山手spiral

白夏緑自

山手spiral

 少し長く眠り過ぎたようだった。

 渋谷から乗った山手線。強い日差しで目を覚ますと、新大久保でドアを開くところだった。品川方面の列車に乗り込んだから、4駅先の渋谷で一周することになる。


 涎塗れのスウェットを気にしながら、しかし焦る気持ちは一ミリも湧いてこなかった。このあと、待ち合わせの予定もあるが、今の僕は辛うじて帰る家があるだけで、社会との繋がりは皆無なのだ。         

 このまま、予定を無視して、渋谷で湘南新宿ラインにでも乗り換えて、宇都宮と久喜の間にある地元民しか知らないような駅で降りて消えてしまっても、きっと誰にも気が付かれない。


 僕に帰る家があると言っても、そこには誰もいない。3カ月前、AIのミスで何百年単位と寝過ごした僕へのお詫びに寄越された住処だ。ベッドも机も、椅子も。見慣れた形をしていても、なんだか落ち着けない。きっと、僕が眠っている間に生活のスタンダードが変わってしまった。具体的に言語化は出来ないけど、それは色味だとふんでいる。寝転がって天上を見ているだけで目がチカチカするのだ。

 

「寝すぎたせいで目が光に慣れていないだけでは?」

 すっかり身についてしまった独り言が指摘する。


 その通りかも。

 独り言には内心で応える。


 僕が長い眠りについたのは病気の進行を遅らせ、新しい薬が開発されるのを待つためだった。

 僕が小学生になったころにはコールドスリープは当たり前の技術だった。重ねて、僕みたいに未だ治療法が確立されていない病を患った患者が、その時が来るまで肉体を凍らせて眠りながら待つことも珍しくなかった。


 ただし、最長30年の期限付きではあるが。

 あまりに長くポッドの中に入っていると、社会との繋がりも途絶えて、社会復帰が難しくなるからだ。とても先祖を大事にする由緒正しい一族なら別だが、80年も眠っていては一般家庭では頼るべき家族知人も死に絶えているだろう。


 僕は1年の予定だった。コールドスリープ利用者の中では、比較的短い期間だ。

 

 幸運だった。少なくとも、医師から1年のコールドスリープを勧められたとき、医師と家族と僕自身、それに当時付き合っていた恋人も幸運だと喜んだ。


 心臓に重たい病を患っていたが、その病に対する特効薬があと1年で開発される(と、AIは予測した)ので、それまで病が進行しない様に身体を凍らせる必要があった。少しだけ会えない期間が続いてしまうが、それも季節が一巡するころまでの話。僕と恋人は、やがて元気になった身体でどこへ行こうかと語らい過ごし、皆に見守られながら、僕は眠りについた。

 冷たい空気が密閉された空間に満たされるのを感じながら、最後に見た光景。

 肩を抱き合いながら僕を見下ろす恋人と母の姿に、僕は一人将来を決めることができた。


 五反田で目が覚めた。

 いけない。また、寝過ごしてしまったらしい。

 明るい色の看板が眼球を刺激する。


 目覚めてからずっとこうだった。眠ることに身体が慣れてしまったらしい。少しでも目を閉じれば、脳みそが眠ってしまう。活動しているよりも、停止している状態のほうがデフォルトとなっている。

 

 気を張っていないと、すぐに眠気がやって来るので、同じ列車で揺られる乗客たちに目を向けてみる。

 と言っても、平日の真っ昼間だ。通勤時間はとうに過ぎている。渋谷で大勢乗り込んだみたいだが、数人立っている程度で車内は空いている。ほとんどの人がシートに背中を預けている。


 一人でいる人のほとんどが同じような、つまらなさそうな表情を浮かべている。しかめっ面で新聞を広げているオッサンなんかが、まだ人間らしい表情を浮かべている。その他の乗客は無表情でスマートフォンと向き合っている。楽しくもない通勤時間の暇つぶしに、特別興味もない情報を流し込んで暇をつぶす。


 今も昔も変わらない。僕も現役で働いていたころは同じようにスマートフォンを眺めていた。通勤時はこのまま職場に着かなければいいなんて、あり得ないことを願いながら。


 僕は今、働いていない。

 僕のコールドスリープを担当した会社(名前は当時から変わっている)──DIS社が、僕の生活費を保障してくれている。AIによるとしても、重大な医療ミスだとしてDISの方から申し出てくれて、僕も有り難く享受している。

 

 一世紀以上も過ごしていた時代に離れがあるのだ。きっと、社会常識や一般技能(PCスキルやその他デバイス危機の操作)に追いつくことが難しいだろう。謝罪と保障費の説明をしてくれたDIS社の担当者はそんなことを言っていた。僕を丸め込むために、もう少し丁寧な言い方だったはずだ。お金を受け取れば、おいそれとDIS社を糾弾するようなことができなくなって、僕と彼らだけの秘密に収めることができると考えたのだろう。


