かくれんぼ

鳥尾巻

紫陽花

 造り酒屋の軒先に提げられた緑の杉玉が新酒の季節の到来を告げていた。

 遠くに臨む山々にまだ雪の残る2月のある日、6歳になるみおは母の千寿ちずに連れられて、清見きよみ家の屋敷の門をくぐった。


「今日からここがあなたの家よ」

「母さま、父さまと兄さまはどこ?」


 物心つく前に父を亡くし、母と2人で生きてきた澪は、新しい父親と5歳年上の兄が出来ると聞いて、小さな胸を期待に膨らませていた。今日の為に新調した赤い蝶の着物も嬉しくてたまらない。肩までのおかっぱで眉の上で切り揃えた黒い前髪の下には、好奇心にあふれた丸い大きな目が煌めき、ふくふくとした頬は興奮に赤く染まっている。

 この酒蔵の大旦那の妻が亡くなり、澪の母が後添いとして入ることになったのだ。花街の娘達に三味や長唄などを教えることを生業としていた千寿を、大旦那である恭造きょうぞうが見初めたという話だが、出迎える奉公人たちの目が冷たいことに、まだ幼い澪は気付くことが出来なかった。

 造り酒屋は酒造りのみならず、古くから金融や流通、様々な業種を扱う豪商でもあった。元号は大正に変わり、自由恋愛なども謳われるようになったが、未亡人であっても女性の再婚は良しとされない時代である。地元の名家である清見家に嫁ぐことを、最初は断っていた千寿だが、澪の将来の為にもと熱心に口説かれ、漸く入籍の運びとなった。

 最初ははしゃいでいた澪だが、大きな庭園や家屋の佇まいに気圧され次第に口数も少なくなっていく。千寿の手を強く握り締め、俯いて歩いていると、目の前に黒い革靴の爪先が見えた。


「やあ、君が澪かい?」


 明朗に響く声に顔を上げ、その主を見た澪は、考えていた挨拶が全て頭から抜け落ちてしまった。

 学校の制服らしい黒い詰襟の上着に短い洋袴ズボンを身に着けた義兄は、艶やかな黒髪で目元の涼やかな麗しい少年だった。澪の丸い頬が更に赤らむ。澪は蚊の鳴くような声で答えた。


「……はい」

「あらあら、さっきまであんなに元気だったのに。ごめんなさいね、恭祐きょうすけさん」

「いいんですよ、お義母さん」

「まあ」


『お義母さん』と呼ばれたことに気を好くした千寿は、口元に手を当てて控えめに微笑む。恭祐は大人びた仕草で千寿に一礼し、澪に親しみを込めた眼差しを向けた。


「おいで、おうちの中を案内してあげる」


 差し出された手と母親の顔を交互に見つめ、どうしていいか分からないように立ち尽くす澪に、身を屈めた恭祐が優しく微笑みかける。


「妹が来るのを心待ちにしていたんだ。仲良くしてくれると嬉しいな」

「……うん」


 澪がおずおずと伸ばした指先を、恭祐はきゅっと握る。その瞬間、澪の胸に温かいものが込み上げた。幼い澪にはそれをなんと呼ぶのか分からなかったが、この綺麗な少年が兄となることがたまらなく嬉しいと感じていた。


 それからというもの、学校から帰った恭祐は、真っ先に澪のところに来て一緒に遊ぶようになった。宿題をしながら澪に文字を教えたり、学校であった面白い出来事などを話してくれる。天気の良い日は外に出て、2人で追いかけっこをしたりかくれんぼをして遊んだ。程なくして千寿の妊娠が判り、澪は来春には生まれてくる兄弟を楽しみにしていた。

 義父の恭造は澪に対して寛容ではあったが、酒造りの職人のいる蔵への出入りだけは禁じられていた。澪は母屋と蔵の間に植えられた紫陽花のまがきの傍に隠れるのが好きだった。

 紫陽花の萼弁は4枚になるものが多く「死」を連想させる為、庭に植えるのは縁起が悪いとされていたが、前妻の多恵が好んで植えさせていた。膨らみ始める前の小さながくが仲良く集まり、そこから色とりどりの毬のような花が開いていく。酒造りは主に冬に行われる為、今は人もまばらであるが、蔵に染みついた麹の甘い香りを風が運ぶ。澪は隠れていることも忘れ、まるで酒に酔ったようにこの世ともあの世とも云えない幻のような光景に見惚れていた。

 その時、屋敷に奉公している女中達の声と足音が聞こえてきて、澪は体を縮めた。後妻の子ということもあり、弱い立場である澪に、主人に見えないところで意地悪をする奉公人もいるのだ。数人の女中達が姦しくお喋りしながら澪の隠れている籬の傍を通り過ぎて行く。


