第六話

 フルエットの自宅から最寄りの街は、その名をイルーニュと言う。

 朝食の片付けが済んだ後、ユリオはフルエットの二輪――正確にはその右にくっついた大型トランク付のサイドカー――に同乗してイルーニュの街へと向かうことになった。ユリオの服に二人ぶんの食料、調達しておかなければならないものが多々あったからだ。

 そういうわけで二人は今、イルーニュの通りを二輪で走っている。といっても、歩道に沿うようにゆっくりとだけれども。

 気になるならと渡された帽子を目深に被った下から、ユリオはイルーニュの街並みを眺めていた。フルエットがゆっくり走っているのも、街並みを見せるためなのだろう。

 石畳できれいに舗装された広い通りを、いくつもの車や馬車が通り過ぎていく。そんな中を、タイミングを見計らって横切っていく人も居た。

 歩道に目を向ければ、ユリオと同じような帽子にくたびれたジャケット姿の男や、今日のフルエットと似た服装の女性たちの姿が見える。似たと言っても、袖はフルエットの様に長くはない。流行りというわけではないらしい。

「なあ、フルエット。なんでお前の服って、袖がそんな長いんだ?」

「そりゃあ君、私はその方が好きだからだよ」

「……そっか」

 あごを撫でながら、視線を通りに戻す。コートに背の高い帽子姿でステッキを手にした男性と、日傘を差してその隣を歩くドレス姿の女性の姿があった。その脇を、紙束を手に走っていく少年たちも居る。紙束を掲げてさっきの男女に声をかけているのは、新聞でも売りつけようとしているのだろうか。

 歩道を行き交う人々の向こうには、赤や白のレンガ造りにオレンジの三角屋根の建物や、真っ白な石造りのアパートがずらりと連なっている。そんな中に時々混ざる青い色のレンガで作られた建物が、鮮やかにユリオの目を引いた。よく見ると一階が店になっている建物が多いのは、ここが人通りの多い道だからなのだろうか。

 そうやって眺めていると、交差点に入って通りが一度途切れた。二階席に乗客を満載したダブルデッカーが、二人に影を落としながら左から右へと横切っていく。

 その間、ユリオは通りの左右をきょろきょろと見まわしていた。するとダブルデッカーがほとんど通り過ぎたくらいの頃、交差点を左へ行った奥にある物が見えた。我知らずのうちに視線が吸い寄せられ、ユリオはサイドカーから軽く身を乗り出してしまう。

 他の建物よりもずっと背の高いそれは、塔だった。真っ白な外壁で、頂上の辺りは深めのお皿を2つ重ねて窓をつけたみたいになっている。

「フルエット、あれは?」

「ああ、あれは大火記念塔だよ。……っと君、ちゃんとシートに座りたまえ。危ないだろう?」

「あ、ごめん」

 フルエットによると、イルーニュの街は十数年前に大火に見舞われたのだという。そこからの復興を記念して建設されたのが、あの白い塔。すなわち大火記念塔なのだそうだ。

「確か、私があの家に住み始めたくらいに完成したんだったかな。気になるのかい?」

 フルエットが、答えを待たずにハンドルを左へ切る。遠心力で体が外へ傾く感覚に、ユリオはハッと我に返る。

「おい、ちょっと待てよ。ぼくは別に行きたいなんて」

「いいよいいよ。日が暮れ始める前に帰ればいいんだから、少しくらい寄り道しても平気さ。それに、行きたい店のひとつがこっちにあるからね」

 店だって逃げやしないのだし、とフルエットは平気な顔で塔のふもとへバイクを転がす。

 近づくにつれて高く大きくなっていく塔を目の当たりにして、ユリオの体は自然と前のめりになっていった。

「すげ……」

 ふっ、とフルエットの笑う声が聞こえてきた。

「この辺りで一番高い建物だからね。気になるのも、興奮するのもわかるよ。けど、それは危ないからやめたまえよ」

「えっ? ……あっ」

 言われて初めて、ユリオは自分がフロントガラスに手をかけていることに気が付いた。何も言われなければ、また身を乗り出してしまっていたかもしれない。なんなら、既に腰が浮きかけている。

