異世界ブレス side-B

───わたしは考える者であり、”それ”を実践する者である───


※※※※※※※


振り下ろされた白刃が、風を切りながら眼前数ミリ先を雷のごとく落ちていく。

目の前の魔族───漆黒の鎧に身を包んだ暗黒騎士はわたしを嘲笑するかのように口の端を僅かに上げていた。

やれやれ、厄介なことになった。

なぜ魔族は平穏という言葉とは程遠い世界に産まれ落ちるのか。

そもそもこんな事になったのは我が主(あるじ)の計画が原因。戻ったら恨み言のひとつでも言ってやりたいところだ───


‪※※※※※※※※


「───今なんと?」


わたしは玉座脇のテーブルに主の飲み物を置こうとしたところで手を止めた。


「聞こえなかったのか、この距離で、偉大な我の言葉が」


わたしは鼻から息を出すとその言葉は無視して飲み物をそっと置く。

主は気に触ったのか声のボリュームを僅かに上げた。


「なんと無礼な奴、偉大な我のことを鼻で笑うとは」


わたしは鼻で笑う、という行動をリピート再生してから、


「失礼いたしました。どうも最近鼻に違和感を感じていたのですが、たった今独自に調査したところ、どうやら鼻の中にサンダープルンの子供が隠れんぼしていたようです。そのため、取り急ぎ鼻息で吹き飛ばし対処させていただきました。しかし、あまりにおかしな事を仰ると、また違うプルンが鼻に潜り込むやもしれませんのでお気をつけください」

「いや、そんなわけ───」

「そもそも」


わたしは主に顔を近づけると目を細めて、


「偉大なお方は、自分のことを偉大などとはのたまいません。よろしいですか?」

「え、は、はい……」


では、と一礼し、トレイを手に王の間を出ようとしたわたしの背中に主の声が飛んでくる。


「ちょ、ちょっと待て。我の話はまだ済んでないぞ」


聞こえるように舌打ちをしたあと、わたしは渋々玉座の前に戻った。


「まだ何か?」

「お前今舌打ちしたよな」

「まだ何か御用が?」

「まあ良い。聞こえなかったと言うのなら何度でも言おう。例えお前の耳が豚の耳であろうとも」

「恐れながら、それを仰るなら馬の耳が正しいかと存じます」

「ふん、知っておるわ。恐れながらとか言いつつ先ほどからずっとバカにしておるな」

「とんでもございません、バカかもしれないとは内心思っておりますが、バカにはしておりません」

「お前本当にひどいな」


何やらショックを受けたような顔をしているが気にする必要はない、いつもの事なのだから。

実際のところ、主は魔族としてのランク(格)はわたしよりも遥かに上である。

下級から始まり、中級、上級と来て、その上に超級。上級と超級の差は何をしても埋められないほど大きい、と言われている。そしてそのはるか上に絶級があり、今のところの頂上、極級には数えるほどしかいない。


わたしは現在のところ上級、主は絶級ランクの魔族で、それは所持する領地の大きさや自己の能力、他者に対する危険度を考慮した総合的な判断により決定されるものだが、ほとんどはその魔力量によって判別可能だ。普通なら一緒の空間にいることさえまずありえないし、そもそも相手が主でなければ生命の危険すらあってもおかしくはない。


現状、わたしが主よりも上であるのは年齢だけだ。魔族は他種族よりも遥かに長い寿命を持つが、主は人間で言えばまだまだ青年と呼べる若さ、何よりあらゆることの経験が絶望的に少ない。わたしはそれを心配している。こう見えてわたしは主をまあまあ気に入っているのだ。

普通なら即刻処刑されかねないこの様な態度をとってもまだ生きてられるので、少なくとも嫌われてはいないのだろう。


主は右手で頬杖をつき、


「この塔の周囲をうろついている輩がおるということだが?」


わたしは頷いた。


「ジェネラルからの報告では、勇者一行ではないかとのことでしたが───しかしうろついている、ではなく彷徨っているという方が正しいかもしれません。どうやら彼らは迷いの森を抜けられずに立ち往生しているようですね」

「ふむ、お前はどう思う?」


そうですね、とわたしは顎に手をやって少し沈黙する。

この獄炎の塔はとある地域の辺境も辺境、当然だが普段なら人間が決して寄り付かない場所に建っている。だからこんなところに足を踏み入れる人間は”よほど訳あり”か、この塔を”最初から目指してくる冒険者パーティー”くらいしかいない。だがこの塔の住人たちは、主の命により他の種族と敵対することは許されておらず、根本的に我々以外の魔族たちが住むタワーやダンジョンとは違う。それなりに価値があるものは置いてあるにはあるが、あえて危険を犯してまで目指すほど高価なものは無い。もちろんこの塔にどの程度の財宝があるかなど人間たちに知る由はないのだが。だからなおさら、悪意のある魔族を滅するために旅をしている勇者たち一行が、ここを目指しているというのはかなり疑問が残る。


「やはり、勇者一行ではなく、単なる冒険者───あるいは財宝を狙う盗賊ではないかと」

「ほう」


だが、主はにやりと笑って左手の人差し指を立てた。


「断言しよう、彼らは勇者が率いるパーティーだ」


その笑みを見た瞬間、わたしの脳裏に警戒標識が立てられた。

嫌な予感がする。

と言うか、間違いなく何か企んでいる顔である。

その蒼い瞳は、妖しく───いや、まるでいたずらっ子のように何かを期待する輝きを放っている。

これはまさか……。

やれやれ、たった今予想はできたが一応訊いておこう。


「なぜ断言できるのでしょう」


主は嬉しそうにふふっと笑い、


「それは、我が」

「噂でも流しましたか」

「おい!」


なぜ先に言うのだバカモノ!アホ!マヌケ!と、他の絶級の魔族が聞いたら引きそうなほど子供じみた罵りをしばらく聞き流してから、わたしは口を開いた。


「誰にやらせたのかもだいたい見当はつきますが、勇者一行の耳に入るよう、彼らが出没しそうな村や街の酒場か何かで、この塔の良からぬ噂を流したのでしょう」


おそらく、主が他種族を虐殺してるとか、この塔の付近で行方不明者が続出してるとか、人間の街や村を襲ってるとか───その類の、勇者一行が討伐に出てくる十分なきっかけになるであろう負の噂を。

