はじまり-4
晴れた空の下、白いシャツが風にはためいている。
洗濯物を干す手を止めて、ヴェルデはふと空を見上げた。青く澄み渡った空とは裏腹に、彼の表情は曇っている。
「ヴェルさん、ご苦労様」
背後から声がかかり、ヴェルデは思わずびくりとしてそちらを振り向いた。彼の主人であるリヒトが、両手に冷たい水入り瓶を持って立っていた。その片方を差し出しながら彼を労った。
「はい、これ。今日は暑いから」
「頂戴いたします」
ヴェルデは恭しく受け取ると、栓を開けずにリヒトの方を窺っている。
「どうしたの? ヴェルさん、飲まないの」
「主様より先には口にできません」
リヒトは口先を尖らせて彼を急かした。
「もー。そんな固いこと言わずに、さぁさぁ」
ヴェルデは手にした水瓶とリヒトの方を交互に見やりながら、おずおずと栓を開けた。それを見て、リヒトは嬉しそうに冷水をごくごくと飲み干す。
「ぷはぁ、美味しいねぇ、ヴェルさん」
彼は何か言いたげに視線を彷徨わせていたが、やがて控えめにため息をつくと、
「はい、美味しい、です」
そう答えた。その表情は固く張り詰めている。
リヒトはそんな彼の様子には気づかずに、干されたシャツが風に踊るのを眺めている。機嫌良さそうに口笛など吹いて。
そんな主人を見つめる獣人の目に、何か昏いものが一瞬よぎった。森はそんな彼らを見下ろして、ざわざわと枝葉を鳴らしていた。
…………
リヒトは探し物をしていた。
「うーん、どこ行っちゃったんだろう」
机の下にかがみ込んだり、棚の隙間に手を突っ込んだり、書物の山を漁ったり。あちこち見て回ったが、一向に見つかる様子はない。
彼が探していたのは魔術触媒に使う宝石だった。今日の実験の素材にするつもりだったのに、いったいどこに紛れてしまったのだろう。
リヒトは「そうだ」と声をあげると、腰のベルトから短杖を取り出した。根元に小さな輝石の付いた、魔法の杖だ。
彼は杖を片手で持ち、中空に紋様を描いていく。それは次第に光を帯びていき、金色の輝きがほとばしる。
リヒトは目を閉じて集中している。紋様から金糸のようなマナの流れが延びていく。その様子をイメージしながら、彼の求める物品への道筋を辿っていく。そして経路は繋がって、リヒトはぱっと目を開けた。
「見つけた!」
彼は壁に掛かった袋を開けると、中を探って一つの宝石を取り出した。香草を入れる袋だったが、買ってきた時に紛れ込んでしまったらしい。
「よかったぁ、これで実験ができるよ」
その時、先ほどの魔法陣が明滅し始めた。魔力を感知したようだ。彼は不思議に思ったが、再び杖を手にして集中し、魔力の出どころを探っていく。
それはすぐに見つかった。しかし、それは全く予想外の、しかも良くない性質のもので。
「ヴェルさん。どうしたの、ソレ」
長箒を手にしたヴェルデが、部屋の入り口に佇んでいる。掃除に入ったようだったが、リヒトの問いにひどく狼狽していた。
魔力を放っていたのはヴェルデ自身だった。その上、マナの流れはどす黒い淀みのように、彼に染み付き纏わりついている。これは、どう見たって。
「……呪われてる。ヴェルさん、どこでそれを」
リヒトはヴェルデの元に駆け寄って、その身体をぺたぺたと確かめた。
「うん、きっと解呪は難しくない。すぐに正常な魔力を取り戻せるはず……」
小さな手が彼の胸板に触れる、その刹那、激しく乱れた鼓動が伝わってきた。リヒトは虚を突かれて後ずさる。
「あっ、ご、ごめん。驚かせちゃったよね」
しかしそれ以上に、彼には気になることがあった。ヴェルデに触れたとき、ある不思議な感覚があったのだ。この感じには、覚えがある。意を決して、目の前の大きな彼へと尋ねる。
「ヴェルさん、もしかして、もともと魔術師だった……とか」
その時。不意に大きな音がして、リヒトは身をすくめた。数瞬遅れて、ヴェルデが箒を床に叩きつけたことを理解する。
獣人の彼は、喉を鳴らして低く唸っていた。それは彼が初めて主人に見せた、苛立ちの表情で。
「主様」
「な、なに。どうしたの」
「……呪いは、解く必要などありません。これは当然の報いですから。魔術はもはや不要です。私には、過ぎた力だったのです」
苦しげにうめきながら、吐き捨てるように呟いた。
「あなたのその魔術だって、何の役に立ちましょうか」
彼はそのまま部屋を出て行ってしまった。一人残されたリヒトは、目を伏せて肩を抱いた。こぼれそうになる涙を抑えながら、
「ヴェルさん、どうして」
と、震える声を漏らした。
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