第37話 エビスのいた海岸で

 半年後。

 大間 巨安の公判が始まった。

 矢磯が想像するに、大間は本気で町に腰を据えるつもりはなかったろう。警察の裏をかいて実家にでも数日潜伏し、それから海外に高飛び……そんな絵を目論んでいたと彼は思っている。

 想像といえば。礼美が、奏太の独自調査として語った黒銀町と夜木聖町におけるエビスの扱われかたは、本当に彼自身の調査成果なのだろうか。巨安がそんな調査などするはずがないから、奏太でないとしたら礼美しかいない。彼女は彼女なりに、第三者に振りまわされてばかりな人生のなかで、わずかなりと反撃を試みたかったのかもしれない。ただ、まちがっていたらいやだろうし、あの段階ですでに奏太は死んでいた。だから、奏太の手柄ということにしておいて、誤りであれば故人のせいにできるし、正しければ『実は自分と父の共同調査だった』とでも主張できる。どのみち解明のしようがない。

 さておき、いまでも矢磯は個人運輸と逃がし屋で二足のわらじだ。

 さんざん心配した割には、ズボンの尻ポケットに収めたビニール袋といいスマホのデータといい、あっさりと処理できた。

 そもそも、大間は、国際結婚詐欺組織を一網打尽にする重要な足がかりだった。あの警官が述べたとおりに。警察が血眼になって追っていたのは、その方向性である。『一介のフリージャーナリスト』……つまり矢磯には、組織が壊滅するまで一切の公表を禁ずると釘を刺せばよかった。矢磯にも、その気はまったくなかった。スマホが動画モードになっていたことさえ、警察は気づかないままだった。

 各種の負傷そのものは、矢磯が国保を用いて自腹で治した。やろうと思えば大間に治療費を……慰謝料を含め……請求することもできた。しかし、それは実行しなかった。つまらない欲は身を滅ぼす。今回の件で、まさに他山の石とするところだ。

 矢磯は、警察から入念な聞きとりを受けはした。車も一定期間預けねばならなかった。しかし、それらはごく穏やかで丁重な雰囲気を保って進められた。あくまで彼は、大間の犯罪に巻きこまれただけの被害者だ。しかも、人質になってまで逮捕の一助を果たした。あの警官が、陰に陽に関係各所へ矢磯のために一言配慮してくれたことは容易に理解できた。

 警察病院で、腕の負傷を治された大間は、本格的な取りしらべに直面した。礼美の説明にたがわず、大間の両親が和辻の両親の溺死体から金品をネコババしたのは、事実と認定された。

 ただ、大間水産は、縁故に頼らず広く日本全国から志のある社員を募ったそうだ。少しばかり無理をしてでも多くの雇用を維持したのは、新たな人材の力で夜木聖町の発展に尽くしたかったかららしい。もっとも、奏太の着服を告訴しなかった……むしろ隠蔽したのは、自分達の所業からくるうしろめたさにほかならない。告訴したが最後、結局は自分達のネコババが露呈する。

 大間が、厳密には大間 巨安が、奏太の犯罪を知ったのは自分の両親が自殺する数日前になる。彼の両親は、奏太の犯罪は伝えても、自分達のそれは黙ったまま自殺した。そんな巨安の人生が歪むのは当然のなりゆきだ。

 蛇足ながら、ジェントルローズの店長が脱税した金をためこんでいたのも明るみにでた。店長は莫大な追徴金を支払わされ、店員にも愛想を尽かされた。かくて同店は、大間の公判が始まる一ヶ月ほど前に破産となった。

 旅館『松空』は、名物料理をぶち壊しにされて経営危機に陥った。しかし、父の部下として転職した地野の息子が必死になってほうぼうに頭をさげ、かろうじて建てなおした。彼のストーカー行為を知る者は、もはや矢磯しかいない。むろん、彼は毛ほども暴露するつもりはない。

 久しぶりの休日を、矢磯は夜木聖町の海岸で味わっていた。ここに和辻の両親の溺死体が漂着したことで、すべてがはじまった。

 エビス。海から福をもたらす神。溺死体をそれと同一視する素朴な信仰は、じつに皮肉な過程をへて苦い結末となった。唯一の救いは、国際犯罪の追及にまとまった手がかりができたことだ。それは、専門家が熱心に果たすにちがいない。

 いまさら洞窟探検をするつもりはない。ただ、亡くなった人々への弔意を心の中で意識していた。花束など捧げると、ゴミになって迷惑になる。それに、とってつけたようなことをしても白々しい。

 昼さがりの海は、ときおりカモメが鳴くのもあいまって、平和で清々しかった。

「こんにちは。またお会いしましたね」

「うわっ」

 背後からかけられた挨拶に、感傷が一気に吹きとんだ。振りむくと、あの警官だった。

「よっぽどここが気にいったんですか?」

 かつての険しさや、張りつめた厳しさなど微塵もない。

「いやあ、洞窟の絵馬だけ気になって。もっとも、いまさら冒険するつもりはありませんが」

 快活に、矢磯は答えた。

鳥木とりき 彩絵さえ。私の名前です」

 つまりST。緩い潮風が、彼女の髪を少しだけ浮きたたせた。

「失礼ながら、あなたの名前はもう存じています」

 自己紹介しかけた矢磯に、鳥木は先回りした。

「そういえばそうでしたね。あー、その……。絵馬の願かけ、残念でしたね」

 矢磯の台詞はいやみではなく、彼女への気づかいだった。

「私と彼は、同級生の幼なじみでした。よく、近所の防波堤で釣りをしたりカニをとったりして」

 懐かしくもほろ苦い、彼女の回想は、波に漂って消えた。

「彼は、夜逃げしてからも、住所を隠して手紙をくれていたんです。それで、大間水産を襲った犯罪を知りました」

 淡々と説明しつつ、ふたたび吹いた風に、彼女は髪を左手で押さえた。

「私は、優しくて親切だった彼の両親が好きでした。彼との思い出も大事にしていました。だから……キャリア組の警官になったんです」

「交番勤務からではラチが開かないと思ったんですね」

「そうです。でも、私に下命されたのはご承知のとおりの捜査でした」

「最後に追いついてくださって、助かりました」

「いえ、仕事ですから。でも、これで左遷させられそうです」

「え? どうしてですか?」

「地元県警との連携を無視した独断専行と、人質の負傷とです」

「でも、それは……。そうしないと犯人の逮捕にならなかったじゃないですか」

「警察で問われるのは、常に結果だけですから」

 台詞とは裏腹に、彼女はさっぱりしていた。やれるだけのことはやれた、とその表情が物語っていた。

「左遷って……どこにいくんです?」

「さあ。まだ内示はありません」

「……」

「観光旅行、楽しんでくださいね。さようなら」

「あ、はぁ、どうも」

 どうにも気が利かない返事に、鳥木はにこっと笑ってきびすを返した。

 彼女の後ろ姿を見送りながら、矢磯はスマホをだした。猫波アプリを聞きながら、ぼうっと水平線を眺め続けた。


              おわり

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処刑場のエビス マスケッター @Oddjoh

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