迷宮入りのゴーストガール

夢乃あかし

迷宮入りのゴーストガール

迷宮入りのゴーストガール ①


 最初に俺がその少女を見かけたのは、深夜三時の繁華街だった。

 大学の友達数人と、飲み屋を渡り歩いている途中の出来事。

「……っ?」

 綺麗な純白のワンピースに、大きく立派な麦わら帽子。長いツインテールがぴょこぴょことウサギのように跳ねている。年は、背丈から考えて多分十歳かそこら。この時間帯の街中には、とてもじゃないが似つかわしくない存在に、俺は思わず振り返った。

「……怜、どうした? 急に立ち止まって」

 友達の一人、大森に声をかけられ、俺は我に帰った。

「ん、いや……」

 ゴシゴシと目を擦って、俺はもう一度視線の先を確認する。けれど、そこに先ほどの少女の姿はない。

「なんだ、可愛いねーちゃんでもいたか?」

「……や、悪い。見間違いだった」

「んだよ、期待させやがって。怜、さてはかなり酔ってるな?」

「ああ、そうかも……」

「ま、いいや。行こーぜ」

 そう言った大森の後に続き、俺は歩き出す。

 大森の言った通り、俺は酔ってるのかもしれない。そういえば、なんだか足元もおぼつかない。幼い少女の幻覚まで見るほどだ。今日の俺は少し体調が悪いのだろう。

 ……そう、ただの幻覚で、きっと見間違いだ。

 そもそもこの時間の繁華街を幼い少女が徘徊しているとすれば、それは警察沙汰だ。

 だとすれば、恋人を失ってこのところ傷心気味の大学生が作り出した、ただの幻想だという方がいくらか説得力がある。

「あー腹減った。なぁ、今からラーメン食いにいかね?」

「いいな、行くか」

 大森の提案に、俺はすぐさま乗った。

 近くに手頃なラーメン屋を見つけ、俺たちはそちらへ足を向ける。

「うおー、いい匂い!」

 ラーメン屋に入り、席に着いた頃には、先ほど見たはずの少女のことなど、綺麗さっぱり忘れていた。


 ◆


「あー……頭いてぇ……」

 人はなぜ、過ちを繰り返してしまうのだろうか。

 浴びるほど酒を飲み、徹夜すれば、翌日には激しい体調不良が待ち受けていることくらい、まだ短い成人人生の中でもわかりきっているはずなのだ。

 なのに、俺はまた性懲りもなく深酒をしてしまったらしい。

「……今、何時だ」

 ベッド脇に置いていたスマホで時間を確認すると、正午を回ったところ。いくらか寝足りないのか、まだ頭がボーッとする。

「ひっさしぶりに、記憶が飛んでるな……」

 昨日、大森たちと居酒屋をはしごし、ラーメンを食いに行ったまでは、ぼんやりとした記憶がある。けれど、それ以降がまったく思い出せない。

 果たして俺は、一人で無事に帰宅できたのだろうか。大森たちに迷惑かけてなければいいけど……。

 グッと伸びをして、ベッドから起き上がる。コンビニ弁当の空き箱や空き缶が散乱している床を抜け、洗面台へと向かう。

 蛇口をひねり、冷水で顔をバシャバシャとゆすぐ。初夏の蒸し暑さに、冷水の刺激が心地よい。手元にあったフェイスタオルで顔を拭き、鏡と向き合う。

 クマだらけでやつれた、酷い顔がそこには──

「──うおおおおおお!」

「うわあああああ! ちょ、ちょっと、いきなり大声出さないでくださいよ! 何事ですか!」

 鏡を見ると、そこには死にそうな顔をしている俺だけではなく、白いワンピースを着た、ツインテールの幼い女の子が映っていたのだ。ちょうど俺の背後から、洗面台を覗き込んでくるような形だ。

「いくら成宮さんの顔がゾンビみたいな酷い有り様だとしても、そこまで驚くことないじゃないですかっ」

 混乱する俺をよそに、少女は馴れ馴れしく話しかけてくる。

「いやお前、だれ⁉︎ ここ、俺の家!」

 錯乱のあまり、片言で勢い良く俺は少女にそう尋ねた。少女はしばらくポカンとした表情を浮かべた後、

「……誰って、昨日知り合ったばかりなのにもう忘れたんですか? あーあー、酔っ払いは記憶をなくすって本当なんですね」

「き、昨日……?」

「はい。昨日、帰り道でふらふらになっていた成宮さんをここまで引きずってきたんですよ。……本当に覚えてないんですか?」

「い、いやー……」

 確かに、昨日の帰り道の記憶はまったくない。正直、記憶をなくすくらい酔っていた自分が、無事に家に帰り着いていたというのは、不思議なところでもあった。

 けど、だからと言ってこんな年端もいかない少女を家にあげてしまうものだろうか。誘拐犯だと断定されれば、まったく言い逃れはできない。

 酔っていたとはいえ、自分にはある程度の理性が働いていたと信じたいものである。

「……もういいですから、とりあえず身支度整えてきてください。わたし、リビングで待ってますから。お話は後でしましょう」

 不甲斐ない俺に呆れ果てたのか、少女はため息をついてリビングへと出ていった。洗面所を出る際、カゴに置きっぱなしにしていた大きな麦わら帽子を抱えていった。

「……ん? 麦わら帽子?」

 そういえば、どこかで見覚えがあるような……。

 初めて見たはずの光景。でも確かに感じた既視感。少女に介抱された時か……いや、それ以前に……?

 そこまで考えて、俺はある記憶に思い至る。昨日、街中を歩いているときに見た少女。その姿が、まさに今目の前にいた少女と同じなのだ。

「おい、お前──」

 急いでリビングに戻ろうとしたが、

「ゲロ臭いので近づかないでください。突き飛ばしますよ」

 ピシャリとそう言われて、俺は洗面所へと戻された。

 確認すると、俺の着ているシャツには、べっとりと吐瀉物が染み渡っていた。

「くっせ……」

 俺は観念して、シャワーを浴びることにした。


 ◆


「──で、思い出しましたか? わたしのこと」

「ああ、ある程度はな」

 シャワーを浴びて、ようやく頭もすっきりしてきた。ぼんやりとではあるが、俺は昨日の記憶を思い出していた。

「アパートにたどり着く直前でぶっ倒れた俺を、ここまで運んでくれたんだよな。そっから流れで、お前の宿泊を許してってのは、なんとなくな」

 朦朧とした意識の中、自分よりも十歳ほど、歳の離れた女の子に運び込まれる。その上、水を用意してくれるなどの介抱まで。自分が情けなくなってくるから、出来れば忘れたままでいたかったところだ……。

「ようやく思い出したんですか。まったく、世話も焼けるってもんですよ」

 目の前の少女は、淡々とした口調で俺を責め続ける。……なんだろう、説教でも受けてる気分だ。いつの間にか俺は正座をしていて、背筋もピンと伸ばした状態で話を聞いていた。

「……そういえばさ、君はずっとここにいて大丈夫なのか? ほら、親御さんとかさ、どう考えても心配してるだろうし。俺のとこなんかに一晩いたって知れたら大変じゃないのか?」

 至極当たり前の疑問。この少女が俺を介抱してくれたのはわかったが、泊めたとなると、また別の問題が生じてくる。そもそも、あの時間にこの少女が一人でうろついてたってのも問題だし。

 ここは大人として、しかるべき対応を……と思ったのだが、目の前の少女は何故か呆れ混じりのため息をついていた。

「……え、なに?」

「いえ、どうして大事なとこだけすっぽり抜け落ちてるんだって。成宮さんのダメさ加減に恐れ慄いていたところです。きっとわたしはついて行く人を間違えました」

 まあでも、成宮さんしかいなかったんですけど……と、要領の得ないことを少女は呟く。

「仕方ないですね。ほら、行きますよ」

「行くって、どこに?」

「大学ですよ。成宮さん、い、ち、お、う、大学生でしょ?」

「あ、えと……はい」

 キツイ語調に、俺はタジタジと答える。この少女の中で俺は、完全にダメ人間として認識されていることだろう。

 まあ、授業があるのに昼まで寝ているというのは、ダメ人間以外の何者でも無いのだが。

「しかし、なんでわざわざ? 別にここで説明してくれればいいのに」

「まあまあ、見てもらった方が早いですから。というか、同じことを二度説明するのは面倒です」

 少女はそう答えると、麦わら帽子を被り、玄関へと歩き出した。


 ◆


「なあ、本当に一緒に行かなくちゃダメか?」

 俺の家から大学までは、徒歩で十五分程度の距離にある。今の時間は昼過ぎで、ちょうど三限がやっている頃だから、この道を行き来している生徒は少ない。けれど、多少なりとも人目はある。

「そのさ……お前と一緒だと、目立つだろ」

 知り合いは比較的少ない方ではあるが、幼い少女を連れて大学に来ていると噂されるのは困る。

「だから、大丈夫だってさっきから言ってるじゃないですか。しつこいですよ」

「でもさぁ……」

 ずんずんと、俺の数歩前を少女は歩く。歩みは力強く、俺は観念して大人しくついていくことにした。

 しかし、この少女は結局何者なのだろうか……。願うことなら、早いとこ親御さんに連絡をつけて、追い返したいところなのだが。

 ……家出とか、そんなところか? 

 白いワンピースに、大きな麦わら帽子。何か大事な用事でもあるような、そんなコーディネート。もしかしたら、かなり遠いところからここまで一人で来たのかも知れない。家出も何も、本人の問題だし、勝手にすればいいと思う。でも、そこに俺は巻き込まないで欲しかった。

 ……ああ、めんどくさいな。これが終わったら、警察にでも突き出して御役御免と行きたいところだ。

 そんなことを考えつつ、ぼんやりと歩いていると──

「──お、なんだ怜。お前も今登校か?」

「……っ!」

 背後から突然、知った声が聞こえてきて、俺は体を跳ねさせる。

 振り返ると、そこには大森の姿があった。昨日ぶり、こいつも昼からの重役出勤というわけだろう。

「……? どうしたんだ、そんなお化けでも見たような顔して」

「あ、いや、悪い。不意を突かれて、驚いただけだ」

「普通に声かけただけだろ。変なやつだな」

「はは……」

 しかし、間が悪い。あの少女とは若干距離を置いて歩いていたから、すぐに勘付かれることはないと思うけど……はやく追い返さねば。

「あれ、成宮さんのお知り合いですか? ああ、そういえば昨日、成宮さんと一緒にいた方ですね」

「……おい」

 何普通に話しかけてきちゃってんの、こいつ? 知り合いには見られたくないって説明してたよね? 

 いや、もうこの際仕方ない。苦しいとは思うが、出来る限りの言い訳をしよう。まったく悪びれる様子のない少女をグイッと押しやって、俺は大森に向かい合う。

「違うんだ大森。まずは俺の話を聞いてくれ。こいつはだな、あれだ、姪だ、姪。こいつ東京に興味があるってんで、俺のところに遊びに来てるんだ。どうしても大学に行って見たいってんで、連れてきてるんだ。いや、ほんと、めちゃくちゃ断ったんだけどな──」

 などなど、俺は早口で適当な嘘をでっちあげる。相当に苦しい言い訳だが、この場をどうにか乗り切るには十分だろう。

 そう、思ったのだが、

「……ん? お、おお? いきなりどうしたんだ、怜。お前、もしかしてまだ酔ってんのか?」

「は? めちゃくちゃ素面なんだが」

「いや、だとしたら怖えよ。急に一人で変な動きしたり、意味不明な話始めたり……怜、ホントに大丈夫か……?」

「いやいや、お前が何言ってんだよ。ほら、ここにいるだろ。こいつだよ、こいつ」

 俺は少女の肩を掴んで、大森の前に立たせる。けれど、大森の表情はますます険しくなるばかり。少女の方を見ているはずの視線は、どこか焦点が合っていない。

 まるで、この少女が最初から見えていないような。

「怜……お前マジで帰って寝ろ。最初っからお前、ずっと一人で歩いてたろ」

 ポンと俺の肩を叩いて、大森は大学の方へと歩いていった。

 ……え? 

