第十四話

 ゼフィラの一件から、さらに数日が過ぎた。

 気づけば季節は変わりかけていて、空気は湿り気を帯びるようになっている。そんなある日の、ランバーの店へ向かう道すがら。

 サイドカーの座席の上、服を詰めたトランクを膝に抱えたユリオの目は、通りに並ぶ建物へ向けられていた。

 ほとんどの軒先に、先日までは見かけなかったランタンがぶら下がっていた。炎のような形状のものだったり、派手なオレンジ色のトゲトゲ付きで、絵に描いた太陽をそのままランタンにしたみたいだったり、どれもこれも装飾たっぷりのデザインだ。

 交差点でバスの通過待ちをしている間、ユリオの様子に気付いたフルエットが「そうか」と懐かしむ声色で呟く。

「もうそんな時期か」

「時期って?」

 アシュトン地方――イルーニュのある一帯は、まもなくしばしの雨期を迎える。今は青々と広がる空には、まだその気配はないけれど。

 降ってくれないと困るが、そう都合の良い降り方ばかりもしてくれない。しばしば雨は豪雨となり、水害となって人々に牙を剥いた。だからイルーニュの人々は、豪雨を避けるための祭事を始めた。それはたくさんのスカイランタンを一斉に飛ばす――つまりは空に火を送ることで、雨の勢いを抑えようというものだった。

「治水技術の進歩もあって、今となっては水害もほぼなくなったそうだけどね。祭りの習慣だけは、今も残って続いているのさ」

 バスが通り過ぎたのを見計って、フルエットがバイクを発進させる。

「じゃあ、あの飾ってあるのを飛ばすのか?」

「いや、あれは飛ばさないよ? 祭りを続けていくうちに、装飾したランタンを祭りにあわせて飾る文化ができていったらしいよ」

「へえ……。……お前、ずいぶん詳しいな?」

「昔、ちょっと気になってね。自分が生活の基盤を置く街のことだ、できるだけ知っておきたいしね」

「そっか。ランタンはいつ飛ばすんだ?」

 ユリオの声は、彼自身わかるくらいにそわそわしていた。

「通りにも色々出ているようだし、今夜ってところじゃないかな?」

 言われて、ユリオは改めて建物ではなく通りに目を向けた。いつも見かける店の前に、いつもは見かけない屋台がちらほらと並んでいる。今まさに準備されている最中のものもあるようだった。

「フルエットは行ったこと……見たこと? あるのか?」

 視線は通りに向けたまま問いかけると、返ってきたのは微かな苦笑の気配だ。

「いや、私はないよ。夜まで居ると、門が閉じて帰れなくなってしまうからね」

 そうでなくとも、夜は異類の時間だ。その時間に街に居ることを、血の娘であるフルエットは望まないだろう。少し考えれば、ユリオにもわかることだった。

「……そっか」

 サイドカーの座席の上でもぞもぞ尻を動かし、ユリオはトランクを抱えなおす。

 そうこうするうちに、バイクはランバーの店の前へ到着した。

 ランバーとフルエットがやり取りしている間、ユリオは特に何かするでもなく店内を眺めていた。手持ち無沙汰だが、他の用を済ますほどの時間はない。そもそも他の用もない。そういえばルイリの店に、片手で持てるサイズの本があった気がする。あれなら、こういう時にも読めるし良いのになとユリオは思う。

 カラカラとベルが鳴る。ドアを開けて入ってきたのは、紙袋を抱えたジェラールだった。

「帰ったよ、父さん」

 ランバーに声をかけながらも、彼の視線は店に入った瞬間からフルエットの方を向いている。

「おう、お帰り」

「おや、ジェラール。買い出しご苦労様」

 フルエットの一瞥に、ジェラールはハンチングを軽く持ち上げて「こんにちは」と微笑んだ。その後ようやくユリオに気付いた様子で、「ユリオも」と帽子をひらひら振ってみせた。ユリオも、軽く手を挙げて挨拶を返す。

