はじまり-5

 ヴェルデはリヒトを避けるようになった。

 リヒトが朝起きると、ダイニングに温かい朝食が準備してある。部屋の片隅には片付いた洗濯物。しかし彼の姿はない。

 気配を感じないわけではない、しかし仕事を終えた後はどこかリヒトの見えない場所で過ごしているようだった。

 昼間、リヒトが庭で植物の剪定をしていると、二階の窓から外を眺めるヴェルデが一瞬見えた。目が合うと彼は表情をゆがめて、さっとカーテンの奥に姿を消してしまった。

 リヒトは寂しげにうつむいて、土の上に散った枝葉を見つめていた。


 夜、書斎の机で日記を書く。今夜の食卓にもヴェルデは来なかった。あの後は一度廊下ですれ違ったきりで、その時も苦々しい顔をして無言で行ってしまった。

 書物で一杯の部屋は薄暗く、少しかび臭い。万年筆を走らせながら、その手がはたと止まった。深いため息をつきながら、リヒトは頭を抱えて机に突っ伏す。

「やっぱり、僕が間違ってたんだ」

 その目にはみるみるうちに涙が溜まって、日記のページをぽたりと濡らした。

「こんな僕に、誰かと一緒にいる資格なんて」

 月のない闇夜に、絞り出すような呟きがひとつ、溶けて消えていった。


………………


 あくる日の夕方、リヒトは庭の植物を採取しに行った。それは夕方の短い時間しか咲かない花で、しおれないうちに摘み取って成分を抽出する必要がある。小さな籐の籠を手に、いそいそと準備をして表に出た。

 庭には先客がいた。ヴェルデが庭の真ん中に立って、花壇の花をじっと見ていた。ちょうど花の咲いた、リヒトの目当てとしていた植物の前に、彼はいる。

 リヒトは一瞬迷ったが、意を決して彼の方へと歩み寄っていく。ヴェルデは草を踏む足音にすぐに気づいたが、そのまま立ち去るには間が悪かった。

 二人は真正面に相対する。沈む夕日が目に眩しい。それでもリヒトは気力をふり絞って、ヴェルデへと語りかけた。

「ごめんね、ヴェルさん」

 その気遣わしげな声音を聞いて、ヴェルデは怪訝そうに眉根を寄せた。

「ぼくがきっと、嫌なことをしちゃったんだよね。ごめん。でもね、信じてほしい。きみの望むことは何だってしてあげたいんだ」

 ひゅう、と喉が鳴る。彼の手指が震え始める。リヒトはそれに気が付いていない。

「だから、教えて。もし言いたいことがあるのなら……」

「恐れながら、申し上げます」

 言葉の慇懃さとは裏腹に、ヴェルデの声色は静かな怒気をはらんでいた。

「もし、私がここを出たいと言ったら、あなたはどうなさるおつもりですか」


 リヒトは目を見開いて言葉を失っている。当然だ、主に逆らった奴隷は罰を受ける。ヴェルデはそう思いつつ、この後受けるであろう暴言と折檻を待った。

 しかし、いくら待ってもそうはならなかった。リヒトは消え入りそうな声で、やっと一言声に出した。

「きみは……ここを出たいの」

 ヴェルデは絶句した。痛々しい沈黙が場を包む。西日が強く差して、逆光が彼らの輪郭を熔解させていく。

 先に耐え切れなくなったのはリヒトの方だった。視線を目の前の彼から外して、ローブの裾を掴んで下を向いた。苦しそうに息をしながら、口端をちょっと上げて笑った。ヴェルデはそれを見て、震える足で一歩後ずさりした。

「いいよ、行っても」


 リヒトが気が付いた時には、もうヴェルデの姿は無かった。門扉は大きく開け放たれ、蝶番がきいきいと虚しく音を立てていた。

 森の木々の奥へと、日が沈んでいく。遥か東の空から、じわりと夜が近づいてくる。

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