「あの女、すっかり奥様気取りで図々しいもんだねえ」

「ほんと。どこの馬とも知れない出のくせに上品ぶっちゃって」

「あの澪って子も、誰が父親かわかりゃしないよ」

「恭祐坊ちゃんもいて、どのみち女は跡を継げる訳でもないし、次に男の子でも生まれたら、ほんとに要らない子だよ」

「でもさあ、あの噂ってほんとなのかい?」

「ああ、旦那様のねえ。あの女、奥様がご存命の時分から旦那様とねんごろだったんだろ? まあ、だとしてもあたしたちには関係のない話さ」 


 せかせかと足早に去る大人達のその後の会話はよく分からなかったが、「要らない子」という言葉が幼い澪の胸を抉った。毎日美味しいご飯を食べられて綺麗な着物を着せてもらって、恭祐にはこれ以上ない程優しくしてもらっている。だが、大好きな母を悪く云われるのは悲しかったし、自分はこの家のお荷物なのかもしれないという考えが、柔らかな心を傷めつける。

 降り出した雨にも気付かず、澪は涙を零しながら、その場に蹲って動けずにいた。


「澪、どうしたの?」


 探しに来た恭祐が、泣いている澪を見て慌てて駆け寄ってくる。


「兄さま……、澪はいらない子なのですか?」


 そぼ降る雨の中、着物の裾が汚れるのも構わずに、紫陽花の根元の泥の上にしゃがみ込んだみおは、声を殺して泣きながら小さな声で尋ねた。


「誰がそんなことを言ったんだ! 澪はこの世で一番大事な子だよ」


 すぐに抱き締めてくれた恭祐の胸は温かく、澪は小さくしゃくり上げながら顔を埋めた。恭祐の腕の中だけが澪の心を慰め、一番安心できる場所のように思えた。

 母屋に戻って黙って澪の頭を拭いていた恭祐は、ふと思い出したようにポケットの中を探った。


「そうだ、澪に渡すものがある」

「なあに?」

「少しじっとしておいで」


 澪が大人しくしていると、恭祐はポケットの中から取り出した髪飾りを真っ直ぐな黒髪に着ける。渡された手鏡を見ると、緑の紫陽花が耳の横にキラキラと輝いている。貴石をあしらい精巧に花を模した髪飾りは、子供の目でも高価なものだと分かる。


「わあ、紫陽花」

「これは僕の母さまの形見だよ。西洋の紫陽花でアナベルって云うんだ。澪は紫陽花が好きだろう?」

「うん。あなべる。綺麗な緑」

「これはエメラルドグリーンと云うのだよ」

「あめらるど?」

「ふふふ、エメラルドだよ。でも紫陽花だから『雨らるど』でもいいかもしれないね。良くないものを遠ざけ、幸せをもたらす石って云われているんだ。きっと澪を守ってくれるよ」


 澪は耳慣れない異国の言葉を使う恭祐を、すっかり感心した目で見つめる。兄さまは優しい上に物識りで賢い。しかし、そんな大切な物を自分が貰っていいのだろうかと不安になる。


「兄さま、だいじょうぶ? これほんとに澪がもらってもいいの? 父さまに怒られない?」

「大丈夫だよ。あの人は跡継ぎ以外の僕には興味がないからね。これを母に贈ったことも忘れているよ」


 にこにこと微笑んではいるが、その黒い瞳は冷たい光を保っている。常にない兄の様子に、澪は違和感を覚えながらも、子供らしい単純さで綺麗な髪飾りにすぐに夢中になる。


「大丈夫。僕がずっと守ってあげる」


 澪の細く艶やかな髪を手櫛で整えながら、仄暗い瞳をした恭祐がうっそりと呟く。澪を陰で苛めていた奉公人達が暇を出されたのは、その日からそう遠くない出来事であった。



 月日は流れ、澪は14歳になった。あれから生まれた弟の恭平は今年で7歳になる。やんちゃな盛りの可愛い弟の面倒を見るのは澪の楽しみでもある。女学校に通わせてもらってはいるが、勉強はさほど好きではないし、友達も多くはない。いつも勉強や遊びを教えてくれた兄は帝都の旧制高等学校の寮に入ってしまった。たくさんの土産を持って長い休みに帰ってきても、大抵は父親と難しい仕事の話をしていて、それが澪に構う余裕はないと云われているようで寂しい思いが募る。あの日恭祐に慰められはしたが、澪はあれ以来口数の少ない大人しい少女に成長していた。

