
それは、食べないほうがいいだろう。
「いいんですか?」
「うん、嫌いじゃなければ」
俺はお言葉に甘えて、お菓子を机に戻した。田中丸さんは「そうだ」と思いついたように言う。
「宮藤くん。店舗にいたなら森さんに何があったか知ってる?」
「え?森さんですか、なにかあったんですか?」
「いや、さっき戻ってくる時に給湯室の前ですれ違ったんだけどね。彼女いつも元気なのに、なんだか特別元気がないように見えて」
「ああ…」
心当たりがあり、俺は目を逸らした。そういえば眞田さんがピンクのお弁当を持ってきていた、とか言って沈んでいたか。
「葬儀に関する仕事ってただでさえ陰気になるからさ、ちょっと心配なんだよねぇ」
「そう、ですね。俺もあとで声かけてみます」
「うん、よかったらそのお菓子、森さんにもわけてあげてよ」
「あ、はい」
田中丸さんと来客対応員を交代する形で昼休みに入ると、俺はもらったお菓子の袋からいくつか取り出してポケットに入れ、鞄を持ち休憩室に向かった。
思った通り、休憩室に繋がる廊下の途中の給湯室には、4、5人の女性社員がいたが、ガッチリ囲んだ女性社員たちはいくらなんでも男の俺からは話しかけづらかった。なんだ、あれ。ラグビーのスクラムか。
俺は休憩室に向かって先に昼ごはんを食べることにした。給湯室には眞田さんと数人の社員がいた。
「おつかれー」
「お疲れ様です」
俺は挨拶を返して眞田さんの座るテーブルに近づき、背中越しにそれを見た。
(これは…)
眞田さんの机にはピンクの弁当箱が置かれていた。
「眞田さん。そのお弁当は…手作りなんですか?」
失礼だが指をさして聞くと、眞田さんは「これか?」と弁当を持ち上げる。
「手づくりっつーか、勝手に作ってたんだよ。もういらねえって言ったんだけどな。押し付けられて、しょうがねえから食べてる」
「………昨日も、その弁当だったんですか?」
「あ?なんで知ってんだ?昨日は受注する家がたまたま家の近くでよ、寄ったら渡されたんだよ。一緒に住み始めてからやけに張り切ってんだよな」
なんてことだ。
俺は「あ、へぇ」と言い、休憩室を去り、給湯室に向かった。
給湯室に集う女性群に声をかけると開かれた事務員さん達の真ん中に、案の定、森さんがぐったりと座っていた。
俺は先ほどもらってホヤホヤのお菓子を手渡した。
「田中丸さんからもらったものなので、田中丸さんからと思って、受け取ってください…元気出してください」
「ううっ、優しさが、辛い時もあるのね」
ここにいる誰もが憐憫を抱いている。森さん、これはあなたの人徳です。そんな気持ちを込めて差し出したお菓子を、森さんは両手で受け取った。
「ありがとう…ずっとここにいちゃ、邪魔よね…」
事務員さんを引き連れ、森さんはぼとぼと事務所に戻っていった。
なんて寂しい後ろ姿なんだ。
午後の仕事は大丈夫だろうか。俺も地味にショックである。まさか眞田さんに同棲中の彼女がいるとは。彼女にフラれたことをバカにされた傷が、より苛立ちに変わってしまう。
俺は休憩室に行き、鞄から家から持ってきたカップラーメンを取り出した。最所くんおすすめのカップラーメンにお湯を入れると、地獄みたいな色になる。
(あっっか…)
人間が口にして大丈夫なのか、この色。
断って眞田さんの机の前に座る。
眞田さんがピンク色の箸を突き刺す、お弁当箱の中をちらり、と見る。
(うわっ)
お弁当はしきりでおにぎりと野菜に分けられており、肉らしきものはないが、それはまぁまだ一般的だろう。目につくのはおにぎりだ。ひとつづつにU、M、Aと器用に切り取られた海苔が貼られ、並べて納められている。
俺は感情を表に出さないように努めた。
(趣味に、理解がある方なんですねえ…)
相手も変わってるようだ。聞くと疲れそうなので聞かないことにした。
俺は麺を啜ってみた。
「ごほぉっ!」
咽せた。
「うわなんだその色、人間が食う色じゃねえぞ」
眞田さんの言葉に、すぐに返事ができない。
口から通った強烈な辛さ、いや痛さに、目、鼻、耳、全ての器官がエマージェンシーを発している。箸を持つ指先すら震えている気がする、辛さって、こんなに神経直通で喰らうものなのか。
眞田さんが顔を覗き込んで、ラップに包まれたUのおにぎりを近づけてきた。
「食うか?」「いや、いいです怖いんで」
感情が込められてそうなおにぎりを断る。
「午後持たねえぞ」
「食べれます」
おすすめされたのだから、最所くんに味の感想を言うべきだ。咀嚼する前に飲み込めばいけるだろう。
赤に塗れた麺を思い切って口に含んだ。
舌に麺を置く時間を限りなくゼロにすれば痛みは時間差でやってくる。結局同じくらいの痛みはくるのだが、目の前の劇薬を処理するにはこの食べ方しかない。なぜこんな拷問を受けてるのかは分からない。
「宮藤って辛いもの好きだったっけ」
「ひや、ひょへはひょんらでも」
「なんて?」
横に置いていた水を飲む。
「いつからユーチューバーになったんだ?お前」
「、きのう、最所君に会ったんです。このひゃ、カ、ップラーメンをお勧めしてもらって、買ってみまし…」
喉、口内を水が通り、過ぎ去れば灼熱のような痛みが走ってきて悶絶した。
水を飲むことで、辛さが舌全体に広がってるんだ、くそ、これじゃ麺を舌に置く時間ゼロにしても同じじゃないか?!
