第九話
イルーニュでの買い物から数日が過ぎたその日の朝は、よく晴れていて気持ち良かった。
ユリオがあくびをかみ殺しながらダイニングに向かうと、エプロン姿のフルエットが既に朝食の準備を始めていた。フライパンに厚めのベーコンを投入すると、油の焼ける音と香りが耳と鼻から空腹を刺激してくる。
ユリオに気づいたフルエットが振り返り、結わえた紫の髪が軽やかに踊る。
「やあ、おはよう。いい朝だね」
「おはよ。……おそくなってごめん、何すればいい?」
「それじゃあ、ビーンズを温めてくれるかい?」
まだ眠気の残る目元をこすりこすり頷いて、フルエットが作ってくれたエプロンを身に着ける。
――くぁ。
またこぼれそうになったあくびをかみ殺しながら、ビーンズ缶を鍋にあけて温め始める。隣のコンロでベーコンを焼くフルエットが、そんな彼の様子にくすりと笑った。紫の髪が、ベーコンを返す動きに合わせて軽やかに揺れる。
「また遅くまで本を読んでたのかい?」
図星だった。鍋の中のビーンズをかき混ぜる右手はそのまま、左手で鼻の頭をかいてうなずく。
「や……おもしろくてさ」
イルーニュから戻って向こう、ユリオは毎晩『月往く船』を読みふけっていた。そろそろ読み終えてしまいそうで、それを残念に思っている自分が居ることに、ユリオは正直驚いていた。
「ははっ、いいことじゃないか。次に街へ行ったときには、ぜひルイリと話すといい。彼女は人の感想を聞くのが好きなようだから」
「そうするよ。フルエットも、ありがとな」
「いやあ、私は別になにも? ――っと」
カリカリに焼きあがったベーコンを皿にあげると、フルエットはフライパンへそのままパンを入れた。ベーコンの脂を吸い込んで、パンが音を立てながら色づいていく。
「ビーンズの方はどうだい?」
「ん……温まったかな」
綺麗な黄金色にあがったパンが皿へあがり、そこへ温めたビーンズをたっぷりとかける。あとは卵やトマト、お茶を用意して朝食の支度は完了だ。二人がテーブルについたその時、ドアノッカーを叩く音がした。
「おや、珍しい。郵便かな」
言うが早いか、フルエットは素早く立ち上がって玄関へ。短いやり取りをかわす声が聞こえた後、廊下を書斎の方へ向かうフルエットの姿が見えた。それから少し間があって、便せんを手に戻ってくる。眺めるフルエットの表情は思案気だ。
「どうしたんだ?」
「実家から手紙が来たんだがね」
言いながら、彼女は朝食の席へ戻る。折った便せんをテーブルの隅に置くと、ベーコンを切り分けながら言葉を続けた。
「ゼフィをまた寄越すそうだ。仕送りとは別で用件があるらしい。この手紙自体、少し遅れて届いたようだから……早ければ、今日には来るな。あとは電話を引けとかなんとか……ま、これはいいだろう」
ゼフィの名前が出てきた途端、お茶が急に渋くなった気がしてユリオは顔をしかめた。ベーコンを口へ運んだフルエットが、そんな彼の様子に苦笑する。
「そう嫌ってやらないでくれ。彼女も仕事で仕方なく来ているんだから」
「他のヤツに代わってもらえばいいだろ」
ビーンズを乗せたフライドブレッドを一口かじった彼女が、視線を何処か遠くへ向ける。家の中で言えば、寝室がある方だ。視線を食卓に戻して、フルエットはひらりと手を払った。
「ゼフィは元々私のお付きだったからね。他の使用人たちは当然嫌がるだろうし、彼女以外に白鳥の矢が立つ先は居ないのさ」
「……ふうん」
「それにゼフィは、私がこの家に住み始めたばかりの頃も一緒に居てくれたからね。屋敷の他の人間よりは土地勘があるんだよ」
その言葉に、ビーンズをすくっていたユリオの手が止まる。微妙に傾いたフォークから、ビーンズがぽろぽろと皿に落ちた。
「あいつ、ここ住んでたの?」
「そうだよ? 今君が使っている寝室は、もともとゼフィが使っていたものだ」
驚くと同時に、なるほどと思った。泊りの客が来そうもないこの家に、なぜわざわざ2つ寝室があったのか。それはもともと、フルエットとゼフィが二人で暮らしていた家だったからだったのだ。