 その背中が見えなくなってからしばらくして、俺はようやく思考を取り戻す。

「……なあ、お前さ」

「はい」

「マジで、何者なんだ……?」

 俺の言葉に、少女は端的に答えを告げる。

「幽霊です」

「……ああ、そうなの」

 上の空、実感の伴わない口調で、俺は言った。

 ……どうやら俺は、想像以上に面倒なことに巻き込まれてしまったらしい。


 ◆


「あの、成宮さん……良かったんですか? 大学に行かないで」

「いいんだ。別に一日行かないくらいどうってことない」

 大森と別れた後、俺たちは一度家に戻ってきた。

「ふぅん。大学生は暇なんですね」

 そうぼやく少女は、麦わら帽子をクローゼットに仕舞うと、ベッドに腰を下ろしてテレビを点けた。なんでそんな自分の家みたいに振る舞ってんだよ……。

「幽霊でも、普通にモノには触れるんだな」

 こうして俺のベッドに座って、テレビを流し見している少女は、どこからどう見ても普通の女の子だ。幽霊だなんて言われたとしても、にわかには信じ難かっただろう。

「まあ、幽霊も色々ってことですよ。とはいえ、自分以外の幽霊なんて出会ったことないですけど」

「ああ、そう」

 幽霊……。あの時の大森の反応は、紛れもなく本物だった。俺には見えているこの少女が、大森には見えていなかった。それだけは確かだ。

「ほらよ、食うか?」

 テレビの前のテーブルに、俺は木製の容器を置く。

 少女は中を覗き込むと、怪訝な表情を浮かべた。

「……なんで、お煎餅?」

「実家から送られてきてな、もう湿りかけだったから……ああ、それとも幽霊は食事ができないのか?」

「いえ、いただきます」

 そう言い、身を乗り出して少女は煎餅をつまむ。バリッ、と気持ちのいい音がし、醤油の香ばしい匂いが広がる。

「……お茶をください。口の中が乾きます」

「はいはい」

 麦茶を二人分コップに注ぎ、俺は少女の元へと戻る。俺はテーブルの脇に座ると少女と同じように煎餅を食べ、麦茶を飲む。テレビの中では、バラエティー番組の再放送がやっており、俺たちはそれをぼんやりと眺める。

「いいですよね、お煎餅。田舎って感じがして、なんか落ち着きます」

「まあな。実際、俺の実家は田舎だよ」

「通りで。懐かしい味がします」

「懐かしいって……お前も田舎の出身だったりするのか?」

「……うぅん、どうなんでしょうね」

「どうって、お前のことだろ」

「……ん? あ、そうか、成宮さんには言ってなかったですね。わたし、生きてる時の記憶がないんですよ」

「記憶が……?」

「ええ、生まれた場所も、親の顔も、死の原因も、自分の名前も、何もかも、一切合切思い出せないんですよね」

「自分の名前もか……それは何と言うか、難儀なもんだな」

「そんな他人事みたいに……って、あ!」

 俺が話半分に言うと、少女は何かに気づいた様子で、突然机を叩いた。煎餅の入った器がゴトリと音を立てる。

「な、なんだよいきなり……」

「いやいや呑気にお煎餅を頂いている場合じゃないですよ! すっかりのんびりモードに入っちゃったじゃないですか、成宮さんのせいですよ⁉︎」

「え、えぇ……」

「そもそも、なんでわたしが成宮さんと一緒に暮らすことにしたのかって話ですよ!」

 少女は早口でまくしたてる。しかし、俺はそこで少女の言葉を切る。

「ちょちょちょ、え、俺とお前、いつの間に一緒に暮らすことになってんの?」

「え? あ、てっきり成宮さんもそのつもりなのかと。煎餅まで出してくれましたし」

「煎餅は同居のサインにはならねぇよ。というか、一緒に暮らすとかありえないだろ。なんで俺が子供の世話なんか……」

「いや成宮さんこそ正気ですか。わたし、ここ以外に行く場所ないんですよ? わたしのことを認識してくれた人も、成宮さんが初めてでしたし」

「し、しかしなぁ……」

「そもそも子供の世話、とか言いますけど、わたし、成宮さんみたいなダメ大学生に世話されるほどおこちゃまじゃないです」

 ゴミの散乱している部屋を軽蔑するように見回してから、少女は吐き捨てた。

「……返す言葉がない」

「なんならわたしが掃除やら洗濯やらの家事もやりますから。とにかく、ここを追い出されたら困るんですっ!」

 また机をバンと叩いて、少女は俺に詰め寄る。

「成宮さんだけが、わたしにとっての、唯一の手がかりなんですから!」

「て、手がかり……?」

「はい。わたし、自分が幽霊になった原因を知りたいんです」

 俺に向き合う少女はとても真剣な表情で、胸に手を当てて言葉を続ける。

「幽霊になって、早半年。気ままと言えば聞こえはいいですが、話す相手のいない生活はただただ辛いだけです。幽霊になって出来ることは限られてます。そんなわたしのやるべきことは、やっぱり自分に向き合うことだと思うんです」

「……」

 自分に向き合う……か。

 なんとも、出来た少女だと思った。

 いや、そうせざるを得なかっただけか。

 半年間という長い期間。誰にも見つけられることなく、自分が誰なのかもわからず、ただただ彷徨うしかなかった幼い少女の抱える気持ちは、一体どんなものか。俺には想像しかねる。

「できれば、成宮さんにも協力をですね──」

 ──ピンポーン

 突然チャイムの音が鳴らされ、二人して扉の方を振り返る。

「いいですよ、出てきてください」

 少女の許可を得て、俺は扉の方へと向かう。なぜ、家主の俺が許可を得る立場なのだろう……。既にこの家のパワーバランスが垣間見えた気もするが、それは考えまい。

「はーい」

 ガチャリと扉を開けると、そこには一人の女の子が立っていた。

「こんにちは、成宮くん」

 几帳面に切りそろえられたショートカットに、デニムと白シャツというラフな格好。クールに挨拶をしたその顔は、よく見慣れたものだった。

「なんだ、椎名か」

「なんだとはご挨拶ね。折角、人が心配して様子見にきてあげたってのに」

 俺の失礼な対応に、椎名は腕を組み仏頂面を浮かべる。案外大きなバストが、組んだ腕に持ち上げられたのも相まって、俺は椎名から視線を外す。

「心配って……ああ、大森からか」

 目の前の女の子──椎名光莉は同じ大学に通う知り合いだ。高校の時からの付き合いで、今も何かと話すことは多い。

 大森から俺の様子を聞き、来てくれたというのは素直に嬉しいが、今はタイミングが悪い。

「心配かけたのは悪かったが、今はもう元気だ。大森から聞いたことは、なんだ、気にしないでくれ」

「ふぅん……まあ、あなたが変な人なのは昔から分かりきってるし、別に妄想癖や虚言癖があろうがイマジナリーフレンドがいようが、何も思わないけどさ」

「それはそれでどうなんだよ……」

「とりあえず、上がっていい? 今日の用事はそれだけじゃないから」

「え」

「え?」

 思わず素の声が漏れてしまい、既に部屋に上がろうとしていた椎名は怪訝な表情を浮かべる。

「何か問題あった……?」

 椎名は俺の部屋を頻繁に訪れる。部屋が汚かろうとお構いなしという感じだったから、俺もそれが当たり前になっていたのだけれど。

 今は部屋にあの少女がいる。

 幽霊だから見えない、というのは分かってはいるが、今部屋で一緒になるのは何かと面倒な気がした。

「エロ本が落ちてようが、ティッシュの塊が散乱してようが、私は気にしないけど」

「そんなものはない!」

「だったら、女でも連れ込んでるとか……いや、それはないか。今のあなたにそんな甲斐性はないだろうし」

「まあ、な」

 そんなこんなで問答をしていると、部屋の奥から少女が様子を見にやってきた。クイクイと部屋の中を指差している。部屋に入れても構わないということだろう。

「──で、上がってもいいの? ダメなの?」

 若干イライラとした様子で、椎名は催促してくる。

「ああ、悪い。上がっても問題なさそうだ」

「そうならそうと、早く言えばいいのに」

 そう呟きながら部屋に入った椎名は、カバンを床に置くと、慣れた様子でベッドに腰を下ろした。

 椎名には見えていないのだろうが、隣には幽霊の少女が座っている。少女は隣に座った椎名のことを興味深げに観察し始めた。体を舐め回すように見つめ、やがて視線は胸に留まる。「すごい……」と小さく呟いて、自分の胸に手を当てる。

 ……何してんだ、こいつは。

 俺はもう少女のことは気にしないことにした。椎名に視線を戻すと、何やらテーブルの辺りを不思議な目線で見つめている。

「なんで、煎餅……? 麦茶も二人分あるし、やっぱりさっきまで誰かいた?」

 テーブルに広がる不自然な光景に、椎名は当然の疑問を口にする。

「あ、いや、おままごと、というか、たまには一人二役……的な?」

 ……何を意味不明なことを言っているのだろう、俺は。

「はぁ……まあ、いいけど」

 俺の話を適当に受け流した椎名は、机に置いてあった煎餅をつまんだ。

 少女は俺の苦しすぎる言い訳に、笑いを堪えきれずに吹き出している。……後でぶん殴る。

「でね、今日はあなたにこれを渡しに来たの」

 煎餅をゴクリと飲み込んだ椎名は、そう切り出すと、カバンの中からとある紙袋を取り出した。

 お歳暮でも入っていそうな白い紙袋。俺にお土産……という性格でもないだろう。

「これは……?」

 俺がそう尋ねると、椎名は間を置かずに答える。

「しずくの遺品よ」

「え……」

 その言葉に、俺は一瞬頭が真っ白になる。

 久しぶりに、その名前を聞いた気がした。

 しずく──白瀬しずくは、俺の高校時代の同級生で、ついでに、元恋人でもある。俺は大学には一浪で入っている。一年先に今の大学に行ったしずくとは離れて暮らしていたのだが、半年ほど前に突然亡くなってしまい、俺はずっとその傷を引きずっているというわけだ。

 やがて、思考を整理し終えた俺は、紙袋をテーブルの中央に戻す。

「どうして、今ごろになって遺品を……?」

「もともと、妹ちゃんに頼んでたのよ。もし、要らないものがあるんだったら分けてほしいって」

「そうなのか……。でも、どうしてそれを俺に?」

「元々、あなたに渡すつもりだったし。それに、最近は特に元気なさそうだったから」

「……そういう風に、見えてたか」

「成宮くんってわかりやすいからね。しずくがあの事故で死んでから、もうかなりの時間が経った。落ち込むな、とは言わないわ。遠距離中の彼女が突然亡くなる痛みは、私には想像もできない。でも、大学には来なさい」

 椎名はいつだって、真っ直ぐで、力強い瞳をしている。自分の中にブレない何かを持っていて、それが垣間見えた時、俺はこの女の子のことを心底カッコいいと思う。

「大学に行って、授業に出て、課題をこなして、大森くんたちと遊んで、そうやってれば、あっという間に日々は過ぎる。しずくのことを忘れろ、とは言わない。でも、そうやっていつまでもウジウジしてるのは、カッコ悪いわよ」

「……そうだよな、悪い。明日は、ちゃんと行くよ」

 俺がそう言うと、椎名は満足そうに頷いて立ち上がる。

「帰るのか?」

「ええ、今日はそれだけだから。しずくの遺品、もしいらないようだったら私が保管しておくから、その時は言ってね」

「ああ、わざわざありがとな」

「ええ、それじゃ。見送りはいいから」

 いつも通りそう言い残して、椎名は俺の部屋を出て行った。

 部屋には、俺と白い紙袋と、幽霊の少女。

「さて……どうしたもんか」

「あれ、見ないんですか?」

 いつの間にか俺の隣には少女が座っており、白い紙袋を指差して言った。

「まあ、あんまり見たくはないよな」

 俺からしてみれば、しずくの死はまだ整理のついていないことだ。その遺品を見るという行為は、生傷を抉る行為に等しい。

「というか成宮さん、彼女いたんですね」

「いたわ。俺を何だと思ってるんだ」

「いやだって、今の成宮さんってなんか汚いんですもん。髪も伸びきってますし、髭の剃り残しも多いですし、服もヨレヨレのシャツですし……」

「昔はちゃんとしてたんだがな……あいつ──しずくが亡くなったって聞いてから、もうどうでも良くなっちまったよ」

 本当は大学に行く気力もなくしていたが、椎名に無理やり連れ出されてしまった。

「しずくさんって、どんな方だったんですか?」

「そうだな……まあ、可愛い女の子だったよ」

「え、なんですか、惚気ですか」

「いや、違くて。笑顔が可愛いやつだったんだけどさ、まだ高校に入学したばっかの頃は大人しい方だったんだ。人との関わりを避けてる、みたいな感じで。でも、俺としずくは席が隣同士だったから、俺から積極的に話しかけてさ、たまに俺の下らない話なんかで笑ってくれると、それがすげぇ嬉しかったんだ。まあ、気付いたら、好きになってたよ」

