第二章

 僕の体は順調に回復に向かっていたらしい。

 ひと月近く意識を失っていた間に、手術の傷そのものはすっかり塞がっていた。

「あとは体力をつけるだけですね」

 医者は豪快に笑ったが、僕はのんきに笑ってなどいられなかった。記憶は相変わらずあいまいなままだったし、違和感は日に日に強くなるばかりだった。

 何よりも何か大切なことを忘れてしまっている気がするのに、それが何なのか、どうしても思い出せない。そのことがもどかしかった。

 ふと何かを思い出せそうな気がするのに、その記憶を捕まえようとすると、脈絡のない映像が押し寄せてくる。どれも見覚えがある場面なのに、自分の記憶だと確信することができない。

 言葉には支障がなかったし、物の認識もちゃんとできている。それなのに、自分のこととなるとてんでダメだった。そんな状態に、僕はすっかり打ちのめされていた。

 僕は誰だ。僕は本当に僕なのか。

 自分が自分でなくなってしまったようで、ひとりになると不安で叫びだしたくなった。

 それでも、平静を装っていたのは、目を覚ましてからずっと献身的に世話をしてくれている彼女のためだった。

 彼女は、何も覚えてもいなかった僕を一言だって責めることはなかった。不安げな様子さえ見せない。

 でも僕は、彼女の涙が忘れられなかった。彼女が平気なわけがない。それでも健気に振る舞う彼女のことを思うと、僕だけが泣き言をいうわけにはいかない。

 僕の名前を教えてくれたのも彼女だった。

「あなたの名前は、桜井貴志。わたしはゆかり、桜井ゆかりっていうの」

 はにかんで微笑む彼女を見ていると、僕らは幸せだったんだなと素直にそう思う。

 毎朝、ゆかりはベッドの上で僕を着替えさせ、髪をとき、髭を剃ってくれた。温かいタオルで体も拭いてくれた。その様子が手慣れていたから、僕が眠っている間もずっとそばにいてくれたことは容易に想像がついた。

 ゆかりを見ていると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。このままではいけない、ゆかりのことを思い出さなければ……。でも、それだけじゃない。僕自身が何より、彼女と過ごした時間を思い出したい、そう思うようになっていた。

 目覚めてから五日目の朝、医者が回診に来た時、ゆかりはまだ病室に顔を見せていなかった。僕は部屋を出ていこうとした医者を引き留めた。

「先生、僕はどうしてしまったんでしょう。相変わらず違和感はなくならないし、記憶も混濁しているんですが、移植したことと何か関係があるんでしょうか」

 医者は少し迷った様子で、こう切り出した。

「移植をした方の中には、まれに性格や体質、あるいは嗜好が変わったという方がいることは事実です。ただ桜井さんのように記憶障害というのは初めてのケースなんで、私も何といっていいのか……」

「確か角膜手術をした人が、見えるはずのないものを見るようになってしまったっていう映画を見た覚えがあります。移植した角膜が以前に見ていたものが見える、実際にそういうことは起こり得るんでしょうか?」

「記憶を司るのは脳の一部です。桜井さんのように心臓の手術をして、記憶に影響が残ることは、私としてはちょっと考えられないですね。昔、体の細胞の一つ一つが記憶に関わっているという説を唱える方もいましたが、医学的に言えば、荒唐無稽な話だし、私はその説には疑問を感じています」

 時間が経てば、記憶が甦るのだろうか。そうすれば、ゆかりのこともちゃんと思い出すのだろうか。考え込んでしまった僕を見て、医師はまた明るい声を出した。

「きっと一時的なものですよ。もしかしたら、無意識のうちに、移植して臓器提供を受けたことに罪悪感を覚えているのかもしれません。あまり神経質になるのは逆効果ですよ。体はもう心配なさそうなので、リハビリでも始めましょう。体を動かしているうちに慣れてきて、きっと違和感はなくなりますよ」

 僕が頷くと、医者は看護士に点滴を抜くように指示を出した。 看護士が点滴の管を抜くのを見ながら、僕はやっと自由になれると嬉しくなった。

「あとで作業療法士に来るように言っておきます。それまではベッドでそのまま待っていてくださいね。筋力がかなり落ちていますから、勝手に動いちゃダメですよ」

「わかりました」

 浮足立つ気持ちをおさえて、僕が神妙な顔で頷くと、医師は満足そうな顔で部屋を出ていった。それを見届けるとすぐに、僕はベッドを抜け出した。

 部屋にはトイレと洗面所が設置されている。少しふらつきながらもなんとか洗面台まで辿りついた。目が覚めてからずっと、僕は自分の顔を見たくて仕方なかった。自分の姿を見れば記憶を呼び起こすきっかけになる。

 鏡を覗きこんだ瞬間、期待は絶望に変わった。

 これは誰だ? これが僕……なのか?

 鏡に映っていた自分には見覚えがなかった。ガラガラと音を立てて、足元が崩れ落ちるような気分だった。

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