 そのままなんとなく様子を見ていると、ジェラールはフルエットの近くでそわそわしていた。服の襟や裾を、しきりに整えたりしている。

「よし、交渉成立だ」

「毎度どうも。少し色を付けてくれたみたいだね?」

「売れるからな、お前のは」

 フルエットとランバーの話がひと段落したらしい。ランバーはフルエットに代金を渡すと、服を抱えて店の奥へ引っ込んでいった。仕入れた端から店に出しているわけではないのだろうか。

 ランバーの姿が見えなくなったのを見計って、ジェラールはフルエットに声をかけた。ハンチングが、手の中でくしゃっと潰れていた。

「あ……あのさ、フルエットさん」

「どうしたんだい?」

 フルエットが振り向くと、ジェラールの顔はほんのりと赤くなった。咳払い。それから短く息を吸い込んで、彼は少し早口にその言葉を口にした。

「今夜のお祭りなんだけど、良かったら一緒にどうかな? ……なんて」

 なんて、はかなりの小声だった。フルエットは、苦笑を滲ませて首を横に振る。

「すまないね。お誘いの言葉は嬉しいんだが、夜は出歩かないことにしてるんだ」

「そ……っか。……うん。そうだよね、やっぱ」

 ジェラールは顔を隠すみたいにハンチングを被りなおすと、カウンターの方へ歩いていった。

 ちょうどその時奥から戻ってきたランバーに、ジェラールは無言のまま肘で小突かれていた。フルエットに声をかけた時はしゃんとしていた背筋が、今はほんのりと丸まっている。

 その痛ましい後ろ姿に、止めた方が良かったかなと思うユリオだった。血の娘である限り、フルエットは誰に誘われたって首を縦に振らないだろうから。


◆ 

 ランバーの店を出た二人は、そのまま街で昼食を済ませることにした。

 空いている店に適当に入ろうと二輪を引きながら、ユリオは歩道側を繰り返しちらちらと盗み見ていた。

「バイクを引きながらの余所見は危ないよ?」

 歩道の内側を歩いていたフルエットが二、三歩先へ歩み出て、くるりと振り返る。飾り付けられたランタンを見やり、ユリオに視線を戻して微笑んだ。

「そんなに気になるのかい?」

 ユリオの答えは待たず、「そうだ」とフルエットがぴっと指を立てる。

「お祭りが気になるなら、今夜は街に泊まっていったらどうだい?」

「いや、別にそこまでは……」

 そこまでして一人で見たいわけじゃない。どうせ見るなら、フルエットと一緒の方がいい。それに本当のところ、ユリオが盗み見ていたのはランタンではなく、フルエットの方だった。ユリオが見ている限り、フルエットは眩しそうに何度も飾りランタンを見上げていたように思う。

「だったら、後でお土産用のでも買っていくかい? 最近はよそから祭りを見に来る人も居るらしくてね、そういう人向けに売ってるんだそうだ」

「いいと思うよ。せっかくだしさ」

「決まりだね。なら、先にそちらを済ませてしまうかい?」

 前へ向き直るフルエットの足取りは、さっきよりも軽やかだ。

「それでもいいけど――」

 通りに面した軽食屋のテラス席に、ひょろ長い姿を見かけてユリオは足を止めた。背が高くて服装も独特な彼女は、半分寝てるみたいな顔でコーヒーをすすっている。足取り軽くどんどん先へ行ってしまっていたフルエットも、その人物に気付いて声をかけた。

「おーいユリオくん。遅れてるぞ……って、ルイリじゃないか」

「ん~……? あ、フルエちゃんにユリくんじゃーん」

 パチッと目を開けたルイリが、コーヒーカップ片手に二人を手招く。ルイリの隣の席が空いていたし、せっかくだからと二人はその店で昼食を取ることにした。ルイリのテーブルに新しいコーヒーを運んできた店員をつかまえて、さくっと注文を済ませる。