「アイツが来るのは、仕方ないのかもしれないけど。……それでもやっぱり、ヤだな。ぼくは」
フォークに刺したビーンズを、思いきり噛みつぶした。あの日のゼフィの振る舞いを思い出した胸のムカつきを、一緒に噛みつぶすように。
◆
そしてその日の、昼をしばらく過ぎた頃。確かにゼフィはやってきたのだった。
暖炉の小部屋のソファにゼフィが、安楽椅子にフルエットがそれぞれ腰かけて向かい合っている。椅子が足りないから、ユリオはダイニングから椅子を持ってきてフルエットの隣に座っていた。ぶら下がっていた服は、いったんすべてミシン部屋に移してある。
「……」
ゼフィの淀んだ緑をした瞳が、ちらりとユリオを見る。次の瞬間、吐き捨てるような短いため息をゼフィはこぼした。その唇が言葉を紡ごうとした時、それより先にフルエットが口を開く。
「それで、ゼフィ? 今日はいったい何の用件なんだい? 君が来るということしか、手紙には書いていなかったんだが」
「そちらの彼のことを、ギヨーム様にご報告いたしました」
「ギヨーム様って?」
「私の父のことだよ。――失礼、それで? お怒りにでもなったかな」
ゼフィが口元を歪めるのがわかった。今から話すことが、楽しくて仕方ないというように。
「コマドリを飼うほど人恋しいのであれば、相応しい番をあてがうとギヨーム様は仰っています。フルエット様がスピエルドルフ家のご令嬢、それも長子であることは今も変わりございませんから、引く手はあまたございます」
「……ユリオくんはコマドリじゃあないんだが」
フルエットが大きなため息をこぼす。頭を抱えて、緩やかに首を振った。それで良くない話なのだろうとはわかったが、具体的なことはユリオにはさっぱりだった。
「どういうことだ?」
ゼフィが口を開こうとするのを制して、フルエットが答える。
「私と結婚してスピエルドルフ家と縁戚関係を結びたい連中が大勢居る、って話さ。資産はあっても、家名のない成金だとかね。私が言うのもなんだが、スピエルドルフ家は歴史の長い家だからね」
「え、えっと……つまり?」
まだ飲みこめなくて首を傾げていると、ゼフィがくつくつと肩を揺らして笑い始めた。ユリオの様子がおかしくてたまらない、と口にしなくとも顔に書いてあるようだった。やがて笑いがおさまると、ゼフィはあの日もそうしたように、口元だけを大きく歪めた嘲笑を浮かべた。
「フルエット様には、まだ価値があるということです」
「価値、って?」
絡みつくようなねちねちとした声に、頭が少し熱を帯びる。ゼフィに問いかける声は、自分でも驚くほどにゆっくりと抑えた口調だった。
「ええ。スピエルドルフの家名を刻印した商品として、お家のため役に立てるだけの価値がまだあるのですよ」
「……商品?」
呟いた声は、震えていた。踏みしめた床が鳴り、つかんだ椅子の背もたれがミシリと悲鳴をあげた。
「不服そうですね? 居るだけで異類を招く呪われた身に、まだその価値があると考えて頂けるだけ――」
耳鳴りがして、視界が赤く染まる。燃え上がりそうなほどの頭の熱を自覚した時、ユリオはもうゼフィに飛びかかっていた。
彼女を床へ叩きつける音と、蹴り飛ばされた椅子が壁に叩きつけられる音が、おおよそ同時に部屋に響く。
「か……は……っ」
体の下で、ゼフィが潰れた掠れ声を漏らす。ユリオは彼女の首を絞めるのではなく、左腕を使って押しつぶしていた。右手は、睨みつけてくる右目に添えている。その気になれば、そのまま親指をねじ込んで潰してしまえる格好だった。
「ユリオくんっ!!」
鋭い叫び声。羽交い絞めにしようと滑り込んできたフルエットの腕は、冗談みたいに細くて。きっと必死になって引きはがそうとしているのだろうけど、そよ風に吹かれた木の葉ほどもユリオの体は動かなかった。
「やめろ、やめるんだ……!」
「なんっ、でだよ! こいつ、こいつは……! おまえのことを好き勝手……!」
腕と手はそのまま、背後に向けて吠える。
