四話
その晩も、フルエットはいつものように夜中に目を覚ました。
ベッドの上で上体を起こし、昔よりもすっかり夜目がきくようになった目で窓の方を見る。夜の間ずっと窓を塞いでいる分厚い木の板は、眠りにつく前の様子そのままでそこに在った。
異類は夜の方が活発になる。だからだろうか、何度か目を覚ましては窓を確認することは、夜毎のフルエットの日課となっていった。
寝ている間に少し緩んだ髪紐をいじって、かすかに漏れたあくびをかみ殺す。
「……ん」
また短い眠りにつこうとした時、今昼からの同居人のことをふと思い出した。様子を見ておこうかと、サイドテーブルの上のランプを手に取って灯りを着ける。ネグリジェの上に一枚羽織ると、フルエットは隣の寝室へと向かった。
起こしてしまっては悪いから、そっと指一本ぶんくらいに扉を開けて覗く。
ランプなど要らないくらいに眩い月明りが射す中で、蜂蜜色のカーテンが夜風に揺れていた。射し込んだ月影はベッドにまで伸びていて、中身が空っぽになっているのがよく見える。
「……ユリオくん?」
つぶやいた声に、返事はない。ふっ、と腹の底の方が軽くなるような感覚。
扉を開け放って部屋へ駆け込み、そのまま窓へ駆け寄る。窓枠に足跡がついているのを認めると、フルエットは窓枠から身を乗り出した。
吹きつけた夜風に巻かれて、緩んでいた髪紐が飛んでいった。ほどけた紫の髪が乱れるのも気にせず、周囲を見まわす。
「ユリオく――っ」
彼はすぐそこに居た。
窓から見て左手側、ちょうどフルエットの寝室の窓の外のあたり。そこで丸く輝く月の光を浴びながら、ユリオは継ぎはぎの寝間着姿で突っ立っていた。
彼の目の前には、花畑がある。ひときわ目を引くのは、輝くような黄色い花を咲かせた低木。ユリオが突っ立っているのも、その低木の目の前だった。
彼がそこに居ることに、フルエットはひとまず安堵の吐息をこぼす。それからランプを床に置いて、何事もなかったような顔をして声をかけた。
「綺麗だろ?」
ユリオの背中がビクっと揺れて、慌てた様子で振り返る。
「わ、悪い。起こしたか?」
「いや、私はもともと眠りが浅いほうなんだ。ところで知っているかい? その黄色の花、君と同じ名前なんだよ」
「そうなのか?」
目を瞬かせたユリオが、黄色の花を咲かせた低木を不思議そうに見やる。そんな彼の様子に、フルエットはくすりと微笑んだ。
「正確には、頭の部分が同じというだけだけどね。だけどおもしろい偶然に、私もちょっとした縁を感じたものさ。……それで、ユリオくん?」
呼びかける声は、自分でもやけにねっとりした調子になってしまったなとフルエットは思う。
ユリオはちらりとフルエットを見て、しかしふいと視線をそらした。それからまたゆっくりと彼女の方に視線を向けて、つぶやく。
「ねれなくて」
「ベッドがあわなかったかな?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……」
また視線をそらして、ユリオはバリバリと頭をかいた。
眠れない理由なんて、そう気軽に人に話せるものではものでもないだろう。特に彼の場合は、身の上が身の上だ。人に言えない眠れぬ訳など、いくつあってもおかしくはない。
「まあいいさ、まずは中に戻っておいで。何か温かい飲み物でも用意しよう」
そう告げて、窓枠から乗り出していた身体を引っ込める。身を翻したところで、指先に触れる感覚があって足を止めた。
振り向くと、まだ窓枠に触れたままの右手の指先を、ユリオがつかんでいた。夢中で走ってきて、手を伸ばしたような恰好だ。
「――あ」
フルエットと目が合って、彼ははじめて自分が何をしていたのか自覚したようで。飛びのくように手を放すと、今さらのように「わかった」とうなずいた。
そんな彼に、フルエットはわざとらしく唇をとがらせてみせる。
「おいおい、私の手に触れるのがそんなに嫌かい?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「冗談だよ。ほら」
顔をしかめるユリオに、笑って手を差し出す。しかし彼は、「はやく行けよ」と軽く追い払うような仕草をした。
「おまえがそこに居たら、登れないだろ」
「本当は窓からじゃなく、玄関から戻ってきてほしいんだけどね?」
やれやれと首を振り、フルエットは窓辺から身体を離した。
