第十五話
欠け始めた月が照らす夜の、イルーニュにほど近い小さな村。
あちこちに白いかがり火が焚かれた村の中央の広場で、白い祭服を纏った十名ほどの男たちがひと際大きな真白の聖火を囲んでいた。囲むと言っても火に背中を向けた彼らの意識は、外に広がる夜の方へと向けられていた。
かがり火に吊るされた香炉からは、異類を退ける香りが漂っている。村を囲う背の高い石塀の中に埋め込まれた木製の門は、夜がこれ以上入り込んでくるのを拒むかのように、固く閉ざされていた。
門を注視していた男の一人が、乾いた唇を舐める。中年のその男は腰から携帯式の香炉を吊り下げ、ランタンが装着された銃を構えていた。ランタンを提げるために上下逆の垂直グリップを用いたソレは、狩人用の特殊な代物だ。
そう、男は狩人だ。ここに居る男たちは、一人残らず狩人だった。血狂いの――より正確には、血狂いと目される人相書きの男の――目撃情報を受け、村の警護のために急遽かき集められた狩人たちだ。
村人たちは全員、広場を抜けた先の教会に集められている。教会の周囲に設けられた香と聖火の結界の中で朝を待つ彼らを護り抜くこと、そして可能ならば血狂いを討つこと。それが彼らの今夜の使命だった。
「血狂いのヤツ、来ますかね」
かさついた声でつぶやく間も、ランタン銃の狩人の銃口は門へと向けられていた。
「来るなら来い……と、言いたいところだが」
縮れた白髪を厚手の帽子の下へ押し込んだ老狩人が、聖火ライターの具合を確かめながら唸る。右手は常に、腰に佩いた狩猟剣の柄に触れていた。
「昼間に狩り出すならともかく、夜に迎え撃つとなるとそうもいかん。正直なことを言やぁ、もう少し人手があったほうだ安心だな」
「でも、相手は一匹なんでしょう? いくら人狼と言ったって……」
ランタンが装着された連射式クロスボウを手にした、まだ若い狩人が言った。微かに強張りを感じる声や目つきからすると、油断や慢心よりはむしろ空元気の類なのだろう。
「一匹だからだよ」
白髪の狩人の手の中で、ライターがカチンと音を立てる。
「人狼ってのは、オオカミと同じで基本は群れの生き物なんだよ。……はぐれになるのは、群れに居られない異常なヤツだけだ」
そういうやつほど凶暴で、そして強力だ。しかもはぐれになるようなヤツに限って、人に化けるのが異様に上手いと来ている。はぐれの擬態を見抜くのは、熟練の狩人であっても至難の業だ。だからはぐれの人狼は、全ての異類の中でも群を抜いて脅威的な存在だった。
白髪の狩人が昔話を続ける。
「何年か前、昔馴染のところではぐれが一匹出たことがあってな。そりゃあ凶暴だし強ええしで、狩人もそうでないのも、何十人も食われたって話だ」
若い狩人の顔が音を立てて青ざめる。小さく呻いて口元を覆った彼は、あわてて水筒に口をつけた。こみ上げたものを水と一緒に飲み干し、恐る恐るといった様子で問いかける。
「そのはぐれは……どうなったんですか?」
「ある日、ぱったりと現れなくなった」
「逃げたんですか?」
「かもしれん。……最後に目撃されたのが、お抱えの狩人が居るって噂の貴族の家だったらしくてな。そこで狩られたなんて噂もあったが」
言いながら、自分でも眉唾物だと感じているのだろう。白髪の狩人は、白けた顔をしていた。若い狩人も、さすがにさめた顔をしている。
「お抱えって……一人や二人抱えてるくらいで、そんな凶暴なヤツ狩れるわけ」
「まあな。あまりにも突然だったから、そういう噂が流れたってだけだ。……まあコイツは極めつけの例だが、とにかくはぐれの人狼ってのは一匹だからこそ危険なんだ。お前もわかったら――」
ドンッ。
狩人たちの間を、稲妻のような緊張が走った。得物が、意識が、五感のすべてが、たった今音のした方へ――閉ざされた門へと向けられる。
ドンッ、ドンッ。