二人の間に、何があったのかをユリオは知らない。否、たとえ何があったとしても。今ここでフルエットのことを商品だの呪われただの、散々に貶めたこの女が許せなかった。心臓が怒りで跳ねまわり、全身が燃えるように熱い。それでも異類の姿をとらなかっただけ、まだ自制心が効いているつもりだった。
「こんな言われて、なんで怒らないんだよ!」
羽交い絞めにしようとしていた腕から、力が抜ける。シャツの下で盛り上がりかけていた背中に、フルエットの頭が押し付けられる感覚があった。
「やめてくれ。お願いだよ……。ゼフィは今でも、私の……」
その声は震えて、掠れていた。力の抜けた腕の握り拳が解けて、シャツへすがりつくように変わる。生地越しに感じる細い指先と、鼓膜を震わす震えた声が、ユリオの中で荒れ狂っていた熱を冷ましていく。その代わり、腹の底が重く沈んでいくようだった。
「……っ」
両腕を退けた瞬間、ゼフィが激しく咳きこむ。喉を抑え、目じりには涙を浮かべて、何度も何度も。しまいにはえずきすらしたその姿に、ユリオは少しだけ胸がすっとするのを感じていた。フルエットには、悪いと思ったけれど。
「――は」
咳とえずきがおさまった途端、涙もそのままにゼフィは嗤いだした。かと思うと、ユリオを突き飛ばす。
背中にしがみついたままだったフルエットも巻き添えをくらって、二人まとめて床に転がる。背中をしたたかに打ち付けてうめく二人を、ゼフィは上体を起こした格好のまま見下ろしていた。
「ほんの数日のうちに、よくここまで忠実に仕込んだものですね。餌付けでもしましたか? それとも、口にはできないような褒美でも与えましたか? ああそういえば、先日の時も既に相当手なづけているようでしたね」
二人を鼻で笑う彼女の握る拳が、白くなっていた。
「これほど凶暴で忠実な飼い犬、いったい何処で拾ってこられたのです? 罪人でも買い付けてきましたか? それなら首に手綱、いえ命綱が繋がっているようなもの。忠実になるのもうなずけますね。それともだんしょ――」
「そこまでだ、ゼフィ」
身体を起こしたフルエットが、ゼフィの口をそっと塞ぐ。ゼフィが目を見開いた拍子に、瞳に溜まっていた涙が頬を伝い落ちた。
「私は彼を仕込んでなんかいないし、飼い犬にしたつもりもない。それに彼は、罪人じゃない。ただの不幸な行き倒れだよ」
フルエットの背中がうつむく。ユリオの位置からは、彼女がどんな顔をしているのかはわからなかった。
「私のことはいい。だけど、彼まで悪し様に言うのはやめてやってくれ」
「フルエット……」
「だけどユリオくん」
肩越しに振り返ったフルエットが、ユリオに鋭い視線を向ける。今さらのように、さっき自分がしでかしたことを自覚する。
「君の先ほどの行いを看過できないのも確かだ。謝って済むものでもないが、とにかくまずはゼフィに謝罪を――」
「……何故なのですか?」
口を塞ぐフルエットの手を払い除けたゼフィがうるんだ、しかし不可解なほど澄んで見えてる瞳で二人を見る。首を傾げて流れた前髪の隙間から、抉れたような痕が覗いていた。
「何故、こんな」
ゼフィの声は震えていた。
「こんな男を手元に置いて、気遣われて……」
声がうわずり、見開かれた緑の瞳が震える。蛇のように小さくなった瞳孔が、二人を見つめていた。
「わたくしのことは、お傍に置いてくれなかったのに」
フルエットの肩が揺れた。うつむきがちに視線を逸らしたフルエットが、かきむしるように自分の髪を掴んだ。ややあって顔を上げる。
「それは私のせいで、君に――」
「なら、何故? 何故彼はまだここに居るのです? 異類除けにするでもなければ、何故……!」
「っ……!」
止める間もなく、ゼフィはフルエットの肩を掴んでいた。よほど強くつかんでいるのか、フルエットが痛みにうめく。うわごとのように何故と繰り返すゼフィには、その声は届いていない。
「おい、お前……!」
「お前は」
引きはがそうと近づいたユリオを、ゼフィの目がどろりと捉える。
「お前はなんなのですか? 何故のうのうと、フルエット様のお傍に居座っていられるのです?」
