終章 〜未来へ〜
「せっかくここまで来たんだから、行ってみましょうよ。いつもと違う散歩道もいいんじゃない」
ゆかりの言葉に励まされて、僕らも丘を登ってみることにした。
まだ昼下がりだというのに、林の中に入った途端、空気がひんやりと冷たくなったのを感じる。薄暗い林の中をさらに登ると木々の間から見えたのは墓石だった。
「ここって……お墓?」
「みたいだね。あの人はどこに行ったんだろう?」
幾つも並んでいる墓石の一つにその人は立っていた。
白菊を供えて線香に火を灯すと、その人は墓前にかがみこんだ。手を合わせる横顔には深い悲しみが滲んでいた。きっと大切な人が眠っているのだろう。
その人は墓石を見つめたまま何かを語りかけているようだった。それに応えるかのように、風に吹かれた葉擦れがさやさやと囁きのような音を立てている。遠目からでもその人が泣いているのがわかった。
見てはいけないものを見てしまった。ゆかりも同じ思いなのか、僕らは無言のまま木の影に身を潜めていた。
その人が立ち去ったのを確かめてから、僕たちはその人がいた墓の前に立った。
ゆかりが墓石の脇にある墓碑を見て、「あっ」と声を上げた。
墓碑には、「圭介 享年二十歳 平成二十七年七月二十六日没」と刻まれていた。墓碑の文字がまだ新しい。
僕の手をつかんだあの人は確かに「圭介」と言っていた。若くして亡くなった息子の面影を僕に重ねていたのだろうか。でも、ゆかりが気になったのは彼の歳ではなかったらしい。
「見て。亡くなったのは、あなたが手術を受けた日だわ。こんな偶然って……」
ゆかりは偶然と言ったけど、たぶん、そうじゃない。心臓が早鐘のように鼓動を打っている。僕は確信していた。僕の体の中で脈打つ心臓。
これはきっと彼のものだ。
僕は幽霊なんてこれっぽっちも信じていない。インチキ霊能者なら「彼の霊魂がここに導いた」とでも言ったかもしれない。でも僕はそうは思わない。
ただ僕の中で鼓動しているこの心臓がもし本当に彼のものなのだとしたら、彼の記憶がこの心臓のどこかに刻まれているのかもしれない。
医師は荒唐無稽だと言っていたが、溢れ出す記憶の中に紛れ込んだ見知らぬ人や風景はもしかすると、彼の記憶かもしれない。
不思議な感情だった。でも不安も焦燥感も消えていた。思い出せなかったわけじゃなかった。むしろ知らない記憶が増えていたんじゃないか。そう思うと、何だかすっきりとした気分だった。
すべては僕の思い過ごしかもしれない。
彼がどうして亡くなったのか、僕にはわからない。本当に臓器提供をしたのか、僕の心臓が彼からもらったものなのか、確かめるすべはない。
それでも一つだけ確かなことがある。
もしも見知らぬ誰かの死がなければ、その誰かが僕に心臓をくれなければ、僕は今ごろ土の下に埋もれて長い眠りについていたことだろう。
僕は無言のまま彼の墓に手を合わせた。
ゆかりも僕の横で静かに手を合わせている。
帰り道、黙り込んで歩いていた僕の手をゆかりがそっと握った。僕は力を込めて強くゆかりの手を握り返した。
「何を考えてるの?」
「色々とね」
「もしかして、あの子に悪いことをしたなんて思ってないわよね? だったら……」
「いや、そうじゃないよ」
僕の目をのぞき込んだゆかりは、今にも泣きそうな表情を浮かべている。僕はゆかりの肩に手をのせた。
「ほんとにそうじゃないんだ」
それでもゆかりは不安そうだった。僕はゆかりの手を引いて歩き出した。今の感情をゆかりにうまく説明する自信はなかった。
「手術の前と後、僕は変わってしまったと思う?」
「わからないわ。でも、あなたはあなたなんだもの。私にとってはそれだけよ」
「不安にならないの?」
僕の質問にゆかりは立ち止まって、大きく頭を振った。
「不安じゃないわ。もし手術を受けなければ、記憶は失くさなかったかもしれないけど、今こうして一緒にいられたかどうかはわからなかった。私ね、あなたが手術を受けるまでは、いつも怖かったの。急にあなたがいなくなるんじゃないかって……。その頃の不安と比べたら、今はずっと幸せ」
彼女の言う通りだ。それでも聞かずにいられなかった。
「今の僕は、ゆかりの好きだった僕じゃないかもしれない。それでもいいの?」
返事に困るだろうと思っていたけど、僕の予想は見事に裏切られた。ゆかりは困るどころか、くすくすっと笑い出した。
「当然じゃない。記憶があっても、人は変わるもの。これからうんと歳をとれば、見た目だって変わるし、考え方だってきっと変わる。そんなことくらいで、あなたを嫌いになるようなら、最初から結婚なんてしてないわ」
「よぼよぼのおじいさんでもいいってことか」
「もちろん。その頃には、きっと私もよぼよぼのおばあさんだけどね」
楽しげに笑っている彼女の横顔を僕はそっと盗み見た。彼女はなんて強いんだろう。
それに比べて、僕は弱虫だ。
過去の自分を見つけなくては躍起になっていたのは、僕が僕じゃなくなることが怖かったのだ。
でも今はもう、そんなことはどうでもいい。
切れ切れの記憶の残滓の中に、僕自身は登場しない。でも考えてみれば、それは当然なのかもしれない。
浮かんでくる光景が、僕の目を通してみた記憶なら、僕自身はいつも撮影者なのだから。そして、その記憶の中に何が見えようとも、僕は『僕』だ。
この先も僕の過去の記憶はとっ散らかったままなのかもしれない。でも、過去に囚われる必要なんてない。
僕が今ここに確かに生きている、それが僕の現実だ。
今の僕ができることは目の前の現実を受け入れて、精一杯生きていくことだけだ。僕の命を繋いでくれた見知らぬ誰かも分も、今を生きる。
今を生きれば、新しい過去が生まれる。
過去の記憶がどうであっても、この先ちゃんと生きていくことがきっと大切なのだと僕は心から思った。
僕に心臓をくれた誰か。その人だってきっと、もっと生きていたかったはずだ。僕の中に残る記憶の残滓はきっとその誰かが生きた証なのだろう。
「帰ろうか。僕たちの家に」
僕はもう一度、ゆかりの手をぎゅっと握りしめた。丘の下には僕らが住む街並が広がっている。僕はゆかりと手をつないだまま歩き出した。この先の未来を創るために前を向いて歩いていこうと、僕は固く心に誓った。
記憶 楠木夢路 @yumeji_k
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