 僕もそう考えた。後者は今でも考えを変えていない。ただ、前者はどうだろう。

 意外と、この時代の生活に馴染むのも難しくないのではないだろうか。


 歴史の授業を受けていた学生時代。たった100年前の社会の仕組みや出来事が偉そうにも別世界の話のように感じられた。それが、どうだろうか。僕が眠っていた間に世界はそれほど大きく変わっていなかった。


 品川に停まる。

 スーツケースを持ったスーツ姿の乗客が3人ほど降りていく。リニアモーターカーも長距離の移動手段として主流にはなっているようだが、まだまだ新幹線も現役で、特に東京-大阪間はビジネスマンに人気らしい。

 気になって調べみると、リニアの乗車賃は新幹線のそれよりも1.5倍。ただし、乗車時間は4分の1で済むとのことだ。どうせ出張にかかる移動費など経費で落とせるくせに、非効率な新幹線を選び続けるのにはきっと理由がある。


 これは調べなくても、なんとなくわかる気がする。

 僕たちの時代と同じだ。

忙しない生活を送っている人にとっては目的地に到着するまでの2時間から3時間は社会から身を置くのに丁度良い時間なのだろう。

 僕にはもう無縁の欲だった。

 

 急ぐ必要も、日常にゆとりを求める必要も。


 瞼を開けば、鶯谷だった。

 かつての上司はここを聖地と呼んでいた。

 なんてことない。風俗店が多く立ち並んでいただけだ。

  

 時代と共に性産業への風当たりは厳しくなっていく。僕が生きていた時代よりもずっと前からそうなのだ。もしかしたら、この何百年の間に法律で許されている正規店は滅んでいるかもしれない。

 かもしれないが、決して消えてはいないだろう。食、睡眠、性の三大欲求に関する産業は滅びたりなどしない。と、大学の何かの講義で習った覚えがある。

 だから、法律で禁じられようが、風俗店は雑居ビルに身を潜めながら生き残っているはずだ。何世紀もかわり映えのしない世界で、まさか一つの産業だけが衰退しているわけがない。


 巣鴨や池袋、新宿だって変わらぬままなのではないか。それぞれ、老人の憩いの場であり、ギークとカップルがゾーニングされたスポットを楽しめ、夜になればネオンがひしめき合っているのだろう。


 もし僕の時代からタイムマシーンに乗って、この時代にやってきた人がいるとすれば、きっと肩を落として帰っていくはずだ。あまりにも変化も進歩もない街の様相を見て、歴史の転換など発生しなかった事実に文明の衰退を感じ、仕事熱心な政治家と発明家は未来に絶望して自死してしまうかもしれない。

 

 世界にはまだ紛争が絶えるどころか新しい火種をいくつも燻らせていて、人類全体の平和には程遠い。国内に目を向けても議員の脱税と不倫の話ばかりしている。

 街歩く人々は未だ薄い液晶画面付きの板を必需品にしている。指を振るだけでコンソールは現れないし、空中投影される映像に触れることは実用化に至っていない。車だって、まだ地上を走っている。


 もうすぐ渋谷に到着する。これでもかと言うほど大量の人が集まる渋谷に。生きた化石みたいな僕も有象無象に放り込まれれば、ただの人だ。誰も気にしない。僕よりも様子のおかしい人はいっぱいいる。


 かわり映えのしない世界。何世紀にもわたる眠りから目が覚めても、地続きのままだった生きるのに一切の不自由もない、つまらない世界。 

 だけど、どうしようもなく変わってしまったものもある。


 僕の周りから、僕を知る人は誰一人としていなくなってしまった。

 家族も恋人も。目が覚めた途端、僕は孤独だった。直接の面識が無くとも、遠縁の親戚と言うか、僕には子供はいなかったから、兄妹の子孫だとかが迎えに来ることもなかったから、僕の存在は本当に忘れ去られてしまったのだろう。

 

 自分でも驚くほどに、恨みや絶望はしなかった。誰を恨んでいいかもわからなかったし、絶望したところで慰めてくれる人はいない。

 そう、慰めてくれる人はいないのだ。僕が孤独に喘いでいたら、無条件に抱きしめてくれる人はとっくに死んでしまった。調べてなどいないが、この国の平均寿命は相変わらず80歳前後。1世紀の年月を超えられる人は一握り。期待するだけ虚しい。


 鶯谷で金を払って、適当に慰めてもらおうか。悪くない。悪くはないが、あまりにも馬鹿らしい。人肌よりも優しい温度を忘れていない僕にとって、見ず知らずの女性で代替する気にはなれずにいた。


 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

 

「AIのせいだろ」

 その通りだった。誰も悪くない。強いて言えば、メンテナンスを怠った技術者か、AIの開発者だが、その人たちもとっくに死んでいる。

 