 砂糖もミルクも入れずにカップを口元へ運ぶルイリの目元には、絵の具で塗ったかと思うほどに濃いクマがくっきりと浮かんでいた。肌が青白いせいだろうか、良くない意味でクマが似合い過ぎている。

「ずい分眠そうだけど、いったいどうしたんだい?」

「んーとね。読書してたら、いつの間にか朝のいい時間にになっちゃってさ? ちょーっと仮眠だけして、さっき起きてきたとこ」

 おかげで眠くてとふにゃふにゃ笑う彼女に、フルエットが苦言を呈する。それに「大丈夫だよお」と返したそばから、ルイリの身体は睡魔に負けそうにがくんと後ろに傾いた。

「っぶな!?」

 そのまま椅子からひっくり返りそうになったのを、ユリオは慌てて支えに飛び出す。間一髪であった。ユリオの方は心臓がばくばくしているというのに、当の本人は相変わらずふにゃふにゃした顔で「ごめんねえ」と笑っている。

「お前さ、寝た方がいいんじゃないか?」

「私もそう思うな。今日は店を休みにして、ゆっくり寝た方がいいんじゃないかい? ……その理由が夜更かし、というのは感心しないけどね」

「それがさー、今日は荷物が届く予定なんだよねえ。だから店は開けとかないと、配達の人が困っちゃうじゃん?」

 フルエットが腕を組み、じとっとした眼差しでルイリを見た。それなら、とため息をひとつ。

「なおさら前日はちゃんと寝ておきたまえよ、君」

 ユリオもまったく同感だった。というか、こんないつ寝るかわからない状態で対応されても、それこそ配達の人は困るだろう。

「なあルイリ、それってお前じゃないとダメなのか?」

 ゆルイリはコーヒーをちびりと飲み、「んー」と思案気にうなる。

「あーしの委任状があれば、受け取るだけなら大丈夫でしょ。でもなんでえ?」

「いつ届くんだ? 日が暮れる前なんだったら、ぼく代わりにできると思うけど」

 おや、とフルエットが目を細めた。ルイリはカップをテーブルに戻し、鳶色の目をユリオに向けてすがめた。

「ユリくんが?」

「並び順とかよくわかってないし、棚に入れたりはできないだろうけどさ。委任状? ってやつもらって受け取るだけなら、ぼくでもなんとかなると思うし」

「やけに熱心じゃないか。私も友人を手伝うのはやぶさかじゃないが、理由を聞かせてもらっても?」

 フルエットの問いかけに、ユリオは今さらのように自分の提案について考えだした。その間に、注文の品がテーブルへ運ばれてくる。

 ルイリが知り合いだから、というのはもちろんある。でもそれだけじゃないという自覚も、ユリオの中にはなんとなくあって。

「ぼく、さ」

 うまく言語化できないまま口を開いた。だけどその途端、あやふやだった考えが急にはっきりとした輪郭を描く。

「わりと好きみたいなんだ、本を読むの」

「わかるよ。君、ルイリのところで買った本も熱心に読んでいたしね」

「でさ、ルイリの店に届くってことは……その荷物、きっと本だろ? そう思ったら、どんなのが届くのかなって気になっちゃって」

「ユリくん」

 ルイリの手が、がっしとユリオの手を掴む。背の高さのわりには小さくて線の細い指が、どこにそんな力があるのかと驚くほど強く、ユリオの手を握り締めていた。温かいコーヒーをがばがば飲んでいたせいで身体が温まっているのか、ルイリの手はしっとりと熱い。