狩人たちが注視する中、門の向こうから再び音が響いた。外から誰かが門を叩いている。人狼が門を破ろうとしているにしては、いささか弱弱しい音だった。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
三度門が叩かれる。今度は呻き声のおまけつきだった。分厚い門越しに聞こえたその声は、助けを求めているかのような、どこか哀れっぽい響きを伴うものだった。
「……っ、自分が見てきます」
もしもこれが、異類に追われた哀れな旅人の類だったら。その考えを捨てきれなくなったのか、若い狩人が門へ向かって歩き出す。ランタン銃を携えた狩人が二人ほど、万一に備えて後ろへついていった。
門扉の下部に取り付けられた覗き穴から、ランタンをかざして目を凝らす。
「うおっ……!?」
傷だらけの男の顔が、覗き穴にへばりついていた。そしてまた、ドンッと扉を叩く音。ずるずると力なく、男の顔は覗き穴の向こうを滑り落ちていく。
「け、怪我人です! まだ生きてる!」
「入れてやれ! 急げ!」
白髪の狩人の号令で、大人一人がやっと通れるくらい細く門が開く。すると先ほどの男が、声もなく倒れ込んできた。
若い狩人とランタン銃の狩人の一人が、両腕をつかんで中へと引っ張り込む。思いきり地面に引きずる形になったが、悠長に抱えている余裕などないのだから仕方ない。
男を回収すると、門はすぐに閉じた。
男は全身傷だらけで、ひどい有様だった。服の至る所を引き裂く痕は、爪もあれば牙によるものもある。特に右肩の痕はひどいもので、シャツごと肉がえぐれたようになっていた。
意識を保たせようと、若い狩人は男の肩を揺すりながら呼びかける。仲間たちとアイコンタクトをかわし、男の手当の準備も同時に進めていた。
「この傷は何にやられたんですか? もしや、赤黒い毛並みの人狼では!?」
狩人が血狂いの特徴を口にした時、男の身体がびくりと震えた。死人のようにうなだれていたのが、バネ仕掛けじみた動きで顔を上げる。
細い爪痕が幾条も刻みつけられた額が、恐怖に見開いたまま固まってしまったような血走り引きつった目が、血と泥のこびりついた頬が、歯を食いしばるあまりに裂けたようにさえ見える口元が、かがり火とランタンの明かりのもと顕わになる。
ガチガチと歯を鳴らして身体を震わせる男の顔に、若い狩人は既視感があった。頭の裏を爪でひっかかれるような感覚がして、半ば睨むように男の顔を凝視する。
「おい、これに乗せろ!」
中年の狩人がタンカを持って駆け寄って時、彼は男の正体に気付いて一歩後ずさった。
同じ顔だった。ひどい有様となって歪みきったその男は、血狂いと目される人相書きと同じ顔をしていたのだ。
ぞわ。
狩人は、身を引く勢いのまま後方へ跳躍。飛び退る間にクロスボウを構え、着地の瞬間にはもう男に向けて照準している。
「こいつです! こいつが――」
そして引き金にかけた指へ力を、
どちゃり。
狩人と男の間に、赤黒い湿ったものが落ちてきた。クロスボウの照準はそのままに、若い狩人は視線だけでその赤黒いものを追った。
4つの足。食いちぎられたようになくなった、肩の間の肉。びくびくと震えて血を噴き出すそれは、多分何かの動物の死体だった。
投げ込んだのは、男ではない。彼は先ほどの姿勢からまったく動いていないし、第一こんなものを隠し持てる恰好はしていない。
ならば誰が、いや――何が投げ込んだのか。鼻を突き刺す鉄臭さと獣臭さに、胃から酸っぱく焼け付くものがこみ上げる。水筒を手に取る暇などない。多少撒き散らすのは覚悟の上でぼきり。
若い狩人の首から上が、鈍くあっけない音を立てて落ちた。赤い尾を引きながら転がっていったソレは、さっきの死体にぶつかって止まる。無関係な2つの亡骸は、悪趣味なパッチワークのように互いに寄り添っていった。