「無理して食ったら腹壊すぞ」
口を閉じて、波が去る一瞬の隙に喋る。
「いけます、京子ちゃんじゃないですがうちは残さずに食べろって家訓なんです」
あの歳で”隣人を愛せよ”と立派な家訓を口にした彼女を引き合いに出す。
「昨日って、昨日は安良と電話してたんだろ?」
眞田さんはUのおにぎりを食べている。
「え、なんで知ってるんですか」と声に出なかったが、眞田さんは俺の顔で分かったようだ。
「さっきあっちに用があってな、安良が電話に出たんだよ。「眞田さん!宮藤にあんまり変なこと教えないでくださいね!」だってよ、あいつ俺に遠慮なさすぎじゃないか?」
俺は、眞田さんが話してる間に休めた口を開いた。
「一緒に働いたことあったんですか?」
「イベントとかで絡んだことはある、その時にウザ絡みしすぎたかな。でも、2人で電話ってお前らってなーんか怪しいよな?お前今フリーだし?もう古巣で彼女作りと」
言い方…。
安良さんの結婚の話は伏せよう、森さんの耳に入ったら可哀想だ。
「眞田さんみたいな人がモテるから、その代わりに割を食う男が出てくるんだと思うとやらせないものがありますね」
「あ?なんの話だ?」
「いえ、安良さんとはただ話をしただけです。確認したいこともあって…例の事件絡みで」
「へえ」
双眸がきらりと輝いた。食い気味に体を寄せて来る。
「被害者がウチで葬儀をするって言うあの噂、本当だったのか」
「それは違うみたいです。噂を流した人が作為的かはどうかは知りませんが、そんな事実はないとのことです」
「なんだ、つまりは収穫無しか」
眞田さんは打って変わってつまらなそうに頬杖をつく。
喜怒哀楽が分かりやすい人だ、そんな感じで営業もできると言うのは、どういうわけなんだろうか。
「他にも色々と話しましたよ。眞田さんの話もしましたし」
「どうせ悪口だろ」
「よく分かりましたね」
眞田さんは面白くないと顔を顰める。
「悪口で盛りあがんな、暇か。って安良に言っとけ」
「俺は伝書鳩じゃないので自分で言ってください」
『今日が危険だということで、第四の事件を恐れる近隣住民の方のご不安は計り知れません。今回の事件の警察の対応についてどう思われますか?』
『警察は夜の外出を自粛するように、との声明を出しはしましたが、捜査の進展がどの程度まで進んでいるのか、市民が知りたいのはそこなんですよ。ここまで短期間のうちに連続したシリアルキラーというのは日本ではあまり例を見ません。私が思うにはですね、犯人は秩序型ではないかと』
連続殺人事件のニュースは続報がないのに需要はあるからか、事件内容よりもコメンテーターを呼んでの警察の批判が目立ってきた。
第一の殺人から1週間が経つのに犯人が捕まらないということは連続殺人は無差別殺人である可能性が高い、という話を聞きながら、そんなことをわざわざ言う必要性が分からない、と思う。被害者に接点がないことは、被害者達の情報を見ればなんとなく分かる。犯人が捕まらないのは被害者との接点が見つけられないからだと、誰でもそう考えるものなんじゃないか。
ニュースのキャスターは監視カメラの設置について話題を移した。大して賑わってもいない辺鄙な町に監視カメラが少ないことはよくあることだと思うが、専門家は日本と他国との比較をし始める。
「眞田さんはおかしいって思わないんですか?」
「なにが?」
「最所くんの言動です。宇宙人に会いにいくって言われましたよ。俺に、その場にいて見ていて欲しいって。なんなんですか、あれ」
眞田さんは、はは、と笑った。
「引いてんじゃん」
「…そんな」
「あいつがもっとフランクに宇宙人探ししまーすって言ってると思ったのか?好きなバンドに会いたいからライブに行きたーいみたいな?行動力ってのはやっぱ若さだよなあ、あれだろ、好きなバンドの信者が自宅特定しちゃうみたいなノリだろ?あいつの行動はレベル高いけど、やってることは理にかなってるだろ」
「…かなってますか?」
事務所内にはテレビの音が聞こえている、その音に馴染む眞田さんの言葉がどれだけ非日常的かは、俺以外きっと、誰も理解していない。