念の為確認すると、全部その通りだった。主、読まれすぎです。


「なんかおまえ凄いな。凄すぎて引くぞ、さすがの我も」

「さすがの意味が理解できませんが、なぜそんなことをしたのです」


わたしは少しだけ語気を強めて続ける。


「他種族とは敵対しない、という方針はどこに行ってしまわれたのですか」

「案ずるな、敵対する気はない」

「ならば───」


主は頬杖をやめると、居住まいを正し、


「お前がいつも言ってたのではないか、我に何が足りないか」


そこで気がつく。───なるほど、そういう……。少しばかり感心しつつも声色にはのせずに口を開く。


「経験、ですか」


主は自信満々の表情で首を縦に振る。


「この塔を、そしてこの領地を治める者として、真の王となるに我が様々なことに経験不足であるのは否めん」


確かに、それはずっといい続けてきたことである。が、


「しかし、勇者一行をこの塔に入れてしまえば戦いは免れません。こちらの思惑がどうであれ、彼らにしてみれば敵対していることと同義では」

「だからこそ都合が良い。我はお前やこの塔の者以外と戦ったことがない。それでは、万が一この領地に、この塔に真の悪意ある者が攻めて来たらどうなる?」


その時は塔にいるわたしたちが主を守るために戦うことになるだろう。それが主に使える者たちの役目であり使命だからだ。

しかし主は首を左右に振る。


「この塔の王は我であり、また1番の強者でもある」


それもまた事実。この塔に絶級魔族はわたしの目の前にただひとり、主しかいないのだから。


「つまり、我が負ければ全てが終わるということではないか。ならば、我が負けることは許されない。王として、お前の教え子としても、だ」


なかなか泣かせることを言うではないか。短期間ではあるが、剣術、武術を教えてきたのはわたしだ。

だがこれではっきりした。つまり、とわたしは言う。


「いろいろ説明されましたが、結局のところただ単純に戦いたいだけ───自分の力量が世界ではどの程度のものなのか、確かめたいだけですね?」


主はしばしの沈黙のあと、わたしからそろりと目を逸らしていく。

やはりそうか……。


「アホなんですか?」


主は不満そうに口を尖らせる。


「いや、だって、この塔、誰も来ないではないか」

「それはそうでしょう。他種族に対して何も悪いことはしていないのですから。来る可能性があるのは財宝狙いの盗賊くらいです」

「それでは楽しくない」

「楽しい楽しくないの問題ではありません。勇者一行と戦って、万が一ころ……取り返しのつかない事になったらどうするのです。本格的にこの塔の悪名が世界に広がり、平穏だった日常がなくなってしまうのですよ?」


主は面白くなさそうに頬を膨らませる。


「その辺は我もうまくやるし、皆もよろしくやってくれればいいではないか」

「つまり、適当に良い塩梅で戦って、ギリギリのところで負けた振りをして、ここまで誘導しろと」

「で、我のところまで連れてきてくれれば今度は我が戦っていろいろ良い経験ができるであろう。途中どこかのフロアで様子見することも可能ではあるし。つまらない奴らならそこで追い返せば良い」主はわたしの手をチラリと見てから続ける。「そう言えばほら、確かあったな、魔力を抑える……なんだったか、煉葬獄のなんとかってやつが」

「ああ、あの帽子───魔族の魔力だけをある程度抑え込んでしまうという、”必要な者以外にはまったく使い道のない”マジックアイテム───ですか。それなら確か上層階の財宝庫て埃をかぶっているかと」

「我がそれを被れば全力を出しても良い勝負になるのではないか」

「まあ、なるかもしれません」

「それなら決定だ」


主は傍目からでも丸わかりな嬉しさ全開のオーラを全身から滲み出させ、そわそわし始めた。


「それならあの帽子とマッチする服装に変えないといけないな。この普段着では少々地味すぎる。お前もそう思うだろ?」

「地味……」


ワインレッドのドレスが?

主は頬杖をつき、視線を斜め上に向けると、


「やはりスカートでは戦いにくいからパンツスーツ……いやそれではあの帽子に合わん。やはりカッコ良さの中に威厳が見え隠れしていて、さりげなく可愛さも───」


楽しんでいるように見えますが……。

わたしはわざとらしく咳払いをひとつ挟み込む。


「という事はつまり、迷いの森で迷いまくっている勇者一行を、わたしはさりげなくこの塔まで導いて来れば良いということですね」

「ああ、よろしく頼む」


左手をひらひらさせながら、まったくの上の空で返事をする主。


「なあ、やはりカッコ良さと威厳の中に少しエロさも混ぜた方が良くないか?エロカッコイイ服装が世間ではモテるのだろう?」

「エロさは必要ありません」


※※※※※※※


まったく、勇者一行をエロさで誘惑してどうする。モテてどうするのか!塔の王ともあろうお方が!

