第三章
「何してるの、無理しちゃダメじゃない」
ふらふらと倒れかけた僕を、気がつくとゆかりが支えてくれていた。
「大丈夫? いったいどうしたのよ」
「いや、顔を洗っておこうと思ったんだ」
ゆかりは不審な顔をしながら、それでも僕の手を取って、ベッドに戻るよう促した。
「とにかく、こっちへ」
ベッドに戻った僕をゆかりは物言いたげに見ていた。でも、とてもじゃないが、話をする気分にはなれなかった。僕はベッドに横になるとすぐに目を閉じた。
僕は鏡の中の自分の顔を思い浮かべた。
面長の輪郭に、男の割には血の気のない色白の肌。切れ長というよりは締まりのない一重のまぶた。色も厚さも薄い唇。僕はこんな顔をしていただろうか。
記憶障害というのは僕が思っているよりも厄介なのかもしれない。自分の顔さえ覚えていないなんて、間抜けだとしか言いようがない。だからと言って「じゃあどんな顔なのか」と聞かれても思い浮かぶわけじゃない。だとしたら、鏡に映った自分を、目の前の事実を受け入れるしかないのだろう。
僕は大きく深呼吸をした。
そっと自分の胸に手を当てると、心臓が大きく鼓動を打っている。少し前まで見知らぬ人の体の中で脈打っていた心臓。今は確かに、僕のこの体の中で動いている。
この心臓の持ち主はどうしたのだろう。
いや、どうしてしまったのかなんてわかりきっている。死んでしまったのだ。持ち主が死んだから、この心臓はこうして僕の体の中にあるのだ。
僕の胸には手術をした証として、縦一直線に大きな傷が残っていた。服の中に手を入れて、その傷にそっと指を這わせてみる。指先に感じるぼこぼことした感触は、不思議と僕の気持ちを落ち着かせた。
この傷は病と戦い抜いて勝ち得た証、生きている証だ。どんなに記憶が不確かでも、僕は確かに生きている。
この傷は僕の命の証。
この心臓がかつては誰かのものだったとしても、今はもう僕の身体の一部になっている。
僕の記憶が曖昧だとしても、僕は今ここにいる。もっとずっと生きていたい、僕はそう思った。
そっと目を開けると、枕元にあるサイドテーブルに、ゆかりが花瓶を置いているところだった。前の花瓶は割れてしまったから、ゆかりが買ってきてくれたのだろう。
「……ごめん」
謝らずにいられなかったのは、花瓶のことなんかじゃなかったのに、ゆかりはふっと笑みを漏らした。
「あなたが謝ることなんてないわ。だって、私が割っちゃったんだもの」
そんなゆかりのことを僕は心から愛おしいと思う。
でもそう思っている今の僕は、ゆかりの好きだった僕とは違うのかもしれない。
僕はもう一度、目を閉じた。ゆかりの好きだった僕、その過去を思い出したかった。
記憶をたぐり寄せようとすると、ジグソーパズルのピースのような記憶の残滓が、ばらばらに浮かんでくる。ひとつひとつのピースには、映像と音と感情が、いっぱいに詰め込まれているのに、次々と浮かんでは消えてしまって、焦点を定めることができない。
音と映像の洪水の中にいる僕の耳に、ゆかりの優しい声が聞こえた。
「私はあなたがいてくれれば、それだけでいいのよ」
それは彼女の本心だろうか。本当に僕で、今の僕で彼女は満足しているんだろうか。
それから一週間が経って、僕は退院することになった。確かにリハビリは順調だったから、これ以上、病院にいる理由はない。でも、僕は憂鬱だった。
結婚を機に新居に引っ越したことは、ゆかりが話してくれたから知っている。でも知っていることと、それを現実だと受け入れることとでは、わけが違う。
ゆかりは家に帰れば、僕の記憶が戻ると信じているようだった。でも、僕は家に帰って、それでも何も思い出せなかったら、と思うと怖かったのだ。
自分の顔にも相変わらず、しっくりこないままだった。
ゆかりが運転する車に揺られながら、僕は窓の外を見ていた。窓の外を流れる風景は、実感を伴わない映画の場面みたいで、僕の記憶を呼び覚ますことはなかった。このままずっと家に着かなければいいのに、と僕は心から願った。
新興住宅街の中の細い路地を抜けた先、小さな一軒家の前でゆかりは車を停めた。期待を込めたゆかりの視線に気がつかないふりをして、僕は車を降りた。
玄関の前に立つと、不意に安堵感を覚えた。可愛らしい書体の表札には見覚えがある気がする。
ゆかりが玄関の扉を大きく開いた。この扉の向こうには、きっと幸せな未来が待っているはずだ。
「お帰りなさい」
ゆかりが僕の手を引いて家の中へと導いてくれる。僕はゆかりの手をぎゅっと握り返した。
「ただいま」
僕は自分自身に言い聞かせるように呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます