固有名詞を取り戻す

紫鳥コウ

固有名詞を取り戻す

 憧れのひとと同じことをしたくなる、というのは珍しくないだろう。推しの趣味に自分も手をだしたり、子供ならば「スーパーマンごっこ」という形で、公園でヒーローを演じたりする。

 それに似たことを、わたしもしている。


 わたしには〈師〉がいる。小説執筆を再開し、同人活動をはじめるきっかけを与えて下さった、イラストレーターの方のことだ。


 修士論文を書いていた大学院生のころ、わたしには深刻な悩みがあった。

 それは、博士課程へ進むにしても、このまま自分の研究を続けたところで、誰かの役に立つのだろうか、というものだ。

 また、当時の社会状況は、それに代わる選択肢を与えてくれなかった。いわば、家のなかに閉じこもる時間が増えて鬱々としていたのだ。


 そんなときにSNSを散策していると、あるハッシュタグを見かけた。それは、イラスト関係のタグだった。

 興味本位でクリックをしてみた。

 最初に飛びこんできたイラストに、わたしはこころを激しく揺さぶられた。その美しい青色に、自分の悩みがせていくのを感じた。


 それから一週間経っても、その興奮は去ることがなく、自分も悩み苦しむだれかに温かい気持ちを与えられるような存在になりたいと思い立ち、大学院進学とともに断念した小説の執筆を再開し、同人活動をはじめたのである。


 そして、わたしを救って下さった、そのイラストレーターの方のことを崇拝するようになり、同人誌やグッズが出れば必ず買い、有料のブログにも課金した。

 さらに、その方のことを、断りもなく〈師〉として敬うようになり、身勝手にも、自分を〈弟子〉と位置付けるようになったのである。


 と、こういう経緯から、わたしは〈師〉のスタンスを「真似る」ようになった。例えば、

《SNSは宣伝のためだけに使い、日常のことは一切投稿しない》

 というのは、その中のひとつである。


 わたしのアカウントは、いまや、自作を宣伝するためだけのものになっている。しかしこのスタンスを崩さないことが、〈師〉の背中を追う姿勢であると信じている。

 いや、信じていたのだ。


     *     *     *


 ある日、わたしは偶然、鹿野しかのという親友と再会した。

 この鹿野という人物のことは、いくつかの私小説で言及してきたが、少しだけ補足しておくと、翻訳を生業なりわいとしており、将来的には、どのような言語でも別の言語に訳しうる翻訳者になりたいと志向している、仕事の鬼である。

 そして、わたしの作品に厳しい感想をくれる、辛辣しんらつな批評家でもある。


 再会した場所というのは、ある駅前のカフェなのだが、待ち合わせをしたわけではなく、偶々たまたま見つけてこちらから声をかけたのである。

 それからひとつのテーブルに向かい合い、彼女の次の仕事までのあいだ、他愛ない話をしていた。


 この日の鹿野は、紅色べにいろのニットワンピースを着ていて、ブラウンのストレートヘアーは、見ないうちに、ばっさりと切られていた。

 なんでも、うっとうしいから切ったのだという。仕事に集中しているときに、髪が垂れてくる感覚が気持ち悪くなったとのことだ。


「ところで、あーしを親友じゃなくて、恋の相手として見ていたときがあったんだってねえ」

 わたしは、ある長篇の私小説で、知人と話をしたことをきっかけに、結婚をしなければならないという強迫観念に駆られ、思考を積み重ねているうちに、鹿野を恋の相手として眼差まなざしてしまった、ということを書いていた。

「少しくらい、そう考えていたことはあった」

「ふうん。まあ、べつにどうでもいいけど」


 その後、ある話題をきっかけに、わたしが〈師〉のスタンスの、ほとんどすべてを真似しているということを話したところ、彼女は「いつも通りの」辛辣な批評を下してきた。


「じゃあ、洋ちゃんは、〈弟子〉という一般名詞で呼ばれ続けてもいいわけだ。ひとりの物書き〈柴島ツメ〉というかけがえのない一人ではなくて。だってそうでしょう。憧れのひととまったく同じことをしていたら、洋ちゃんの個性なんて誰も認めてくれないよ。それって、今後の創作活動に悪い影響がでるって思わないの?」


 まくし立てるようにそう弁じたあと、鹿野は仕事へと行ってしまった。

 ひとり取り残されたわたしは、まだ半分しか減っていないアイスコーヒーを見ながら、自分のふるまいを思い返した。……


     *     *     *


 その夜、わたしは思い切って、SNSにこんな投稿をした。


《掌篇小説を一作書きおえた!》


 わたしは〈師〉のスタンスを真似し続けたい。それが〈弟子〉のあるべき姿だと思うから。

 だけど、鹿野の言っていることにも一理ある。

 だとするならば、創作に関係する短文を、たまに投稿するのが、相応ふさわしいのではないだろうか。



 〈了〉

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