流れる泥が、通り道にあるものを飲みこむような動きだった。フルエットの方を掴んでいたゼフィが、気づいた時にはユリオの胸ぐらをつかんでいる。
「何の権利があって、フルエット様の人生を食いつぶしているのです? コマドリでも飼い犬でもなければ、何故……!」
胸ぐらをつかむ手に力がこもる。喉が締め付けられる感覚に、ユリオは息苦しさを覚えた。思わずゼフィを振り払おうとしたが、さっきのフルエットの声を思い出して思い留まる。
ゼフィの頭がぐるんと動いた。乾いた唇が、青ざめた肌が、フルエットに向けられる。うわずって震えた声がフルエットを刺す。
「何故ですか、フルエット様」
「それは……」
フルエットが口をつぐんだのを見て、ゼフィの眉がつりあがった。けれどつりあがった眉は震えて、あっという間にひっくり返って。息が詰まったような音が彼女の喉から漏れる。ようやく言葉になったその音は、とぎれとぎれの声だった。
「ゼフィには……っ、お話し、できないような。理由……なのですか」
「それは……」
フルエットは口ごもるだけだった。彼女がそうしてしまう理由が、ユリオにはわかっている。それはユリオのせいだからだ。
だから、
「ぼくが」
ユリオはゼフィの前に左腕を突き出した。
一見して意味の分からないまったくの奇行に、ゼフィが震える眉をひそめる。けれどもその一方で、フルエットが息を呑んでいた。
教えてくれたのは、彼女の方が先だった。
ごまかすこともできたはずなのに、それでも彼女が教えてくれたのは、助けてくれたのは、彼女の言葉を借りれば「気になってしまった」から。彼女が気になってしまったのは、そして今ここに居ることを許してくれている理由は。
深く吸った息を吐き出す。
「ぼくが、フルエットの同類だからだ」
「ばっ――」
フルエットが制止の声をあげた時には、ユリオの左腕はもう淡緑色の外骨格に覆われたハサミへ変化している。
「……!」
悲鳴を抑え込もうとしてか、口元へやったゼフィの手はわなないていた。瞳孔が消えたかと思うほどに小さくなって、やがて全身を駆け巡り始めた震えを抑え込むように、彼女は背中を丸めてうずくまった。それでも左手がまだ、ユリオの胸ぐらを掴んだままでいる。
「ゼフィ、おい!?」
顔をひきつらせたフルエットが、気遣わしげに彼女の背中に触れる。ユリオをキッと睨めつけた眼差しは、刺すように鋭い。
「どうして見せた!?」
「ごめん。でも――」
ゼフィが突然身体を起こす。
彼女は笑っていた。見開いた右目から、前髪の奥の左目から涙をあふれさせ、歯を食いしばるようにして笑っていた。
その凄まじさに、ユリオの背筋がぶわりと粟立つ。息が止まり、視線が釘付けになる。そのせいで、彼女が右手に何か握っていると気づくのが遅れた。掌に収まるくらいの、上下二連の丸穴を覗かせたそれは。
小型の拳銃が火を噴く。
「っ、ぐぁ……!?」
脇腹を、焼けるような痛みが走る。たまらずうずくまったユリオの顔面を、フルエットを振り払ったゼフィの右拳が強打する。不意をうたれて、ユリオは床に転がった。
「なっ……大丈夫かい!?」
ただでさえ色白の肌を青ざめさせたフルエットが、ユリオを抱え起こす。その間に、ゼフィは立ち上がって駆け出していた。部屋を出て行く寸前に立ち止まり、振り返った彼女が口を動かすのが見えた。耳元で響くサーっという音がうるさくて、彼女がなんと言っているのかはわからなかった。
「ゼフィ、待ってくれ!」
「う……ぐっ」
ゼフィを追って立ち上がりかけたフルエットは、しかしユリオのうめきに足を止めた。額に汗をにじませた彼女が、こわばった目つきでユリオを見る。
「ユリオくん、傷は!?」
「ぅ……だ、大丈夫。弾は……っ、多分かすっただけだ」
「かすっただけって……でも君、血が」
フルエットの言う通り、銃弾がかすめた脇腹は出血していた。焼けるような痛みもまだ残っている。けれど異類の身体にとって、この程度はかすり傷の範疇だ。狩人の聖火銃ならともかく、普通の銃弾を一発受けたくらいで異類は死なない。動くのだって問題ない。