キッチンへ向かいながら、指先をつかんだユリオの表情を思い返す。沈んだ眉に、震えるような眼差し。たぶん、悪夢でも見たのだろう。
「熱いから気をつけるんだよ」
テーブルにつかせたユリオの前に、湯気の立つマグをひとつ置いた。天井につるしたランプの下、マグを覗き込んだ彼の鼻がひくつくのが見える。
「これ、何だ? 甘い匂いがするけど」
「ホットチョコレート」
自分の分のマグを手に、ユリオの向かいの席に腰を下ろした。とろけるような濃い茶色の水面から、湯気と甘い香りがひとつになって立ち上ってくる。
「温まるし、気持ちも少しは落ち着くはずだよ」
鼻を満たす香りをじっくり味わった後、フルエットはマグに口をつけた。ミルクを少し少なめにして、とろりとさせたチョコレートが舌の上を流れていく。胸いっぱいに広がる温かさと甘さに、フルエットは口元をほころばせた。
ユリオの様子をうかがってみると、彼は手にしたマグを見つめたまま固まっていた。ぼんやりとしたその視線は、マグの中に向けられている。
やがて彼は、ゆっくりとマグに口をつけた。けれどすぐに「あちっ」と口から離して、何度か息を吹いてからもう一度口をつける。チョコをすする小さな音が、静かな部屋に響いた。
ユリオが大きく息を吐き出す。瑠璃色の垂れ目が、ふにゃりと緩むのがフルエットにはわかった。
「甘くておいしいだろ?」
「うん。それに……」
言葉を探すように、ホットチョコレートを見つめるユリオ。フルエットはそんな彼を見つめながら、自分のホットチョコレートを飲む。
「……なんか、ほっとする」
そう口にしたユリオの表情は、さっきまでよりも穏やかになっていて。フルエットは、思わずマグの陰で口元を緩ませた。そういえばフルエットが初めてホットチョコを飲んだ時も、母様が今の彼女と同じような仕草をしていた気がする。
「だろう? 飲み終える頃には、身体も温まって眠くなってくるさ」
うなずきながら、ユリオはホットチョコレートをちびちびと飲み進める。
そんな彼の様子を眺めながら、フルエットもマグの半分ほどを飲み終えた頃。温まった吐息をこぼしたユリオが、マグで顔を隠すようにしてつぶやいた。
「仲間が居たんだ」
チョコレートのひげが覗く口元からこぼれた声は、独り言のような調子だったと思う。
「……うん」
聞いていることを示すための相槌。フルエットは先を促すわけでもなく、ユリオが言葉を続けるのをただ待った。
「年や種類はバラバラだったけど、みんなぼくと同じだった」
それはつまり、異類の身体に改造されていたということだろう。フルエットも、まさか彼一人だけということはあるまいとは思っていた。しかし真実その通りだとわかると、苦い泥のような圧迫感と嫌悪感で喉が詰まる感じがした。思わずネグリジェの襟元を指先で引っ張り、息を楽にしようとする。
「いつか、みんなで逃げようって話をしてた。そしたらさ、狩人が来たんだ」
マグをつかむユリオの指先が、微かに震えたのをフルエットは見た。自分のマグをテーブルに置き、ユリオに向けて少しだけ手を伸ばす。しかし、彼が気づく気配はまったくない。
「ヒルドのやつが、きっと助けに来てくれたんだって言った。でもジオが、そうじゃないって。あいつらは、僕らのことも……」
ユリオがマグに口元にやる。だけど飲もうとはしないまま、彼の目はマグを凝視している。
「二人は言い合いになって、でも結局とにかく逃げようって話になった。狩人が来て、ぼくらの見張りどころじゃなくなったから。逃げるなら、もう今しかないって」
マグを凝視したまま話すユリオの声は、一度言葉を切る頃には少し震え始めていた。それを腹の底へ流し込んで収めようとするかのように、ホットチョコレートを一気に呷る。
「お、おい。そんな飲み方すると……!」
「――ぐっ。えほっ、ごほっ……!」
とろりとした甘さと熱さが、喉に絡まって焼き付いたのだろう。ユリオは激しく咳きこんだ。
「ほら、言わんこっちゃない! 今水を――」
「……!」
立ち上がりかけたフルエットを身振りで制して、ユリオはマグをテーブルに置いた。叩きつけるのを思いとどまったような、不自然な間のある仕草だった。マグの持ち手を握り締めて顔をうつむけた彼が、まだ少し焼けた印象の声でうめくように呟く。
「ジオの言った通りだった」
その意味するところを察して、フルエットの身体が固くこわばる。腹の底が重く冷たく痛むのを感じながら、見開いた目でユリオを見つめる。