 すごすごと大人しくシートに戻ると、そのうち通りの突き当りに到着した。真下から見上げる記念塔は、空にまで届きそうなくらいに高く、そして堂々とそびえていた。

 呆けた顔で塔を眺めているユリオに、フルエットが声をかける。いつの間にか、オートバイは歩道のそばに止められていた。

「ユリオくん、降りるよ」

「えっ?」

「頂上のところが展望台になっていてね、入場料さえ出せば誰でも登れるんだ。イルーニュの街が一望できるし、もっと遠くも眺められるよ」

「へぇ……」

 思わず声のトーンが上がってしまったのを自覚して、ユリオは小さく咳ばらいをした。

 先にオートバイを降りたフルエットが、けれども塔のふもとの石造りの門を見て怪訝な顔をした。

「おかしいな、今までは門番が立っていたはずなんだが」

 口元に手をやって、目を細めるフルエット。確かに、小さなその門の周囲には誰も居ない。

「なあ、なんかかかってないか?」

 その代わり、一枚の木札がかかっていた。お盆くらいの大きさで、ペンキで何か文字が書かれているようだ。ユリオの位置からだと、なんと書かれているかまでは読み取れなかった。

「おや、本当だね。ちょっと見てくるよ」

「――あの」

 フルエットが少し歩みを進めたところで、ちょうど通りがかった青年が声をかけてきた。枯草色の短髪にハンチングを被った彼は、買い物帰りなのか紙袋を抱えている。

「記念塔なら、ついこの間から閉まってるよ。ほら、雨が続いただろ? あれで屋根がやられちゃったとかで、今は修理の人しか――あれ、フルエットさん?」

 青年がおもむろに、片手で帽子の位置を整える。名前を呼ばれたフルエットは、ひらりと手を振って笑いかけた。

「親切な通りすがりかと思えば君か、ジェラール。買い出しかい?」

「うん。おや……父さんに頼まれてさ。フルエットさんはどうしたの?」

「私もちょっとした買い物でね。そのついでに記念塔へ寄ろうと思ったんだが」

「それはタイミングが悪かったね」

 ジェラールと呼ばれた枯草色の髪の青年が、車道側に目を向けた。サイドカーのユリオに気付いたようで、視線を向けたままフルエットに問いかけている。

「あれってフルエットさんのバイクだよね。サイドカーの彼は……?」

「ああ、紹介しないとだったね。ユリオくん、おいで」

 ちょいちょいと手招きされるがまま、ユリオはサイドカーから降りて二人のもとへと向かった。帽子のつばを目深に下ろしながら、右へ少しずらして目元だけは見えるようにする。

「……」

 そのまま黙りこくってしまったのは、別にジェラールが嫌だとかそういう理由ではない。こういう時にどうすればいいのか、ユリオにはわからないのだ。

 それを察したのか、フルエットがすぐさま口を開いた。

「ジェラール、こちらユリオくん。つい先日から、私の家に居候することになったんだ。ユリオくん、こちらジェラール。服を街のお店で買ってもらっている、って話をしただろう? 彼の御父上のお店がそうなんだ」

「よろしく、ユリオ」

「えっと……よろしく」

 ハンチングを掲げて微笑むジェラール。ユリオもとりあえずそれの真似をして、素早く帽子を掲げてすぐに戻した。顔を見られて異類の身体だとわかるようなものではないけれど、どうも落ち着かない。

 紹介とあいさつが済んだところで、フルエットがジェラールに声をかける。

「ジェラール、今日はお店は?」

「もちろんやってるよ。今日も服を?」

「いや、今回は買う側でね。ユリオくんの服をいくつか」

「ああ、そういうこと。もちろん、フルエットさんなら売るのも買うのも歓迎だよ」

 そんなやり取りがあって、三人はその足でジェラールの父親の店へと向かうことになった。サイドカー込みでもバイクに三人乗るわけにはいかないから、歩道を歩くジェラールの隣を、彼に合わせたペースでバイクを転がす恰好で進む。

 通りを少し戻って、「ナテール通り」と刻印された看板のかかったアーチをくぐる。そのまましばらく真っすぐ進んでいくと、少しくすんだオレンジ色のレンガ造りの店の前で、ジェラールとバイクは足を止めた。

 飾りっ気のない白のペイントが施された一階部分には、チョッキを模した小さな看板がぶら下がっている。雨の跡が少し残ったガラスの向こうでは、壁一面だけでなく天井にまでぶら下がった服が、布のアーチを形作っていた。それが店の奥まで続いている。

