第八話

 ランバーの見繕ってくれた服を、一通り見終えて少しした頃。フルエットは、紙袋をひとつ抱えて戻ってきた。

「おかえり、フルエットさん」

「やあ、戻ったよ。服選びの方はどうだい?」

「ジェラールに見てもらって、一通り終わった。けど……」

 ユリオは首の後ろをこすりながら、姿見の隣の丸テーブルを見やった。よさそうだったものはテーブルの上にまとめなおしてあるのだが、その数は一着や二着では済まない。

 しかしフルエットはと言えば、まるで気にした様子もない。一瞥して「いいじゃないか」とうなずいて、ジェラールに告げる。

「ここの服、全て包んでもらえるかい?」

「毎度あり!」

 笑顔で応じたジェラールが、服を抱えてカウンターの方へ小走りに駆けていく。それらをカウンターに置くと、ランバーに呼びかけて袋に詰め始めた。

「父さん、お会計」

「はいよ」

 さて、これに戸惑ったのがユリオである。何着あったか指折り数えた彼は、顔を青くしてフルエットに呼びかけた。

「お、おい。フルエット」

「なんだい?」

「いいのかよ、あんなに……」

 ぴっと指を立て、フルエットがユリオの言葉をさえぎる。そして彼女は、笑って首を横に振った。

「お金を出すのは私だ。その私がいいんだから、君が気にすることはないのさ」

 けれどもこれでは、やっぱり飼われているみたいではなかろうか。そんな思いが表情に出ていたのか、フルエットはユリオの顔を見ると「と言っても」と指先を唇にやった。思案気に視線を流し、それからまたチラリとユリオの顔を見る。

「気にする性質だよねえ、君は。……だったらそうだな、家事を覚えてそのぶん私の生活を楽にしてくれたまえ。あるいは働き口を見つけた後、その稼ぎで払ってくれるでもいいよ」

「わかった」

 ユリオが真面目な顔でうなずくと、彼女は何故か苦笑を浮かべて頬をかく。

 そうしている間に、袋詰めと勘定が終わった。フルエットが支払いを済ませる間に、ユリオはジェラールから紙袋を受け取る。

「意外と重いから、気を付けてよ」

「うん。……うわ、ほんとだ」

 服の詰まった紙袋は、見た目よりもずっしりとしていた。袋自体も大きめで、フルエットが持ったら前が見えなくなってしまいそうなくらいだ。

「それじゃあランバーさん、ジェラール。今日はありがとう、またよろしく頼むよ」

「おう」

「フルエットさん、ユリオ、またね!」

「うん、またな。……えっと、ありがとう」

 ユリオは帽子のつばを軽く持ち上げ、フルエットが二人にひらりと手を振る。

 ランバーの店を出た後も、二人はそのままイルーニュでの買い物を続けた。


 

 サイドカーの後部トランクへ、ユリオは毛糸玉の入った紙袋を詰め込んだ。いっぱいになってきたトランクを見て、そろそろ買い物も終わりだろうかと思う。

 彼がサイドカーのシートに戻ると、フルエットが二輪のエンジンを入れようとキックした。何度か繰り返して、眉をひそめて首を捻る。

「おや?」

「どうした?」

「いや、少しエンジンのかかりが悪くて……ね!」

 サイドカー側から見えないが、フルエットが思いきりキックをした気配。するとようやくかかったのか、エンジンが大きな音を立てた。そのままバイクを走らせ始めたフルエットに、ユリオはトランクの方を見ながら訊く。

「今のとこで最後か?」

 いや、と前を見たままフルエット。

「もうひとつ寄る店がある。そこで最後だよ」

 言いながら、フルエットがハンドルを切った。二人を乗せた二輪が入っていくのは、日の射さない薄暗い通りだった。歩道のない狭い道に、大通りやナテール通りとそう変わらない建物の連なり。道と同じように狭くなった空も相まって、圧迫感を覚えさせる。