「なんだ、やっぱり惚気じゃないですか。……でも、本当に好きだったんですね、その人のこと」

「まあ、な」

 だからこそ、傷も深いわけで。前に進まなきゃいけない。そんなことは、俺だってわかっているんだ。 

 ──カッコ悪いわよ

 椎名が残した言葉が、俺の頭に響く。

 本当に、その通りだ。毎朝起きるたびに見る自分の顔は、死人そのものだ。顔色も悪く、クマもある。ぼさぼさになった頭は、髪が絡まって仕方ない。

 こんな姿、しずくにはとてもじゃないが、見せられなかっただろう。

「はぁ……仕方ないな」

 俺は紙袋を自分の方に引き寄せる。

 たくさんの遺品が入っているその袋の中から、俺は一冊のアルバムを取り出した。

 パラパラと中を見てみると、そこには高校時代の写真が中心に収められていた。

 体育祭や、文化祭、修学旅行の写真など。

 あの時の思い出が鮮明に蘇ってくるようだ。

「お」

 ふと、一枚の写真が目に止まる。修学旅行で行った先の、シンガポールで撮った写真だ。マーライオンの前で、しずくと俺、それから椎名が写っている。

「あ、もしかしてこれがしずくさんですか? ふぅん……中々に可愛い方ですね、成宮さんにはもったいないくらいです」

「だろ? 自慢の彼女だったよ」

 肩まで伸びたショートカットに、愛らしい笑顔。時折、髪型をアレンジして学校に来てくれるのが、俺のささやかな楽しみでもあった。

「というか、この時の俺、髪短いよなー。今とは大違いだよ」

「え……これ、成宮さんなんですか? 誰ですか、このナイスガイは。まるきり別人じゃないですか」

 写真の中の俺は、今とは違い短髪で、表情にもハリがある。今の俺しか知らない少女からすれば、驚くのも無理はない。

「今もこうしてれば、普通にカッコいいだろうに。髪ぐらい切ったらどうですか」

「そうだなぁ……うん、まあ、近いうちにな」

「うわ、絶対行かないやつだ、これ」

 などなど、思い出話を繰り広げつつ、俺と少女はアルバムをめくる。

 裏表紙も近づいてきたところで、写真は高校三年の冬に近づいていく。

 クリスマスパーティー、大晦日、初詣、バレンタイン、そして──大学受験だ。

 しずくとは同じ大学を志望していたが、俺だけ不合格になり、結局浪人することになってしまった。一年間の遠距離恋愛。俺としずくなら、乗り越えられると思っていたし、実際問題はなかったのだが。

 ……まさか、死んでしまうとは思いもしなかった。

 俺が一緒だったら……なんて、そんな無意味な妄想は幾千と繰り返した。

 写真の中、受験会場の前で俺としずくは笑顔でピースをきめている。

 その写真を感傷に浸る思いで見つめていると、はらりと一枚の写真がアルバムの中から舞い落ちる。

「あ、落ちましたよ、成宮さん」

 少女が床に落ちた写真を拾い上げ、俺に手渡す──

「「……え?」」

 俺と少女、二人の声が重なった。

 写真を手渡す瞬間、二人ともが写真に触れている丁度そのタイミングで、俺たちは固まった。

 ──だって。

 写真に写っていた三人の人物。

 その中の一人に、俺たちはよく見覚えがあったから。

 純白のワンピースに、大きな麦わら帽子。

 目の前で同じく固まる幽霊の少女は、写真の中で、確かに生きていたのだ。


 ◆


 翌日の昼過ぎ。授業のない時間帯を利用して、俺は学食で遅めの昼食を食べている。

 今日のメニューは天津麻婆丼。皿いっぱいに盛り付けられた白飯の上に薄焼き卵、トロトロの餡、少し辛めの麻婆豆腐、更にお好みでマヨネーズをかけたこのカロリー爆弾が、俺は大好きだった。

 全部で1000キロカロリーは超えるであろう丼を勢い良くかきこんでいると、後ろから唐突に声をかけられる。

「今日はちゃんと来たようね、偉い偉い」

「ふぉお、ひいなふぁ」

「食べ物を口に含んだまま喋らないの。隣、いい?」

 俺が口を押さえてコクンと頷くと、椎名は俺の隣の席に腰を下ろした。

「それ、凄いの食べてるわね……そんな食事してると、体壊すわよ」

 俺の目の前に置かれた丼を覗き込んだ椎名は、あからさまにドン引いた顔でそう言った。

「……うるせぇ、別に何食おうが、俺の勝手だろ」

 口の中のモノを飲み込んでから、俺はそう反論する。

「あなたが体を壊したら、しずくまで悲しむでしょ。少しは自炊くらいしなさい」

「……まあ、善処する」

 しずくの名前を出されてしまったら、俺からはもう何も言えない。

 高校時代はしずくにカレーなどの手料理を振る舞ってもらったこともあったが、大学に入ってからはコンビニ弁当か学食の二択だ。

 たまに椎名が料理を作りに来てくれることもあるが、残した材料はいつの間にか腐らせてしまうことが多い。

「いただきます」

 小さな声で律儀に言い、椎名も昼食に手を付ける。椎名は野菜を中心に、一汁三菜を意識した健康的な食事だ。意識の高い椎名らしい食事だと感心した。

「それで、いいのあった?」

「いいのって?」

「昨日渡したしずくの遺品のことよ。もしかして、まだ中身は確認できてない?」

「いや、見たよ。見たんだけどさ……」

「なに、変なモノでも混ざってた?」

「変なモノっつーか──」

 俺は一度食事の手を止め、カバンの中から一枚の写真を取り出す。

「アルバムの中に、この写真が紛れ込んでたんだ」

 そう言い、俺は椎名に写真を手渡す。

 三人が写った、夏のとある日の写真。海を背景に、母親とその娘らしき二人の少女が写っている。少女の一人は、純白のワンピースに大きな麦わら帽子を被っている。

 昨日、俺と幽霊の少女が見つけた、あの写真だ。

「……っ」

 俺から写真を受け取った椎名は、一瞬ピクリと表情を動かす。

「どうした?」

「いや、何でもない。それで、この写真がどうかしたの?」

「ああ、ここに写ってる子なんだけどさ」

 言いつつ、俺は件の少女を指し示す。

「これって……誰かわかるか?」

「誰って、しずくじゃないの? 一緒に写ってるの、あの子のお母さんと、妹ちゃんでしょ?」

「それは、そうなんだけどさ……しずくにしては、面影がないっつーか。俺たちが知ってるしずくとは、だいぶ印象も違うしさ」

「まあ、確かに」

 写真の中の少女、そして俺が出会ったあの幽霊の少女は、年齢に対して大人びていて、年上の俺に対しても全く物怖じする様子のない活発な少女だ。対して、俺たちがよく知っているしずくは、人見知りが激しく、もの静かでおしとやかという印象だ。付き合い始めてからは、しずくの態度も砕けてきてたが、それでもあの少女の印象とは遠く結びつかない。

「だからさ、この女の子が誰なのか確認したいんだ。妹のこはくちゃんに聞けば、確実だろ? 俺から連絡するのはちょっと、気がひけるしさ……。椎名に頼みたいんだ」

「それくらいなら別に構わないけど。今、電話で確認しちゃう?」

「ああ、頼む」

 俺がそう言うと、椎名はスマホを持って一度席を外した。

「ふぅ……」

 なんだか胸焼けがして、俺は手に持っていたレンゲを置く。まだ半分以上残っている天津麻婆丼には手を付けず、俺は考え事を始める。

 昨日、あの写真が見つかった後、俺と幽霊の少女はとある一つの結論に思い至った。

 ──俺の元に現れた幽霊の少女の正体は、しずくの幽霊なんじゃないか。

 そう考えれば、色々なことに説明が付く。俺にだけ、あの幽霊が見えたことも、しずくが死んだ時期と、あの少女が幽霊になったという時期が一致することも。子供時代の姿で現れたことだけは、よくわからないが。

 ──でも、もし違ったなら。

 そう考えて、俺と少女は結論を保留にした。

 ──自分が幽霊になった原因を知りたいんです!

 昨日、少女は俺にそう言った。そのために、俺に協力を仰ぎたいとも。

 しずくは死んだ。でも、どうしてあの場所で死んだのか、それまでに何があったのか、そういったことはまるで明かされていない。もちろん、警察の調査はされた。しかし──不明。しずくの死は多くの謎に包まれたままなのだ。

 もし、あの少女が本当にしずくなのだとしたら。

 俺は一体、どうしたいのだろう。

 昨日からずっと、そんなことばかりを考えている。

「──あ、成宮くん」

 電話を終えた椎名が、駆け足で俺の元に戻ってきた。

「どうだった?」

 椎名が席に座るのも待たず、俺はそう尋ねる。

 帰ってきた答えは、

「あの写真の子、しずくで間違い無いってさ──」

 その言葉が、俺の頭の中で何度も何度も反響する。

 その答えを聞いた時、俺が一体どんな顔をしてたのか。

 自分では、よくわからなかった。



 大学の授業が終わり、俺が家に帰り着いた頃には既に七時を回っていた。

「あ、成宮さん、おかえりなさいです」

 扉を開けてすぐ、正面のキッチンに立っていた少女に出迎えられる。

「おう……って、お前、何やってんの?」

「見てわかりませんか? 料理ですよ、料理。冷蔵庫の食材、使っちゃいましたけど大丈夫ですよね?」

「や、それはいいけど……なんで料理なんかしてんだ?」

 少女の目の前では、大きい鍋がグツグツと良い音を立てている。匂いからしてカレーだろう。

「相手が成宮さんといえど、タダで置いてもらうほどわたしも常識知らずじゃありませんよ。あ、それとも、もう晩ごはん食べてきちゃいました?」

「いや、まだだけど」

「なら良かったです。もう少し時間かかりそうなので適当にくつろいで待っててください」

 キッチリとエプロンまで付けた少女にそう言われ、俺は部屋の奥に入る。

「……って、うおっ!」

 部屋の奥に進んですぐ、自分の部屋が綺麗に掃除されていることに気がつき、俺は声を上げた。床に散らばっていたゴミは綺麗さっぱりなくなり、教科書や文庫本も本棚へとしまわれている。

「お前、掃除までやったのかよ……」

「いやーほんと大変でしたよ。かなり汚れが溜まってましたからね。でもまあ、その分やりがいがあるってもんですよ」

 ためしに、指をフローリングに滑らせてみる。ホコリひとつ残らない、完璧な掃除だった。

「別にここまでやらなくてもいいのに」

「やりだしたら止まらない性分なんですよ」

 鍋をグルグルかき混ぜていた少女は、事もなげにそう言う。

 ──一人暮らし始めたら、また掃除とかしに行ってもいい?

