第4章

第13話 神渡しの音

 高校三年生になった私は、成績を取り戻そうと必死で勉学に励んだ。毎日学校へ通うのは当然として、わからない部分ができた際、授業中に質問するのは難しかったけれど、休み時間に職員室を訪ねて担当教師に質問をした。それがどれほど初歩的な質問でも、簡単な問題の解法についてでも、わからないことはなんでも聞いた。何度でも聞いた。

 家で過ごすのが嫌だった私は、放課後も少し学校に残って、図書室で参考書を読んだり、問題集を解いたりした。同じ建物に何人も教師がいたから、いつでも質問ができる分、家でするよりも自習が捗った。位置情報が学校を示していれば、帰りが少し遅くなっても母は強くは怒らなかった。

 真剣に勉強をするようになって、気付いたことがある。

 少し前まではそれなりの成績を修めていた私は、難易度の高い問題以外はそこそこ解けていると自分では思っていたが、実はそんなことはなかった。私は、中学校の範囲ですら、わかっていない部分がところどころあった。難易度に関係なく、理解できている分野とできていない分野があって、それを自分で全く認識できていなかったのだ。

 教師には、「そんな基礎的なことすらわかってないの?」という態度を取られることもあった。そして私も、「こんなこともわかっていなかったの?」と自分自身に思った。それらのほとんどは、おそらく学校に通えていなかった頃の、中学校で習う事柄についてで、だから私はあまり落ち込まなかった。学べていなかったことが、わからないのは仕方がなかった。

 今、今から理解して覚えれば問題なかった。

 卒業までの、あと一年で。進みたいと思う分野が出た際に、最低限の選択肢が揃うくらいの学力を、私は身につけなければならなかったし。奨学金を借りたいのであれば、最低限では足りなかった。

 担任の教師には、看護学部のある大学を受験する予定だと伝えている。いくつか、具体的な大学名も告げてある。それらは全て、母が調べたものであり母の指示であったが、実際に大学に出願するのは冬になってからだ。それまでは、別にどういうことにしておいてもいいと思った。

 私の誕生日である、今年の十一月三十日までに、私は私の今後を決める。進学なのか就職なのか、家を出るのか出ないのか。とはいえ、看護学部に進まないとなれば、もう家にはいられないだろうと思った。体裁を気にする母が私を無理に追い出すことはないだろうが、今まで以上に、毎日嫌味を言われたり怒られたりすることになるだろう。そんなのはもう、うんざりだった。

 多分、私は、今年の冬に先生と結婚する。

 そして、進学するならその後で大学に出願し、しないなら就職先を探す。それと並行して先生と新居を探し、引っ越しの準備をして、来年の三月、卒業と同時に家を出る。

 そのために必要なこと。

 それは当然成績を上げることであったし、それまでに、母に自身の意向を伝えることであった。誕生日の直前、十一月に入ってからでいいと思っているが、私は母に、看護師にはならないこと、結婚すること、家を出ることを伝えなければならなかった。

 別に、黙って実行してもよかった。何も言わずに消息を絶ってもよかった。

 けれど、そうしてしまったら、きっと私は一生母から逃げ続けることになると思った。あの日私が母の背中を刺そうと思ったように、今度は母が、逃げる私の背を狙うことになるような気がした。

 だから、正面から、宣言する。

 母に対しては怒りも憎しみもあるが、だからといって、今まで育ててもらった恩がすべてなくなるわけではなかった。感謝していないというと、嘘になる。私は自分の意志で、自分の言葉で母に伝えなければならなかった。

 今までありがとう。そしてさよなら、と。

 先生には、そういった内容を手紙に書いて出した。返信が遅くなってしまったが、先生のことだから、きっと待っていてくれたと思う。それ以来、先生が私に直接会いに来ることはなく、手紙での連絡もなかった。十一月三十日まで、また、待ってくれるのだと思った。


 夏が過ぎて、秋が来て、模試での成績がどんどん上がっていって、志望校として提出していた看護系の大学でA判定が貰えるようになって、母が喜んで。私は自身が、語学が好きだということに気が付いた。

 外国語学部に進んで、ツアーガイドや、通訳や、翻訳家になるのもいいと思った。海外を自分で見て回るのも悪くないと思った。けれど、外国語は、わざわざ大学で専攻しなくても学べるとも思った。もちろん、時間とやる気と根気があることが前提ではあるが。