 通りの左右へ目を向けても、店はこぢんまりとしたコーヒーハウスと食堂がひとつずつあったくらい。あとはほとんど普通の家のようで、買い物するような店があるとは思えないのだけれど――。

「ここだ」

 フルエットがバイクを止めたのは、古くて重たそうな木製ドアの建物の前だった。ドアにはガラスがはめ込まれているのだが、その向こうは薄暗くてよく見えない。一見して何の店かはわからないし、そもそも店なのかもわからなかった。フルエットが言うからには、店であることは間違いないのだろうけど。

 よく見ると、ドアの上に錆の浮いた小さな銅看板がかかっていた。店の名前と一緒に、何かの模様が刻まれている。

「……本?」

「ああ。読み書きを覚えてもらうのに、一冊読みやすい本でもどうかなと思ってね」

 バイクを降りてドアへ向かうフルエットの背中に、ユリオは声をかけた。

「読み書きなら、ぼく一応できるぞ?」

「えっ」

 ドアノブに手を伸ばしかけた格好のまま、フルエットが振り返る。じっと見つめるはちみつ色の瞳に、ユリオは少し唇を尖らせた。

「そんなびっくりしなくてもいいだろ」

「すまない。だけどほら、君はこれまでがこれまでだろう? だから、身に着けるタイミングがなかったものだとばかり……」

「それは……そうだな」

 改造されてからはもちろん、その前も路地裏暮らしの孤児である。フルエットがそう考えるのも無理はない。

 砂と埃の上へ、細長い壁の欠片を使って記された文字列たちが、ふとユリオの脳裏をよぎる。ユリオはふるふると首を横に振った。

「一番年上だったやつがさ、教えてくれたんだ。だから、そのために買ってもらわなくても平気だよ。ただでさえ今日は――」

 けれどフルエットは、そのまま店のドアを開けてしまった。店の中へ入っていきながら、ぴっと立てた指でユリオを招く。

「既に身についているなら丁度いい。君の世界を広げるためだと思って、一冊買おうじゃないか」

「いや、だから僕は……、待てよ!」

 こうなっては仕方ない。バリバリと頭をかいて、ユリオもため息混じりに店へと入る。

 ドアのガラスから見た時そのままに、店内は薄暗かった。昼間なのに窓は締め切られていて、ぶらさがった電灯もシェードでやけに光量が絞られている。以外なのは、棚や床がチリひとつないように掃き清められていたことだ。

 人一人ぶんと少しの間隔を空けて並んだ棚には、しっかりした装丁の本からそうでないものまで、様々な本が詰め込まれている。中にはまったく見知らぬ文字が背表紙に記されたものすらあるが、もしかして外国の本だろうか。

 そんな店の中には今、二人以外にお客は居ないようで。もっといえば、店であるからには居るはずの店主の姿も見えない。奥にランタンの置かれた机が見えるのだが、そこにも居ないようだ。それにしても、椅子がずい分古びている。破れたのを塞いだ跡まであるくらいだ。

「この店、ほんとにやってんのか?」

「そのはずなんだが……。ルイリめ、さてはまたやったな?」

 ひとりごちたフルエットが、ずんずんと奥へ進んでいく。やがて彼女が立ち止まったところで、ユリオは棚の足元から突き出す真っ白な何かを見た。

「うわっ」

 ぎょっと身を引いて、よく見て。ユリオはもう一度ぎょっとする羽目になった。その白い何かの正体は、人の手だ。ほっそりとした長い指を持つ、柔らかで青白い手。女の手だろうか。

 視線を棚の間に向けると、手の主が器用に「Ⅰ」の字の恰好になって転がっていた。分厚く頑丈な作りの見るからに重そうな本が一冊、その顔面に鎮座している。

「お、おい。大丈夫なのかこれ」

 慌てるユリオとは対照的に、フルエットには特段焦った風もない。ロールヘアをくるくると手遊びして、ひとつため息をつくばかり。

「ルイリ、さては君またドジをやったね?」

 手を踏まないように慎重に歩みを進めたフルエットが、頭の近くに屈んで本を退かす。そうして顕わになったのは、やはり青白い肌をした女の顔だった。店内の薄暗さと淡い黒髪が、青白さをより強調しているように思える。