「る、ルイリ?」

 ユリオの手を握り締めたまま、ルイリは目を閉じて深呼吸。それからカッと見開いた瞳は、ぎらぎらするくらい光り輝いていた。目元のクマのせいで、ちょっと危ない人っぽい。

「あーしね、今すっごい感動してるの」

「へ?」

 どういうことかとフルエットを見ると、彼女は無言で首を横に振った。

「だってあーしが初めての本を選んだ子が本好きになって、本に興味を持ってくれたんだよ? こんなに嬉しいこと他にないじゃん!? リブおじいちゃんが生きてたら一緒に喜んでくれたかなあ……!?」

 二人の戸惑いなど目に入っていない様子で、ルイリはものすごい早口でまくしたてた。興奮しているのか声はだんだん大きくなっていくし、手にはどんどん力がこもってくる。本の上げ下ろしのおかげか、見た目からは想像できないくらい強い力はユリオの手を締め上げるかのようだ。

「リ、リブ……誰!?」

「リーブル翁。ルイリの店の前の店主だね。私も面識はないんだが、ルイリは彼にとても可愛がってもらっていたらしいよ」

 フルエットがそんな話をする間に、ルイリは青空を仰ぎ見るところまで興奮が極まりだしている。

「おじいちゃん見てる!? あーし、あの時のおじいちゃんの気持ちがわかったよ……!」

「説明ありがとう! けどそれより、ルイリ落ち着かせてくれないかな!?」

「いやあ、大丈夫だと思うよ?」

 フルエットが席を立つ。

「どこが!?」

「ユリくん、すぐ店に行こ! 荷物届く前に今日来る本のもくろあやば」

 くらり。

 ルイリの身体が、何の前触れもなく小さな円を描くように揺らいだ。細くて背の高い身体が、そのままテーブルへ横倒しに突っ込む。

「お、っと……!」

 いつのまにかルイリの方に移動していたフルエットが、身体全体を使ってルイリを受け止めた。結構勢いよくぶつかったのか、骨と骨のぶつかる音がした。小さく呻きながらルイリの頭をテーブルに横たえると、フルエットは軽く肩をすくめてみせた。

「ほら、落ち着いたろ?」

「これはそうは言わないんじゃないかなあ……」

 興奮と眠気でどうかなっただけではないだろうか。慌てて駆け寄ってきた店員に事情を説明したフルエットは、ルイリをそのままにして席に戻った。いい機会だ、とぴっと指を立ててユリオにウィンクする。

「これからもルイリの店の手伝いをさせてもらえないか、後でついでに訊いてみてもいいんじゃないかい?」

 その言葉に、ユリオはきょとんとした顔でフルエットを見た。

「興味があって、それを向こうも歓迎してくれている。しかも私の知り合いだから、人柄については心配要らない。こんないい条件、なかなかないと思うよ。それに君だって、自分の自由にできる稼ぎがあった方がいいだろう?」

 確かにフルエットの言う通りだ。条件のことはもちろんそうだし、彼女の世話になったぶんを返すためにも、自力で稼ぐ手段だって持たなければ。

「そうだな。後で聞いてみるよ」

 ユリオが笑ったちょうどその時、彼のお腹がぐぅとなった。そういえば、昼食をまだ一口も食べていない。お腹をさするユリオを見て、フルエットがくすりと微笑んだ。

「昼食にしようか。ルイリが落ち着いている間に、ね」


 今日も一切の窓が締め切られた店内は、時間の感覚がなくなるほどに薄暗い。

 座ったらそのまま寝そうだからと、ルイリは奥の机に中腰で向かい合って万年筆を走らせていた。流れるような字をさらさらと手帳に書き記すと、無造作にページを破り取ってユリオに差し出す。

「はい、これがあーしの委任状ね。これ見せれば、受け取れると思うから」

 しっかりと両手で受け取ったソレを、ユリオはズボンのポケットにしまい込んだ。ユリオの方から断ったから、この件についてフルエットのフォローはない。自分で言いだしたことだから、フルエットには外で待ってもらっていた。