 唐突に昔のしずくの発言を思い出し、俺は頭を振る。

 浮かび上がった思考を切り離そうと、俺はカバンを放り投げ、ベッドに身を投げる。

 そうすると、不意に眠気が襲ってきた。まぶたを閉じようとしたところで、キッチンから少女の声が聞こえる。

「そういえば、椎名さんに例の写真のこと訊けましたか?」

 その質問に、俺は思わず表情を歪めた。それを少女に見られなかったのは、幸いか。

 俺は呼吸を整え、なるべく平静を装って答える。

「……いや、今日はタイミングがなかったよ」

「そうですか。て、あれ、成宮さん寝ちゃうんですか?」

「ちょっとだけな……晩飯の用意ができたら適当に起こしてくれ」

「あ、はい。わかりました」

 ……別に、嘘をついたところで、いずれバレることはわかりきっている。

 でも、今はまだ、どうしても俺の中で整理がつかない。

 それに、今日はなんだか疲れた……。

 グツグツと鍋を煮込む音を聞きながら、俺は眠りについた。


 ◆

  

 ──久しぶりに、夢を見た。


「……怜くん、もう、怜くんってば、聞いてるの?」

「ん……あれ」

 頭上から名前を呼ばれ、俺は顔を上げる。

「しず、く……?」

「怜くん……ホントに大丈夫? いきなり座り込んだと思ったら、いくら呼んでも全然反応しないしさ」

 目の前の女の子はそう言うと、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

「いや、うん、大丈夫。ちょっと頭がボーッとしただけで」

 その女の子のことを俺はよく知っていた。

 白瀬しずく──高校二年の時から付き合っている、俺の彼女だ。

「そう……? ホントに体調悪いようなら今からでも家に戻るよ? 無理してまで付き合ってくれても、私嬉しくないからさ」

「いや、ホントに大丈夫だ。心配かけて悪いな、しずく」

 そう取り繕って、俺は立ち上がる。グーっと伸びをして血液を全身に行き渡らせ、深呼吸を繰り返す。

 そうやって落ち着きを取り戻したところで、改めて俺は周りの状況を確認する。

「そっか、今日は夏祭りか」

 今日は確か、八月十三日。俺の地元で毎年開催されている夏祭り、その日だった。

「そうだよ。受験勉強の息抜きにどーーしても行きたいって、わたしを連れ出したのは怜くんじゃん」

「そうか……うん、そうだったな」

 俺は今、浪人生として勉強に打ち込む毎日を送っている。俺とは違い現役で合格したしずくは一足先に大学生となっており、夏休みを利用して帰省している最中なのだ。

 こうしてしずくと二人きりで出かけるのも、もう四、五ヶ月ぶりになる。

「俺、なんで忘れてたんだっけ……?」

 一週間も前からずっと楽しみにしていた夏祭りデート。体調も万全に整えてきたはずだ。

「受験勉強、ちょっと頑張りすぎなんじゃないの? それで、睡眠不足とか」

「いや、ここ一週間はしずくのことで頭がいっぱいで、まったく勉強は手についてない」

「それはそれで困るなぁ……。来年こそは一緒の大学で楽しいキャンパスライフを送れるって、私楽しみにしてるんだよ?」

「ま、なるようになるさ」

 実際、この前の模試ではしっかりとA判定を叩き出している。順調にいけば、何も問題はないはずだ。

「それより、行こうぜ」

 無駄話はここまで。俺は今日、久しぶりに会えたしずくと目一杯祭りを楽しむと決めているのだ。

 俺はしずくの手を取り、二人並んで歩き出す。

 俺たちが今いる公園には所狭しと出店が並んでいて、焼きそばやらたこ焼きやらのいい匂いが漂ってくる。スピーカーからは聞き馴染みのある盆踊りの音楽が聞こえてきて、しずくと俺は揃って浴衣を着ている。

「その浴衣、おばあさんのお下がりなんだっけ?」

 ピンクを基調とした、花柄の浴衣。この季節になると、毎年しずくはこの浴衣を着て夏祭りに来る。

「そうそう。お婆ちゃん、お母さん、わたしって、代々受け継いできたんだ。さすがにほつれとかも目立つようになってきたけど、まだまだ着ていくよ」

 しずくは愛でるように、優しく浴衣の帯を撫でる。そこに眠る母親の魂でも感じているかのような、慈愛に満ちた瞳だ。

「そういえば、もう墓参りには行ったのか?」

「うん、今日帰ってきてすぐにね。半年近く顔見せてなかったからさ。都会に出て成長した姿をお母さんに見せなくっちゃ」

「成長ねぇ……ホントにしたのかぁ?」

 都会に染まったと豪語するしずくではあったが、久しぶりに会ったその姿は高校の時と何ら変わっていない。拍子抜けする一方で、安心している自分もいた。突然しずくが金髪ピアスのイケイケ大学生に変貌していれば、さすがに動揺を隠せなかったことだろう。

「失礼だなぁ……最近ではバイトも始めたんだから」

 胸に手を当てて、誇らしげにしずくは言った。高校入学当初からまったくサイズの変わらない胸はさて置くとしても、バイトとは確かに進歩だと思う。

「結婚式場だっけ? 凄いところで始めたよな」

「どうせだったら楽しく働けそうなとこがいいじゃん? 仕事は大変だけどさ、やっぱり楽しいよ。今までたくさんの式を見届けたんだけどね、いつも羨ましいな〜って見てるよ」

「そっか、なら良かった」

 こうして充実した日々を過ごし、楽しそうに色んな話をしてくれるしずくを横目に俺は微笑む。

 人目を避け、極力目立たないように立ち回り、クラスメイトと関わることもしなかった昔とは大違いだ。

 きっと、今と同じような話を午前中にも母親にたくさんしたのだろう。

 今はもうこの世にはいないしずくの母親も、娘の成長が見られて喜んでいることだろう。

「──あ、怜くん怜くん。わたあめ買わない?」

 わたあめの屋台を発見したしずくが、俺の手を引き、駆け出す。

「ああ、いいな」

 その後をついていく俺は、しずくの後ろ姿から目が離せない。

 いつもとは違い、お団子に丸めている髪が可愛いなと、そう思った。


 その後、俺たちは一通り出店を満喫した後、手頃な食べ物を買い込んで河原に足を運んでいた。

「さすがに、人が多いな」

 しずくが持って来ていたレジャーシートを広げ、川沿いの原っぱに腰を下ろす。もう少しで花火が打ち上げられる時間になる。この河原は花火を見上げるには絶好のポイントだから、かなりの人で混み合っている。家族連れも多いし、俺たちのように恋人で来ている様子も見受けられる。

「花火まで、あとどれくらいだっけ?」

 買って来た食べ物を脇に置いて、しずくが言う。

「あと五分くらいかな」

 スマホで時間を確認すると、七時五十五分。八時から花火が上がる予定だ。会場のアナウンスでも同じような内容が放送される。

「そっか。あ、このタコ焼き食べてもいい?」

「あ、俺にも一つくれ」

 俺がそう言うと、しずくはタコ焼きに爪楊枝を刺し、それを俺の口元まで持って来た。

「はい、あ〜ん」

 俺は照れることもなくそれを頬張った。

「……そんな普通そうにされると、やり甲斐がないなぁ」

「もう付き合い始めて丸二年だろ? 今さらそのくらいで照れないわな」

「あっそ、まあ、いいけどさ」

 若干不機嫌そうに言ったしずくは、同じ爪楊枝でタコ焼きを刺すと、それを一口で頬張る。

 それからしずくは次々とタコ焼きを自分の口に放り込んでいくと、あっという間に最後の一つに手をつけた。

 時間をかけて咀嚼し、ゴクンと飲み込んだところで、しずくは口を開く。

「──でも、もうそんなになるんだね」

「え?」

「私たちが付き合い始めてから、もう二年」

「ホント、長いような短いような、だよな」

「私が怜くんに告白したのも、この夏祭りだったよね」

「そうだな。かなり昔のことなんだけど、不思議と鮮明に思い出せるんだよなぁ」

 二年前の夏祭り、花火が終わって帰ろうとしたタイミング。本当は俺の方から告白するつもりだったのだけれど、しずくに先を越されてしまった。まさかしずくの方から告白してくれるなんて思っていなかったから、その言葉を聞いたときは頭が真っ白になった。結果として、かなりグダグダな返事をしてしまい、当時はカッコ悪いところを見せたと落ち込んだものだ。まあそれも、今となってはいい思い出だけど。

「告白と言えば、あの時の怜くんの焦りようは傑作だったなぁ。今思い出しても笑えてきちゃうよ」

 そんなことを言いながら、しずくはクスクスと笑いを堪えきれずにいる。

「そういえばさ……あの時、どうしてしずくから告白してくれたんだ?」

 しずくと仲良くなったきっかけも、俺から話しかけて生まれたものだったし、しずくとの関係性を進める上において、主導はいつも俺だった。だからこそ、俺もしずくの告白に驚いたわけで。

 しずくはしばし考えた後、ゆっくりと語り出す。

「怜くんは知らないかもしれないけどさ、子供の頃の私は今より元気で活発な女の子だったんだ。小学生の時にお母さんが死んじゃってから、少し塞ぎ気味になっちゃっただけで。おばあちゃんはそんな私を気にかけてはくれたけど、どうしても暗い気持ちは消えなくて……。そんな時、怜くんに出会ったんだ。真っ直ぐで、素直で、元気で、まったく喋らない私にも、いつも話しかけてくれて。私にとって怜くんは、太陽みたいな存在だったよ」

「……にしては、最初の頃はウザがられてたような覚えがあるけど」

「まあ、最初はね。なんだこの人っていう警戒が強かったけど、段々と話すようになって、気づけば目で追うようになっていて、いつの間にか、好きになっていて。こはくにも言われたよ、よく笑うようになったねって」

 ま、つまりね。

 しずくはそう言うと、俺の方を向いて、微かな照れ笑いを浮かべて続けた。

「私の方が怜くんに惚れ込んじゃってたの。絶対、離したくないって思っちゃったから、気付いたら告白しちゃってたよ」

 暗がりの中、初めて聞いたしずくの話に、俺は照れを隠せない。

「えと……その……」

 俺がどう返そうか戸惑っていると、唐突に花火が打ち上がる音が聞こえた。

 いつの間にか、時間になっていたらしい。

 高く、か細い音を発しながら、花火玉は一気に夜空を駆け上がる。

 そして、腹の底に響く重低音と共に、夜空に花が浮かび上がった。

「きれい……」

 うっとりとした表情でしずくは呟いた。その横顔は何色もの光で照らされている。

 ギュッと、俺はしずくの手を握る。

 しずくも、俺の手を握り返す。

 ──来年も、再来年も、その次も、ずっとずっと、二人でこうして花火が見られるといいね。

 二年前、付き合い始めたその日に、しずくは俺にそう言った。

「ずっと、見れるさ。きっと」

 花火の音で、俺の呟きはしずくに届く前にかき消される。

 ──一生しずくを大切にする。

 いくつもいくつも大輪の花を咲かせる夜空に、俺はそう誓いを立てた。


 ──そして、幸せな夢は、そこで終わった。


 ◆

 

