第15話 岩燕、晴天を飛ぶ

 驚くべきことに、先生の家に警察が来ることは、ついぞなかった。

 私は先生の家から学校に通い、あるいは学校をサボってこそこそと実家に戻り、必要なもののいくつかを運び出したりしていたが、あれから母と遭遇することはただの一度もなかった。

 学校で教師に何かを言われることもなければ、警察や、親戚や、母ですら、私に連絡を寄越すことはなかった。本当に、ただの一度も。

 母は警察に通報しなかった。教師にも親戚にも、何も言わなかった。誰にも何も言わず、娘が出て行ってしまったことを自分の心の内だけに秘めて、誰にも悟られず、今まで通りの生活を送っていた。本当に?

 それが母の見栄なのか、プライドなのか、世間体のためなのか、はたまた現実逃避なのか。私にはわからなかったが、結局私は、誰にも見咎められず、誰にも掴まることなく、そのまま高校を卒業することになった。

 誰からも何の申告もなされたかったため、私は「阿原さん」のまま高校を卒業したし、卒業証書の氏名も「阿原柚里香」のままだった。本当は申告して訂正しなければいけないことはわかっていたが、なんとなく恐ろしくて、触れることができなかったのだ。

 結局私は、進学も就職も選ばなかった。とりあえず直近の一年間はフリーターでいることを選んだ。アルバイトでいくらかお金を稼ぎながら、外国語に強い専門学校や短大や、あるいは社会人向けのオンラインスクールなどについての情報を集めて、自分が今後どの道に進むかを考える。そして今年の冬に、進学か就職かをもう一度考える。

 先生は私のその案を、特別肯定も否定もしなかった。私の意志による選択であればどんなものでも応援する、と先生は言った。


 桜のおおよそが散ってしまった春の終わり、私は先生の家で荷造りをしながらぼんやりと考え事をしていた。

 新しい生活のこと。今後の人生のこと。恋愛とか、出産とかのこと。母のこと。希望と不安と恐怖が入り混じる、落ち着かない心持ちだった。

 私の隣で、同じように黙々と荷造りをしていた先生が不意に口を開いた。

「桜餅が食べたいですね」

 荷物の少ない先生の荷造りは、あっという間に終わりそうだった。

「去年もそんなこと言ってませんでしたっけ」

「春は桜餅を食べるものでしょう」

「なるほど……。終わったら買いに出かけますか?」

「そうですね。……どこか喫茶店にでも行きますか」

 喫茶店に桜餅があるだろうか、と考えたが、おそらく先生は甘いものが食べたいだけなのだろうな、と予想して頷く。

「いいですね。そうしましょう」

 一緒に暮らすようになってから、先生と私は極力外出を控えていたし、共に出掛けることもなかった。私が学校に行くタイミングと先生が買い物などで出かけるタイミングも必ずずらしていたし、それで何がどうなるかはわからなかったけれど、とにかく二人でどこかへ出かけるのはほとんど一年ぶりだった。

 まだぎりぎり春だというのにその日差しは既に強く、梅雨の前に初夏がやってくるのではないかという陽気だった。

 私と先生は並んで歩きながら、なんとなく、隣の先生を見上げた。

「手でも繋ぎますか?」

 先生は私の方に視線をやって、特に表情を変えることもなく答える。

「何故」

「夫婦なので」

「夫婦は……手を繋ぐものですか。別にそういう決まりはないでしょう」

「春には桜餅を食べないといけないという決まりもないですよ」

「…………」

 何も考えずに持ちかけた話だったのに、先生は案外真剣に考えたようだった。数秒の沈黙ののち、先生が口を開く。

「友達同士で手を繋ぐことはありますか」

「うーん、女の子同士ならあるかもしれませんね」

「僕は男ですよ」

「まあ、はい、そうですね。……あの、冗談なので、いいですよ。冗談です」

 本当に繋いでくれるとは思っていなかったし、本気で繋ぎたいわけでもなかったが、真顔で拒絶されると少し傷付く。そして、そんな自分を子供みたいだと思った。

 成人して、結婚して、けれどそれで中身が劇的に変化するわけでもなく。

「僕は、そういったスキンシップが苦手なのですよ」

 だから、先生が何気なくそう言った時も、何かにぴんと気が付くこともできなかった。

「そうなんですか? 今まで恋人とかいなかったんですか」

「いたこともありますが、スキンシップができないので、別れることになりました」

 そこまで聞いてようやく、それが先生にとって重要な話だということに気が付いた。

「一人は寂しい、誰かといたいという気持ちはあるのに、どうしても近付きすぎると気持ち悪くなってしまうんです。触れたり、抱きしめ合ったり。僕はそういう、普通の人が普通にできることが、できない。だから人間関係も上手くいかない。けれど、死ぬまでずっと独りというのも……耐え難い」

 先生の穏やかな目が、私を見つめている。

「柚里香さんは丁度よかったんですよ」

 桜の花びらが何枚か、先生の肩に危うげに乗っている。

「素直で、何も知らなくて、僕と同じように孤独で、僕と同じように、誰かに助けを求めていた。そして、僕が差し出した手を、躊躇いなく握った。……何の疑いもなく」

「疑い、って……。別に、結婚は、お互いにメリットのある話でしたよね」

「未成年が何故結婚できないか、何故未成年との性行為が犯罪になるかご存じですか」

「えっ……。未成年は親の管理下にあるので、親の同意なしに、勝手なことをしてはいけないから、ですか」

「いいえ。未成年には、重大な決断ができるだけの、経験や、思考力や、慎重さや、リスク管理能力がないからですよ」

 先生は薄っすら笑っているように、思えた。

「あと数年後だったら、柚里香さんはおそらく、僕と結婚しようとは思わなかった。結婚しなくても、自分で選んで一人で生きていけることに気が付くから。けれど、追い立てられて、僕との結婚を選んだ。……僕は本当に簡単に、都合よく、触れたり抱きしめたりしなくてもいい、けれど独り身という立場から逃げられる、丁度いい伴侶を手に入れたのですよ」

 それがどういう話なのか。

 私には正直よくわからなかった。

 馬鹿にされているような気もしたが、どうにも先生の言い方からは、そういった棘は感じなかった。もしも棘があるとしたら、それは私に対してではなく、先生に対して向けられているものであるような気すらした。

「それは……良くないことなんでしょうか」

 ずっと疑問だった。中学生の頃から不思議だった。

 先生の目が凪いでいるのは。静かで、穏やかで、冷たくて、そこに居るはずなのに居ないように感じる、先生の眼差しの理由は。

「私が、数年後だったら先生と結婚しなかったかどうかは、わかりませんけど。でも、別に、そうだとしても……。良いのではないでしょうか。私たちは、お互いに、利用し合ったのだと思いますよ。だって、一人では生きていけない」

 それは、おそらく、果てのない寂しさだったのではないだろうか。

「駄目になったら、そのときにまた一緒に考えようと言ってくれたのは、先生ですよ」

「……もし、この先柚里香さんが僕と離婚したいと言うようになっても……僕は、同意しないかもしれませんよ」

「それならそれで、またその時に考えましょう」

「……一緒に?」

「一緒に」

 視線を合わせたまま、頷く。

 先生を取り巻く、孤独や、寂しさや、やるせなさや、罪悪感や、恐怖や不安を。わけ合えるのなら、わけ合いたいと思った。

「そうですか」

 先生はそう言って、小さく頷いた。

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春夏秋冬、迷子の僕たちは 伊津 薫 @garmy

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