はじまり-7
ヴェルデがその家の前にたどり着いた時には、もうすっかり真夜中となっていた。
窓越しに灯りが点いているのが見えた。きっと彼はこの中にいる。だが、ヴェルデには戸を叩く勇気がなかった。
あんなことを言ってしまった、到底許されるはずがない。リヒトの優しさを分かっていても、どうしても過去のトラウマが邪魔をする。扉に手を伸ばしかけて、やめることを数度繰り返した。
疲れ切っていた彼は諦めて、軒下に座り込んだ。今晩はここで休もう。それくらいは、きっとあの方も容認してくださるはずだ。そう思いつつ、地べたで足を抱えてうずくまる。
その時だった。
どたどたと廊下を走る音がしたかと思うと、玄関扉が勢いよく開いた。リヒトが家の中から駆け出してくる。手には灯りのついたランタン。蒼白な顔をして何かを探している。
そして、二人の目が合った。
ヴェルデは慌てて姿勢を正そうとした。しかしそれよりも早く、リヒトは彼の胸へと飛び込んだ。
「ヴェルさん! よかった、戻ってきてくれて」
涙声でそう言いながら、リヒトはヴェルデをしっかりと抱きしめて離さなかった。
「心配したんだよ。道に迷ったかもとか、怪我をして歩けなくなっているかもとか、魔物に襲われたかもとか」
鼻をすすって、しゃくりあげるように声を上げる。
「もしかしたら、もうずっと遠くまで行ってしまって、二度と戻ってこないかも、とか」
肩を震わせるリヒトの、その背にヴェルデはそっと腕を回した。立場上相応しくなくとも、そうするべきだと感じたからだ。
しばらくそうしていたのち、リヒトは努めて明るく呼びかける。
「ほら、外は冷えるよ。早く家に入ろう」
腫れぼったい顔を上げて、ふにゃりと笑った。ヴェルデはそれを見て、切なげに胸を押さえる。鼓動はとうに落ち着いていた。
「さあ、おいで」
リヒトが右手を差し出す。ヴェルデは彼の手を取って立ち上がる。
二人はそうして家に帰った。
ヴェルデは久しく感じたことのない感情を覚えていた。失われた安息の地、願い焦がれてきた「帰るべき場所」を、彼は手に入れたのだった。
ふたりの家の扉はゆっくりと閉じた。しずかな夜半、柔らかな月光が、屋根の上に、手入れされた庭に、優しく降り注いでいた。
(続)
翡翠と若草 あおきひび @nobelu_hibikito
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