 ジェラールが扉を開けると、カラカラとベルが鳴った。彼の後ろにフルエットが、その後ろにユリオが続いてドアをくぐる。

「父さん、フルエットさんが来てくれたよ」

 店の奥、黒々とした木製のカウンターの向こう。そこに座って新聞を読んでいた男が、ジェラールの声に顔を上げた。白髪交じりの枯草色の髪に、がっしりとした体つき。服屋よりは工房の鍛冶屋か何かのような印象だ。

「おう、いらっしゃい。……そっちのは?」

 フチなしの丸眼鏡をくいと持ち上げた男の視線が、ユリオを捉える。よく見ようとしてか目をこらした彼の顔つきは、昔ユリオがパンを盗んで捕まって、しこたまぶん殴られたパン屋のオヤジに似ている気がした。思わず身構えてしまう。

「やあ、ランバーさん。彼は私の家の居候になったユリオくんと言ってね。今日は彼の服を見繕いに来たんだ」

 フルエットが、すらすらと喋りながらカウンターへ歩み寄る。ランバーは新聞を畳んでカウンターに放り投げると、腕組みして彼女を見た。

「居候、なあ。……まあいいが、お前さんならわざわざ買いに来なくても、自分で作れるだろう」

「それはそうなんだが、まとまった数が必要でね。作るとなると多少時間がかかるんだ」

「そうかい。買ってくれるぶんにはうちとしちゃありがたいし、否やを言うつもりはないが」

 入口のドアに突っ立ったままやりとりを聞いていると、ジェラールに軽く腕を小突かれた。いつの間にか紙袋を置いてきていた彼が、カウンターの方を親指で指す。

「突っ立ってないで、君もあっちに行きなよ。君の服を買いに来たんだろ?」

「あ、ああ。そうだな」

 促されるままカウンターの方へ向かう。二人が服の話をしているのが耳に飛び込んでくるが、何の話をしているのかはユリオにはさっぱりだった。右から左へ聞き流しながら視線をうろつかせていると、カウンターの上の新聞の記事が目に入る。

 血狂い。記事に書かれていた単語を、口の中で呟いた。『人狼”血狂い”は狩人の目を逃れ、今もなお逃走中。新たな犠牲者も』――異類とその被害を報じる記事だ。さして珍しいものではないそれが、ユリオに自分の身体について意識させる。ずらしていた帽子のつばを戻し、顔を隠すように下げる。

