はじまり 3
リヒトは献身的に看病を続けた。
「きみはね、2週間も目を覚まさなかったんだ。とっても心配したよ」
彼は次第に回復の兆しを見せていた。しかし、まだまだ本調子には戻らない。
今日もリヒトは傷薬と熱冷ましを手に、彼が眠る部屋を訪れた。
獣人の彼はリヒトを見るなり、ベッドから跳ね起きて床に降りようとする。リヒトが何度止めても聞こうとしない。どうやら、身に染みついた習性のようだった。
困った癖といえば、食事の時もそうだった。リヒトがベーコンエッグやサラダの載った盆を差し出すと、彼は跪いてそれを受ける。そしておもむろに床に座り込むと、それらを手づかみで食べ始めた。
「あー、あのね、お盆を机において、フォークを使ってね」
リヒトが遠慮がちに言葉をかけると、彼は食べる手を止めて、上目がちにこちらをうかがった。心底不思議そうに、こう尋ねてくる。
「それは、命令ですか」
「えっ? うーん。お願い、かな」
「……承知、いたしました」
彼はお盆を持って立ち上がった。その背丈は随分と高い。小柄なリヒトよりも頭一つ以上も大きな身体。しかし背中は丸まり、不安げに縮こまっている。彼は食卓につくと、おずおずとフォークを動かし始めた。
リヒトは思った。薬はちゃんと効いている。療養の成果もしっかり出ている。でも、この違和感はなんだろう。彼はなぜ、こうも怯えているのだろう。
きっと彼にはまだ、大きな傷が残されている。心の奥底にある、深い深い傷跡が。リヒトはそう直感した。
………………
彼が「どうか私を働かせてください」「このまま休んでいるのでは申し訳が立ちません」としきりに頼むので、リヒトは悩みつつも、少しずつ彼に仕事を割り振ることにした。容体はかなり回復しているし、きっと手を動かしている方が落ち着く性分なのだろう。リヒトはそう思うことにした。
彼は簡単な炊事・洗濯・掃除などは完璧にこなした。リヒトは家事が苦手でつい溜め込んでしまう性質なので、正直大助かりだった。「ありがとうね」と彼に伝えると、「この程度の働き、当たり前のことでは」と怪訝そうに眉根を寄せた。
リヒトの本職は魔術師だ。魔法薬作りを専門としていて、それで生計を立てている。簡単な作業を彼に任せた。薬草をすりつぶしたり、出来上がった薬を瓶に詰めたり。彼は一度教えただけで、それらすべてを正確に行うことができた。この器用さならば、良い研究助手になってくれるかもしれない。リヒトは感心して、彼の手つきに見入っていた。
ある時、リヒトは研究室で魔法薬を蒸留していた。こぽこぽと立ち上る泡を眺めながら、ふと思いついて尋ねる。
「ねえ、きみの名前はなんていうの」
いつまでも「きみ」なんて呼んでちゃ、なんかエラそうだもんね。リヒトがそうはにかむと、彼は予想外の言葉を口にした。
「ございません」
「えっ……。名前が、ないの?」
「ええ。お好きにお呼びいただければと思います」
リヒトは困ったようにうんうんと唸った。そのままブツブツと何かを呟きながら、隣の書斎へと姿を消す。戻ってきた彼の手には分厚い辞書。
「待っててね。きみにふさわしい名前を探してみせるから」
今度は獣人の彼が驚く番だった。今まで、名前を与えられたことなどない。たいていの場合は「お前」「そこの」「アレ」と吐き捨てられ、そうでなければ「亜人」「バカ犬」などの蔑称で呼ばれていた。
そんな彼に、目の前の主人は「名前をつけてあげる」と言う。これを望外の幸運と呼ばずして、何とすればよいだろうか。調合に使うハーブの束を取り落としたのにも気づかずに、彼は呆然としてリヒトを見つめている。
「……ああ! 見つけたよ。きみにふさわしい名前!」
リヒトは嬉々として、辞書のページを開いてその一点を指し示した。彼はそこを覗き込む。大陸文字の苦手な彼が苦心して読み取ると、そこにはこうあった。
Verde. ヴェルデ。意味は西方の言葉で「緑」。
「ね、ぴったりでしょ」
リヒトは彼の翡翠色をした瞳を覗きこみながら、にっこりと微笑みかけた。
そうして彼は「ヴェルデ」になった。
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