「だから、逃げた。……でも、最後は。ぼくと、……ジオだけに……なって。それで……っ」
ぎゅっと引き結ばれた唇の端が、マグを持つ手が、震えていた。暴風に抗い、へし折られる寸前の雨傘のように。
フルエットは、マグを握るユリオの手に触れた。小さな手をめいっぱい広げ、彼の手を包もうとするように。
伝わった体温に驚いたのか、ユリオが肩をすくませる。それから顔を上げた彼の瞳には、ランプの光がにじんでいた。
フルエットは緩やかに首を横に振った。口を開こうとしたが、氷を押し込まれたみたく喉が冷たく詰まって言葉が出ない。視線はユリオに向けたまま、マグを手に取りホットチョコレートを一口含んだ。
甘い温かさで喉が溶けると、マグを置いて少しだけ身を乗り出す。ユリオの肩に触れてみると、ホットチョコで暖まったはずの彼の身体は、しかしやはり震えていた。
そのまま、フルエットは待った。ユリオの震えが収まるのを、残ったマグの中身がすっかり冷めてしまうまで。
「よく話してくれたね」
今の話は、真新しく深い傷口を開いて見せるようなものだったはずだ。それでも彼が口にしたのは、口にしないでいられなかったのは。夜の暗さと静けさのしみた傷が、吐き出さなければ耐えられないほど、うずいてしまったからなのかもしれない。
「……本当に、よく話してくれた」
指先でそっとユリオの肩を叩くと、フルエットはゆっくりと席を立った。
多分、無意識なのだろう。「あ」と彼女を見上げたユリオの視線は、途方に暮れる迷子のようで。そんな彼をなだめるように、フルエットは2つのマグを手に取って、彼の頬に押し当てた。
「……つめた」
「その通り。冷めてしまっているだろう? だから、おかわりを作ろうと思って」
「……」
こくりとうなずくユリオの様子に苦笑して、フルエットはキッチンへ向かった。昼間、出会い頭にいきなり飛びかかって首を絞めてきた時の凶暴さは、見る影もない。獰猛さのベールを、夜風に飛ばされ失くしてしまったかのようだ。
キッチンで準備をしていると、「なあ」とユリオが声を投げかけてくる。その声は、やけに遠くから聞こえてくるように感じられた。
「なんだい?」
「……なんでなんだ」
「なんでって、何が?」
ホットチョコのおかわりを用意する手は止めないまま、振り向かずにフルエットは問うた。
しばらく、お互いに無言だった。
ミルクパンに注いだミルクが充分に温まり、ほのかな甘い香りを漂わせ始めた頃。カタン、と。椅子が揺れる音がして、それから少しくぐもった声が問いかける。こもった声は重く沈んだようでいて、ふわふわと頼りなく漂うようでもある。
「なんでお前、ぼくにこんなにしてくれるんだ」
マグへ注いだ牛乳に、チョコを溶かした。マーブル模様が少しずつ溶け合って、なめらかでとろりとした茶色へと姿を変えていく。ふたつのマグを同じくらい混ぜたところで、フルエットは自分のマグに口をつけた。軽く味見して具合を確かめると、独り言のようにうなずいてからテーブルへ戻る。
ユリオはテーブルに突っ伏していた。
そんな彼の前、つむじの正面に彼の分のマグを置く。湯気とひとつになって漂う香りに、ぴくりと彼の頭が動く。
「こんなにって言うのは、今こうしてホットチョコのおかわりを用意したことについてかい?」
冗談めかして言えば、ユリオがもぞりと顔を上げた。マグにはただ視線を向けるばかりで、手を伸ばそうとしない。テーブルに乗せた右手の人差し指と中指が、行き場をなくしたように繰り返し曲げ伸ばし。やがて、その手を静かに後ろへ引いた。
「……なんで助けてくれたんだ。それに……こんな……」
「こんな?」
続きを促す問いかけに、答えは返ってこない。
ユリオはずるりと身体を起こすと、やはりマグには手を伸ばさないままで顔を覆った。
「そりゃ、置いてくれたらって言ったのはぼくだ。でも、なにもホントにすることなかったろ」
「野垂れ死にされては寝覚めが悪い、と言ったじゃあないか」
「でもっ」
ユリオが身を乗り出した拍子に、テーブルが揺れる。彼のぶんマグが倒れそうになり、フルエットはそっと手を伸ばして抑えた。
彼の肩がしぼんで、声がしぼむ。
「……でも、ぼくは異類で」
小さな声は、それでもわかるほどに震えていて。その震えに強くこすられたかのように、フルエットの胸が微かに軋んだ。
「お前のことも襲って、血を吸って、首も絞めて。……なのになんで助けるどころか、ホントに家にまで置いてくれて。それに、こんな……」