「……さん、成宮さん、成宮さん!」

「……っ、うぅ……ああ?」

「ああ……じゃないですよ、まったく! いくら呼びかけても全然目を覚ましてくれないんですからっ」

 寝起きにガンガンと痛む頭に、キンキンとうるさい声が響いてくる。

 やけに重い体を起こし、状況を確認する。

 ここは、大学近くの自分の家。時間は、夕飯時。目の前には、エプロン姿の幼気な少女。

 リビングの机からカレーのいい匂いが漂って来て、俺は腹を鳴らす。そこでようやく意識が覚醒し、俺は現在のことを思い出した。

「悪い……熟睡してたな」

 目の前の少女にそう言うと、俺はベッドから降り、テーブルの前に座る。

「寝起きですけど、食べられますか?」

 少女も同じようにテーブルの前に座る。

「ああ、なんかすげぇ腹減ってきた」

「なら、いいですけど」

 さして気にする様子もなく、少女はカレー用のスプーンを手に取る。いただきます、と律儀に言ってカレーに手をつけようとしたところで、少女は手を止めた。

「どうした?」

「お茶を用意するのを忘れてました。ちょっと取ってきますね」

 そう言って少女は一度机を離れていった。

「ふぅ……」

 あまり長い時間は寝てないはずなのに、何故か頭が痛む。

 ……そういえば、少し昔の夢を見ていたような気がする。

 一年前の夏。大学から帰省してきたしずくと、一緒に夏祭りに行ったあの日の夢だった。

 夢は二人で花火を見たところで終わってしまった。

 あの後は、確か二人でしずくの家に帰って……俺はそのまま泊まったんだっけ。

 ──来年はさ、怜くんも私と同じ大学に来るんだし、二人でそっちの花火大会も行こうね。

 あの夏祭りからの帰宅途中、しずくは俺にそう言った。

 地元の夏祭りと、都会の花火大会。二人でどっちも楽しもうと、その言葉で俺はまた、勉強を頑張ることができたし、無事大学にも合格した。

 けれど、その大学にしずくの姿はもうなかった。

 二人で夏祭りに行くと言う約束は、もう二度と叶うことはなくなってしまった。

 ……嫌なことを、思い出したな。

 今年の花火大会はきっと、大森たちと出かけて、浴衣の可愛い女の子を適当にナンパでもするのだろう。結局、ナンパは失敗して、男だけの夏祭りとなるのだろうけど。  

 あいつらは気の知れた仲間だ。そんな奴らと一緒に過ごす夏があったって、きっと悪くない……はずなのに。

「あれ、わざわざ待っててくれたんですか?」

 そんなことを考えていると、麦茶の入ったコップを持った少女が帰ってきた。

 俺がまだカレーに手をつけていないのを見て、待っててくれたと思ったらしい。

「折角作ってもらったのに、俺だけ食い始めるのもな」

「……意外です。そんな気遣いも出来たんですね」

「だから、俺をなんだと思ってるんだ」

「いえ、いつまでも母親のスネをかじり続けるニートみたいなもんだと。わたしはきっと死ぬまで使い潰されるものだとばかり」

「相変わらず失礼なやつだな……てか、お前はもう死んでるだろ」

「……なんですか、幽霊ジョークとでも言うつもりですか。おもしろくないのでやめてください」

「言ったのお前だろ……」

「って、もう無駄話はいいですから。食べますよ。はい、いただきます」

 少女は無理やり話を中断させると、今度こそカレーを食べ始めた。

 俺も小さな声でいただきますと言い、スプーンを手に持つ。

 目の前でカレーを頬張る少女は、心から幸せそうな表情を浮かべている。

 しかし……本当にこの少女からはしずくの面影を感じない。

 椎名から聞いた話で、この少女が白瀬しずくであることはわかっている。

 けれど、あの夢を見た後となっても俺の知っているしずくとは結びつかない。

「まあ、その方がありがたいが……」

 俺は小声で呟く。

 しずくはもう、死んでしまっている。

 俺はその事実から、今までずっと逃げて過ごしてきた。

 そうすることで、自分の心の平穏をどうにかして保ってきたのだ。

 ……そうすることしか、できなかったんだ。

「あれ、食べないんですか?」

 ずっとスプーンを持ったまま考え事をしていた俺に少女が言った。

「あ、いや、食べる食べる」

 俺はスプーンでカレーをすくい、それを口に運ぶ。

「……っ」

 少し辛めに味付けされた、濃厚なカレーだった。ルーに対して具が多めなのも特徴的だ。

 思わぬ味に驚いた俺は、ゆっくりと時間をかけて咀嚼し、飲み込む。

「どうですか? ちゃんと出来てます?」

「……ああ、美味いよ」

 少女の問いに、俺は少し間を置いて答える。

 俺としては、いつも通り、何気ない口調でそう言ったつもりだった。

「そうですか──」

 だけど、相槌を打って俺の顔を見た少女は、まるでゾンビでも見たかのような驚いた表情で固まった。

「……どうした?」

「どうしたって……成宮さんこそどうしたんですか?」

「は……俺は至って普通──」

 そして俺は、ようやく気付いた。

 頬に不思議な感触があったので、スプーンを持ったまま手の甲で触れてみる。

 手の甲に付着したのは、透明で温かい液体。

「成宮さん、どうして泣いてるんですか……?」

 心配と不安の入り混じった声音で、少女はそう言った。

 俺の頬を伝い落ちた涙は、カーペットに垂れて、いくつものシミを作っていた。

 それに気が付いて、涙を止めようと思っても、自分では思うように制御できない。

「あれ……俺、なんで……こんな」

 何度も何度も目をこする。

 けれど、溢れ出る涙は止まらなくて。

 しずくが死んだと聞いた時、俺が感じたのは、悲しみではなく虚無感だった。

 悲しみに浸る余裕すらなくて、自分の心をどこに置けばいいのか、ずっとわからなかった。

「もう……なに泣いてるんですか」

 呆れた様子で少女が席を立ち、俺の隣に座る。

 頭に手を置き、優しくそっと撫でてくれた。

 この少女は、しずくの幽霊で──俺の彼女だったしずくは、もうこの世にはいない。

 俺はしずくの死という事実を、数ヶ月越しに実感していた。

 ようやく感じることのできた、悲しみだった。

 少女が俺の頭を撫でる手は、あの時繋いだ手のように、温かくて。

 少女が作ってくれたカレーは、俺のよく知る味がした。

 ……俺と一緒の高校に通い、恋人になり、幸せな日々を過ごした、あのしずくは、もうこの世にはいない。

 それでも、今俺の隣にいる存在は、確かにしずくだったから。

 この涙を止めることは、どうしても、出来なかった。


迷宮入りのゴーストガール ②


 とある週末の日曜日。

 俺と少女は今日、珍しく二人揃って外出していた。

「椎名さんとの待ち合わせ、喫茶店でしたっけ?」

「そう。椎名に指定された場所だから、俺も行くのは初めてなんだけど──」

 スマホのマップ機能を使い、俺たちは目的地の喫茶店へと向かっている。

 すでに二十分近く歩いている俺は、もう疲労困憊。額にはジトリと汗が滲んでいる。

 一方で隣を歩く少女は涼しげな表情をしている。ミンミンとうるさいセミにも慈愛の眼差しを向ける余裕すら見て取れた。

「その麦わら帽子って、被るだけで結構違うもんか?」

「さぁ……あってもなくてもわたしの体感は変わりませんが。いかんせん幽霊ですし、その辺りの感覚は当てになりません。成宮さん、被ってみますか?」

 ほいと、ためらう様子もなく少女は俺に麦わら帽子を差し出す。

 俺の方は一瞬ためらったが、折角の好意を無碍にするもの気が引け、受け取る。

 被ってみると、確かな涼しさが得られた。日差しが遮られることで、体感温度はグッと下がった。帽子の素材的にも蒸れることがないし、快適だ。

「なるほど。これはいいものだな。……俺も買おうかな」

「え……やめてくださいよ。何が嬉しくて成宮さんとペアルックみたいなことしなきゃならないんですか」

「別にいいだろ……俺たちの他に誰が見るわけでもない」

 二人だけでいると忘れがちになるが、この少女は幽霊だ。二人で同じような麦わら帽子を被ろうが、他人からは俺一人だけしか見えない。

「それでも嫌なんです! 確かに、成長した後のわたしは成宮さんとお付き合いしてたのかもしれません。ペアルックだって辞さなかったでしょう。でも、今のわたしにはそんな記憶はないんですからっ」

 そこんとこ、忘れないでください。と、少女は付け足して、ずんずんと一人で歩いていく。

 俺とのペアルックが随分気に入らなかったらしい。もちろん、当の俺にそんな気はなかったのだが。

「何してるんですか、早く来ないと置いて行きますよっ」

 俺より数メートル先に進んでいた少女が、振り返って不機嫌そうに言う。

「いや……そっちじゃなくて、こっち」

 俺は少女の進む先とは別の道を指差した。

「……」

 少女は黙って、俺の方へと引き返してきた。

 すれ違いざまに肘打ちをされた。  

 ……理不尽な世界だ。

 

 それから先は特にこれといった会話もなく、ただ無言の時間が過ぎる。

 麦わら帽子は、もう少女に返した。というか、強奪された。

「……」

 前を歩く少女の後ろ姿をぼんやりと眺める。

 この少女が、しずくの幽霊であるというのは間違いない。でも、だからと言って俺の知っているしずくと全く同じというわけではない。それは先ほど少女が俺に言った通りだし、俺の方も、普段こうしている分にはしずくの影は感じない。だから俺も、この少女のことを『しずく』とは呼ばない。というか、呼べない。

 それでも、この少女はしずくの幽霊なのだ。何度も言うが、その事実が揺らぐわけではない。

 今、改めて整理してみても、不思議な関係だと思う。

「椎名さんって、しずくさん……まあ、わたしと一年間同じ大学に通ってたんですよね?」

「そうだな。浪人した俺以外、しずくと椎名が同じ学部学科だよ。だから、事故当時のしずくの動向についても、詳しく知ってると思うんだ」

「ですね。まあ、椎名さんも警察に事情聴取はされたでしょうから、新しいことはわかりそうにないですけど」

「正直、俺は事故のことすら曖昧だからな。とりあえずはその確認だよ」

 今日、俺は椎名と待ち合わせをしている。

 しずくが死んでしまった、半年前の事故について、色々と話を聞きに行こうとしているのだ。

 警察の方では、もう捜査は打ち切られている。

 俺たちがそんな事故を今更になって、どうして掘り起こそうとしているのかというと──事は、十日ほど前に遡る。


 ──あの日、少女が俺にカレーを振る舞い、俺がみっともなく号泣してしまった日。

 しばらく慰めてもらい、ようやく泣き止んだ俺に少女は言った。

「椎名さんに写真の確認してもらってないって言うの、あれ、嘘ですよね?」

 俺は目を逸らしたけれど、少女の追及を振り切る事は出来なかった。

「バレてたのかよ……」

「確証はありませんでしたが、なんとなくは」

「……」

「成宮さんの元恋人であるところの、しずくさんの幽霊──それが、わたしの正体だってことですよね」

「……ああ、恐らくな」

 詳しい事はさておき、この少女が何らかしずくに関連のある存在だというのは間違いない。

「……そう、ですか」

 少女はしばし考えた後、不思議そうに呟いた。

「どうした?」

「あ、いや……正体がわかったもんだから、もしかしたら記憶も戻るんじゃないかと思ったんですけど。期待外れでしたね」

「そんな簡単にいけば、苦労はないわな」

「ですよね……ま、記憶は戻らないにしても、わたしがいつ、どうして、どんな風に死んでしまったのかはわかるわけですし」

 そう言った少女は、期待を込めた目線で俺の方を見つめてくる。

 しかし、当の俺は微妙な表情を返すことしかできなかった。そういえば、この少女にはしずくの死についてあまり詳しくは語っていなかった。 

「あーいや、それなんだが……実は、しずくの死に関しては、俺もよくわかってないんだ」

「……はい?」

 想定外の返答に、少女は困惑した様子で聞き返してきた。

「しずくさん──わたしって、確か事故死なんですよね?」

 椎名が来た時に口にしていた言葉をちゃんと覚えていたらしい。

「ああ。それは間違いないんだが……」

「なんですか、歯切れが悪いですね。ちゃんと説明してくださいっ」

「……しずくは、確かに事故死だ。山道から転落して、水辺の岩場で頭を強く打ったことが直接の死因だったと思う」

「なら──」

「──でも、しずくの死には、あまりにも不可解なことが多いんだ」

「不可解なこと、ですか?」

「ああ、一見すれば普通の事故死だが、事件前のしずくの行動は、俺や椎名から見ても意図がわからないんだ」

 警察は早々に事故死と断定して、捜査は打ち切られてしまった。

 でも、それ以上にしずくの身には何かが起こっていたとしか考えられない。

 それほどに、しずくの事故は不可解で、そして謎めいていた。

「つまりは、私が何を思って、どう行動して死に至って、そして幽霊になったのか。その一番重要な部分がわからないと」

「そうなるな。だから、お前の期待に添えるようなことは教えられそうにないんだ」

「マジですか……」

 悩ましげに呟いた少女は、腕を組んでしばし熟考する様子を見せた。 

 しばらく唸った後、少女はゆっくりとした口調でこう言った。

「──これから、成宮さんはどうしたいですか?」

「どうって……」

「わたしは、前に言った通りです。自分がどうして幽霊になってしまったのか。それを、知りたいんです」

「……確かに、言ってたな」

「だから、例え無駄になるとしても、わたしが死んでしまった事件を自分の手でもう一度調べてみたい。成宮さんは、どうですか?」

 ……ずっと、蓋をしてきたことだった。

 しずくの死については、なるべく考えないようにしてきた。

 時間が傷を癒すものだと思っていた。

 でも、そんなことはなかった。

 結局今も、俺の胸は痛み続けて、大学生活にまでも支障が出ている。

 椎名に叱咤激励されてしまったのが良い例だ。

 このままで良いなんて思ってない。

 俺だって、出来ることなら再起したい。このままでは、しずくに申し訳が立たない。カッコだってつかない。

「わたしは……ずっとこのままは、嫌なんです。わたしと言う存在に、どんな形でもいいから、決着をつけたいんです」

「それは、成仏したいってことか……?」

「それが納得できる決着なら、受け入れるつもりです。そのためにも、わたしは自分の死の真相を知りたい」

 少女の瞳からは強い決意が感じられる。自分自身のことから、何があっても目を逸らさない。そんな尊い強さだった。

「俺にも……やれるのかな」

 俺は、この少女のように強いわけではない。

 しずくのことは、もちろん知りたい。

 でも、最初に胸に湧いてくるのは行動する勇気ではなく、臆病な不安なのだ。

 そんな俺の弱気を振り払わんとするように、少女は俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、肩を強く掴んできた。

「できますっ。一人じゃ無理でも、二人ならきっと」

「でも……俺なんかじゃ」

「なんかじゃないですっ。わたしは、成宮さんがいいんです。成宮さんがやることにこそ意味があると思いませんか? わたしたちが出会ったのは、きっと偶然なんかじゃないから」