「わかった。で、どんな本が届くんだ?」

「えーっとね。この目録……この紙に書いてあるやつが全部だよ」

 ルイリが机の小さい方の引き出しから取り出したのは、上から下まで本のタイトルらしきものがタイプされた紙切れだった。想像していたよりも遥かに多いその量に、ユリオは目を瞬かせて紙切れとルイリを交互に見た。

「こ、これ全部なのか?」

「そーだよ? 目録との照らし合わせは、後であーしが自分でやるからさ。あ、でも何が届くか気になるって言ってたっけ。一応目ぇ通しとく?」

「いいのか?」

 渡された目録に、ユリオは上から順に目を通していった。何の本なのかさっぱりなタイトルもたくさんあるが、眺めているだけで心がわくわくしてくるのをユリオは感じていた。そんな彼の目が、とある本のタイトルに釘付けになる。

 『月往く船』。そこには、そうタイプされていた。

「あれ、これって……!?」

 思わずルイリを見ると、彼女はにまぁとした笑みを顔いっぱいに浮かべていた。

「そ、『月往く船』! 表紙と挿絵の一新された新版が出ることになってね? それが今日届くってわけ!」

 眠気はどこへやら。ワントーン高くなった声で、小さな少女のようにルイリははしゃぐ。表紙と挿絵が変わるだけで、中身が変わるわけではない。だけど『月往く船』の世界が、次はどんな風に描き出されるのか。それを目にするのが楽しみで仕方ない、と彼女は笑顔でユリオに言った。

 そんな彼女の様子を見ていて、ユリオにはふと気づいたことがある。

「昨日……というか、今朝? いい時間になるまで本読んでたのって、もしかして」

「あ、バレた?」

 悪戯がバレた子供のようだった。

「そーなのよ。新版が届く~って思ったら、嬉しくなっちゃって。夜中なのに頭から読み始めちゃって、そのまま繰り返し……ね?」

 ウィンクのつもりなのだろうか。ルイリは顔の片側を引きつらせたみたいな仕草をした。青白い肌と目元の異様に濃いクマ、そして薄暗い店内のせいもあって、正直ちょっと怖い。他の人にはしない方がいいぞと釘を刺しつつ、

「お前、ほんとに好きなんだな」

「お爺さんが最初にくれた本だからね。なーんにもなかったあーしに、リブおじいちゃんが『月往く船』と居場所をくれたんだあ」

 そういえば、ルイリは他所から流れ着いたとフルエットが言っていた。それならルイリにとってのリブおじいちゃんは、ユリオにとってのフルエットのような存在だったのだろう。

「外でも言ったけどさ、あーしはユリくんが本好きかもって言ってくれたのが嬉しくてしょーがないわけ。だってあーしが選んだ本、あーしにとって特別な本を、ユリくんも気に入ってくれたってことじゃん? こんなに嬉しいこと、めったにないって!」

 ユリオが返した目録を胸に抱え、踊るようなステップを踏むルイリ。放っておいたら棚にぶつかりそうで、ユリオは彼女と棚の間の空間に割り込むように立ち位置を変えた。それにはまったく気づかない様子で、ルイリは『月往く船』の話を続ける。

「新版って、挿絵がどこに入るかはまだわかってないんだよね。でもさ、初飛行はきっと今回もあると思うんだよね! ユリくんも読んでくれたんならわかるっしょ!?」

 初飛行。それは船が完成した晩、少年がお嬢様を乗せて夜空に飛び立つシーンだった。ちょうどその晩は街でお祭りがあって、二人は船の上からそれを眺めるのだ。そのくだりが、ユリオは特に好きだった。祭りの灯りが満天の星空のように描かれた挿絵には、ユリオも心奪われた。