「宇宙人を殺して回ってる宇宙人がいて、それを見つけるために宇宙人と人間を見分ける方法を見つけて、宇宙人っぽいやつを見つけたらそいつをマークして、そんで殺しに来るだろう宇宙人を捕まえるんだろ?」
「…ずっと思ってたんですけど、眞田さんってそういうの全部、本気で言ってるんですか?」
「火のないところに煙は立たないっていうだろ。頭で検討をこねくり回したって体験すればわかることの方が多い。百聞は一見にしかずだか、論より証拠だか、色々言い方はあるが、先人の意見は現代でも通用することは多いよな」
瞳は年に似合わない輝きを取り戻していた。
「お前の疑惑は今日解消されるかもしれないんだ、お前もあの話、乗ったんだろ?」
午後も変わらず、大した仕事も振られなかった。
辛さでやられた神経が昂っているのか、カチカチという秒針の音をやけに感じる。
時間は無常にも確実に過ぎ去っていく。
時計をチラチラとみていた眞田さんが振り返り、目が合った。
逃げられそうにない。
4
俺と眞田さんの乗せた車はパーキングに止まった。
最所くんに指定された公園の近くにはパーキングはなかったので、歩きで10分ほどかかるが一番近いパーキングに止めることになった。
運転している時はうるさかった眞田さんは歩いてる最中には落ち着いていて、静かな夜に歩く音だけが響いている。住宅街が隣接している夜道だからか、こういう時にだけ場をわきまえる眞田さんを恨めしく思う。俺から話しかけても大して会話が続かず、公園につくまでの気休めにはならなかった。
夜の公園は想像よりも幾分不気味だった。昼間とは別世界のように暗く、木々の鮮やかな緑も、夜には影絵のように立体感がなくなっている。近くで聞こえる街灯のジ、ジという電子音。遠くで聞こえる電車が走る亀裂音。のっぺりとした暗闇に遠近感がなくなりそうな足元。木々に囲まれた公園を回り込んで入り口から入ると、影が公園の闇からこちらに手を振った。
「宮藤さん!」
「俺の名前も呼べよ」
眞田さんのツッコミに、その人物はすんなりと返した。
「兄さんも来てくれてありがとう。宮藤さん、お仕事お疲れ様です」
「うん。なんだか、いつもと違うね」
一瞬、ここにいる彼が最所くんだとは分からなかった。
なにせ、彼は茶髪になっていた。
服装も、赤色のレーザー服という若者らしい洒落た服装に身を包んでいる。
彼の周りにオカルト研究部の仲間はいない。薄々分かってはいたが、これは最所くんの単独行動だ。
「こんな服持ってたか?どうなってんだこれ」
服の構造を探るようにベタベタと触る眞田さんがフードを上げてパッと離すと、最所くんは慣れたように後ろに直した。
「ウィッグ被っただけですよ、この服は着てなかったものを引っ張り出してきました。できる範囲の身バレ対策です」
これだけ変化すれば雰囲気も変わるものだ、今時の都会にいるような別人がそこにいるように感じる。
(ほんと、大きくなったなぁ)と、改めて思う。
夢で再現されたいつかの最所くんは幼くて、可愛らしいという表現が適切な、女の子のように可憐な子供だった。目の前の彼は女の子のような可憐さと打って変わり、男らしさが前面に出てきている。
俺よりも高い位置にある顔が、不意にこちらを見た。
「宮藤さん、カップラーメンはもう食べられました?」
「カップラーメン?ああ、あの」
「あ、おいしかったよ!コクがあって!」
眞田さんが余計なことを言う前に遮った。
まだ舌は痺れているが、俺は地獄のラーメンをきちんと食べ切ったのだ。汗を流して耐え切った俺を眞田さんはしっかり目撃している。眞田さんのことだ、止めなければヒイヒイ涙流しながら食べてたぞ、なんて言いかねない。俺の沽券にかかわる。
「よかった、また美味しいの思い出したんですよ。えーと、激辛、麻婆辛麺、豚骨醤油風味、ゴツ盛りってやつです」
盛り盛りすぎる。
「そう、買ってみるよ」
横でニヤニヤする眞田さんを俺は無視した。
「はい」と言うと、最所くんは上を見上げた。