相手の魔族───暗黒騎士が繰り出す剣を避けながら、主の言葉を思い出して少々腹が立ってきた。

その感情をのせたまま思わず反撃してしまう。

わたしの剣が暗黒騎士の兜の隙間から頬にかすり、わずに血が流れた。


「ほう、この俺に傷を」


暗黒騎士は間合いを取りながら不敵な笑みを浮かべている。

やれやれ、困ったものだ。適当に相手をしていれば退いてくれるのではないかと期待していたのだが、この分だと諦めてくれるまでだいぶ時間がかかりそうだ。塔でわたしの帰りを待つ”娘”の顔が脳裏に浮かぶ。夕食までに間に合えば良いのだが……。


本来、わたしは争いを好むような性格ではない。もちろん、主の命により戦場に赴くことはある。我がテリトリーに侵入する者あらば場合によっては排除することもある。しかし極力遺恨を残さぬよう対処することにしている。

魔族も他の種族同様、千差満別なのだ。虐殺に悦びを見出すもの、戦いそのものを楽しむ戦闘狂や知識を探求する者、果ては生涯平穏に暮らそうと考える者までいるほど。

わたしはその最後方、”考える者”でありそれを”実践する者”である。


それが何故この魔族と戦うことになったのか───

簡潔に述べるならば、助けたのである。

いやまとめすぎたか。実は勇者一行がこの暗黒騎士と戦っているところ、結果的にわたしが割って入った形になったのだ。暗黒騎士のランクはおそらく魔力量からも超級止まりと思われたので、この程度で苦戦しているようでは塔に招待する資格もないと様子見をしていたのだが───勘なのか魔力探知に長けた者だったのか今となってはわからないが───わたしのかなり抑えた魔力を勇者一行に発見され、出ていくしかなかったというわけだ。彼らと戦うわけにもいかないため、迷いの森の抜け方を教え、暗黒騎士の相手を買ってでたという結果、今に至る。


それにしても、あの勇者の仲間───不思議な水瓶を使役していたツインテールの娘───神か精霊かは判別できなかったが、相当な量の魔力を感じたように思う。徐々に上昇していくあの魔力は、もしかすると───


「戦いの最中に考え事とは、余裕だな」


再び暗黒騎士の剣の切っ先がわたしを掠める。避けるのも飽きてきた。早く退散してくれまいか。


「きさま、なぜ勇者一行の手助けをするのだ。その魔力、同じ魔族だろう」


実に大雑把な話になるが、魔力には質があり、それぞれの種族によって魔力探知の際の体感的な感触が異なる。だから人間のような姿をしていても集中すればある程度判別は可能だ。

これだけ時間を引き伸ばしても暗黒騎士に剣を収める様子はない。


「その魔力、たかだか上級魔族程度のはず。この俺と敵対するメリットが何かあるのか?あまつさえ、人間を助けるとはな、反吐が出る」


兜の隙間から見えるその蔑むような表情を窺うに、どうやら仲良くしたいとは思えないタイプのようだ。そもそも、わたしが助けたのは人間ではない。あのツインテールに見つからなければ、ものの数分も経たぬうちに骸として地面に転がっていたのはお前だったはずだ。助けられた命を粗末にするな。本来なら会話するのも遠慮したいが、この際仕方あるまい。わたしは主の名を出して警告をする。


「───ここはあのお方の領地。木々の隙間からでもあの塔が見えるはずですが。この地での他種族との争いはご法度なのです」

「ああ、あの若い腑抜けの王か」


マヌケかもしれないが決して腑抜けではない。しかし他領地の魔族からのそういう言われ方は慣れているのでわたし自身の心は動かない。


「数ある塔の中でも若輩者の弱者が治める塔だと魔族の中でも有名だぞっ!」


嘲笑しながら斬りかかってきたので、剣でいなしながら兜の側頭部に軽く力を入れた一撃をお見舞いした。よろめく暗黒騎士。


「き、きさま……っ!」

「申し訳ありません、手元が狂いました」


剣の刃こぼれを確認しながらわたしは淡々とした口調で言う。決してわたしの心は動いていない。


「あのお方に剣を教えたのはわたしです。若輩者かもしれませんが、決して弱者のはずがありません」


そう、魔族が治める数ある領地の中でも、他種族と敵対していない、敵対しないと公言している王はほんのひと握りしかいない。彼らのほとんどは同胞から蔑まれ、馬鹿にされ、嫌悪されることがほとんどだ。そんな状況の中で王として君臨し続けることがどれだけの重圧か。

わたしの心はこの程度で動くはずがない。

ただ……ただ少々腹の虫の居所が悪い程度だ。どこの領地の者かは知らないが、なぜか偶然多少の怪我を負ってお帰りいただくことになるが気にしないで欲しい。

そう、よく考えたら他種族との争いは禁止されていても、同族とのそれは禁止ではないのだ。良かったな暗黒騎士殿。


ようやく戦いの意思をわたしが示した時、暗黒騎士は聞き捨てならない言葉を発した。


「魔族として弱者というだけならまだわかるが、噂ではあの王、”人間を匿っている”とか───」


その途端、胸の内にミスリルの塊を落とされたような激しい衝撃を受けた。


「弱者が弱者を匿ってどうすると言うんだ」暗黒騎士は声高らかに笑う。「人間と一緒にいる魔族なぞ聞いたことがないわ!」


深呼吸をひとつ、ふたつ───

胸が締め付けられる。努めて冷静に、わたしは言葉を紡ぎだす。


「そのような噂、いえ与太話を真に受けているのですか」

「噂かどうかは確かめればわかることだ」


剣を握る手に力が入る。


「ほう、どうやって確かめると?」

「もちろん塔に入って確かめるのさ」

「無理ですね、あなたでは塔を登ることは不可能でしょう」


暗黒騎士はにやりと口元を曲げる。


「なるほど、つまりその人間は塔の上の方にいるってことか」

「そんなものが存在するかどうかは知りませんが、わなたでは塔を登る前に命を散らすだろうと忠告しているのです」

「いや、俺ならできるのさ。こんな風にね───」


その刹那、暗黒騎士の姿が目の前から消えた。と同時に背中に衝撃が走る。後ろから斬られたようだ。

間髪入れずの2撃目───わたしはかろうじて身をかわすと間合いを取る。傷はそれほど深くはないだろう。ほんの一瞬だが、背後に気配を感じていなければ倒されていたかもしれない。