「こんなの……っ、平気だ。それよりゼフィは!?」
自分の髪を握り締めるようにして、フルエットが唇を嚙みしめる。うつむいて、絞り出すような声で彼女は言った。
「追いかけよう。おそらくゼフィは、教会に行って君を異類として告発するはずだ。それだけは避けないと……!」
だがフルエットによれば、ゼフィはいつも車でこの家まで来ていたらしい。今日もそうだとすれば、走って追うのは無理だ。
「二輪を出そう」
納屋へ向かおうと立ち上がったフルエットが、ユリオに手を伸ばす。一瞬の思案の後、ユリオはその手は取らずに立ち上がった。左腕を人間のソレに戻すと、脇腹を軽く押さえてわずかに顔をしかめる。
「フルエット、この辺りって人は来るか」
「いいや。だから私はここに住んでる。来るのは郵便か、それこそゼフィくらいだ」
「だったらぼくは先に行く。フルエットはバイクで追っかけてこい!」
きょとんするフルエット。けれどその目が、シャツの下で既に軽く盛り上がり始めている背中を捉えた。
「君、ちょっと待――」
「すぐに一枚ダメにしてごめん!」
言うが早いか、ユリオは玄関へ向かって駆け出した。開け放たれた扉からは、小さくなっていくオープンカーの後ろ姿と土埃が見える。
異類であることが告発されれば、自分はともかくフルエットに迷惑がかかる。それだけは、絶対に避けなければならない。
シャツの背中が張り詰めるほどに膨れ上がり、限界を迎えた生地が裂ける。裂け目から飛び出したのは、淡く鋭い緑の三角翅だ。
「待てよ……!」
地面を蹴る。ユリオの体は地面スレスレの空を斬り裂いて、滑るように翔けだした。
地面が剝き出しの道をまっすぐに、しかし荒々しく走るゼフィの車に追い付くまでにそうはかからなかった。
車の左に並走する格好となるや否や、ユリオは運転席へ飛びかかろうとした。けれど背中にすがりついたフルエットの声がよみがえって、舌打ちと共に思いとどまる。そんなことをすれば、車が止まっても大惨事は免れない。それでゼフィの身に何かあれば、きっとフルエットは悲しむだろう。
だから代わりに、涙を置き去りにしながら運転するゼフィの横顔に向かって叫ぶ。
「おいおまえ! 車止めろ!」
その声を聞いて、ゼフィははじめてユリオが追ってきたことに気づいたようだった。隣と正面へ視線をせわしなく行き来させながら、上ずった声をあげる。
「おっ……お前、銃は!?」
「異類の身体があれくらいで止まるか! そもそもかすっただけだ!」
「っ、化け物め……なら!」
ゼフィの左目が、ギロリとユリオを睨みつける。かと思えば、彼女は突然ハンドルを切った。疾走する鋼鉄の塊が、土埃をあげてユリオに激突する。
「ごがっ!?」
ユリオの視界と意識が激しく揺さぶられる。先ほどのへたくそな銃撃よりも遥かに重い衝撃が、全身の骨を砕かんばかりに襲いかかる。飛んでいるがためにふんばりのきかない身体が吹き飛ばされ、道の左の斜面に広がる森の中へ突っ込んだ。
全身を枝葉にぶつけて切り裂かれた末、堅くごつごつとした幹に叩きつけられてようやく止まる。肺の中が空っぽになり、喘ぐように悶えながら下草の上に落下。
「こ、の……!」
くらつきを振り払うように頭を振る。獣のような姿勢から、ユリオは再び翅を動かした。刺すような痛みが背中にかけて走ったが、今は気にしていられない。木々の間を飛ぶのには慣れていないから、枝から枝へ跳び移るような飛び方で森を抜ける。
見えなくなりかけていた後ろ姿を、再び追跡する。同じ手を食わないように、今度は後ろから接近――。
「お前、まだ……!」
バックミラーにユリオの姿を認めたのか、ゼフィが車の速度を上げる。逃がすものかと、ユリオもまた速度を上げた。そのせいだろう。服の下の体はどんどんと淡緑色へと変じていく。異類だと告発されないために異類の力を引き出す皮肉を、今は吐き捨てるように笑うしかない。
距離が縮まる。
「つかまえ、たぁ!」
