第十話
これは、とある従者の昔話だ。
彼女の生家は、古くから続くと名家に代々仕えてきた家だった。
かつては他にも同様の立場の家があったそうだが、戦乱や流行病による混乱の中で失われていったらしい。逆に言えば、どのような厄災が襲おうとも常に主家と共に在り続けてきた、生粋の仕える者の家系だった。
そんな家に生まれたからして、彼女もまた主家の人間を主として抱くことが、生まれた時から決まっていた。
そのことについて、少女には疑問も不満もなかった。物心つく前からそうあれかしと育てられてきたのだから、当然だ。それどころか物心ついてからは、まだ見ぬ主について父母へ問うのが、寝物語を聞く代わりの毎夜の恒例となっていたほどだ。
そして彼女が七歳を迎えた、彼女はついに終生の主となるはずの人物に引き合わされた。その日のことは、今もはっきりと覚えている。
大きな天窓のある主の部屋は柔らかな日差しで満たされて、部屋全体が陽だまりみたいになっていた。
――ご挨拶なさい。
母のその声は、陽だまりに溶けるみたいにひどくぼやけて聞こえた。天蓋付きのベッドの豪華さや、可愛らしく部屋を彩る家具の華やかさ、足元に広がる赤い絨毯の柔らかな感触も、少女にはすべてが同じようにぼんやりとしか感じられなかった。
その時、彼女の何もかもは、主となる少女へと向けられていたからだ。
高価なお皿のようななめらかで真っ白な肌も、月のような色をしたパッチリとした瞳も、夕暮れ時の一瞬を切り取ったような深い赤紫の髪も、初めて目にした主の全ては美しく整っていて。そんな彼女が黒を基調にしたふわふわのドレスに身を包んだ姿は、まるでお人形に命が宿って動き出したみたいに可憐だった。
両親から、とても可愛らしいお人だとは聞いていた。けれど実際に目にした彼女は、話をもとに想像していたのよりも、ずっと可愛らしくて。
こんなに可愛らしい人にお仕えできるのだと思うと、少女の胸は陽だまりをしまいこんだみたいに温かなものでいっぱいになった。頭も熱っぽくふわふわしてしまって、ご挨拶の言葉も忘れ、ただただ主に見惚れるばかり。
――ゼフィラ。
ようやく我に返ったのは、母の声がいつもよりほんの少し険しくなっていることに気づいてからだった。
ご挨拶もせずにぼんやりとしていたことに思い至り、一転してゼフィラの心身は凍り付く。唇が震えて、ご挨拶の言葉が声にならない。
――あらあら、緊張しちゃったのかしら。
そんなゼフィラをとかしたのは、春のそよ風みたいに穏やかで軽やかな笑い声だった。それは主の傍らに立つ、細身のドレスに身を包んだ長い黒髪の女性が発したものだ。彼女のことは、ゼフィラも知っていた。主の母、つまりは主家の奥様だ。
――申し訳ございません、モリアミス様。ゼフィラがとんだご無礼を致しまして……。
――いいのよ。まだこんなに小さな子供なんだもの、仕方ないわ。そうだ、フルエット? あなたからお話してあげて?
――い、いけませんモリアミス様!
