はじまり-6
ヴェルデは夜の森を走っていた。
行くあてなどない。しかし戻るわけにもいかない。
突き出た枝にシャツの裾が裂ける。木の根に蹴つまづいて転びそうになる。それでも足を止めることはできなかった。無我夢中で、先の見えない暗がりを駆けていく。
鼓動が早鐘を打っている。それはここまで走ってきたためのみではない。
彼の脳裏には、過去の光景が次々とフラッシュバックしていた。横暴な主人から逃げようとして、捕まってひどく鞭打たれたこと。呪具を作ることを強制され、逆らえば仲間の奴隷を殺すと脅されたこと。抵抗できないよう手足を縛られ、散々に痛めつけられたこと。
もし来た道を戻れば、あの時のようなことが起こる。本能に刻みつけられた恐怖が、彼に立ち止まることを許しはしない。
しかし、リヒトは。あの方は、今までの主人とは違う。温かい寝床に、美味しい食事。苦のない仕事。そしてあの、優しい微笑み。
そこまで考えて、彼はうめきながら首を振った。こんなことはありえない。こんな平穏さが、ずっと続くわけがない。
初めてあの家に来た日から、ヴェルデは内心に恐怖を抱えていた。リヒトの優しさには、何か裏があるかもしれない。親し気な態度で騙して、いつか自分に非道な仕打ちをする気でいるのではないか。彼はあんな顔をして、実はひどい悪人なのではないか。
いいや、違う。本当は分かっている。あれは心からの善意。嘘偽りのない親切心からの振る舞いだ。ただ、良い人であるというだけなのだ、あの方は。間違いなく。
それがかえって、彼を怯えさせるのだった。その温もりが、怖い。その思いやりが、恐ろしい。久しく受けたことのない「優しさ」が、彼を苦しめていた。
こんなものを、知ってしまったら。自分には、とても耐えられない。
ヴェルデはついに力尽きて、地面に膝をついた。下草に覆われた地面は柔らかく彼を受け止めて、森は涼やかな風に葉を鳴らしている。頭上には煌々と輝く満月があった。
一向に鳴りやまない鼓動の音が、彼を追い詰めていた。自分は、決して善き人ではない。命じられるままに魔力を行使し、何度も他者を傷つけ、損ない、時には、命をも奪った。
だから、あんな呪いを受けたのだ。当然の報いだった。そのはずだ。
今更、魔術を取り戻したところで、自分は。
「私は、ゆるされてはいけない、のに」
ようやく、ヴェルデは自分が泣いていることに気が付いた。涙はとめどなく流れ落ち、彼の悲しみと後悔が地に染み渡っていく。ひく、と喉を鳴らして、彼は静かに嗚咽した。
そうして数刻が過ぎた頃。
耳元で、葉擦れの音がさらさらと鳴っている。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。地に伏せていた身体を起こすと、信じがたい光景が彼の目に飛び込んでいた。
彼の寝ていた地面には、おびただしい量の植物が芽吹いていた。あちこちで色とりどりの野花が咲き乱れている。小さくも豊かな草原が、彼を中心として同心円状に広がっていた。
ヴェルデは直感した。これはマナが溢れたせいだ。失われた魔力が、戻ってきたのか? 彼はめまいを感じて頭を押さえた。
分からない、何も。今は、何を考えても仕方がない。
「……行かなければ」
彼の主人の元へ、戻らなければならない。彼は震える声で呟くと、踵を返して進み始めた。あの家へ。かすかに灯りが見える方角へと。
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