空の月を見てるのかと思ったが、俺も上を見て、公園に備え付けられた時計を見ているのだと気づいた。
空は雲に覆われて月の光は出ていない。
「もうそろそろ来ると思います」
知らせる声に、ぐ、と緊張感が高まる。顔に出ていたのか、最所くんは俺に語りかけるようにゆっくりと話す。
「宮藤さん、心配しないでください。何もしなくてもいいですから。あのベンチで周りを見ててくれるだけで、俺には充分です」
そう言って公園の外を指差した。
暗闇に溶け込んでいて見えづらかったが、木々の下にベンチが見えた。公園内には何台か置かれているようだ。最所くんの指は一番外側、大通りに面したベンチを指している。
「俺もなんもしないからな?」
眞田さんの念押しに「いまさら期待してないよ」と、最所くんはフードを目深にかぶる。あらかじめ決めていたわけではないが、それが行動の合図だと察することはできた。
言われた通り、俺と眞田さんは大通りに向かって歩く。
最初くんは1人で公園の中に突っ立って、次第に遠ざかっていく。2人並んでベンチに座れば、最所くんの姿は手のひらサイズくらいに小さくなった。
公園のブランコが風で、きいきいと揺れている。
俯瞰して見れば、ベンチに座って何をしてるんだろうか、俺たちは。
宇宙人に会うなんて、成人男性が人に話せば笑い話にもならない。
眞田さんはどうか知らないが、俺は二人の話には懐疑的だ。
白い魂は宇宙人なのかどうか。
そもそも、白い魂も宇宙人も存在するのか、なんて、議論することすら馬鹿馬鹿しい、一般的な常識を持っていれば誰だってそう考える。
俺が唯一、信じられると思うのは最所くんの説明ができない超感覚だけだ。1000円札を当てたこと、俺たちのいる場所を探し出したこと。彼には一般人に説明できない何かがある、それだけは信じられる。
彼が待つその誰かが来たら、眞田さんはどっちであっても面白がるだろうが、俺はどうすればいいのだろう。
身を硬くする緊張は、どっちのものなんだろう。
俺は最所くんが大人に失礼なことをして怒られることを心配しているのか。宇宙人が来る可能性があると思っているのか。
そりゃ、確率で言えばゼロじゃない。車のかもしれない運転みたいな話で、可能性を考えればキリはない。次の瞬間に隕石が地球に落ちて来る可能性だってあるんだから。
いっそ、宇宙人なら宇宙人で、何か宇宙人らしいアクションを起こしてくれないだろうか、と思う。そうすれば信じられるのに、そうすれば…
ざ、ざ
なんの音もない空間に、アスファルトを歩く音が響いてくる。
履き古した靴でアスファルトを歩けばこんな音がするだろう、という音。
本当に来た、のか。
大通りの方面、つまりこちら側から人影が公園に向かって歩いてくるのを視認する。まだあれだけ遠いのに、耳がやけに敏感に音を拾っている。
平均的な歩幅で近づいてくる人影。
輪郭をはっきりさせていく影を、ベンチに座って見ている。
ベンチを隠すほどの影を作る木に助けられて、あちらからは俺たちの姿は見えないだろうとは推測がついた。
スーツ姿の中年男性は左右に体を揺らしながら歩いている。咳き込んでいる音なんかも聞こえてくる。
「…あの、…ただの人にしか見えないんですが」
俺はすぐ隣の眞田さんに問いかける。眞田さんも小声で返してくる。
「そりゃそうだろ、あいつがいうには、殺されてるのは人間になりすましている宇宙人ってことなんだろ。あざがあるんだったよな、見えるか?」
小さな声で聞かれ、無茶なこと言うなよ、と思う。
「…見えないです、近くから蛍光灯の下に立ってくれれば、見えるかもしれないですけど」
俺は声が欲しくて声を出す。肋の奥でうるさく鼓動する心臓の音が眞田さんに聞こえていないか、俺は心配になる。
「あざ、こめかみでしたよね」
人影は俺たちに気づく様子もなく正面、およそ10mほど前を通り過ぎる。
「知ってるか、俺は調べて知ったんだけどよ。聖痕っていうのはロンギヌスの槍に刺された手足の傷だけじゃなくて、荊棘の傷もあるんだ」
眞田さんの小さな返答は、質問に対して的外れなものだった。