「普通なら今ので終わってるんだがなぁ。お前本当に上級魔族か?」


今のはまさか……。問いには答えずわたしは言う。


「スキル、ですね」


暗黒騎士は再び笑みを浮かべた。その表情には嫌悪感しかない。


「いかにも。これが俺のスキル、『捕捉転移』だ。マーキングした相手の近くに瞬間移動できる便利なスキルでね、例え相手が死んでいても発動できる優れものさ」


なるほど、マーキングということは、おそらく近くにいる者、あるいは触れた者に対して発動するのだろう。刃を交わした時にでもマーキングされたのかもしれない。かなり限定的な瞬間移動能力ではあるが、強い。だが、”今心配すべきはそのことではない”。


「つまりあなたは、わたしを殺し、塔に死体が運ばれたあとその死体の近くに転移する腹積もり、ということですね」

「正解だ。それなら簡単に塔の上階まで侵入できる。きさまは王の家庭教師なのだろう?人間がいるかどうか確かめて、あとはついでに───。まあ、そういうわけだから死んでくれ」


情報収集どころか暗殺でさえ可能にする危険なスキルだ。

わたしはまたひとつ深呼吸をして、呼吸を、心を整えた。


「お断りします」


前言撤回。

左手にはめたふたつの指輪を外す。これは、”必要のない者にはまったく使い道のない”マジックアイテムのひとつ───そう、主が口にした帽子と同類の───

暗黒騎士よ、お前の体は塵一つ残さず切り刻むことに決めたよ。


抑制されていた大量の魔力が一気に溢れ出し周囲に溶け込んでいく。

わたしはなるべく感情をのせずに冷たい口調で言い放った。


「事情が変わりました。あなたの行き先は、暗く冷たい地面の底に変更です」


娘の顔を思い出す。わたしにはやらねばならないことがあるのだ。なんとしてもあの子を───


※※※※※※※


───わたしが娘に出会ったのは5年前のことだ。

娘に出会った、という表現は少々おかしいが、出会ったのだから仕方がない。そう、つまり本当の娘ではないということだが、そんなのは些末なことだ。

大切なのはたったひとつ、わたしは父親代わりであり娘を大切に想っている、という事実のみ。


───その時、わたしは自分の命の灯火が消えゆくことを悟っていた。

氷剣の勇者と呼ぼれる勇者一行にやられた傷が原因だ。正確には傷ではなく、毒なのだが。この時のわたしには毒への抵抗力が皆無だった。魔力を元に戻せばあるいはその進行を遅らせることは可能だったかもしれないが、わたしは全てを諦めていた。

この頃、各地に増え始めた勇者たちが、魔族やモンスターを討ち滅ぼし始めたのだ。もちろん、人間たちに害をなす魔族やモンスターはたくさんいるが、中には平穏を望んで暮らしている者もいる。

そう、このわたしのように。

わたしの最初のランクは絶級。仕えていたのは紅蓮の塔のプロミネンス王。そのため、意図せず高い地位を与えられてしまい、周囲からは他の絶級幹部3名とともに四天王などと呼ばれたりもしていた。それが嫌だったわたしは魔族の魔力を封じ込めるマジックアイテム、封魔の指輪をつけることにしたのだ。魔力はある程度減衰し、超級にまで落ちた。そのせいでよく言われたものだ。


───『奴は四天王でも最弱』


だから何だというのだ。気にしなかったし気にする必要もなかった。王の命により戦いはするが、わたしは争いを好まないのだから。一体、何のために戦うというのか。わたしには戦う理由がわからなかった。

しかし、その王も敗れ、紅蓮の塔は落ち、わたしは何故か手加減をした勇者によって命だけは残された。本気で戦っていなかったことを見破られていたのかもしれない。そうしてわたしは敗走したのだ。言いようのない虚しさと受けた毒だけをその身に宿したまま。

どのくらい彷徨い歩いたのか、気がついた時にはこの湖の畔に仰向けに倒れていた。毒がついに全身を蝕んでしまったようだった。

魔族だからこんな戦いに巻き込まれてしまったのだろうか。今回の戦いで塔の同胞はほとんど死んだ。四天王でさえも。

生き残ったのは、四天王最弱の男だ。実に滑稽な話ではないか。こんな時こそ大声で笑ってしまいたかったが、声は出なかった。出るのは荒い呼吸と、空気を震わす喉鳴り。もはや喋ることも叶わない。

いよいよその時が来たか。そう思った時───


何か窓のようなものが見えた。


なんだあれは。

空間の中にポツリと浮かんでいるそれは、窓と形容するしかないものだった。しかし物理的に存在するものではなさそうだ。向こう側の景色か透けているのだから。

その窓の中には違う景色が広がっているように見える。


そうか、幻覚が見え始めたか。これは本当にいよいよだな。

しかしここでふいに、部下たちがしていた話を思い出した。勇者たちが現れ始めたちょうどその頃、空間の中に突然何か窓のようなものが見えたり、聞いたこともない言語や音楽が聴こえてきたり、脳裏に不思議なイメージが浮かんだりし始めたと言うのだ。話によれば、それは見える者と見えない者がいるようだった。


これは……まさか”それ”なのか。


かつて紅蓮の王、プロミネンスが口にしていた言葉の記憶も溢れ出てきた。


───『世界はひとつだけではない』


───このような世界が他にも存在するのですか?


