第14話 山茶花さざめく
母に髪を引っ掴まれ、頭を叩かれ、背中を叩かれ、頬を張られて、それでもなんとか逃げ出した。靴も履かずに玄関から飛び出した。
走る、走る、走る。
人気のない暗闇を、冷え込む闇夜を、走る。振り返る余裕はない。
以前先生に出した手紙の、封筒に書かれた住所を事前に図書室の地図で確認しておいてよかった。そう遠くはなかった。走って、走って、母が通報して警察が駆けつけるより先に、先生の家へたどり着けると思った。
そして、警察が追ってきても大丈夫だ。今しがた、叩かれたばかりだという事実がある。でも、傷にはなっていないかもしれない。今の私を明るい場所で見て、どのくらいの痕があるのかはわからなかった。
それでも、警察が来るのは丁度よかった。こちらから警察を呼ぶ手段も考えていた。通報して、相談して、それを住民票の閲覧制限の足掛かりにできると思った。それらの措置は、この一年間、私が必死に調べ上げたものだった。
上手くいくかどうかはわからない。
でも、あと、三時間半。三時間半で、私は、十八歳になる。
自分で、自分の、したいことができる。
待ちわびた瞬間だった。
玄関チャイムでドアを開けた先生は、息を切らして噎せる私を、目を真ん丸にして見た。
「阿原さん。どうしたんですか」
「家を……、ゲホ、」
「とりあえず上がってください」
先生は片腕でドアを大きく開いて、私を中へ招き入れてくれた。
足の裏側が真っ黒になった靴下を脱いで、裸足で他人の家に上がっていいものかと一瞬躊躇った私に、先生は無言でスリッパを差し出した。来客用のものかもしれなかった。
「明日、学校まで迎えに行こうと思っていたのですが」
「…………、確かに、明日まで待てばよかったですね……」
今更ながら、そう思った。
別に今日、言わなければならない理由はなかったのだった。そして、三時間半以内にここに警察が来た場合、私は強制的に連れ戻されるかもしれなかったし、先生にも未成年を家に連れ込んだ男というレッテルが貼られるかもしれなかった。
「……か、帰ります」
「ええ……?」
回れ右する私の腕を、先生がやんわりと掴んだ。
「まあ、お茶でも飲んでいってください」
優しく、けれど有無を言わさないような雰囲気で、先生が私を引き留める。私は少し考えて、しかし疲労感のある頭では上手い返答が見つからず、無言で再度回れ右をした。
上がってすぐのダイニングキッチンは、物が少ない割にあまり広くは感じなかった。正面に見えるドアが、寝室に繋がるドアだろうかと予想する。
「手狭ですみませんね」
壁際の小さな冷蔵庫の扉を開けて、先生がペットボトルの麦茶を取り出した。シンプルな棚の小ぶりなグラスをもう片方の手に取り、それらがローテーブルの上にことんと置かれる。
「どうぞ、お座りください」
座椅子のようなソファのような中途半端なサイズの腰掛けを先生が指さした。遠慮なく座ると、それは思ったより柔らかく、心地が良かった。
「それで。どうされたんですか」
「あの……。結婚して、家を出ると、さっき母に伝えました。そしたら、激昂して、叩かれたので、逃げてきました」
「そうですか……。女の子でも、叩かれるものなんですね」
そう言いながら、先生がグラスに麦茶を注いでくれる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
先生はそう言って、壁掛けの時計に目をやった。
「あと三時間くらいですかね。お母様が警察に通報したとして、見つかりますかね」
「何も証拠を残していないので、どうですかね。見つかったとしても、暴力を振るわれて命の危険を感じたから逃げ出した、って言ったらなんとかなりませんかね。言ってる間に明日になりますよ」
「そうですね」
グラスに口を付ける。麦茶はひんやりとしていて、汗だくの私には丁度いい温度だった。
「明日からは、どうするおつもりですか?」
「ええと……、ここから、学校に、通いたいです」
「なるほど」
「……やっぱりご迷惑でしょうか」
「いえ、そんなことは。ただ、阿原さんが使用できる衣服や消耗品などが一切ないなと思いまして。……まあ、折角来ていただいたのですし、とりあえず婚姻届でも書きますか?」