左手が、車体後部の畳まれた幌をつかんだ。しかしその直後、車はさらに加速する。それどころかユリオを振り落とそうと、わざと蛇行すら始める始末。時おり振り返って後ろを確認するゼフィは鬼気迫る表情で、振り落とされようものならバックで轢き潰してきそうなほど――否、間違いなくそうするだろう有様だった。
右へ左へと振り回されながら、それでもユリオは幌をつかんで離さない。何度目か振り返ったゼフィが、首筋を引きつったように張り詰めさせて叫んだ。
「何故……どうしてフルエット様は、お前のような化け物をお傍に……!」
「……っそれはぁッ!」
ハサミを幌に突き立てる。布が裂け骨の折れる音が、悲鳴のようにほとばしった。血管を激しく駆け巡る血の音が耳鳴りめいて頭の中に響くのを感じながら、ユリオは叫ぶ。
「ぼくが化け物だからだよ!」
「ふざけ……っ、そんなはずあるわけないでしょう! お前など……異類など居なければ、フルエット様は!」
ほとんど白目に見えるくらいに目を見開いたゼフィが、左手をハンドルから離した。ユリオのハサミをを幌から引き抜こうと手を伸ばしてくる。
その間、当然ゼフィは前を見ていない。見えるわけがない。
「ばかお前、前見ろ!」
だから、ユリオに見えているものが、彼女には見えていなかった。道の方がそれを避けて敷かれるほどに大きな、車よりふたまわりほどは大きな岩が。
「ッ!」
振り返ったゼフィが、叩きつけるようにハンドルをきる。剥き出しの地面を噛んだタイヤが、耳を聾するほどに激しく叫んだ。
速度のままに揺さぶられる視界に、ユリオはゼフィがハンドルを誤ったことを悟る。あろうことか左へ、すなわち森へ続く斜面に向かって、ゼフィはハンドルをきってしまったのだ。
ユリオを振り落とそうと、速度を上げ過ていぎた車体は簡単に制御を失う。幌にハサミを突き刺したユリオごと、ハンドルを握るゼフィごと、車は斜面を転がって、森の中へと突っ込んでいく。
「くそっ……!」
ハサミを引き抜いて、ユリオはゼフィに飛びついた。暴れる彼女を無理やり包むような体勢を取った瞬間、後頭部に衝撃。
目から火花が散って、ユリオの意識はぶつりと途切れた。
「よりにも……よってっ、こんな時に、ガタが……!」
エンジンのかからないバイクを納屋に置き去りにして、フルエットはタイヤ痕の刻み込まれた道を息を切らせて走る。
こんなことならユリオに抱えてもらうなり、背中に乗せてもらうなりしておくべきだった。いやそもそも、イルーニュでかかりが悪かった時に整備工のところへ持っていくべきだった。後悔が、走り慣れない足と一緒になって痛む。
「どうして、私は……!」
止められなかった。異類の身体であることを明かそうとしたユリオを、家を飛び出していくゼフィを。頭がずきずきと痛むのは、酸素が足りないせいだろうか。それとも、胸の中で棘のようになってくすぶる罪悪感のせいだろうか。
どうして。
頭が痛むたび、部屋を出て行く寸前にゼフィが呟いた言葉が、うずくように虚空から響く。ずきり。どうして。ずきり。どうして。
このまま走り続けても、追い付けないことはわかっている。それでもユリオがゼフィを止めてくれていることを祈って、フルエットは足を動かし続けた。ユリオもとゼフィとも、こんな形での別れ方はしたくないから。
走り続けるうちに、タイヤ痕が不自然な蛇行を始めたことにフルエットは気づいた。背筋を走る寒気に、フルエットは息切れで目まいのする体に一層の力をこめて走る。
「あ……」
そして、フルエットは見た。
大岩の前で、タイヤの跡が森へ続く斜面に向かって曲がっているのを。斜面の草が、重たく大きな何かが上を転げていったように、ところどころ剥げているのを。
しかし、フルエットには見えなかった。ゼフィの車も、ゼフィも、そしてユリオも。
地面に引きずり込まれるかのように、フルエットの全身が重くなる。痛いほどに激しく跳ねまわる心臓のせいで、視界が揺れてぼやけていく。
西の空が赤く染まって見えるのは、フルエットの目が充血してしまったからだろうか。
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