そして首から下の方は、赤黒い毛むくじゃらの足に踏みつけにされている。
ぐしゃぐしゃの断面から白い骨を覗かせる若造だったものから、赤黒い二本足の毛むくじゃらは足を退けた。
血狂い、と。誰かが呟く。
その時には既に、狩人たちは戦闘態勢を取っていた。
銃とクロスボウが包み込むような射撃を浴びせるのと同時に、白髪の狩人が携帯式の香炉を投げつける。血狂いの回避軌道を読み切って投擲されたソレは、血狂いの足元に着弾。直後に撃ち込まれた銃弾が香炉を破壊し、香りの爆弾がさく裂する。
濃密な香の匂いに血狂いがたじろぎ、子犬みたいな鳴き声を漏らしてその場に膝を突く。
すかさずクロスボウ組は矢に着火。聖なる白炎を灯した矢を浴びせかける。
その瞬間、血狂いは疾走していた。
「こいつ、香が……!?」
行く手を阻むべく放たれた矢は、血狂いの影を地面に縫い留めるばかり。
しかし狩人たちは、血狂いが逃げる先を巧みに誘導していた。
血狂いが、足元の地面を踏み抜く。というより、そこにはそもそも踏みしめるべき地面がなかった。落とし穴だ。偏執的なほどの剣の山が築かれた穴の底は、ぬらぬらと粘つく輝きを帯びている。
血狂いは空中で身体を反転、子供の胴体ほども太い腕を振り抜いた。甲高い音を轟かせて剣山を薙ぎ払い、着地。その衝撃を殺すべく低く屈んだところから、次の瞬間には既に壁目がけて跳躍。三角飛びの要領でそのまま壁を駆け上がり、落とし穴から飛び出す。
血狂いが穴の縁に降り立った直後、落とし穴の中で聖火瓶が割れる音が、今さらのように響き渡った。
それが合図となったかのように、血狂いは四足よりもなお低い、這うような低姿勢で疾走を開始する。
◆
人相書きの男は、ほとんど死人のような顔で目の前の惨状を眺めていた。
広場中央で音を立てて燃え上がる火が、散らばる死体と広がる血を照らす。首を踏み折られたもの、片足を食いちぎられたもの、首から肩にかけてをえぐりとられたもの。焦げた臭いがするのは、落とし穴に放り込まれて聖火に焼かれた狩人のせいだろう。
その真ん中で悠々と死体を貪っていた血狂いが、立ち上がって辺りを見まわす。何度か鼻をひくつかせた後、血狂いは教会の方へ目を向けた。男にはわからないが、そこに居る村人たちの匂いをかぎ取ったのだろうか。
しかし、血狂いは教会へは向かおうとはしなかった。男に向き直った血狂いは、大きな手で腹をさすっている。満腹なのだろうか。
男の全身を、安堵にも似た脱力が包み込んだ。肩を揺らして、言葉にならない笑い声を漏らす。多分、助かったと思いたかったのだ。
満幅になったのなら、男が食われることはない。生餌として連れて行かれて、またどこかの街なり村なりで同じことをする。狩人が束になっても敵わない異類相手に、男に他に何ができるというのか?
それにしても、今日は寒い。こんなにも火があるのに、身体がどんどん冷たくなっていく気がする。特に右肩が、熱くて寒くて仕方なかった。
影が差す。
血狂いが、男のそばで歩みを止めていた。男を見つめて、血狂いが首を傾げる。恐ろしく獰猛な巨躯に反して、その仕草にはあどけなさがある。
「もう、ぽいね?」
巨体の人狼にはひどく不似合いな、幼くたどたどしい口調だった。
弛緩していた男の身体が、一瞬にして緊張に覆われる。強張ってうまく動かない身体で、男は必死に首を横に振った。そんなことはないと訴える声は、喉と舌がもつれて無意味な空気の音にしかならない。
人狼が歯を剥いた。ねばつく涎が糸を引く。多分それは、笑ったつもりなのだろう。
「いままでありがとね、おじちゃん」
男が最期に見たのは、とろけるような紅の瞳と、おぞましいほどに無邪気な笑みだ。
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