「いや、重いなこの本。ユリオくん、持ってもらってもいいかい?」

「あ、ああ。……うわ重っ。そいつ、大丈夫かな」

「時々こういうことやるんだよね、彼女。大丈夫だとは思うんだが……おーい、ルイリ?」

 渡された本をしっかりと抱えるようにしつつ、フルエットが女を起こそうと呼びかける様子を見守った。そのうちに、女の服装が変わったものであることに気づく。体の線がほとんど出ない前で合わせる形の服だ。だけどボタンは見当たらず、腰のコルセットだけで留めているように見える。そして何より、袖の丈が長い。フルエットの黒いドレスや、今日のブラウスみたいだった。

「……こいつの服、袖のところとかおまえのに似てないか?」

 思わずフルエットに問いかけると、フルエットはルイリの肩を揺すりながら答える。

「ああ、それは私がルイリの服を真似たんだよ。彼女、他所から流れ着いた異邦人らしくてね。この服は、あちらの伝統的な衣装なんだそうだ」

「へえ、そうだったのか」

 そうこうしているうちに、ルイリの唇から微かな吐息が漏れた。そのままゆっくりと目を開けると、鳶色の瞳がフルエットを見て、ユリオを見る。パチパチと、長いまつげを揺らして数度瞬きする。

「あぁ……フルエちゃん、いらっしゃい。と……誰?」

「おはよう、ルイリ。紹介する前に、まずは起きてくれないかい?」

「起き――っあ゛、痛たた……。あ゛ー……あーし、まーたやっちゃったのね」

 顔をさすってうめきながら、ルイリが身を起こす。毛先と後頭部で結わえられた淡い黒髪が、滝のように流れた。

 よいしょと立ち上がったルイリの頭が、ぐんと高いところに行く。フルエットはもちろん、ユリオも見上げないといけないくらいだ。薄暗い照明や青白い肌、見慣れない服装のせいもあってか、背の高い彼女の姿はお化けか何かのようにも見えた。

「痛ったー……ああ君、それ貸して」

「あ、ああ」

 ユリオが渡した本を、ルイリは表紙といい背表紙といいじっくり眺める。そして軽くうなずうと、長い腕をぬっと伸ばして棚の最上段にそれをしまった。ついてに軽く棚を整え、満足げに口の端を上げる。それからようやく、ルイリはフルエットに問いかけた。ほっそりと長い指が、ユリオを指差す。

「んで、フルエちゃん。この子は?」

「彼はユリオくん。つい先日できた居候でね。今日は彼が読む本を買いに来たんだ」

 それを聞いたルイリの口元が、にまぁと弧を描く。ユリオはそれを見て、何故か獲物を前にした獣を見ているような錯覚を覚えた。

「へぇー、つまりご新規さんってこと? あーしはルイリ、ここの店長でフルエちゃんはお得意さん。よろしくねえ、ユリくん」

「よ、よろしく。……待て、ユリくんって? ぼくのことか?」

「そーだよ? ユリオだからユリくん」

 にこぉっと笑みを深くして、ルイリは奥の机へと向かう。背もたれの高さが足りていなさそうな古びた椅子が、腰かけた拍子にぎっと音を立てた。

「んで、なんだっけ。ユリくんに本をプレゼント? でもフルエちゃん、書斎にそれなりに持ってるでしょ? それ読ませてあげればいーじゃん?」

「それはそうなんだが、せっかくだから最初の一冊くらいは新しいものを用意したいじゃないか」

 ぼくは別にいいんだけどと思いながら、ユリオは二人のやりとりを聞いている。

「じゃあフルエちゃんの大好きな、ジョウント先生の最新作は? 増刷分がこないだ入ったし、お揃いで持つのもいいんじゃない?」

「確かに私は大好きだが……あれは復讐譚だし、話自体もかなり長いだろう? 最初の一冊には、二重の意味で重くないかい? ベネット先生の新刊の……『リジーの日記』だったか? 書評からすると短くて読みやすいようだけど、あれはどうだろう?」