「――ユリオくん、聞いてるかい?」

 そのつばの下から、フルエットのはちみつ色の瞳が覗き込んできた。ビクっと身体が跳ねた勢いで、半歩ばかり後ずさる。

「っえ、な、なにが?」

「やっぱり聞いてなかったんだね。君の服を見繕うのは二人に任せて、その間に私は少し野暮用を片付けてくるよ……って話をしていたんだけど」

「二人って? ……あっ」

 ランバーとジェラールのことかと納得し、けれども今度は野暮用の方が引っかかった。正確に言えば、野暮用それ自体ではなくて。

「その間、ぼく一人でここに?」

 緩んでぐらぐらの石畳の上に立っているみたいな、そんな感覚がした。ランバーが、ふんと鼻を鳴らして腕組みする。

「服を選ぶだけだ。取って食いやしねえよ」

「それに服の趣味なら、私よりもジェラールの方が君と合うだろうからね。男の子同士だし、歳もある程度は近いと思うし」

「センスに自信があるってわけじゃないけど、少なくとも外したものを選ぶことはないと思うよ」

「お前、そこは自信があるって言えるようになれよ」

「う……、ごめん」

 そんな三人のやりとりを聞きながらも、ユリオの体は少しだけ強張っていた。よく知らない場所に一人残される、という事実が意思とは無関係にそうさせる。

 するとフルエットがシャツの肩を引っぱって、指をくいとやった。近づけということだろうか。体を近づけつつ少し姿勢を低くしたユリオの耳元に、フルエットが囁く。

「野暮用っていうのは教会だ。君だって、ついてきたくはないだろう?」

「それは……うん。そうだけど」

 十字架と白い祭服、白い炎が脳裏をちらついて、ユリオは自分の心臓の音が少し大きくなったこと、急に顔がひんやりとしてきたことに気が付いた。

 この身体では、教会にはついていけない。待たせることになるなら、せめて自分の顔なじみが居るところで、というフルエットの配慮なのだろう。

「フクロウのことは、伝えておかないといけないからね」

「……そう。そうだな」

 かすかに震えるくらいの動きでユリオがうなずくと、フルエットの手がそっと肩を叩いた。二人の方に向けて、パッと笑ってみせる。

「よし、話はまとまったよ。それじゃあ私が戻ってくるまで、彼と彼の服のことは頼むよ」

「任せて、フルエットさん」

「ああ、よろしく」

 とんと自分の胸を叩くジェラールに、ひらりと手を振るフルエット。そのまま彼女は、店の外へ出ていった。教会はさほど離れていないのか、二輪は店先に停めたまま歩き去っていく。

「さて、任されたからにはきっちりやらんとな」

 ランバーが、カウンターの席を立つ。別の眼鏡を取り出して付け替えながら、壁にかかった服の群れへと向かう。

「まずは俺が適当に合いそうなもんを選ぶ。細かく見るのはジェラール、お前がやってやれ」

「うん。ユリオ、こっちに」

 服の壁の切れ目があって、そこに一枚の姿見が置かれていた。そこでランバーの服選びを待っていると、ジェラールがそわそわした目つきで見てくる様が姿見に写った。最初は気のせいかと思ったが、鏡越しに何度か目が合ってそうではないと思うに至る。

 まさか、身体のことに気づかれたのか。黒い絵の具を筆で撒き散らしたみたいな不安がよぎって、ユリオはまた身体を強張らせた。自分が追い出されるだけならまだいい。でも、もしもフルエットにまで迷惑がかかったら――。

「あのさ、ユリオ」

 びくりと震えた肩を押さえこみながら、ユリオは横目にジェラールを見やる。心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。

「な……なんだよ」

「えっと……」

 言い淀んで口元をおさえたジェラールは、恐る恐るといった様子だった。手汗でべったりとしはじめた拳を握り締めながら、ユリオは続く言葉を待つ。すると――。

「居候っていうのはホント?」

「……はぁ?」

 自分でもびっくりするくらい不審もあらわで素っ頓狂な声が出ると、ジェラールは鼻の頭をかいて目を逸らした。

「だから、その……君がフルエットさんの家に居候してる、って話。あれ、ホント?」

「そう、だけど。……それがどうかしたのか?」

 返答には、少しだけ間があった。

「フルエットさんって、確か一人で暮らしてるって言ってたから。急にどうしたのかな、って思っちゃって。親戚とか?」

「いや、違うけど」

 ジェラールが、少しだけ顔をしかめた気がした。ユリオを見る視線が、さっきまでよりも少しキツく鋭くなった気がする。睨むというほどではないけれど、確かに瞳の奥からにじむ圧みたいなものを感じて、ユリオは少し怯んだ。

「な、なんだよ」

「じゃあ、いったいどういうわけで……?」

「えっ……と。ぼくは、その……」

 事実は言えない。言えるわけがない。かといって他に何と言えばいいかもわからなかったし、彼がそれを気にする理由もわからない。たまらず、ユリオは口ごもった。ジェラールも別に問い詰めてくるわけではないのだけれど、だからといってユリオを見る目に変化はない。

 ごん、と。鈍い音がした。

「あ痛っ!?」

「馬鹿野郎。せっかくの新しいお客を怖がらせてどうすんだ」

 後頭部を押さえて小さくなったジェラールの後ろで、ランバーが拳骨を落とした姿勢のままため息をついた。反対の手には、見繕った服が抱えられている。

「ご、ごめん親父……」

「謝るならユリオに謝れ」

 よほど痛かったのか、ジェラールは少し涙目になっていた。そんな彼に、店主はふんと鼻を鳴らして服を押し付ける。眼鏡越しの視線をユリオに向けると、ランバーは眉を落とした。

「悪いな、ユリオ。こいつフルエットの嬢ちゃんに」

「おっ、親父! それは別に言わなくていいだろ!?」

 顔を真っ赤にして怒鳴るジェラールに、ランバーはまたふんと鼻を鳴らすだけだった。それよりもと、あごをしゃくってユリオを差す。赤さをごまかすように片手で顔を撫でるジェラールが、ユリオに向けて頭を下げる。