───『そうだ、記録によれば定期的にこの世界とも繋がっているという』


───もうひとつの世界があるというなら、1度行ってみたいものですね。


───『うむ、こちらの世界を手中に治めたならば、必ずやもうひとつの世界も───』


夢半ばで敗れた王だったが、その言は正しかったということか。

実に皮肉なことだ、死の間際にそんなものが見えてしまうとは……。王よ、確かにもうひとつの世界はあったようです。しかし残念ながらわたしも行けそうにはありま───


ふいに、世界が眩い光に包まれ、大きく揺れたような気がした。

地震?

振動は徐々に大きくなり、背中越しに大地が引き裂かれるような鼓動が伝わってくる。

今度はなんだ。天変地異でも起きるのか。耳はもう半分以上機能を失っているようでほとんど聴こえていないが、大地のうねりは身体中で感じ取れている。

まるで世界が怒っているかのような規模の揺れだ。

動くことすら許されずその怒りを全身で受け止めているわたしは、まるで囚人のようだった。

どのくらいそうしていたのだろう、随分長いようにも感じたし一瞬だったようにも思えるが、そうしてその揺れが収まった時、気がつくと視界の端に誰かの足が見えた。

わたしの見間違いでなければ、それは突然現れたのだ。

まず最初に思ったのはどこから現れたのか、ということ。そして次に思ったのは随分小さな足だな、ということだった。虚ろな目で全身を捉えるとそこには子供が、まだ幼い人間の少女が佇んでいた。


こんな所で何をしているんだ、危ないぞ、早く逃げなさい。

少女は不安そうな顔で周囲を見回していたが、やがて横たわるわたしに気がついたようで、今度は涙ぐみながらわたしを見下ろしてきた。


「おじさん大丈夫?」


ああ大丈夫だ、心配ないから早くここから立ち去りなさい。口を動かすも言葉は出ない。

少女は少し迷っていたようだが、腰を下ろすと、わたしの頬にその小さな手を当ててきた。


「おじさん血いっぱい……痛くない?」


大丈夫だよ、おじさんはもう痛くない。もう、すべて大丈夫なんだ。そう、すべて。だからもう……。

その可愛らしい手は、とても暖かかった。何故かはわからないが、生暖かいものがわたしの頬を流れ落ちていった。気がつけば泣いていた。涙を流すなどいつ以来なのだろう。


その時、少女がぴくりと体を震わせた。

瞳に恐怖の色が浮かんでいる。視線を辿れば少女はわたしの足元の方を見ているようだった。

なんだ、何を見ている?

どこにそんな力が残っていたのか、わたしは力を振り絞って上体を起こした。

視線の先にいたのは、数メートルはある巨大な壁、ではなく、岩石で出来たアースゴーレムだった。その大きな影がわたしたち2人をまるで呑み込むかのように地面に広がっていた。


愕然とする。

なぜ気づかなかったのか、足音はともかく、歩く時の地響きくらいは感じられたはずだというのに。

あれは、紅蓮の塔のガーディアンだ。与えられた命令を忠実にこなす防衛兵器。プロミネンスによって与えられた命令は確か───


”塔の周囲にいる者すべてを滅ぼすこと”


初めて絶望的な気分を味わった気がした。勇者たちと戦って倒された時でさえ、そんな感情は湧いてこなかったというのに。

プロミネンス亡き今、命令を撤回できる者はいない。

わたしは剣を杖代わりによろよろと立ち上がると、少女を背に、ゴーレムの前に立ち塞がった。何度も咳がでて血を吐いた。

ゴーレムを停止させるには、緑色に輝く胸のコアを破壊すれば良い。だが、今のわたしにできるのか?この少女を守りきることが。死に瀕したこの最弱の四天王に。


振り返ると、少女は震えながらわたしの足にしがみついていた。

たかが人間ひとりじゃないか。守る必要などあるか?そもそも、なぜわたしはこの少女のために戦おうとしているのか。

そんな考えが浮かんできて自分を罵った。わたしはこんな恥ずかしいことを考える男だったのか。誇りを持て。せめて最期くらいは、戦士として。

魔族も人間もないのだ。

わたしは精一杯笑って見せると、少女の頭を優しく撫でた。彼女はまた泣きそうな顔をしていた。

もう言葉は出ない。

近くの大木を指さし、嫌がる少女を無理やり隠れさせる。

わたしは小さく頷いて、もう一度だけ微笑むと、もう振り返らないと決めてゴーレムと対峙した。


ゴーレムがゆっくりと向かってくる。

おそらく、今のわたしでは倒せない。コアを破壊することはできないだろう。なにせ、立っているのがやっとなのだ。

最弱の四天王はダテじゃない。

だが───

わたしは1歩、前に出た。

”元”だ。

わたしは”指に残っていた封魔の指輪をすべて”外した。

途端に体中から魔力が溢れ出てくる。その膨大な魔力は空気を震わせ、湖の水面に波紋を走らせながら広がっていった。

これで、元・最弱の四天王だ、ゴーレムくん。

とは言え、今のわたしではそれでも倒せるかどうかはわからない。


ゴーレムが目の前に立つ。

実際に対峙してみればわかるが、普通の人間ならばこの時点で戦意を喪失するだろう。何せ片腕1本で優に人間5人分以上の太さがあるのだから。こんな間近で見上げればそこにあるのは1面土の壁だけだ。

頭上には球形に光り輝く緑色のコア。だが、剣が届かない、今のままでは。もし飛べばゴーレムの強烈な拳の餌食になるのは目に見えている。


わたしは右手に持つ剣に魔力を込めていく。

ゴーレムが右腕を振り上げた。

歩くのは遅いが、攻撃は予想以上に素早い。

その右腕が振り下ろされる。質量に勝る攻撃はない。圧倒的な質量を前にすれば、どんな小細工も無意味だ。無論、わたしが万全の状態であれば魔力を解放する必要もなく難なく倒せていたであろう。


わたしはただそれを左手で受け止めた。激しい衝撃が左手から伝わり地面へと流れていく。

骨の軋む音がした。筋繊維が弾ける。手の甲から骨が突き破っているのが見えた。

耐えろ!