「お嬢様が初めて見る景色に目を輝かせるところは、あーし胸がきゅ~ってなっちゃって――」

 立て板に水を流したように喋りまくるルイリの声を聞くユリオの脳裏を、街を見下ろす月往く船が駆け抜けた。

 お嬢様。祭りの夜。空から見下ろす祭りの灯り。月往く船は言葉を運び、それは興奮を伴う熱となってユリオの胸を熱くさせる。

「……それだ」

「何か言った?」

「あっ、いや……! なんでもない、こっちの話だ」

 鳶色の目をきょとんと瞬かせるルイリに、ユリオは顔の前でぶんぶんと手を振った。こきゃっと音がしそうなくらい首を傾げた彼女は、直後に特大のあくびをかみ殺す。いよいよもって限界が来たのか、目がかなりしょぼしょぼしだしていた。

「あー……ユリくん、あーしそろそろ限界みたい」

 あとはお願いと居住スペースへ向かうルイリの背中に、ユリオは慌てて声をかけた。

「これ済んだ後……これからも、ここの手伝いさせてもらっていいか?」

 眠い目をこすりこすりしていたルイリが、手を退けてにまぁと笑う。

「もちろんじゃん?」


 雲ひとつない、よく晴れた夜空だった。 

 玄関先で煌々と輝く月を眺めていたユリオは、ブーツの足音に振り返る。

「言われた通り厚着をしてきたんだが……いったい何をしようって言うんだい?」

 すっぽりと体を覆う外套を纏ったフルエットが、訝しげに小首を傾げた。

 彼女の態度も当然だ。なにせユリオは、夜にもかかわらずフルエットを外出させようとしているのだから。

 当然フルエットは嫌がったが、街へ行くわけじゃないとしつこく繰り返したことで、ようやく首を縦に振ってくれた。

 玄関先に揺れる雑貨屋で買った飾りランタンを一瞥し、彼女は「お断り」とでも言うように指をぴっと振った。

「繰り返すけど、私はイルーニュの祭りには行かないからね」

「うん、わかってる」

「それならいいんだが……。それで、この後はどうするんだい?」

 そこでユリオは、フルエットが想像もしていなかったであろう行動に出た。

 彼女の前に跪いて、手を広げたのだ。要するに、お姫様抱っこのための待ちの姿勢である。もっとも、ユリオはそこまで考えてはいない。

「乗ってくれ」

「……いやいやいやいや、待ってくれ。待ちたまえよ、ユリオくん」

 フルエットは額をおさえ、制すように手を突き出した。目を伏せ眉根を寄せた表情からは、色濃い困惑が伝わってくる。

 深呼吸してゆっくり目を開いた彼女は、さっきと変わらない姿勢のユリオを見て、ため息とともに天を仰いだ。

「いったいどうしたんだい? ルイリの店で恋愛小説でも見せられたかい? 君がそういった本に影響を受けるタイプだなんて、思ってもみなかったよ」

 パタパタと顔の前で手を振るフルエット。ユリオに応じる気はなさそうだ。

 けれどユリオ自身も、このまま引き下がる気はまったくなかった。

「ごめん、フルエット」

 へ、と。

 フルエットが上ずった声を漏らした時には、ユリオはもう彼女を抱え上げている。やはりと言うべきか、お姫様だっこの体勢だ。

「ゆ、ユリオくん!?」

 フルエットの真っ白な頬が、うっすらと赤く染まる。腕の中でじたばたしだすが、華奢で小柄な彼女が暴れたくらいでユリオはびくともしない。

 フルエットがじたばたするのには構わず、けれどしっかりと彼女の目を見つめてユリオは告げる。

「危ないからじっとしてろ。あと、しっかりつかまってて」

 真摯な調子に、フルエットのじたばたが止む。

 彼女は細い腕をユリオの首にまわすと、厚着でかさ増しされてもなお軽い体重を彼に預けた。ユリオもしっかりとフルエットの身体を抱きしめると、何度か息を深く吸い、淡緑色の三角翅を展開。