「そう、なのかな」

「はい、わたしの命に賭けても、絶対です」

 少女は、胸に手を当ててそう言い切って見せた。自分の言葉を信じて疑わない、眩しい少女の姿がそこにはあった。

 ……まだ、俺自身はダメダメなままだ。臆病だし、ダラしないし、ネガティブだし 。

 でも、この少女の瞳は、俺にささやかな勇気を分けてくれた。

「まったく……お前、本当に無茶苦茶だよ。というか、幽霊がどうやって命をかけるってんだよ」

 思わず笑みをこぼしながらそう言うと、少女も応えるように笑ってくれた。

 ……もしかすると、俺はずっとこんな機会を待っていたのかもしれない。自分の力でまた立ち上がれるような、そんな機会を。

 きっと今が、やるべき時だ。

「わかった」

 気づけば、口を開いていた。

 もう、決意は固まった。

「お前のやりたいこと、俺にも手伝わせて欲しい」

「はいっ」

 二人、固く握手をする。

 この少女の──白瀬しずくの死の真相を知りたい。

 そんな共通の目的のための協力関係が、今ここに結ばれた。


「お、ここか」

 迷路のような住宅街を練り歩いた先の、人気のない路地。そんな、立地としては考えうる限り最悪の場所に、その喫茶店は佇んでいた。

「へぇ、雰囲気の良さげな店ですね」

 こじんまりと、落ち着いた雰囲気のある店だった。大繁盛はしていないけれど、近所の人が常連としてやってくるような、そんな感じ。

 俺から椎名に、しずくのことで聞きたいことがある、という旨のメッセージを送ったところ、

『私からも話したいことがあって、いい店を知ってる』

 そう返信が来て、俺はそれに乗った。

 こんな辺鄙な場所にある店を知っているということは、椎名の家はこの近くにあるのだろうか。付き合いは長いが、自宅の場所は頑なに教えてもらえない。

「じゃあ、行くか。あと、ついてくるのは別に構わないが、くれぐれも邪魔だけはするなよ? 俺が椎名と話してる間はなるべく静かにしててくれよ」

 俺は少女にそう釘を刺す。

 少女が黙って頷いたのを確認して、俺は喫茶店に入った。

 カウンターが数席と、テーブル席が三つ。そのテーブル席の一番奥に椎名の姿を見つける。様子を見る限り、勉強をしているようだった。

「よう」

 近づいて、声をかける。

「あ、成宮くん」

 俺に気づいた椎名は、勉強道具を片付け、スマホで時間を確認する。

「約束の時間ギリギリね。遅れていたら昼食を奢ってもらっていたところよ?」

「細かいなぁ……別にいいだろ、遅れてないんだし」

 文句を言いつつ、俺も席に座る。少女も黙って、俺の隣に座った。

「何か頼む?」

 メニュー表を指して、椎名が言った。

「そうだな、じゃあ、飲み物だけでも」

 見たとこ四十代くらいの男性の店長さんが注文をとりに来てくれ、俺は椎名と同じブレンドを頼んだ。コーヒーはあまり得意ではないけれど、椎名の手前、ミルクというわけにもいかない。

「別に見栄なんか張らなくていいのに。コーヒー、苦手じゃなかったっけ?」

「最近飲めるようになったんだ。苦味の奥に隠れた、うまみ? みたいな」

「……まあ、砂糖とミルクはあるから」

 そう言って、椎名はブラックのコーヒーを優雅に飲む。その姿はまさに大人の女性だ。

 しばらくしてコーヒーが出され、俺は二口目にはミルクと砂糖を大量投入した。プライドなんかない。

「そういえば、成宮くん、テスト勉強は大丈夫なの?」

「まあ、ちょっと……どころじゃなくヤバいかもな」

 椎名から話を振られ、俺は答える。

 しずくのことで聞きたい事は色々あるが、今はこのコーヒーを倒すことが先決だ。それまでは、適当に雑談に興じよう。

 夏休み前に控えている、期末テストのことに始まり、俺の単位がヤバいこととか、俺の生活がヤバいこととか、俺の留年がヤバいこととか……。

 話題が軒並み暗い……楽しい話題でも繰り広げるはずが、椎名のお説教タイムになっていた。出されたコーヒーの苦味が一層身に染みるようである。

「本気で単位がヤバいようだったら、私が勉強見てあげるし、過去問も提供できるから──」

「あ、あの、椎名さん。そろそろ本題に入ってもいいですか……?」

 あまりに居た堪れなくなってきて俺はそう切り出した。

 心なしか、隣に座る少女の目が段々と俺を軽蔑するものに変わっていた。怖くて隣が見れない。

「ああ、そう言えばそうだったわね」

 椎名はようやくその矛を収めてくれた。

「確か、しずくについての話を聞きたいんだったっけ?」

「ああ、あいつの死には不審な点が多く残っている。それを俺なりに調べ直したいんだ」

 この話がしたいということは、事前に椎名には伝えてある。それなりに準備もして来てくれただろう。

「……あなたがどうして急にしずくの死の再調査なんてことをやり始めたのかは知らないけれど、ちょっと長い話になりそうよね?」

「まあな。だからこうして直接話してるわけだし、椎名も落ち着いて話せる喫茶店を紹介してくれたんだろ?」

「ええ、まあ、そうね」

 そう相槌を打ちながら、椎名はコーヒーを飲む。

 何かを勿体ぶっているような、もしくはタイミングを測っているような、そんな間だった。

「だったら、先に私の用事を済ませてしまっても構わない? 私の方は、すぐに終わるからさ」

 そう言って、椎名はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。

 空になったカップを置くと、おかわりを注文するでもなく、椎名はカバンを開けて何かを取り出そうとする。

「時間はあるし、椎名の用事からでもいいけど、一体なんの──」

 ──一体なんの用事なんだ?

 そう訊こうとしたけれど、俺は続く言葉を飲み込んだ。

「それはね──」

 椎名がカバンの中から取り出した物を見て、俺は固まったのだ。

 隣に座る少女も、同じく息を飲んだのがわかった。

「拳銃……?」

 少女が小さく呟いた。

 見間違いなどではない。確かに、拳銃と呼ぶのが適切な物だった。

「お、おい、椎名……?」

 モデルガン……? という考えが頭に浮かぶが、それはすぐに消え去る。

 椎名がそれを持ってくるとは思えなかったし、何より目の前の椎名の様子はとてもじゃないがふざけているようには見えなかった。

「拳銃……ええ、そうね。ただし、これは普通の拳銃とは少し違うのだけれど」

 椎名は銃の安全装置を外しながらそう言った。

 一見すると、普通の返答だったけれど、それが有り得ないということを、俺は見逃さなかった。

「椎名……お前、誰に向かって話してるんだ?」

 拳銃──と口にしたのは幽霊の少女。椎名には見えていないし、聞こえてもいない……はず。

 ぞわりと、冷や汗が背中を伝う。嫌な予感がしてたまらなかった。

「誰って、成宮くんにも見えてるんでしょう?」

「な、何が……?」

「とぼけても無駄よ。私には全部、わかってるんだから。ねえ──」

 椎名は、銃を持ち上げると、その照準を標的に向かって構えた。

 銃口は、俺には向いておらず。

「──そこの幽霊さん」

 冷徹な表情で、椎名は言った。

 その狙う先は、俺ではなく、隣に座る幽霊の少女だった。

「え……?」

 突然自分に向けられた銃口に、少女は困惑と怯えを隠しきれずに固まっている。

 自分は幽霊だから椎名には見えていない。その根底が崩れ去り、状況を理解できていないようだった。

 そしてそれは、俺も同じ。

「し、椎名……お前、何やってんだ?」

「……初めから私の目的は、そこにいる幽霊だったのよ。悪かったわね、成宮くん。騙すようなことして」

 そう答える椎名の表情はあくまで冷たく、俺は椎名の思考をいまいち読み取れない。

「いやいや、意味わかんねぇよ……! いや……は? おい椎名、そんなアホなことしてないで説明してくれよ」

「説明……まあ、一から説明すると面倒くさいから端的に言うと、そこの幽霊を成仏させることが目的よ。十中八九、あなたが今日ここにその幽霊を連れてくることはわかってたから、利用させてもらったの。この銃で撃ち抜かれた幽霊は、その場で成仏することが出来るの。簡単に言えば、そんなとこね」

 幽霊、成仏──椎名の口から出るとは、露ほども思っていなかった単語。その椎名が、今は少女を成仏させようと、銃を構えている。

 状況だけ説明すれば、そういうことになるのだろうが、俺は理解が追いつかない。

 そんな俺に、椎名はさらに追い討ちをかける。

「とはいえ、今すぐとはいかない。こっちにも色々準備がいるから。だからさ、成宮くん。この幽霊、私の方で預かっても構わない?」

「……は?」

 突然の提案に、俺は困惑の表情を向ける。

「だから、この幽霊は私の方で成仏させておくから、私に引き渡しても構わないでしょ? って、聞いてるんだけど」

「いやいや……え、引き渡す?」

 椎名が何を言ってるのかわからず、俺は隣に座る少女に視線を向ける。

 少女は、不安に満ちた表情で俺の方を見つめていた。

「成宮さん……」

 少女からは聞いたこともない、か細くて頼りない声音だった。

 ……今、この少女を守ってやれるのは、俺しかいない。

 直感的に、そう思った。

 ……まだまだ疑問はいっぱいだ。椎名のことも、その銃のことも、この少女のことだって。

 だけど、今はそんな事を言っていられる状況ではない。

 俺は、精一杯の強がりで、椎名に向かって敵対の意思を──

「──そこまでだ」

 パンッと、強く手を打つ音が聞こえ、俺は我に帰る。

「……え?」

 この店にいる存在を一人、忘れていた。

 この喫茶店の店長さんだ。

 無精髭を生やした、くわえ煙草が似合いそうな強面の店長さんは、いつの間にか俺たちのテーブルの真横に立っていて、険しい視線を椎名に向けていた。 

「光莉、気持ちはわかるが、焦りすぎだ。まずはその銃を下ろせ」

 なんとも、威圧感のある声だった。

「……いや、でもっ」

「下ろせ」

「……はい」

 スッと、椎名は構えていた銃を下げ、それをテーブルの中央に置いた。

 俺は改めて銃を観察する。確かな重量と質感があって、これが先ほどまで少女に向いていたのかと思うとゾッとする。

 椎名がすっかり大人しくなったのを確認した店長さんは、椎名の隣、少女の真向かいに腰を下ろした。

「悪かったな、君たち。驚かせただろう」

 先ほどまでの圧迫感とは打って変わった、優しげな声音だった。力を抜いたように微笑むこの人は、椎名に相対していた時とはまるで別人だ。

「あ……いえ。というか、あなたもこいつが見えるんですね」

 俺は少女を指し示して言った。

「まあな。店に来た時からずっと、見えてたよ」

 霊感、というやつなのだろうか。

 少女は、俺意外に存在を認識された試しはないと言っていたが。

「椎名……それと、あなたも、一体何者なんですか? こいつを成仏させるだとか、それにここに来るのが仕組まれてたみたいな言い草も、この銃だって──」

「──まあまあ、落ち着けよ」

 次から次へと疑問が溢れ出る俺だったが、店長さんに宥められて言葉を止めた。

「疑問は色々あるだろうが、ゆっくり説明しようじゃないか。コーヒー、おかわりいるか?」

「あ、と……カフェラテでお願いして良いですか?」

「はいよ。そっちの嬢ちゃんは?」

 その店長さんの言葉に、少女はビクッと体を震えさせた。体を強張らせてずっと俯いているあたり、まだ緊張が抜けていないらしい。

「そんなに怯える必要はないさ。俺たちはキミのような幽霊の味方をすることはあれど、敵対することはないよ。光莉も、決して悪意はないんだ」

「あ、あの……今ここでその銃で撃たれて、成仏とかは……」

「しないよ、約束する」

 その言葉で、少女はようやくほんの少しの安堵を得たようだった。

 小さくホッと息を吐いた。

「何か、飲むかい?」

「えと、ミルクを貰っても、いいですか?」

「了解。ちょっと待っててな」

 カウンターに向かった店長さんを見送り、テーブルには元の三人が残される。俺と椎名と、幽霊の少女。

「えと……なんだ、椎名さ」

 あまりに気まずい空間に、俺は耐え切れず口を開く。

「なによ」

 ぶっきらぼうな口調。テーブルに肘をついて、窓の外を眺めている。俺たちとは目を合わそうともしてくれない。

「前に俺の部屋にきた日、あの時からこいつのことは見えてたのか?」

「そうよ。探していた幽霊があなたの部屋にいた時は驚いたけど、気取られないようにしてたの」

「こいつがしずくの幽霊だってことは、最初から知ってたのか……?」

「まさか。それは成宮くんがしずくの写真を見せてくれた時に知ったのよ。状況的には、あなたと同じね」

「そうか……じゃあ、なんでお前はしずくの幽霊にいきなり銃を向けたんだよ」

 強く咎めるような視線を向けると、椎名はバツが悪そうに顔を伏せた。

「それは、この幽霊を成仏させるためで……」

「そうじゃない。お前、なんかこう、まるで親の仇でも見るような目だったじゃねぇかよ。こいつは、しずくの幽霊なんだぞ? 高校、大学でも、お前ずっとしずくと一緒だったじゃねぇか。それがなんで──」