魔力の半分以上は右手に、その残りを左手と全身に回している。これ以上はもう魔力を使えない。

足場の地面が抉れ、土や石が吹き飛んでいく。


わたしは声にならない叫びを上げ、右手を振り上げた。

ゴーレムが”攻撃する為に前かがみになったこと”で、コアはもう”手の届く場所まで降りて”きている。

ありったけの魔力を込めた剣をコアに突き刺す───!


───手応えはあった。

剣先は確かにコアの中に入った。


だが、ここまでだった。

わたしは全てを使い切ってしまった。それが実感としてわかる。

コアの輝きは止まらない。


もう手に力が入らない。わたしの右手は剣を握ることを諦めようとしている。わたしの足はとっくに立つことを諦めているようだった。


すまない、わたしにはもう───


ゴーレムが左手を振り上げるのが見えた。


と、その時、


───《頑張って!》


え?


───《諦めないで!》


なん……


───《自分に負けないで!》


なんだこれは、誰の声だ。あの少女の声か?いや違う、これは、このたくさんの声は、一体どこから……。


───『……聞いたこともない言語や音楽が聴こえてきたり……』


───『……記録によれば定期的にこの世界とも繋がっていると……』


ああ……そうなのか、この声は、”もうひとつの世界から”……。これはまさか、わたしを応援してくれているということなのか……。


幻聴ではなかった。

それは、例の窓から聞こえてきていた。そして、光り輝くシャボン玉のようなものが、窓からわたし目掛けて降り注ぐ。

ああ……これは……”ポコロン”だ。

未知の体験だったが、なぜか心で理解できた。

ポコロンエネルギー。人や神、精霊たちが使う、この世界に溢れているというエネルギー。

聞いたことがある。

ポコロンとは、彼らの想いや願いが生みだすエネルギーなのだと。

そうか、なんと強いエネルギー、いや、なんと強い想いなのだ、これは。

両足と右手に光が集まり、刹那の力が宿る。

ありがとう、あとほんの少しだけわたしは戦える。

ゴーレムが振り上げた拳を落とす。

わたしは再び右手に力を込める。

いけ!わたしの想いも込めろ!ありったけの想いを!

少女の泣きそうな顔が脳裏に浮かんだ。

うち砕け、全てを!


そして、わたしの剣は、わたしの右手は、ゴーレムのコアを撃ち抜いた。


それを確認する間もなくわたしはずるずると崩れ落ちていく。今度こそ限界だった。もう指1本動かない。魔力もポコロンエネルギーも、毒を消してくれるわけではない。生命を燃やし尽くした結果だ、悔いはない。

わたしは少女を守れたのだ。


仰向けに倒れた視界に光を失ったゴーレムの顔が入っている。

そうか、最期に見るのはお前の顔か。

そう思っていたら、小さな足音が微かに聞こえて、少女の顔がフレームインした。


「おじさん!」


なんだ、まだ泣きそうな顔のままじゃないか。


「ねえ、死んじゃダメ!死なないで!」


揺さぶられるがもう感覚はない。すまないが、あとは自力で帰っておくれ。もう守れそうもない……。

視界が揺らぎ、瞼が重くなる。


「ダメ、死んだらダメ!死なないで、ねえ!」


すまない、もう声も……聴こえ……。

そして、

視界が閉ざされた───


─────────

──────

───


だが……おかしい……

わたしの意識はいつまで経っても闇の底に落とされなかった。

何故だ、こんな無惨な状態のまま、死ぬことすら許されないのか……。


気がついてみれば、何故か体がほんのり暖かい。まさか感覚が戻っているのか?

あれほど重かった瞼が動く。

わたしはゆっくり目を開けた。

ぼんやりとだが、視界が徐々に広がっていく。

少女はまだそこにいた。目を閉じ、何かに必死に祈るようにわたしの心臓の辺りに両手を置いているようだった。その両手は光を帯びていた。

これは……まさか、ポコロン?

どうやら、その光が輝きを増す度にわたしの体は軽くなっているようだった。体内の毒が中和されているのかもしれない。わたしが今生きているのは十中八九少女のお陰だ。

しかし、ポコロンエネルギーが体を治癒することはない。ならば、これは、”彼女のスキル”なのだろう。

元々持っていたものなのか、それともたった今目覚めたものかはわからないが、ポコロンが想いと願いのエネルギーであるならば、不思議なことでもない気がした。


少しだけ動く右手で、少女の手にそっと触れる。

彼女は驚いたように目を開け、


「おじさん生きてた!」


そう言って、また泣き出した。その湖のように澄んだ蒼い瞳から、みるみるうちに涙が溢れてくる。


「キミのおかげで戻ってこれたよ」


わたしが応えると、今度は何か言いながら声を上げて泣き始めた。よく聞き取れなかったが、おじさん助けてくれてありがとう、と言っていたように思う。


いや、礼を言うのはこちらの方だ。

キミがわたしを本当の意味で生かしてくれた。わたしに戦う意味をくれたのだ。


ありがとう───


※※※※※※※


「───マール。それがわたしの娘の名前です」


少女と初めて出会ったあの湖は今でも思い出の場所で何度も足を運んでいる。


「はあ?」


暗黒騎士は吐き捨てるように言った。


「お前の娘の名前を聞いてどうしろと言うんだ。この戦いに関係あるか?」

「もちろんあります。出会った時、わたしの娘は記憶をなくしていました。だからわたしが名付けたんです。湖という意味を持つマールとね。あなたがあの塔にいると睨んでいる人間は、そのマールのことです」