「あー、あれ? あれも面白かったけどねえ。ユリくん、男の子でしょ? ご令嬢が主役の話だし、好みに合うかどうかで言ったらけっこう微妙じゃない?」

「それもそうか……ふむ」

 話にまったくついていけないユリオは、ぼーっと近くの本棚を眺めていた。といっても、本など触れる機会からしてまったくなかった人生だ。背表紙に記されたタイトルをただ眺めるばかりで、これといって何かあるわけではない。

「っていうか、ユリくんの好みはどーなの?」

「へ」

 ルイリから急に水を向けられ、ユリオはぽかんと間抜けな声をあげた。顔をしかめて、額をかいて、視線を机の上に落とす。で、また近くの本棚に目を向けた。そもそも触れたことがないものだ。好みなんて答えようがない。

「好み、って言われても……」

「だったら、あーしの一番のおススメでもいーい?」

 ユリオの答えを待たず、ルイリは机の引き出しから一冊の本を取り出した。くたびれた感じがあるものの、傷や折れはほとんどないその本の表紙には、月を背に夜空を飛ぶ船が描かれている。

「フォッグ先生の『月往く船』! 好奇心旺盛なお嬢様に見出された夢見る発明少年が、月旅行に挑戦する話でねー。最後は少年もお嬢様もハッピーな終わり方するし、文章も読みやすいし、初めての一冊にはピッタリだと思う! これはあーしのだから売ってあげらんないけど、新品がちゃーんと棚にあるから」

 シェードに遮られた薄暗い灯りの下で、本を掲げたルイリの鳶色の瞳が宝石の様に輝きを放つ。少し早口で語る声は、さっきまでよりもワントーン高い。

 大切な宝物の話をするみたいなルイリの調子に、フルエットが柔らかく微笑む。

「君は本当に好きだね、『月往く船』」

「だって、あーしがお爺さんからもらった最初の本だし? んで実際おススメだし。どう?」

「えっと……」

 『月往く船』を掲げて、瞳を輝かせるルイリ。一人と一冊を交互に見やりながら、ユリオはさっき彼女が口にしていた言葉を思い出す。

 『好奇心旺盛なお嬢様に見出された夢見る発明少年』。ユリオは発明少年ではないし、フルエットに何かを見出されて居候になったわけではない。だけどもお嬢様と少年という共通項が、ユリオに興味を抱かせる。

「えっと」

 だけど今日だけでも服に食料、色んなものを買ってもらった。そのうえ本までと思う気持ちが、言葉をためらわせる。

 このまま口ごもっていても、フルエットはたぶん察してしまうのだろう。だけどせめて、自分から言うべきなのだろうと思う。

「……その本、ほしい。いいかな、フルエット」

 フルエットがふっと息を吐いて笑う。そして彼女は、ぴっと立てた指先をくるくるとまわして言った。

「もちろんだとも。そのつもりでここに来たわけだからね」

「ありがと。……働くところが見つかったら、ちゃんと返すから」

「楽しみにしているよ。ということで、ルイリ? 『月往く船』一冊お願いできるかな」

「もっちろん!」

 勢いよく席を立ったルイリが、にぃっと満面の笑みを浮かべた。本棚から真新しい『月往く船』を一冊取ってきてユリオに渡すと、目線を合わすように身体を傾げて、鳶色の目を輝かせてやはり笑う。

「読み終わったらさー、感想聞かしてね?」

「うん」

 ユリオの答えに、ルイリはもう一度満面の笑みを浮かべる。

 その日の買い物は、これで最後だった。

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