 椎名は、グッとこらえるような表情で、唇を噛み締めている。

 何か言いたことがあるのだけれど、絶対に言えないような様子だ。

「──盛り上がってるみたいだな」

 コトンと、四つのカップを乗せたお盆が置かれる。店長さんが、全員分の飲み物を淹れて戻ってきたのだ。

「あ……すみません。騒がしかったですよね」

「いいや、いいんだ。元より今日は、君達の貸し切りだからな」

 店長さんはお盆の中からブラックコーヒーを取ると、美味しそうにそれを飲んだ。

「ま、今日に関しては勘弁してやってくれ。光莉にも、色々あるんだよ」

「……わかりました」

 俺がそう言うと、店長さんは納得したように頷いて、俺にもカフェラテを取るように促す。そうして全員に飲み物が行き渡ったところで、店長さんは口を開いた。

「まずは、そうだな、自己紹介でもさせてもらおうか。俺の名前は黒岩吾郎。しがない喫茶店の店長と、副業で成仏師をやっている」

「成仏師、ですか……?」

「ま、幽霊を成仏させる仕事の総称だよ。光莉は、その見習いってとこだな」

 初めて聞く職業、初めて知った世界。自分の中の常識が一気に覆されていくその言葉の数々に、俺はどうにかついていく。

「そんな仕事があったんですね……まったく知らなかったです」

「そりゃあ、最低限秘密は漏れないようにしてるさ。それに、誰かに言ったところで幽霊なんて信じてもらえないだろう? 君も、実際に幽霊という存在を目の当たりにしなければ、俺の話なんかまともに取り合わなかったはずだよ」

「確かに、そうですね」

 実際、今までの俺は幽霊だとか妖怪だとか宇宙人だとか、そういう非科学的な存在には懐疑的だった。

 しかし、この幽霊の少女と出会ってからは、少しだけ考えを改めた。俺が無知なだけで、世界には人智の及ばない存在が溢れているのではないかと。そして、秘密裏にそういう存在に相対する人もまた、いるのではないかと。

 この少女は世界で初めての幽霊で、俺もまた世界で唯一、幽霊を認識することのできる人間。そんな運命的な話よりも、本当は幽霊は世界にたくさんいて、それに対処する人達も少なからず存在している。ただ、俺はそれを知らなかっただけ。意識的に、その世界から隔絶されていただけ。その方が、いくらか理に適っている。

 だから、いずれこういう展開が訪れるかもしれないと、想像していなかったわけではない。まあ、こんなに早く出会うことになるとは流石に思っていなかったけれど……。

「……それで、今回の仕事の対象が、こいつだと」

「そんな冷たく言ってくれるなよ。さっきも言ったが、俺たちは全面的に君たちの味方なんだ」

「でも、だったらいきなり銃を突きつけるなんて恐ろしいこと、するはずないじゃないですか」

 先程の椎名の行動で、少女は完全に怯えてしまった。あれが幽霊の味方をする人間のとる行動とは到底思えない。

「ま、そうなるよな。……俺たちは間違いなく、君たち幽霊の味方だ。でも、さっきみたいな強引な手段に出ざるを得ないこともある」

「それは……?」

 俺がそう訊くと、店長さん改め黒岩さんは、少女にちょいちょいと手招きした。

「ちょっと髪に触れるけど、いいか?」

「えと……それくらいなら」

 身を乗り出した少女の髪に、黒岩さんが触れる。少女の長いツインテールから一つの束を手にとり、俺たちに見せるようにそれを手の上に広げた。

「これが、何か?」

「気付かないか? ほら、よく見てみろ」

 言われるまま近づき、少女の髪をよくよく凝視してみる。普段にこんな真似をすれば、気持ち悪いだのロリコンだのと言われるが、今日の少女は大人しい。

「何も……って、あ、ここだけ、色が違う……?」

 少女の黒い髪束の中、僅かにではあるが、白い髪が混じっていた。

「これ、悪霊化の兆候なんだ」

「悪霊化……?」

 少女に礼を言って元の姿勢に戻った黒岩さんは、なんとも物騒な単語を口にした。

「イメージ通りだよ。その名の通り、悪霊になっちまうんだ。そうなったら最後、手をつけられない。だから光莉は、ちょっと焦ったんだな。こいつは悪霊に対してあまりいい思い出がないから──」

「──どうなるんですか?」

 突然、ここまで静かだった少女が口を挟んだ。

「悪霊になると、どうなっちゃうんですか?」

 この場にいる人物の中で、一番この話題に関係しているのは、もちろんこの少女だ。聞かずにはいられなかったのだろう。

「本当に、聞きたいか?」

「はい」

 黒岩さんの言い方からは、聞かないことをお勧めするようなニュアンスが伝わった。でも、少女は力強く頷いた。

「……まずは、徐々に自我を失っていく。自分が誰なのかわからなくなり、正常な判断が出来なくなってくる。しばらくして正気を失い、容姿も人間らしさを失っていく。皮膚は爛れ、髪は抜け落ち、眼玉は溶け落ちる。歯の抜けた口を半開きにしながら呻いている姿は──」

「──もういい、十分だ」

 想像以上の気味悪さに、俺は黒岩さんの言葉を止めた。今、俺の隣に座っている少女が、そうなる可能性を孕んでいるのかと思うと顚末は聞くに耐え難い。

「ま、個人差はあるが、ザッとそんなとこだ。君たちが今の言葉で想像したものと、そう遠くないと思うよ」

「……わたしも、そうなっちゃうんですか?」

 震えた声で、少女が言った。

「まだ、時間はあるさ。すぐにそうなるというわけではない。要は、そうなる前に成仏してしまえば良いという話だよ。そのために俺たちのような成仏師がいる」

「わたしは……どうすればいいんでしょうか……?」

「俺たちは、今すぐにでも君を成仏させられる手段を持っている。ここに置いてある銃だな。極論、今俺が引き金を引けば、数分後には君はこの世には存在していない」

「でも、そんなの……」

「だけれど、悪霊化という最悪な事態は避けられる」

「……っ」

「どうするかは、君が決めることさ。俺はあくまで選択肢を提示しただけ。君が成仏を先延ばしにしたいというのなら、ここにいる光莉を監視につけよう。もしものことがあれば、即座に君を成仏させられる。完全な悪霊になる前に、ちゃんとあの世へ行けるさ」

「ちょちょ、黒岩さん……っ⁉︎ 私が監視って、そんなの聞いてないんですけど⁉︎」

 これまで黙って話を聞いていた椎名が、ここで黒岩さんに異議を申し立てた。

「ま、これも勉強ってことだ。光莉は幽霊についてあまりにも知らなすぎる」

「えー……そんな勝手な」

「しかし、それもこれもこの少女の選択次第さ。……さて、君はどうする?」

 全員の視線が、幽霊の少女に集められる。

 少女は落ち着かない様子で、クルクルと自分の白髪をいじっている。悪霊化の兆候の、僅かな白髪。

「わた……わたしは、その……っ」

 少女はどうみても混乱をしているようだった。いきなり突きつけられた様々な情報に、頭が追いついていない。このままでは、勢いに流されてこの場で成仏する選択をしてしまうかもしれない。

「──おいっ」

 俺は、隣に座る少女の肩を、両手でしっかりと掴んだ。

「しっかりしろ。迷うな、お前のやりたいことは何だ」

「成宮さん……で、でも、早く成仏しないと、わたし、悪霊になんかなりたく──」

「思い出せ。お前は俺になんて言った」

「……っ!」

 ──わたし、自分が幽霊になった原因を知りたいんです。

 その言葉を発した少女は、本気で自分という存在に向き合おうとしていた。

 納得のできる決着なら受け入れるとも、言っていた。

 言葉で聞いただけの悪霊化を恐れて、この場で成仏してしまうという選択肢が、少女にとって納得のできるものだとは思えない。

 少女はしばらく逡巡した後、姿勢を正し、真っ直ぐな瞳で前を向く。

「わたし……わたしは、まだやっぱり成仏するわけにはいかないです」

 しっかりと、そう言い切った。

「……」

 続く少女の言葉を、俺たちは全員で黙って聞く。

「わたしには、まだやるべきことがあるんです。自分の死と、幽霊になったという事実と、ちゃんと向き合いたい。そうじゃなきゃ、死んでも死ねないです」

「本当に、それでいいのか?」

 その黒岩さんの言葉にも、少女は確かな決意で答える。

「はい。それに、今わたしがいなくなったら、成宮さんが困っちゃいますからね」

「まあ、二人でやってくって決めたしな」

「それもそうですけど、わたしがいないと成宮さんの部屋は汚くなる一方ですから」

「……確かに」

「だから、まだ死ねません。それに、わたしには成宮さんがいますから。決してひとりじゃ、ないですから」

 胸に手を当て、そう宣言した少女は、もう迷うことも恐れることもなかった。

「……随分と、この人のことを信用してるのね」

 ポツリと、気に入らなさそうに椎名が言った。

「一応は、わたしの将来の恋人だそうですからね」

「……ふぅん、なんでもいいけど」

 そう吐き捨てた椎名ではあったけれど、別段少女の言葉に反論する様子もない。

 結論は、出たということだ。

「決まりだな」

 時を見計らって、黒岩さんが呟いた。

「というわけで、光莉。後のことはよろしく頼むな」

「……了解です」

 その椎名の返事を確認した黒岩さんは、空いたコーヒーカップを持って席を立つ。

「あれ、もう話はいいんですか?」

「いいも何も、この後は君たちと、それから光莉の問題だ。俺の仕事はここまでだよ。……君も、いい結末になるといいな」

 最後に少女にそう言い残して、黒岩さんはカウンターの方へ歩いていく。

「──あ、あのっ」

 その足を呼び止めたのは、少女の声だった。

 黙ってこちらを振り向いた黒岩さんに、少女は続ける。

「今日は、その、あ、ありがとうございましたっ。色々と教えていただいたり、後は、飲み物も、美味しかったですっ」

 少女は席を立ち、そう言って頭を下げた。

 黒岩さんはその少女の行動に、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。

「俺は何もしてないさ。決めたのは君の意思だ。まあ、また何か相談があるようなら、いつでもここに来るといい。店がやってなくても、ミルクの一杯程度は出してやるよ」

 その言葉を最後に、黒岩さんは店の奥へと消えていった。

 またもや、俺と少女と椎名の三人きりの気まずい空間が訪れる。

「それで? これからあなたたちは一体何をするつもりなの?」

 俺がどう切り出そうかと話題を探っていると、唐突に椎名が口を開いた。

「さっきも言った通り、まずはしずくの死の再調査だな。その後のことは、あんまり考えてないけど」

「そう。まあ、私はあくまで監視っていう立場だから、行動に口出しするつもりはないけど、基本的には同行させてもらうことになるわ」

「それについては、わかった……」

 俺たちの基本方針は変わらない。けれど、椎名や黒岩さんと話したことで、新たな懸念材料が出てきた。

「なに、どこか気にかかることでもあった?」

「あ、いや……悪霊化ってさ、ずっと成仏しなければ、必ずなるものなのか?」

「なるわ、例外なくね」

 その事実に、俺は顔を曇らせる。幽霊にしてみれば、なんとも救いのない話だと思った。

 果てに待つのは、悪霊化か……拳銃で撃ち抜かれての成仏か……。

「……けれど、まったく方法がないわけじゃない」

「え?」

 その言葉に、少女は即座に反応した。

「死んでしまった誰もが、幽霊になる可能性を持っているわけじゃない。この世に何らかの強い未練を残してしまった人だけが、幽霊になる可能性を秘めている。逆に言えば、その未練がなくなれば、幽霊には存在意義がなくなる」