「……ごめん、ユリオ」

「すまん。今回のところは許してやってくれ」

「や、別にぼくは……」

 二人の顔を交互に見やりながら、ユリオは困ったように頬をかいた。確かに戸惑ったし怯みもしたのだけれど、それよりも体のこととは無関係だったことへの安堵が今は勝っている。するとその様子を許しと解釈したのか、ランバーは礼を言ってカウンターの奥へ向かっていった。

「俺はそこに居る。似合うかどうかはジェラール、さっきも言った通りお前が見てやれ」

「わかったよ、親父」

「ちゃんとやれよ」

「わかってるって!」

 少し勢いのあるため息をついて、ジェラールはあらためてユリオに向き直った。視線は鏡の方を向いていて、鏡越しにユリオを見る目はさすがにバツが悪そうだった。頬をかいて、また軽く頭を下げるジェラール。

「さっきはごめん。それじゃあ、服を見て行こうか」

「……いいって、別に。あいや、服の方は頼む」

 姿見の脇からカゴ付きの丸テーブルを引っぱりだすと、ジェラールは抱えていた服をその上に置いた。上から一着ずつユリオに渡しては鏡に映った姿を確認し、ユリオの反応も見つつ、2つに分けてカゴへ放り込んでいく。

 そうしているうちに、鏡の方を見たままジェラールがふと呟いた。手も止めないまま、カーキ色のシャツを差し出してくる。

「初めて会った時、さ」

 シャツを受け取りながら、ユリオはジェラールの方を見た。鏡を見ろと促され、顔をそちらに戻す。けれども何の話か気になって、今度は横目に視線だけを彼の方へ向けた。たぶん、フルエットのことだと思うのだけれども。

「このシャツ、悪くないと思うけど。君は?」

「えっ? あっ、そう……だな。うん、いいと思う」

 うなずいて、ジェラールはカーキ色のシャツをカゴに放り込んだ。次の一着を手に取る前に、彼はふとズボンのポケットを探った。そうして取り出したのは、鈍い銀色の光沢を放つ懐中時計。ちゃら、と。チェーンが音を立てて彼の手のひらの上を流れる。

「これ、おふくろの形見なんだけど。チェーンが壊れちゃって、時計屋に持ってこうとしたらスられてさ。気が付いて慌ててたら、フルエットさんが声をかけてくれたんだ」

 懐中時計を見つめるジェラールの視線は、時計の光沢にその日の情景が映し出されているかのようだった。

「……それが、おまえとフルエットの?」

「そうさ。事情を聴いて、すぐお巡りさんのところへ話に行ってくれて。スられたタイミングの心当たりや、スッたヤツの特徴まで、丁寧に聞き出してくれてさ」

 懐かしむように語るジェラールの口元には、いつの間にか微笑が浮かんでいる。

「しかもそのままお巡りさんに任せればいいはずなのに、一緒になって探してくれたんだ」

 二人の視線が、ジェラールの手の上の時計に注がれる。それがこうして今ここにあるということは、確かに取り戻せたということだ。彼の口ぶりからは、フルエットが声をかけてくれなければ無理だった、と思っているのが伝わってくる。ジェラールにとっては、間違いなくそうなのだろう。彼が苦笑する。

「優しいっていうか、よくそこまでしてくれたよね。だってその時は俺とフルエットさん、赤の他人だったのにさ」

「……でも、あいつはそういうことするな」

 この数日で我が身に起きたこと、フルエットがしてくれたことをユリオは思い返す。ジェラールの苦笑には、ただうなずくばかりだった。

「君もそう思う? ……まあ結局、何が言いたいかっていうと」

 ジェラールは懐中時計を握り締め、ポケットへ戻す。

「フルエットさんは、そういう人だからさ。君がどういうヤツにせよ、フルエットさんを裏切るようなことは絶対しないでほしいんだ」

「わかってるよ、ぼくもあいつに助けてもらったから」

 その言葉は、まるで世間話をするかのようにするりと口から出た。あまりにもあっさりと言うものだから、ジェラールは目を瞬かせてユリオをまじまじと見つめたほどだ。

 ややあって、ジェラールが小さく吹き出した。ジェラールの手が、ユリオの肩を叩く。

「そっか。それならいいんだ」

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