第四章

 自宅での生活は、思ったよりもずっと快適だった。

 僕の体はこの家をちゃんと知っているようだった。たとえ目をつぶっていても、僕は家の中を動き回ることができた。家の間取りも家具の配置も、僕の体は間違いなく覚えている。

 それなのに、記憶はあやふやなままで、日が経つにつれて、不安は大きくなるばかりだった。

 僕は誰だ。誰なんだ。

 夜中にふと目が覚めることもたびたびだった。夢の中では、確かに僕は『僕』なのに、目が覚めた途端、わからなくなってしまう。叫びだしたい衝動に何度も駆られた。それでも正気を保っていられたのは、ゆかりがいたからだった。

 ゆかりと一緒に生活することは楽しかった。食べるものも、見たいテレビ番組も、読みたい本も僕たちの好みはよく似ていた。もしかすると、ゆかりは僕の好みをよく知っていて、合わせくれているかもしれない。

 結婚生活はきっとうまく行っていたのだろう。

 時々、何気ない会話の中で「あなたはこっちの方が好みでしょう?」とゆかりは言った。僕の記憶を呼び覚まそうとしているゆかりの気持ちは嬉しいが、何となく洗脳されているみたいで、僕はそう言われるのが嫌だった。

 ゆかりには悪意なんてない。頭でわかっていても、深読みしてしまう。

 今の状況のせいで、こんなに疑い深い性格なのか、それとも、もともと僕の性格がねじ曲がっているのかは、やっぱりわからなかった。

「気晴らしに出かけましょうか」

 ゆかりはそう言って、毎日のように僕を買い物に誘った。僕たちは近くにある大型ショッピングモールに出かけることが多かった。ここには何でも揃っているし、散歩するにはちょうどいい距離だった。

 ゆかりは料理が好きらしく、生鮮食品を選ぶときはいつもより楽しそうだった。

「何が食べたい?」

 ゆかりがそう言うと、僕はいつも同じ返事をした。

「何でもいいよ」

 ゆかりの作る料理はどれもおいしかったし、そもそも僕は食べ物にはあまり好き嫌いがないらしい。僕がそう答えるたびに、ゆかりはころころと小気味の良い笑い声を立てた。

「そう言うところはちっとも変わらないのね」

 何気ない会話が心地いい。

「僕はずっと変わらないさ」

 心にもないことを言いながら、目の前に並べてある林檎に伸ばしかけたとき、皺だらけの小さな手が僕の手を捕えた。

僕もゆかりも一瞬、何が起こったのかわからなかった。僕の手を握っていたのは見知らぬ中年の女性だった。呆然としている僕の耳に小さな呟きが聞こえた。

「圭介……」

 その声を聞いた時、僕の中に不思議な感情が生まれた。僕はその声を知っている。そして、その手の温もりになぜか懐かしさを感じたのだ。

「あの、夫に何か用ですか?」

 ゆかりが僕を守るように、僕とその人の間に割り込んできた。ゆかりの顔を見たその人ははっと我に返ったように、僕の手を離し、慌てた様子で頭を下げた。

「ごめんなさい。そんなわけないのに……人違いでした。本当にごめんなさいね」

 その人は何度も「ごめんなさい」と言いながら頭を下げて、その場を去って行った。その後ろ姿から、僕は目を離すことができなかった。

「変な人ね。ねえ、もう行きましょうよ」

 ゆかりが僕の顔をのぞき込んだ。僕は反射的に首を振っていた。

「知っているんだ、あの人。そんな気がする」

 僕はあの人を知っている。あの声を、あの手の感触を、僕の体が記憶している。

「気のせい……じゃないの?」

 確かに気のせいかもしれない。あの人も『人違い』だと言っていたじゃないか。そう思いつつ、記憶のどこかに何かが引っかかっていた。

「わからない。でも……」

 僕は自分の右の手をじっと見つめた。強く握られた感覚がまだ残っている。懐かしいような、温かいような手の温もりだった。

「でも、僕の体はこの感覚を知っている気がするんだ」

 言っていることが支離滅裂だってことは自分でもわかっていたが、うまく言葉にしてゆかりに伝えることができなかった。

「行きましょう」

「行くってどこに?」

「追いかけましょう」

 ゆかりは僕の返事も聞かずに、走り出した。僕も慌てて後を追った。

 もしかしたら、意味のないことかもしれない。それでも僕らはきょろきょろと周りを見まわしながら、その人を探して店内を歩き回った。

 ふと、ゆかりが足をとめた。

「いたわ」

 ゆかりの指差した先にその人はいた。両手で白菊の花束を大事そうに抱えて、店を出ようとしている。

「仏壇にでも供えるのかしらね。ねえ、ついて行ってみない?」

 ゆかりに言われなくても、そのつもりだった。記憶が戻る手がかりになるのかどうかわからない。それでも僕はその人をこのまま見失ってはいけない気がした。

 僕らは距離を置いて、その人についていくことにした。

 その人はどこにでもいるような普通の中年のおばさんだった。少し丸くなりかけた背中が、年齢を感じさせる。わずかに右足を引きずるようにしながら、その人は駐車場を横切り、店の敷地を出た。そのまま真直ぐに、僕らの家とは反対の方向に歩いてゆく。

 この先は田畑が多い。僕たちが住んでいる新興住宅地と違って、田んぼの中に古い農家が点在している。田んぼのあぜ道を抜けると、おばさんは舗装されていない道を登り始めた。その先の丘は林になっている。

「この先に家なんて、あったのかしら?」

 ゆかりは首を傾げた。そんなことを聞かれても、僕にはわからない。

「さあ、どうだろうね。どうする? まだついていく?」

 本当のところ僕は自分の行動を馬鹿げていると思い始めていた。こっそり後をつけることに後ろめたさも感じていたし、自分の感覚にも自信がない。期待したってがっかりするに決まっている。

 ゆかりも迷っているようだった。僕らが追いかけていることなど、まったく気がつかない様子で、その人は林の中に砂利道をゆっくりと上っていく。そのうち斜面を上り切って見えなくなってしまった。

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