最後の方は、マグの中に吐き出すような弱弱しい調子だった。すっかりうつむいてしまった彼が、かきむしるように顔を覆う。
マグを置くフルエット。話を聞きながら飲み進めているうちに、いつの間にか中身は半分くらいに減っていた。大きく、深く呼吸する。ホットチョコの余韻が残る吐息に、胸の痛みが少しやわらぐ。
ぴっ、と。親指と人差し指を立てる仕草。ユリオの目の前のマグを脇へどけると、真っ白い指先をうつむいた彼の額へ押し当てた。そのままぐっと力を入れて、彼の顔を持ち上げる。
何かをぬぐった跡が残る彼の目元を、フルエットはまばたきもせずに見つめた。
「君は、私が初めて出逢った同類でね。だから、放っておきたくなかったんだ」
ユリオが少し身体を引いて、指先が額から離れる。瑠璃色の目が、右へ左へさまよって揺れていた。
紐が解けてそのままの髪の毛先を、くるくると手遊びしながらフルエットは苦笑を浮かべる。
「私に同類だと言われるのは、君は心外かもしれないけどね」
フルエットには、母様に愛されていた自覚がある。血の娘故に孤独だったなどとは口が裂けても言える立場ではないし、そんなことを言うつもりもない。それだけじゃなく、追い出された後も家を与えられ、金を工面してもらってすらいる。ユリオとは比べ物にならないくらい、恵まれた境遇だ。
でも、とフルエットは視線を逸らした。恵まれていることを自覚しながらこんなことを言うのは、少しだけはばかられる気がして。
「私は"ひとり"ではあったんだ」
孤独ではなくとも、ひとりだった。人の身でありながら、人とは決定的に違うものを宿した存在は、フルエットの他に居なかったから。
過去の血の娘たち? 確かに彼女たちは存在した、存在していた。しかしそれは遠い過去の話だ。記録と知識を与えてくれはしても、一緒に居てくれるわけではない。
だからフルエットはこの時代、この場所において、ただ一人の存在だった。ただ一人の、内に異形を宿した人間だった。
だけどそれが、あの晩そうではなくなった。
「そこに、君が現れた。昨晩に君を見た時、私は君を同類かもしれないと思った。だから助けたんだ。昼間言った『気になってしまった』っていうのは、つまりそういうことさ。……君のこれまでを思えば、決して喜ばしい出会いではなかったわけだけどね」
フルエットはホットチョコを一口すすった。甘さの奥の微かな苦味が、舌を撫でる。
「それにね、君は私の血で命を繋いだ。その君が、この先少しでも……」
溶けていく苦みの余韻を探るように、言葉を探す間があって。
「……うん、そうだな。少しでも、『あの晩、フルエット・スピエルドルフという娘に出会ったことは幸いだった』と。そう思えるようになってくれたら、私はこの血を今よりは好きになれると思ったんだ。だから君が独り立ちできるようになるまで、君が望む間はこの家に置いておく。……それじゃあ駄目かい?」
は、と。
半端に開いた口の端の震えが、ユリオの声を震わせた。
「……んだよ、それ」
ぐしゃぐしゃに髪をかきむしったユリオが、手で顔を覆う。そして彼は、肩を震わせて笑いだした。ややあって、収まって。深呼吸して、指の間からフルエットを見つめる。隙間から覗く彼の目は、確かに笑みの形を描いているように思う。
「おまえのためかよ」
肩をすくめて、フルエットは笑う。それは毒虫の警戒色のような、どこか露悪的なものだった。
「その通り、私のためさ。だけど優しい顔して『君のため』なんて言うより、よほど信じられるだろう?」
へっ、と。短く吐き捨てるように息を吐いて、ユリオがマグを呷る。また甘さで喉を焼いたのか咳きこんで、それが収まると、彼は何かをこらえるように唇を噛んだ。ややあって、「そうだな」と小さく頷く。
「そっちの方が、ぼくはいいや」
「ならよかった」
フルエットは、チョコの残りを飲み干した。あくびがでそうになって、口元を抑えてかみ殺す。二杯も飲んだものだから、だいぶ身体が温まってきた。
あくびの拍子に目じりに浮かんだ涙を拭い、ユリオを見やる。すると彼も、目元をとろんとさせ始めていた。
「そろそろ寝ようか、今度こそね」
ユリオのマグが空になっているのを確かめると、フルエットはそれを手に取り席を立った。
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