すると暗黒騎士は品のない笑い方で、


「これは面白ぇ、なんだ、魔族が人間を育てていたってことか!?ははっ、これは傑作だ。しかもわざわざそれを俺に教えてくれるんだからな、マヌケかお前!」

「いえ、特に問題はありません。あなたはもうここから動くことはないのですから。それよりも、気が付かないのですか、わたしとあなたの魔力量の差異に」


わたしは言いながら1歩、また1歩と歩を進めていく。そこでようやく、暗黒騎士は気づいたようだった。

兜越しでもその動揺は手に取るようにわかる。明らかに狼狽していた。


「な、なんだその魔力……どういうことだ、さっきまでとは……超級、いや絶級……まさかそんな……まだ上がる……のか……?」

「残念ながらチェックメイトです」


暗黒騎士はそれでも諦めなかった。その点においてだけ、彼は評価に値する男だったかもしれない。

彼は「魔力量の差が戦いにおいて決定的な差にはならんことを教えてくれる!」と叫んでスキルを使ってきた。

もちろんそれも一理ある。彼の捕捉転移はかなりレアで強いスキルだ。だが、彼が勝てる要素は残念ながら万にひとつもない。


暗黒騎士の姿が消える。もちろん背後だろう。だが、彼の剣はわたしには当たらない。何故ならわたしもスキルを使っていたからだ。

わたしのスキルは非常にシンプル、ただの『瞬間移動』である。

暗黒騎士が背後に現れた瞬間、わたしは更に彼の背後に瞬間移動し、その背中に剣を突き刺していた。そして、念入りに切り刻む。ここからは野菜の千切りとなんら変わらない単純作業だった。

そして、刹那の交戦のあと、暗黒騎士は叫び声すら上げることなく、跡形もなくこの世界から消え去っていた。

封魔の指輪をはめなおし、わたしは歩きながら夕食の献立を考え始めていた。


「魔力もスキルも上位互換では負ける要素はありませんでしたね。さて帰るとしましょう。なんとか夕食には間に合いそうです」


※※※※※※※


献立決めの散歩も終わり瞬間移動で塔に帰ってくると、最上階のわたしたち家族の居室のソファで、主───ゲヘナ様とマールが楽しそうに話をしていた。


「あ、お父様!お帰りなさい!」


この世界の全ての憂鬱を吹き飛ばしてしまいそうな、そんな晴れやかな娘の笑顔をチャージして、心が軽くなる。

彼女はここに来て3年後にはわたしのことを「お父様」と呼んでくれるようになった。嘘をおしえたわけでは決してない。わたしたちに血の繋がりがないことは伝えてある。それでもマールのことは娘だと思っていると言い続けてきた。だからお父様と呼ばれた時は平静を装っていたものの、不覚にも自室で泣いてしまうほどだった。いや号泣したわけではない。涙が1粒こぼれ落ちただけだが、金輪際ゲヘナ様のことをバカに……いや、いじることはやめても良いと思ったほどだ。もちろん思っただけだ。

マールがいれば、天候が雨でも雪でも例え雷の槍が降り注ごうともわたしの心が揺らぐことはないだろう。主へ簡単な報告を終え、飲み物を用意してからわたしもソファに腰を下ろす。


「なぜゲヘナ様がここに?」


しっしっと手で追い払うジェスチャーを露骨に披露しながらあくまでも穏やかな口調で言う。


「わたしがお招きしたんです。ゲヘナ様のお召し物を作る段取りをしなきゃと思って」

「なるほど、そうですか。それは良い考えですねマール 」


そういうことなら100万歩譲ってここに居ることを許可しなくもないが、わたしは紅茶に口をつけながら目を細め、主に向かって早く帰れと念じることを忘れなかった。


「お前、そのドス黒いオーラをこちらに向けて放つのやめろ」

「何を仰います。これはゲヘナ様には腹黒……黒のお召し物がお似合いではないかと、そういうアピールをしているまでです」


そんないつもの2人のやり取りを見てころころと笑うマールは、小さく手を叩き、


「確かにゲヘナ様には黒もお似合いだと思います。それではゲヘナ様のお好きな赤系統の色と合わせて、新しいお召し物を作るというのはどうでしょう」


主が満更でもなさそうな顔で即答すると、マールは自分のことのように喜び、頑張って作ることを約束した。


「マール、今日も読書をしていたのですか」

「はい、この前お父様が買ってきてくれたダンジョン探検録の新刊、とても楽しかったです」

「それは良かった、次は一緒に街まで買い物に行きましょう」

「それなら、我も」

「ダメです」

「いや別に少し散歩するくらい」

「無理です」


主がショックそうな顔をすると、マールが助け舟を出す。


「たまには良いじゃないですか、わたしもゲヘナ様と街を散策したりお買い物をしたいです」

「許可しましょう」


笑顔を見せるわたしに、主は少し引き気味で目を丸くしていた。


「お前、親バカにもほどがあるぞ」

「ゲヘナ様は目立ちますから変装して、魔力を抑えるマジックアイテムも必ずお持ちください」

「まあ、我の美しさを考えると確かに変装はした方が良さそうだ」

「変装に美しさは関係ありません。自称ともなればなおさら」

「誰が自称だ、ドケチ親バカ執事」

「何か?」

「まあまあ、お父様も言い過ぎですよ」


───あの時、記憶をなくしていたマールのポケットには、手のひらくらいの大きさで薄っぺらな見たこともない機械が入っていた。ガラス面があったが鏡にしては暗く、おそらくそこには何かを映し出すような仕掛けが施されていたのではないだろうか、と推測している。側面にボタンがついていたが押しても反応はせず、どうやら完全に壊れているようではあった。後にあらゆるツテを使ってそれの情報を求めたが、知る者は皆無で、やはりそれはこの世界のモノではないと判断するしかなかった。


