五話
その朝、ユリオは顔を撫でるなめらかな風で目を覚ました。
妙にすっきりとした気分で目を開けた直後、ふかふかのベッドの感触に戸惑う。視界の端で揺れる白いカーテンを捉えて、彼はようやく自分が今どこに居るのかを思い出した。
そうだった。逃げて、フルエットに拾われて――。
「フルエットは……」
ベッドから降りた時、サイドテーブルに丁寧畳んでおかれた服の一揃いが目に留まる。淡い灰色のシャツに薄青のズボンは、暖炉の部屋でフルエットにあてがわれたものだ。あの後にミシンのある小部屋に連れていかれて、二着目を作るためにあれこれされたことを思い出した。
何はともあれ起きなければと、ベッドを降りて着替え始める。フルエットが仕立てたというシャツとズボンは少しゆったりとした作りで、目覚めた時の風みたいな肌触りが心地よかった。これなら確かに、あの継ぎ接ぎで満足されては困るというのもうなずける。
「……ん」
着替え終わったところで、ふと腹がきりきりと締め付けられるような感覚。もちろん、服が急にキツくなったわけではない。それは森をさまよい歩く間にも何度も感じた、自分の腹そのものを食ってしまいそうなほどのひどい空腹によるものだ。
「っかしいな」
夕飯は食べさせてもらったし、その後は特に腹が減るようなことはしていないはずなのだけど。
首を捻りながら寝室を出て、廊下を進む。フルエットの寝室の前を通り過ぎたところで、そういえばと疑問がひとつ。この家はフルエットの一人暮らしのはずなのに、どうして寝室が2つあるのだろう?
「……」
ぼんやりと彼女の寝室の扉を眺めた後、ぐうと鳴った腹の音に軽く首を振る。ダイニングへ向かうと、キッチンのコンロに鍋がひとつ置かれていた。
「フルエット?」
彼女の姿はない。他の部屋に居るのだろうか。探しに行こうと思ったところで、また身体が空腹を訴える。
そして気が付いた時には、ユリオは鍋の前に立っていた。
蓋を開けると、ほっくりと甘い匂いに鼻の穴がふくらむ。ただでさえ空腹で仕方のない身体には刺激が強くて、よだれがあふれそうになった。喉を鳴らして鍋を覗いてみると、中身は鮮やかなグリーンのスープだった。
きょろきょろと辺りを見まわす。皿はどこだろうか。
「……う゛」
スープの匂いをかいだせいか、ますますお腹が締め付けられる。すぐにでも食べ物を入れないと、このまま胃袋ごと腹が千切れて倒れてしまいそうだ。ならばいっそのこと――。
空腹感がレードルをバカでかいスプーンに錯覚させ始めたその時、壁をこんこんと小突く音がした。びくっと肩を震わせて振り返ると、壁を小突いた姿勢のままでフルエットが笑っていた。
「やあ、お目覚めかい?」
今朝の彼女は、袖丈の長い黒のドレス姿ではなかった。すとんとしたシルエットながらも緩やかに波打つ灰色のスカートに、薄紫のブラウス。その上に黒のチョッキを羽織っていた。しかしよく見ると、ブラウスの袖は黒ドレスのように丈が長い。
すたすたと歩み寄ってきて、ユリオがつかみかけていたレードルを手に取る。ぴっと立てた指先を、ユリオの顔の前で軽く横に振った。
「いくらお腹が空いているからって、君。お皿も使わずに、というのはいただけないなあ。お皿の場所がわからないなら、私を呼んでくれればよかったのに」
「あ、いや……わざわざ、用意してもらうのも、なんか悪いな……って」
急に火照ってきた頬を手で隠すようにしながら、ユリオはもごもごと言い訳を口にした。鍋から直接飲もうとしたのがバレていると思うと、フルエットに目を合わせられない。
壁にかけてあった真っ白なエプロンをつけたフルエットが、壁にくっついた戸棚からスープ用の皿を取り出す。そこで彼女は振り返って、少々意地悪な笑みを見せた。
「手伝ってもらえるかい? わざわざ用意させるの、なんか悪いなって気がするんだろう?」
「あ、うん。わかった」
慌てて駆け寄るユリオに、「よろしい」とフルエット。スープ皿以外にも三皿ほど手渡されたそれらを、テーブルに並べた。
「あれ、フルエット。スープの皿がひとつしかないぞ」
「ああ、いいんだよ。私はもう済ませているからね」
「そっか。……いや待て、だったら多くないか?」
二人ぶんだと思って気にしていなかったが、一人ぶんだとするお皿が多いような。鍋に向かっていたフルエットが、髪をまとめながら振り返る。
「君、今ものすごくお腹空いているだろう? だから、朝食は多めに用意しようと思ったんだが」
「空いてる……けど。でも、なんでわかった?」
「スープを鍋から直接飲もうとした、というのもそうだけど。なにより君、昨日丸一日寝ていたからね」
それもそうかと納得しかけたユリオは、しかし違和感に首を傾げて、眉を寄せて。数秒ほどの間を置いて、その正体に気づいて思わず大きな声を漏らした。
「丸一日!? そんな寝てたのかぼく!?」
「そうだよ? 私もさすがに心配だったけれども、きっと逃げてきた時の疲れが出たんだろうね。そういうわけだから、今朝はゆっくりするといい」
「あ、ああ……うん。わかった」
フルエットに促されるまま、テーブルについた。妙に頭がすっきりしていたのも、やけにお腹が減っているのも、丸一日寝ていたなら納得できる。だけど単純に逃亡の際の疲れが原因なら、昨日……ではなく一昨日だって、同じくらい寝てしまっても良さそうなものだけれど。
そんなことを考えていると、鼻をくすぐる温かな香りが空っぽの胃袋をくすぐった。
ビーンズを乗せたトーストにポーチドエッグ、チップスにキッパージャグ。それにさっきのスープ。いつの間にか朝食がたっぷりと並べられたテーブルの向こうで、フルエットがティーカップとマグを手に振り返る。
「飲み物はお茶でいいかい? それともミルクの方がいいかな? ホットチョコでもいいけど」
言葉が甘い香りと、とろりとした味わいを思い起こさせる。するとマグの中に注がれたホットチョコの記憶が、ランプの灯りの下で向かい合ったフルエットの姿を思い出させた。
さらには色々と恥ずかしいことを口走ってしまったことまで思い出してしまい、むずがゆさに顔をしかめる。
「……なに聞いてんだよ、ぼく」
口の中で転がすように呟く。すると飲み物の返事と聞き間違えたのか、フルエットが振り向いた。
「すまない。よく聞こえなかったんだが、どれがいいって?」
口元を覆ったまま、フルエットからは視線を逸らしてユリオは答える。
「あ、いや。……お茶でたのむ」
「わかった。すぐ淹れるから、先に食べ始めていてくれ」
「うん。……ありがと」
そうは言ったものの、盛りだくさんの朝食を前にどれから手を付けるべきかユリオは迷った。スプーンを握る手をしばし迷わせた後、スープの皿に手を伸ばす。
ホットチョコとはまた違うほっくりとした甘さを感じながら、ユリオはあの晩のことを思い返していた。
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