「…急になんですか」
「こめかみの辺りはちょうどだよな」
「ちょっとよろしいですか?」
該当アンケートを頼むような口調で、最所くんは人物に声をかけた。
夜の、静かな空間だ。普通の声量だとこちらまでかろうじて聞こえてくる。
「は?」と人物はしわがれた声を上げる。
「すみません、この辺りで鍵を見かけてたらと思って声をかけたんですが…」
「カギ?いや、見てないが」
「そうですか、うわぁ、どこにいったんだろう。さっきまで公園にいて、家に帰ってからないことに気づいたので、この辺りに絶対あると思うんですけど」
「…ああ、鍵を落としたのか」
「はい、そうなんです」
2人の影はキョロキョロと辺りを見回す。
「この辺りは街灯がないからよく見えないな、どこで落としたか分かれば探しようもあるが…」
「もしかしたら、あの草むらに落ちたのかもしれません」
影が腕を伸ばして公園の奥、木々が生えた草むらを指す。もう一つの影が緩慢にのけぞる。
「あそこか、」
「実はもう1時間も探してるんですけど、見つからなくて、家に、帰れなくて」
「ああ、そう。たしかにこの暗さじゃすぐには見つからないか。そうだな、親御さんに連絡をしたらどうかな」
「俺は携帯を持っていなくて、だから、ライトもないんです…あの、もしよければ」
「…ああわかった、探してみて、なかったらわたしの携帯で連絡を取りなさい」
2人は公園に入っていく。男性は背広を脱いで腕にかけた。
一連の流れは、どう見たって人間同士の会話だった。
「…これで終わりじゃないんですか?」
俺は眞田さんに聞く。俺が彼から聞いていないことを眞田さんは聞いているのか、と思ったからだ。
「接触するって、会話が終わって、もう終わりなんじゃないんですか?まだ何かするんですか?なんで草むらに行ってるんで」
草むらに進み、先についた人影が棒状の何かを持ち上げ、人影の肩あたりを思いっきりフルスイングした。
「!」
思考が追いつくより先に、声が響く。
「な、なんなんだ!」
思わず瞑ってしまった俺の目に、尻餅をついて驚いている男性が映る。
「激しいな」
監視として割り切っていた眞田さんも、俺と同じで目の前の状況に釘付けになっている。
「と、止めた方が」
俺の言葉とほぼ同時。
赤い後ろ姿が、流れるように男性にかぶさって見えた。
バチ
かすかに、あたりに響く弾ける音。
起き上がった人影の前に、ちいさく山なりにのびた影。
影の右手には、ちょうど掌サイズほどの四角い固形物が握られていた。
「…ガチの犯罪を目にしたら、割と引くな」
まさか、ここまでするとは、という思いは、眞田さんと俺で共通しているようだった。
周りに人がいないことを確認し、おそるおそる、彼に近づく。
なにかあったと感じさせない彼の綺麗な笑顔は、その場に似つかわしくなかった。俺たちを迎える彼の足元にはうずくまる男性がいるという、意味の分かりたくない光景だ。
「綺麗にのびてんな」と、普段よりも固い眞田さんの声。
「市販のスタンガンを改造したんだよ。ちょっと跡が残るかもしれないけど、一度でも当たれば気絶する」と、最所くんの声。
続いてバチ!と、大きな電気の音。
近くで聞くとひどく耳障りな音を発するそれを、彼はポケットにいれる。ダボっとした彼のズボンにスタンガンはすっぽりと収まった。
俺は足元の草むらを見た。
木製のバットは草むらの上に無造作に寝ている。
俺たちが来る前に用意していたのか。
「兄さん、人が来ないか見張っててくれないかな。3分くらいで終わると思う。もし人が来たら走ってきて、すぐに逃げよう」
「仕方ねえな…、」
眞田さんの声には諦めが滲んでいるように思えた。
最所くんは男性のポケットを漁り、いつのまにか手袋をはめていた手でスマホを取り出している、その姿をただ見て、何をいうべきか迷った。いや、迷ったなんて言葉は適切じゃない。俺はほとんど、取り乱していた。
(…止めた方が、良かったんじゃないか)
思って、すぐに無理だったろうと思った。ベンチからここまで、彼がスタンガンを使ってしまうまでには間に合わない距離だ。