 フリーターとしてお金を稼ぎながら、外国語のスクールなどに短時間通って、外国語関連の資格を取るのも悪くない。

 そんなふうに色んなことを空想して過ごしていた、十一月の二十九日。私は何の前触れもなく、夕食後のリビングで、母に言葉を投げかける気持ちになった。心の準備は一年前からしていたから、手も震えなかったし、涙も出なかった。自分でも出所のわからない、軽やかな勢いが急に湧いて出た。

「お母さん」

「何?」

「私、明日の誕生日に、結婚しようと思う」

 そう、告げる。

 食器を洗っていた母の手が止まる。

「それで、卒業したら、家を出てその人と暮らそうと思ってる。大学に行くかどうかはまだ、はっきりとは決めてないけど、今後どうするかは、その人とも相談して決めるつもり」

 母の目を見ながら、落ち着いて、ゆっくりとそう言った。

 母は泡のついた手を水道水で流し、蛇口をひねって水を止め、手を拭いて、その場から動くことなく、黙って私の目を見つめた。全てを飲み込む、恐ろしい目だった。何度も、私を折った、眼差しだった。

「結婚って誰と? 去年会ってた男?」

「そう」

「どうやって連絡とってたの?」

「とってないし、会ってもないよ。知ってるでしょ。元々そういう話になってただけ」

 手紙のことがあったから半分は嘘だったが、それが本当かどうかは、お互いどうでもいいことだった。今この場では。

「何を吹き込まれたの?」

「何も」

「警察行こっか」

「行ってもいいけど、私、明日で成人だよ。もう青少年保護の条例には引っかからないし、そもそも真剣交際で性交渉なしだから、なんの犯罪にもならないよ」

「あんた自分が何言ってるかわかってるの? そんなの許されるわけないでしょ?」

「成人になるんだよ。誰に許されなくても大丈夫だよ。私は私の意志で、これからは自分のしたいことをする。この家は出ていくから、お母さんの援助は必要ないし、お金も何もいらない。大人として、自分で生きていくから」

「馬鹿じゃないの? あんたにそんなことができると思う? 今日の夕飯を作ったのは誰? 夕飯の洗い物をしたのは誰? あんたが今着てる服は、誰が買ったもので、誰に洗濯してもらったものなの? 自分のしたいことって何よ? まるでお母さんがしたくもないことをさせていたみたいに言うね? 一人じゃ何にもできない、自分の意志も何にもないから、お母さんが手伝って支えてあげてたんでしょ? 何を被害者ぶってるの? 頭おかしいんじゃないの?」

「だから、もう、自分の意志でできるって言ってるんだよ。料理も洗濯も自分でするよ。これからは」

「あんたにそんなことができるわけないでしょ」

「やってみなきゃわからない」

「わかるから言ってるの! 何が結婚よ! あんたみたいな世間のこと何も知らない餓鬼が! あんたみたいな頭の悪い奴は、精々男に好きに犯されて、子供でもできて、捨てられて、中絶費用もなく産んで、赤ちゃんポストとか使ったりするのよ! あんたみたいな奴が! それがわかってるから、心配してるお母さんの気持ちがわからないの!?」

 心配?

 今まで何度も何度も聞いてきたその言葉を、今初めて、滑稽だと思った。

「心配じゃないでしょ。お母さんは、私に、自分の思い通りに動いてほしいだけでしょ」

「そんなこと言ってない。お母さんはあんたのこと支配しようとかコントロールしようとか思ったことない。あんたが心配だから、不幸にならないように、あれこれ考えてやってるだけよ。なんでそれがわからないの? お母さんが、あんたを育てるのがどれだけ大変だったかわかる? あんた中学の時は学校も行かなくて、それでも服もご飯も文房具も与えてやってたでしょ? お金ってね、勝手に湧いて出るわけじゃないの。あんたを育てるのにどれだけお金がかかったかわかる? そのお金を稼ぐのに、どれだけ苦労したかわかる? よく、よくもそんなふうに、被害者みたいな顔ができるね?」

「別に被害者みたいな顔してないよ。育ててもらったことには感謝してる。でも、もう、必要ないから」

「よくもまあぬけぬけと……! あんた、人として終わってるね。最低の屑だね。育て方間違えたわ。ゴミ。クズ野郎。可哀想な子」

 それらも、何度も聞いてきた言葉だった。私が一緒に育ってきた、人格否定の言葉たちだった。

 なんとも思わなかった。もう、何とも。

 母、という名の人から出てきた、あまり意味のない音だった。受け取る必要はないと思った。そう、思わないと。

「そうだよ。お母さんが育てた」

 拳を握りしめ、絶対に泣くもんかと思って目を逸らさない。

「お母さんを捨てるの」

 母がそう言った。

「さようなら」

 私はそう返した。

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