 その日も女学校から帰ると、制服を着替える間もなく庭でかくれんぼをしようと云う恭平の誘いで、澪はお気に入りの紫陽花の傍に隠れていた。風に揺れる色を眺めながら座っていると、花の揺り籠に護られているような心地になる。

 それにしても誰も探しに来ない。幼い恭平は探すのに飽きて、女中にせがんでオヤツでも貰っているのだろうか。ぼんやりと花弁を眺めるうちに眠気を催した澪は、そのままうとうとと微睡み始めた。

 蔵の方で誰かの声がするのに気づいたのは、それから数分後のこと。何を言っているのかは分からないが、男性同士が激しく言い争う声に目を覚ます。緑の葉陰からそっと様子を伺っていると、蔵の中から恭祐が飛び出してくるのが見えた。

 澪は自分が寝惚けているのかと思った。休みは当分先のはずなのに、いつの間に帰って来たのだろう。近頃 麦酒ビールの売行きに客を取られ、清酒の売り上げが芳しくないことに、父も苛立っていた。そのことで呼びつけられたのだろうか。

 珍しく白い頬を紅潮させた恭祐が、急な動きで蔵の白壁を乱暴に殴りつける。そこまで激昂した兄を見るのは初めてで、澪は思わず小さな声を上げた。


「澪? そこにいるの?」

 

 僅かな声を拾って、恭祐は真っ直ぐに澪の隠れている紫陽花の元にやってきた。いつもなら揶揄うように「澪は本当に紫陽花が好きだね」と笑うはずなのに、恭祐の様子は違っていた。唇を強く結んだ恭祐に、まるで睨むように見下ろされ、澪は体を縮こまらせる。


「兄さま……? いつお帰りになったの? こわいお顔……」

「澪」


 一言名を呼んだ恭祐は、強い力で澪を引き寄せた。息が詰まるほどの抱擁に言葉が出ない。背も伸びて逞しくなった胸に顔を押し付けられ、そこから伝わる強く速い鼓動に、澪の胸も急速に高鳴り始めた。


「……兄さま、兄さま、くるしい」


 震えながら背中を叩く小さな手に、恭祐は我に返って少し腕の力を緩めた。しかし依然として腕は澪の体に回したまま離そうとしない。まるで溺れる者の必死さで彼女にしがみつく様は、澪を抱き締めながら縋っているようにも見えた。


「ごめんね。びっくりしたよね。あと少し……あと5分だけ」


 いつもは明朗快活で自信に満ち溢れた兄の弱弱しい声に、澪は胸の奥が絞られるような気がした。強張っていた体の力を抜き、おずおずとその広い背中に手を回した。


「おかえりなさい、兄さま」


 僅かな怯えを滲ませた声は震えていたが、懐かしい兄の匂いと体温に安心した澪はそっと目を閉じる。蔵に染みついた麹のような甘さと彼自身の若木のような香りに陶然としてしまう。


「澪はどこにもやらないからね」

「澪はどこかに行かされるのですか?」

「……大丈夫。兄さまが守ってあげる」


 額に唇の熱を感じる。あの日と同じ呟きの真意を量り兼ねて、澪はふわふわとした心地でぼんやりと頷いた。兄妹にしては近すぎる距離に気付いてはいたが、澪はまだ幼いふりをしてその温もりを感じていたかった。



 白無垢の美しい花嫁が三々九度の朱の盃に紅い唇をつける。隣に立つ夫となる男はそれをにこやかに見守る。盃を満たす酒は今年一番の出来だ。

 あれからすぐ父の恭造は原因不明の病で急逝きゅうせいし、その半月後、後を追うように千寿も儚くなった。急ぎ帝都から戻り、傾きかけた事業を立て直した恭祐は、今や名実ともに清見家の主である。結婚について親族にはあれこれ云われたが、そんなものはどうにでもなる。

 紫陽花の咲き乱れる境内を妻と並んで歩きながら、恭祐は万感の思いを込めて愛しい彼女の名前を呼んだ。


「澪。紫陽花が綺麗だね」


 15になったばかりの澪は幼げな風情を残したまま、角隠しの陰から恭祐に微笑み返す。

 恭造は事業の失敗を澪を嫁がせることによって取り返そうとしていた。身内と云えど使えるものは使う男だ。その冷徹さを嫌っていた恭祐だが、己の所業を鑑みれば父親のことをそしれはすまい。だが邪魔者はもういない。誰も知らなくていい。幼かった澪も一度聞いただけの真偽の怪しい噂を覚えてはいまい。

 どのみち不都合な秘密はすべて、あの紫陽花の根元にでも埋めてしまえばいいのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かくれんぼ 鳥尾巻 @toriokan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説