記憶

楠木夢路

第一章

 気がつくと、僕は見知らぬ場所にいた。

 見覚えのない真っ白な天井と真っ白な壁。白いシーツのかかった布団にくるまれて、僕は目を覚ました。

 ついさっきまで夢を見ていた。

 とても大切な夢だった気がするのに、続きがどうしても思い出せない。もどかしさと同時に頭痛がして、目を閉じると猛烈な眠気に襲われた。

 夢の続きに戻りかけた瞬間、ガチャンと大きな音がして、再び現実の世界に引き戻された。

 音のした先に一人の女性が立っていた。

 彼女の足元には割れたガラスの破片と花が散らばっている。でも彼女はただ真直ぐに僕を見つめていた。

 聞きたいことはたくさんあったけれど、僕はその言葉を飲み込んだ。彼女の視線の強さに圧倒されたから。彼女は大きく目を見開いていた。目の縁には涙が溜まっていて今にも溢れてしまいそうだった。

 泣き出してしまうんじゃないかと思っていると、不意に彼女は裾を翻して、部屋を飛び出していってしまった。

 僕は彼女を知っていた。確かに見覚えがある。だけど頭がぼんやりしていて誰なのか思い出せない。

 夢の世界に戻ることは諦めて、体を起こそうとしたが、鉛のように重くて思うように動けない。自分の体じゃないような違和感があった。

 それでも何とか首を横に向けると、モニターが見えた。テレビドラマなんかで見たことがある。たぶん、心電図のモニターだ。左腕には点滴の管が繋がっている。指先を少し動かすと、人差し指の先には白い洗濯バサミのようなものがつけられている。理由はわからないが、ここが病院だということは間違いないだろう。

 自由が利く右手をゆっくりと動かしながら、自分の体を入念にチェックしていく。

 どうやら頭は無事らしい。顔にそっと手をやると、鼻にも管が入れられていた。やけに大げさな感じがするが、それほど重症だったのかもしれない。怪我をしたのか、それとも病気だったのか、それさえも思い出せなかった。

 布団を少しめくって、見覚えのないパジャマの胸元にそっと手を入れると、ミミズ腫れの大きな傷跡があった。その傷を見ようと布団を大きくめくったとき、部屋の入り口が開いて、人影が現れた。

 最初に部屋に入ってきたのは、医者らしい背の高い男だった。その後ろから看護士が数人。看護士に混じって、彼女の姿も見える。

 医師は僕の体をチェックしてから僕に言った。

「気分はどうですか」

「僕はいったい、どうしてここに?」

「移植手術は成功しました」

「移植……?」

「ええ。覚えていないんですか。心臓移植の手術をしたんです。手術は成功しましたが、麻酔が切れてもどういう訳か、なかなか意識が戻らなかったんです」

 そう言われれば……そうだった気がする。

 そうだ、僕には生まれつき心臓に欠陥があった。健康な体を手に入れるには移植手術しかない。誰かにそんなことを言われた記憶が確かにある。でも、どうしてそんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。

 でも、それだけじゃない。もっと、もっと大切なことも忘れてしまった気がする。

 それが何だったのか、思い出そうと目を閉じた瞬間、切れ切れの映像が次々と浮かんできた。まるで、ありったけの写真をいっぺんにぶちまけたみたいだ。おまけに、言葉にならないたくさんの音が頭の中でこだまして、僕はパニック状態に陥ってしまった。

 音と映像の波で、溺れそうになっていた僕の思考を遮ったのは、彼女の声だった。

「貴志……。良かった、ほんとに良かった」

 目を開くと、彼女がベッドの脇でぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。そんな彼女を僕は黙って見つめ返した。記憶のかけらの中に、確かに彼女は存在している。でも彼女が誰なのかわからない。

 彼女は僕に近付いた。そして僕の手をそっと握った。彼女の手の温もりを僕の体は確かに覚えているのに、それが本当に僕の記憶なのか、僕にはよくわからない。

 僕はきっと彼女の手を握り返すべきなんだろう。でも、できなかった。僕には彼女がわからない。

 迷った挙句、僕は彼女に問いかけた。

「君は誰……? ごめん、思い出せないんだ」

 僕の言葉に、彼女の表情が一瞬にして凍りついた。

 彼女はゆっくりと顔をあげて、何も言わず強張ったままの顔で僕をじっと見つめた。頬には涙の跡がくっきりとついている。言ってはいけないことを言ってしまった。そんな後悔と罪悪感で、僕は気まずくなった。

 唇を噛みしめて黙り込んでしまった彼女の視線から逃れるように僕は医者を見ると、医者は困惑した様子で、僕の目を見つめ返した。

「この人はあなたの奥さんです。覚えてませんか?」

 僕は曖昧に頷くしかなかった。医者は首を傾げた。

「きっと、まだ意識が混濁しているんでしょう。もう少し休んだら、思い出すかもしれませんよ」

 医者は彼女の肩に軽く手をのせて、外に出るように促した。彼女はこくりと頷いて、立ち上がった。

 部屋を出ていくときに振り向いた彼女の顔を見て、僕は胸が痛んだ。でもそれが心の痛みなのか、それとも体の痛みなのかよくわからなかった。

 一人になって真っ白な天井を見ながら、僕は今の会話を反芻してみた。考えることはたくさんあった。いや、思い出すべきこと……か。急に頭をフル回転させたせいかもしれない。

 考えていたつもりが、いつの間にか、眠りの中に引きずり込まれていく。

 意識が闇の中に墜ちていく瞬間、そう言えば割れたガラスはどうなったのだろうと変なことが気になっていた。


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