こんなの、子供の悪戯ではすまされない
宇宙人がいるなら遊んでみたいくらいの、可愛い物じゃないことは彼の執念を見れば予想できていたはずだ。
今や、地面に寝ている人物が宇宙人であることを祈るしかない。
宇宙人でなければ、これはれっきとした犯罪。
傷害事件だ。
「…これからどうするの」
「このまま白い魂が出るまでどこかに監禁したいんですが、それは難しいので、常に監視できるように工作します」
最所くんはそう言い、男性のスマホのアクセサリに何かを繋いだ。
「GPSです」
説明はそれだけだった。
「これでこの人がどこにいても分かるようになります。この人が殺されればGPSは動かなくなる。目の前に立って分かりましたが反応は人間そのものですね。すこし鈍かったくらいなので、まだ期限が残ってるかもしれません」
最所くんは繋いでいた機器を外した。淡々と説明される言葉が脳に入ってこない、彼に問いかけながらも、俺はずっと違うことを考えていたからだ。
(この人は、本当に宇宙人なのか?)
先ほど交わされていた会話を聞いても、人よりも優しそうなただの中年男性だった。鍵探しを手伝ってくれるといったのは最所くんの演技力の成せる技なのかもしれないが、大人は、相手が子供というだけで油断をする。草むらに入ると言うことでジャケットを脱いでしっかり探そうとしてくれていたのだろうと人となりを察することができる。その背広も、男性の横に広がっている。
ぐったりと横たわる男性。
気絶しているだけだと説明を受けても、目を閉じてだらんと生気のない顔を見ていると急激に恐ろしくなる。
犯罪の一部始終を、偶然見てしまったような感覚。
アザを見るだけなら別に、気絶させなくても方法はあったんじゃないか。俺は考えて、沸き立つように別の可能性が脳裏を掠めた。
ただ会話するだけなのに、最所くんは身バレ対策をしなければいけないのか。
もしかして、彼は反応を見るためにバットで攻撃しようとしたのか。彼のバットの軌道、気絶を狙える後頭部、首裏ではなく、肩を狙ったその意図はそこにあるのではないか?
またズボンを漁り、財布を取り出す。その中から免許証を取り出し、開いた手で最所くんは男性の髪の毛をつかみ、上に持ち上げた。
まるでものを扱うような乱暴な動作に、ぎょっとする。
スーパーでカップ麺をカゴに入れる時の乱雑さと似ている。
綺麗な横顔がこめかみを凝視している。
「…あざ、大きいね」
俺は、何かを言わないとこの静寂に耐えれられないと思った。
初めて近くで見たそのあざは、俺たちの認識するところの一般的なあざより少し大きめだ。
だからといって、そういう人はたくさんいるだろうし、色が変だとか何か本能的に違和感を感じるといったものではない。
「すみません」
感情を感じさせない冷静な声。フードの下、茶色の髪の毛から覗く目が俺を見る。
「フラッシュを焚くので横にズレてくれませんか?」
バカみたいにいわれるまま、彼の横に移動し道側から隠すように立つ。
かしゃ、かしゃ、と無機質な音がする。フラッシュが焚かれ、目を細めた。
どこを見ていいかわからず、草むらを遮るように立っている眞田さんの方を見る。
手を大きく広げて、街灯の光が反射光となって丸い輪郭を作っている。
終わったのだ、と思う。
これからGPSで監視すれば、この人が宇宙人がどうかはいずれ分かる。この人がリーパーに襲われて死んだら、最所君の考えが当たっていたということになる。
間違っているなんて考えたくはなかった。
ごく、と息をのんだ。
ひりつく喉が痛みを訴える。
「宮藤さん」
上を向いて、最所くんのパーカーが脱げた。
茶色の前髪が、目に深く影を落としている。
10年前の彼を思い出した。
「もう大丈夫です、よく撮れました」
この子は、本当に昔、俺の家に来ていた子供なんだろうか。
最所くんはこんなことができるような子だったんだろうか。
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