先生は喫茶店の二件目へ誘うかのような気軽さでそう言って、ごそごそと書類を取り出した。
「明日に提出する予定だったと思うのですが、証人欄を記載してくれる人を誰も見つけられなくてですね。ですので、代行サービスに依頼をしたのですが、今日記入を完了させて、明日発送して、そうしたら明後日か明々後日に返送になると思うので、提出は最短でも十二月の一日になります」
「はあ」
「戸籍謄本の準備はありますか?」
「ないですが、コンビニで発行できるようにはしてあるので、明日にでも準備できると思います」
スウェットのポケットに入れっぱなしにしていた二つ折りの財布を取り出し、発行のためのカードがちゃんと入っているかの確認をする。ある。大丈夫だ。
「……もしかして、今、スマホを持っていますか?」
「家に置いてきましたよ。財布と鍵だけ、いつ出てきてもいいように部屋着のポケットに入れっぱなしにしていました」
「用意周到ですね」
「あれから、色々調べたんですよ。本当に色々」
「それはよく頑張りましたね。……警察がここに来ても来なくても、明日、お母様は学校で阿原さんを待ち伏せするかもしれませんね。もしかすると、高校へ自主退学を申請するかもしれません。本人の意志確認なしに自主退学になることはありませんが、強制退学となる可能性もゼロではありませんね」
「強制退学ですか……」
「妊娠したわけでもないですし、卒業も近いですし、学費の未納がない限りはないとは思いますが……あるとしても、自主退学勧告くらいでしょうか。ここ最近の成績はどうでしたか?」
「かなり良い方だったと思います」
「うーん、だとしたら大丈夫ですかね。学校の方針にもよるので何とも言えませんが、金銭面は最悪僕がなんとかするとして、後は警察沙汰になるほどの親子関係だということに学校側が理解を示してくれるかどうかですね。お母様の意見だけを一方的に信用することはないと思いますが……」
先生は顎に手を当てて考えながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ああ、戸籍謄本がないと記入しづらいですかね。今からコンビニに行きますか? すぐそこにあるので」
「そうですね……」
別に入籍日にこだわりはなかったが、こうなってしまったからには早めに籍を入れておきたい。今からコンビニに行って、戸籍謄本を発行して、帰ってきて婚姻届を記入して。それを役所に提出するのが十二月の一日か二日。悪くないと思った。
「そうしましょう」
言うが早いか、立ち上がる。先生も頷いて立ち上がり、私たちは共にコンビニに向かった。
「ああ、アイスの新作がある」
先生が嬉しそうにそう言ったから、そのアイスを二つ買って、いくつか購入した着替え用の下着と戸籍謄本と共に帰路につく。
冬本番に差し掛かる夜はしんと冷えていて、アイスは如何にも不似合いだった。六割ほど欠けた月が、私と先生をうっすらと照らす。
「……先生」
「はい」
アイスのことで頭がいっぱいらしい、微妙に上機嫌な先生がこちらを向いた。
「……ありがとうございます」
先生の目を見てそう言ったが、なんだか気恥ずかしくなって目線を下げた。
先生から借りた、ぶかぶかのサンダルが地面を叩いてぽこんと音を立てる。
「……前にも、そんなふうに、お礼を言われたことがありましたね。あの時は春でしたが」
「ああ、中学の卒業式ですか」
「はい。懐かしいですね。……あの時も、今と同じことを思った気がしますよ」
「何を思ったんですか?」
どうして先生が、ここまで私に良くしてくれるのかずっとわからなかった。
先生は恋愛感情ではないと言った。戦友であり、半身であると言ってくれた。けれど、そこまで思ってもらえるほどの何かを、私がしたとは思えなかったし、そんなふうな特別な何かを自分が持っているとは到底思えなかった。
私よりもずっと背が高い先生の、後頭部を月あかりが撫ぜている。
「こちらこそ、と」
その理由を、いつか聞いてみたいと思った。
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