どういうことか。

つまり結論としては、”マールはこの世界の住人ではない”、と言うことだ。

わたしが死に瀕していた時に起きた、地震のように思われた世界の揺らぎと輝き。

突然その場に現れたマール。

彼女の持っていた未知の機械。

そして、記憶喪失───

それらは、彼女が異世界から来たと考えれば辻褄は合う。


当然のことだが、マールには本当の名前も、そして本当の家族も、そして取り戻すべき本当の記憶もあるのだ。

今のこの生活は、彼女が本心から望んだものではない。言わば、この世界から真実を不当に奪われたのだ。


ならば、父親代わりとして出来ることはそれを取り戻すこと。

わたしは、マールを元の世界に戻す。それが、わたしの心の命を救ってくれた彼女へのせめてもの恩返し。彼女を守る、とあの時誓ったのだから。その為ならばどんな犠牲も覚悟しよう。例えこの命を投げ出すことになったとしても、だ。


マールは新しい飲み物とお茶菓子用意してきますと席を外す。

その後ろ姿を見送りながら、主はその目を細めた。


「ところで、先ほど迷いの森付近から膨大な魔力の放出を感じとったが?優に絶級クラスはあったな」


ああ……とわたしは視線を斜め上にしながら指を立てる。


「何か小うるさい蝿が飛んでいたようで、それを絶級魔族が追い払った───とかなんとか」

「なるほど、しかしどこの誰かはわからぬが、そんな膨大な魔力をほいほい出してると、余計な争いの火種になるやもしれんぞ。のう?」

「そうですね」わたしは紅茶の残りを飲みながら、「もし今度そういう絶級魔族に出会ったら忠告しておきましょう」

「そうしてくれ、”我々の平穏な生活のため”にもな。ところで───」


主は声のトーンを落とす。


「今年も”あの時期”が来ておるな」

「はい」


世界が揺らぎ、この世界にもうひとつの世界がもっとも近づく、例の窓が現れる季節。


「ということは今年も探すのか」

「もちろんです」


マールを元の世界に戻す方法───

早急に探さなければならない。今はまだ定期的に異世界と繋がっているとはいえ、いつそれが終わりになるかは誰にもわからない。ずっとその現象が続くとは限らないのだ。

もうすでに5年が経過している。そもそも、異世界と時間の流れが違っていたら?もし帰れたとして、そこにマールの居場所はあるのか……。不安はある。だが、わたしは必ずそれを成し遂げてみせる。


主は何か言いたげな表情をしていたが、結局何も言わず「そうか……」と、どこか寂しげな横顔で紅茶に口をつけた。「見つかると良いな……」


順調に進んでいれば、明日にも勇者一行がこの塔にたどり着くはずだから、そこからは少し忙しくなるだろう。勇者一行の、特にあのツインテールの娘がどれだけやれるのか、お手並み拝見と言ったところか。茶番となるか余興となるか、あるいは───。いずれにしろ、異世界への戻り方を探すのはそのあとになりそうだ。


新しいティーポットとケーキをワンホール持ってマールが戻ってくる。


「お父様、ゲヘナ様、見てください。わたしケーキ作りました!」


季節のフルーツを散りばめた見た目にも美しいタルトだ。早くも主の目が輝いてる。


「今日は何の日か覚えてますか?」タルトを切り分けながらマールが言う。


何の日?

あぁ……そうか、今日は───


「わたしとマールが」

「我の誕生日だな」

「はあ?」

「はあ、とはなんだ我に向かって。我の誕生日であろうが」


そうだったか?必死に記憶を呼び起こす。いや、まあ確かに……そうだった。あまりにもどうでも良い情報だったから記憶の引き出しの奥底に埋もれていた。そうだ、偶然にも、そういえば同じ日だった。いやでもそこは違う、今回は譲れない、主と言えども。


「まあ確かにそうかもしれませんが、1番はわたしとマールが」

「1番は我の誕生日だ。そしてケーキを取るのも1番」


主はマールが切り分けたピースではなくホールの残りを自分の目の前に引き寄せた。


「なんてはしたない!」


主の引き寄せたホールを今度はわたしが目の前に持ってくる。それをまた取り戻そうとする主。そしてそれをまた取り返すわたし───何をやっているのだこれは。


「いやお前は甘いもの苦手であろう」

「大好きです、特にマールの作ったものなら大好物です」

「我は誕生日なのだからこのくらい」

「いいえ、今日はわたしとマールの」

「くぅ、最弱の四天王のくせに」

「最高の執事です」

「最低の間違いであろう」


そんなやり取りを微笑ましく見ながら、マールはタルトを頬張っている。


「もう、ケンカしちゃダメですよ、お父様もゲヘナ様も」


その笑顔があればもう何も要らない。

わたしはもう十分すぎるほど貰ったのだ。この5年で、マールと出会ったことで、わたしの生きている意味はあった、と言えよう。いや、逆かもしれない。わたしはマールと出会うために生まれてきたのだ。

そしてもちろん、同胞魔族からの中傷もものともせず、人間であるマールをわたしの娘として快く受け入れてくれた主にも、感謝してもしきれない程の恩を感じている。この主でなければ、今のわたしもマールの境遇も、だいぶ変わっていたかもしれない。

少々子供っぽいところはあるが、それもまた魅力のひとつと言えよう。魔族の王としては異質、異端の存在かもしれないが、世界を変えていくのは、きっと、このような───


いやそれは蛇足と言うものか。わたしの拙い文章はこの辺で締めくくろうと思う。


最後になるが、わたしの名前はサタン。かつて四天王最弱と言われた男。娘の平穏な生活を考える者であり、それを実践する者、そしてもうひとつ───


最愛の娘を守る者、である。








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異世界ブレス らんまる @ranmaru_poco

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