 翔んだ。

 空高くまであっという間に上昇したユリオは、フルエットを抱えたまま明るく澄んだ月夜を翔けていく。眼下を流れる影絵のような景色には目もくれない。首にまわったフルエットの手に、ぎゅっと力がこもった。

 驚くほど冷たい夜気を真っ向から切り裂いて進む視界に、やがて月とは違う光が灯る。

 それは空高くへゆっくりと昇っていく、無数の光だった。

 フルエットが息を呑む。夜空へ降り注ぐ光の雨のようなソレは、イルーニュの街から天へと放たれるランタンたちだった。

「すごい」

 ランタンの光に目をくぎ付けにしたまま、フルエットが呆けたように呟いた。月のような色をした瞳を満月のように見開いた彼女は、その目いっぱいに光を映している。

「君、まさか……これを見せるために……?」

 掠れた声の問いかけに、「そうだよ」とは屈託なくうなずいた。言葉を詰まらせたフルエットが、首にまわしていた片手をユリオの胸元へ滑らせた。そのままシャツをぎゅうっと掴んできたのは、もしかしたら無意識のことだったのかもしれない。

 この高度まで飛んでくる異類はそう居ない……と、思う。それにイルーニュの街中に居る訳じゃないから、万が一があっても街の人たちが被害を被ることはない。フルエットが心配する要素は何もなくて、それでいて祭りの光景を眺めることはできる。そりゃあ、街から見上げるのとは全然違うだろうけど。

「これなら、フルエットも雰囲気くらいは楽しめるだろ?」

 天へ昇るランタンを見送って、フルエットは喉を震わせた。熱っぽくふわふわした声に、興奮に潤んだ瞳がユリオを捉える。

「こんなの、いったいどうやって思いついたんだい?」

「『月往く船』にさ、あったんだ。夜空の上から、祭りを眺めるシーンが。ぼくならできるんじゃないかって、そう思ったんだ」

「ああ、初飛行のくだりかい? でも、だからってよく……」

 まだまだ天へと昇っていくランタンへ視線を戻したフルエットに、ユリオは自分もランタンを眺めながら言った。

「フルエットのおかげだよ」

「私の?」

「フルエットがぼくをルイリのところに連れてってくれなかったら、ぼくは一生『月往く船』を読まなかった。そしたらきっと、この身体のこんな使い方、思いつかなかった」

 だから、と。ユリオは腕の中のフルエットに向き直った。彼女もまたユリオを見上げていたから、目が合って。頬に感じる温かさのままに、ユリオは彼女に笑いかけた。

「ありがと、フルエット」

「……っ」

 フルエットは固く唇を結んで、ますます強くユリオのシャツを掴んだ。かと思うと、ふいっと顔を背けてしまう。

「馬鹿だな、君は」呆れたような吐息と、囁くような小さな声。「それは私の台詞だよ」

「ありがとう」

 その笑みを見た途端、ユリオは頬といわず胸といわず身体が熱くなった。そのうえやけにフルエットが眩しく思えて、今度はユリオが顔を逸らした。こんな状況だから、顔を隠してごまかすことはできない。

「……お前が喜んでくれたなら、ぼくはそれで」

 ぼそぼそと口の中で呟く。聞こえたのか聞こえなかったのか、フルエットは軽やかな微笑みを浮かべている。シャツを掴んでいた手をまたユリオの首にまわして、わざとっぽく潜めた声で囁く。

「ひとつお願いがあるんだが、聞いてくれるかい?」

「な、なんだよ?」

「帰ったら、髪を梳くのを手伝ってほしいんだ。さすがに夜風で乱れてしまってね」

 肩をすくめる代わりだろうか。腕の中で、フルエットがわずかに身体を揺らす。にやっと笑う彼女に、ユリオは彼女を抱えたままほんの小さく肩をすくめた。

「……あんま期待するなよ」

 そんな答えなのに、フルエットはひどく嬉しそうな笑みを浮かべるのだった。

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