 誰かのせいにしようとして、責任を被るべき人がいないと気が付く。堂々巡りの自己問答だ。何回も繰り返してきた、無意味な思考。


 この話をすると、DISの担当社員は「私たちの責任です」と企業人には珍しく素直に非を認めてしまうので、逆に心配になってしまう。

 担当社員と言っても、ただの一社員でしかない彼女がそんな簡単に認めても良くないだろう。発言には責任が伴う。僕の気が変われば、「あの人は認めたぞ」と脅しのネタにだってできてしまう。

 だから、企業に所属する組織人としている間は発言には責任が伴うことを自覚しなくてはならない。 

 それなのに、彼女は簡単に謝ってしまう。


 今日、僕は彼女に会う予定だ。

 月2回の健康診断と過去についての聞き取り調査。

 その約束の時間は既に20分ほど過ぎている。場所は目黒駅近くのオフィスビル。僕が寝過ごさなければとっくに着いているはずだった。

 気が付けば眠ってしまう体質なので余裕をもって出発したつもりがこの様である。

 SMSには10分前にメッセージが届いていた。


『1日空いておりますので、お気をつけてお越しくださいませ』

 なんて良い人なのだろう。そして、僕が約束をブッちしたとは露とも思っていなさそうで、人を疑うことも少しは覚えたほうがいいのではないか、と余計な心配を抱く。生まれた西暦を無視すれば、僕と彼女はそんなに年も離れていないはずだから、本当に余計な心配だ。


 余計な心配と言えば、恋人は幸せになれたのだろうか。生きている間に僕が目覚めないと知ったとき、キッパリと諦めて新しい恋に目を向けられていたら、何も言うことはない。


 そんなこともない。叶うなら、もう一度顔を合わせて、言葉を交わしたい。空白の時間を埋めようとすれば、お互いの寿命が尽きてしまうから、せめて何か一言、ぽっかり空いた空白を誤魔化す一言を送りたいし、貰いたい。

 

 僕の病が治ったら、旅行にでも行こうと約束をしていた。けれど、眠り過ぎた僕は彼女を待ちぼうけにさせてしまった。どこに行こうと話をしていたか、まだはっきりと思い出せる。

 こんな世界だ。今から一人で赴いても、二人でスマホ越しに見たのと同じ景色を見ることができるだろう。

 

 ずっと、同じはずなのだ。何百年、何世紀経とうがグルグル回っているだけ。山手線を何周しても、毎回同じような乗客が乗り込んでくるように、かわり映えのしない日常が続いている。

 

 そんな世界なのに、君は変わってしまった。僕の知らないところで、皺くちゃになって、骨になって、灰になって、どこか土の下で眠っているのだろう。こんなことなら、君の家族ともちゃんと会っておくべきだった。そうしたら、墓ぐらいは調べられたかもしれない。

 

 もう遅い後悔。そう遠くない未来に、僕もそこへ行くよと約束ができれば恰好がいいのだけれど。これ以上、君を待たせるわけにはいかないし。別の誰かと幸せになっていると願うから、今さら割って入るつもりもない。墓だって、君の実家とは関係のない場所であるべきだ。


 割り切っていても、拭いきれない寂しさが目頭を熱くさせる。抑えはしない。また、目を瞑れば眠ってしまって、山手を一周することになる。

 

 渋谷に到着して、降りた人の倍の人数が箱の中に詰め寄る。

 こんなに大量の人間がいると、君によく似た人だっている。


 だけど、ついぞ面影が重なる人を見つけられないまま、目黒で電車の扉が開く。

 夏の熱気が顔を覆う。すとん、と現実が降りてくる。まだ寝ぼけた脳みそがよく知っている改札に向けて足を動かす。横顔を射す強い日差しが、僕の人生も期限付きだと思い出させる。

 

 待ちぼうけさせてしまっているDISの彼女だって。

 

 僕がどれだけ過去に大事なものを置いてきたとしても、今あるものを取りこぼして良い言い訳にはならない。


 スマートフォンの電話帳を開く。一つしかない連絡先。僕が持ち得ている、唯一の繋がりをタップして、コールをかける。


「すみません、今、目黒に着きました」

 

 繰り返しのような世界に日常。昔なじみの車の走行音ごしに、手の中のスマホから跳ねたウサギのような声が返ってくる。まずは彼女にどうやってお詫びしようか。

 なんだか慇懃な茶菓子を持っていく気にはなれなかった。こんな時はコンビニで目についた甘いお菓子やスイーツをいくつか持って行けば良い。


 昔から変わらない緑と白の看板を掲げたコンビニで買い物をする。

 レジ袋は一袋150円になっていることに、初めて気が付いて思わず笑ってしまった。おにぎりより高くなっているではないか。

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