勿忘草

高槻一紗

ゆびさきのあか


その時は識らなかった音の羅列 あれはたぶん「ありがとう」だった


何度も何度も書いてきた三文字を愛しく思う日が来るなんて


荒れ狂うからだの中から滲み出す熱いまぶたと指先の赤


(ずっとここに居てはくれないものなんだとどこかでわかっていたはずなのに)


10回目の梅雨に生まれた空席を埋めたくないかわいそうな食卓


出逢っては別れて出逢ってまた別れて億劫になっていく春


ドラマじゃないんだから、ましてや映画でも小説でもないはずなんだけど


幼さにそそのかされてあの人を突き刺した稚拙に震える青


首筋を伝って落ちるうしろめたさ サナギが羽化するまでもうわずか


鳥籠でも温室でもない此処から逃げる必要なんてなかったのに




入道雲を背負いながら立ち竦む足元にまとわりつく黒い影


少しだけ色褪せたタクシーの広告 見上げた先には止まった時計


背の低いマンションの群れの中で要塞のようにそびえるショッピングモール


(きっとそうだ私の居場所じゃなかったんだって言い聞かせることしかできなくて)


20回目の菊の花と蚊取り線香と定期入れに潜んだ名残り


年賀状、暑中見舞いに残暑見舞い、招待状も引き出しの中


この赤もこの青も私は知っている 知っていても傷つくものなんだなあ


あなたと私 椅子は四脚 部屋は三つ 年に一度の出番を待って


金木犀の香りが満ちる そういえばあの人が好きだと笑っていた


はじめての音は「ありがとう」だったんだなって気づけて綻ぶしわくちゃの顔


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