――いいからいいから。ほら、フルエット。
フルエットと呼ばれた主の少女はこくりと頷くと、そのまま歩み出てゼフィラの左手を取った。柔らかくすべらかな感触にドキリとするゼフィラに向けて、フルエットは顔いっぱいの笑みを浮かべる。
「わたし、フルエット。これからよろしくね、ゼフィラ」
その時ゼフィラは、確かに息を呑んだと思う。緊張の解けた身体が数度、小さく息を吸う。それでもなお残った心拍数の速さをごまかすように、ぎこちない笑みと上ずった声で返事をした。
「は……はい! わたくしゼフィラ・ローダンセは、これからの生涯、誠心誠意フルエット様にお仕えさせて頂きますっ」
ゼフィラの返事に、フルエットが少しだけ考えるように小首を傾げる。それから、「あのね」と口を開いた。
「ゼフィラはわたしのお願いを聞いてくれる人なんだよ、って母様に言われたの。あってる?」
「はい、もちろんでございます!」
ゼフィラが食い気味に答えると、フルエットはパっと金の瞳を輝かせた。右手を握るフルエットの手に、ふわりと力がこもったことにゼフィラは気づく。
真っ白な頬をほんのりと赤くして、フルエットは言った。
「だったら、あのね? 私のお友達になってほしい! いいでしょ?」
お友達。
思ってもみなかった言葉に、ゼフィラの顔がぼっと火を点けたみたいに熱くなる。またもや頭がふわふわぼーっとしてきて、「あの」とか「えっと」とか、そんな言葉しか口から出なくなった。
互いの立場を考えれば、決してうなずくことのできないお願いだ。けれどもしも主従だけでなく、お友達になれたら、それはどんなにか幸せなことだろう。
そんな答えられないで居るゼフィラを見かねたのか、母が口を挟む。
――ゼフィラの身に余るお言葉、光栄に存じます。ですがフルエット様、ゼフィラはフルエット様にお仕えする立場なのです。お友達には……。
――あら、いいじゃない。私からもお願いするわ、ゼフィラ。
――……モリアミス様。
――そんな怖い顔しないで? 子供の頃の友達は、一生の宝物だもの。……そうだ! せっかくだから、私ともお友達になりましょっか。
――モリアミス様は、おおらかが過ぎます……。ギヨーム様に何と申し上げればよいか。
あきれる母の小言は軽く流して、モリアミスは二人と同じ目線になるようにしゃがんでみせた。
――ね、フルエット。母様もゼフィラとお友達になってもいい?
フルエットが「うん」と答えると、モリアミスは空いていたゼフィラの左手をそっと握った。それからゼフィラに向けて、フルエットそっくりな笑みを向ける。
――そういうことだから、今日から私たち三人はお友達よ。よろしくね、ゼフィラ。
「え、ええと……」
ゼフィラが戸惑いがちに視線を向けると、もうすっかり諦めた様子の母が小さくうなずくのが見えた。主家の奥様がこんな調子では、うなずくしかないといったところだろうか。
どうあれゼフィラにとっては、母の許しが出たということに相違ななく。
「は……、はい!」
生まれてこの方初めて見せるような笑顔で、二人に応えたのだった。
フルエットが血の娘として異類を誘うようになったのは、それから二年ばかりが過ぎた頃だった。
血の娘について知っているのは、フルエットの両親を除いてはローダンセの使用人のみ。その他大勢の使用人にとってフルエットは、「異類に狙われやすい、可哀そうなお嬢様」だった。
だから最初は、彼らもフルエットのことを気の毒がっていた。しかしフルエットがあまりにも頻繁に――ひどい時には数日と置かず――異類に襲われるうちに、彼らのフルエットを見る目は変わっていった。
――昨日の晩、また出たらしい。モリアミス様が追い払ったそうだが……。
――これで何度目? フルエット様、教会で清めてもらった方がいいんじゃないの?
――それがな、フルエット様は教会に行くのを嫌がるらしい。この間ギヨーム様が無理に連れていった時も、具合が悪くなって倒れてしまったそうだ。
――教会で具合が悪くなるなんて、異類でも憑いてるんじゃないの?
――襲いにくる異類も、本当は仲間を探しに来てるんだったりして。
――跡継ぎなら、アンジェリカ様がいらっしゃる。フルエット様はどこか異類の少ない土地にでもやった方が……。
「皆様、世間話に精が出ますね」
貼り付けた笑顔と共に、使用人部屋の片隅で囁き合う同僚へ冷や水をぶっかけて黙らせる。ゼフィラが12、3歳を数える頃には、それが彼女の日課のひとつになっていた。
ただでさえ異類に怯えて毎夜を過ごさなければならないフルエットが、何故忌まれなければならないのか。
この頃からゼフィラは、澱のような憤りを胸に抱えることになる。
その澱はやがて身を苛む炎となり、その熱だけが今のゼフィラを動かしている。
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