「……つまり、未練が解消されれば、その銃で撃ち抜かれることなく成仏できるということですか?」

「そういうことね」

 その言葉に、少女は安堵した様子を見せた。ホッと小さく息を吐き、心なしか身体からも力が抜けている。先ほど、力強く宣言した少女ではあったが、不安が拭い切れたわけではなかっただろう。

 けれど、そこに一筋の光明が差した。

「でも、どうして今になってその話をしたんだ?」

「……前例が少ないからよ。その可能性に賭けて行動したとしても、その方法で成仏するのは難しい。だから、あまり言いたくなかったの」

「でも、不可能ではないんですよね」

「……ええ」

「なら、十分です。成宮さん──」

 少女が俺の名を呼んで、こちらを向いた。

 その力が漲った視線から、俺は少女の意図を察する。

「ああ。決まりだ、椎名。俺たちはその方法での成仏を目指す。手伝ってくれるか?」

「言ったでしょ、私は監視するだけだって。勝手にしなさい」

「……でも、一言で未練の解消とはいいますが、わたしの場合、何をすればいいんでしょうか?」

「そうだな……」

 少女には、白瀬しずくとして生きている時の記憶がない。つまり、未練が何なのかすら、はっきりとしないのが現状だ。

「別に、これまでと同じでいいんじゃないの?」

「というと……?」

「しずくの死の再調査。それで新しく何かわかるようなことがあれば、しずくの未練への手掛かりになるかもしれない」

「そっか、うん、そうだな」

「決まりですね」

 少女もその話に納得をしたようだった。

「となればやることは……って、今日最初にここに来た時と同じか。まだ椎名に、しずくについての話を聞いてなかったな。今からでもいいけど、どうする?」

「日を改めましょう。今日はみんな何かと疲れたでしょう? 一度、頭を整理した方がいいわ。それに私も、しずくについての話をまとめる時間が欲しいし。今日はその話をするつもりは最初からなかったから」

「ああ、そっか。じゃあ、そうしよう」

 俺の言葉に、少女も頷いた。今日、一番疲れたのは間違いなくこの少女だ。帰ったら、今日は俺が夕飯を作ってやってもいいかもしれない。

「日はまた追って連絡するわ。じゃあ、今日は解散ね」

 そう言って、椎名は席を立った。横に置いていたカバンをとって、そそくさと帰ろうとする。

「わたしの監視は、やらなくてもいいんですか?」

「今はまだ、悪霊化までは猶予があるし……それに、あなたも私と一緒にいるのは嫌でしょう?」

「どうしてですか? いきなりわたしに銃を向けたことなら、もう怒ってないですよ?」

「……それ、ホント? 気を遣ってるなら、遠慮しなくていいけど」

「本心ですよ。そりゃあ、最初はびっくりしましたけど、つまりは、わたしが悪霊になる前に助けてくれようとしたんですもんね」

 その言葉に、椎名は露骨に顔をしかめる。

「やっぱり、優しいのね……嫌になるわ」

 あの子を思い出して。

 小さな声で、椎名は呟いた。

 ……そこで、俺も気がついた。

 きっと椎名も、怖いのだ。

 もう終わってしまったしずくの死に、再び向き合うということが。

 その結果として、この少女を早く成仏させようと、あんな行動に及んだのかもしれない。

 そう思うと、椎名を責める気持ちには、どうしてもなれなかった。

「あの……さ」

 帰り際、椎名はこちらを振り返ると、珍しく弱気な態度で言った。

「今日は、ごめんなさい。急にあなたに銃を向けたこと、謝るわ。それと、成宮くんも、今日はごめんね」

「全然、気にしてません。ね、成宮さん?」

「……ま、椎名にも色々事情はあるだろうし、結局はこうして椎名と協力することになったわけだから、結果オーライだろ」

「そう、助かるわ。まあ、なに……これから宜しくね」

 これまでの固い表情とは一転、少しだけ頬を緩めて椎名は言った。

「じゃ、私は行くわね」

 簡単に別れの挨拶をして、椎名は一足先に喫茶店を出て行った。

 店の中には、俺と少女の二人だけが残された。

 隣に座っている少女が、グーっと大きく伸びをした。そして、一気に身体から力を抜くと、深々とため息をついた。

「最初にここに来たときは、こんな大変なことになるとは思ってなかったですよ。ほんっとうに、今日は疲れました……」

「みたいだな。とりあえず、帰ろうぜ。いつも世話になってるし、今日くらいは俺が夕飯を振る舞ってやるよ」

「あ、それはいいです。成宮さんの作るご飯とか絶対美味しくないので」

「ええ……」

 精一杯の優しさで言ったつもりなのに、なぜかダメージを負ってしまった。

 そんな俺の様子はお構いなしに、少女は席を立つ。

 ソファに置いていた麦わら帽子を被ると、さっさと出口の方へ歩き出した。

「何してるんですか、成宮さん。帰らないなら置いていきますよ」

「はいはい……今行くよ」

 二人で店を出て、並んで歩く。

 俺と少女の間に会話はない。けれど、俺はどこかその距離感に心地良さを感じていた。

 きっと、これからは少しだけ忙しくなるだろう。やらなければいけないこと、考えなければいけないことは山積みだ。

 でも、今この瞬間だけは、穏やかな時間が流れていて、

「成宮さん、今日の夕飯は何が食べたいですか?」

 俺の顔を覗き込んできた少女の姿が、ふと、しずくに重なった。

「なんでもいいよ」

「いやそれ、一番困るやつじゃないですかっ」

 ──愛しさやら、哀しさやら、切なさやら、懐かしさやら

 この少女といると、今まで俺が抱いてきた全ての感情をないまぜにしたような、言いようの無い気持ちが溢れてくる。

 それが良いことか悪いことか、俺には判断がつかなかったけれど、

「じゃあ、今日はカレーで」

 この少女が無事に成仏して、いなくなった後のことを想像してみると、少しだけ、寂しいと思った。


迷宮入りのゴーストガール ③ 


 七月も半ば。

 世の大学生たちは夏休みを前にして、命の次に大事な単位を落とさないため、必死でテスト勉強に励んでいる。

 俺の通っている大学でもそれは例外ではなく、今俺のいるキャンパス内のカフェでは、教科書を広げて勉強をしている学生の姿がちらほらと見受けられる。

 例外があるとすれば俺。もう既にいくつか単位を落としたことが確定している俺は、もう諦めモードに入っていた。大丈夫、大丈夫。二年から頑張れば問題ないから。

「成宮さんは勉強しなくて大丈夫なんですか」

「……今、必死になって脳内で言い訳してたところなんだよ。邪魔をするな」

「言い訳する暇があるなら、少しでも過去問に目を通しましょうよ」

「正論を言うな。俺は正論と努力とカレーに入っているちくわが何よりも嫌いなんだ」

「昨日のカレーのこと、まだ怒ってたんですか……」

 いくら余り物のちくわが冷蔵庫に入っていたとしても、それを考えなしにカレーにぶち込むのはいかがなものか。生前のしずくに対しても同じ文句を言ったことがある。

「というか、椎名さん遅いですね」

「そうだな。急いで来なければ、ケーキセットを奢らせてやろう」

 俺が今日ここに来ているのは、優雅に紅茶を飲みながら、必死でテスト対策に励む他の学生たちを遠巻きに眺めるためではない。椎名と待ち合わせをしているのだ。もちろん、しずくの話をするのが目的だ。

「──あ、あれ、椎名さんじゃないですか?」

 少女にそう言われ、俺は店の外に目を向ける。そこにはお決まりのパンツルックで優雅に歩いている椎名の姿があった。

 約束の時間はとうに過ぎているというのに、急ぐ様子はまったく見受けられない。

 椎名は店に入ると、コーヒーを一杯購入してから俺の席に悠々とやってきた。

「こんにちは」

 悪びれる様子もなく言う椎名に、俺はここぞとばかりに責め立てんと口を開く。

「おい、遅刻だぞ。時間は守れといつもうるさいのに、お前がそれを破ってちゃ世話ないな」

「……はあ?」

 俺の言葉に、椎名は要領を得ない返事をした。

「おいおい、なんだその間の抜けた返事は。……どうやら遅刻の自覚が足りないようだな。これは、罰としてケーキセットを奢ってもらおうかな。弁明があるなら聞くが?」

 俺としては、渾身のボディーブローを決めたつもりだった。珍しい失態に、あたふたしている姿を拝もうと思ったのだけれど、

「罰も何も、私、遅れてないんだけど……あなた、さっきから何言ってるの?」

「……はい?」

 腕時計で時間を確認する。十六時七分。約束の時間は十六時のはずだ。

「それ、少し進んでるんじゃない?」

 言って、椎名は自分のスマホの画面を俺に見せてきた。

 椎名らしく、デフォルト設定の壁紙に表示されていた時刻は、十五時五十四分。

「ええと……」

「とりあえず、謝ってくれる?」

「……すいませんでした」

「それだけ?」

「あ、ええと……好きなものを奢らせていただきます」

「ケーキセットで」

「あ、成宮さん。わたしも何か食べたいです」

「……あ、はい」

 俺は席を立ち、ケーキセットを二つ買った。

 税込1980円が飛んだ。


  

「──とりあえずは、状況整理から始めましょうか」

 たらふくケーキを食べて満足した様子の椎名は、様子を見計らってそう切り出した。

 ケーキの最後の一口に頬を膨らませている少女も、コクンと頷いて話を聞く体勢に入る。

「状況整理か……しずくのあの事件についてだよな」

「ええ。今一度、事件の流れを整理して、ここにいる三人で共有しておきましょう」

 そう言うと椎名は、カバンの中から紙とボールペンを取り出した。

 ペンのキャップを外すと、紙の右上に1月22日と書いた。

「しずくが死んだとされてる日か……」

「そうよ。時系列順にわかってることを追っていきましょうか」

 俺と少女の相槌を確認した椎名は、事件のあらましを順番に語り出した。

「事件の始まりは、この一月二十二日の朝八時ごろよ。朝早くに家を出たしずくは、最寄りの駅から地元に帰省するために電車に乗ったの。途中、新幹線のチケットを購入している場面と、昼の十二時半ごろに実家の最寄駅に降り立ったところが監視カメラで確認されているわ」

 しずくの事件については、疑問点がたくさんあるが、筆頭はこの帰省についてだ。

「ん、あれ、一月って大学の授業はやってないんですか?」

 口の中のケーキを飲み込んだ少女が、椎名の話を遮って疑問を挟んだ。

 それもそのはず。普通、大学生が地元に帰省するとなれば、夏休みや冬休みなどの長期休暇だ。冬休みが明けたばかりのこの時期に、わざわざ帰省する生徒も中々いないだろう。

「人によっては行かなくていいかもしれないけれど、しずくは授業が入ってたはずよ。土日でもなく平日だしね」

「ということは、大学を休んでまで帰省する用事があったと?」

「まあ、そうなんでしょうけどね……」

 少女の質問に、椎名は悩ましい表情を浮かべる。

「俺も椎名も、そもそもしずくがこの日に帰省したってことすら知らなかったんだ。だから、何の目的があったのか、それすらハッキリしないのが現状だ」

「ええ……成宮さんにもですか。当時の彼氏にすら秘密ってことは……まさか、浮気とか?」

「必死に調べた結果がその真実だったら、俺泣くわ……」

 俺もしずくのことは信頼しているが、当時は遠距離だったのも事実。俺の受験も追い込み期だったから、連絡もあまりとっていなかった。

 だから俺はこの事件についてあまり詳しくは知らないというのもあるが、そんな悲しすぎる結末だけは遠慮したいところだ。

「……ま、まあ、しずくに限って浮気はないと思うわ。側から見てても、成宮君以外の男は眼中にもないって感じだったし」

「しかし、そうでもないと、成宮さんに黙って帰省してきた理由が思い付かないですよ。……まあ、わたしも、生前の自分が遠距離の彼氏に飽き飽きして他の男になびくような軽い女だったなんて思いたくないですけど」

 浮気疑惑はともかく、少女がそう言うのもわかる。

 俺はともかく、大学でしずくと交流があった椎名でさえ見当がついていないのだ。

「そんな簡単にわかるなら、私たちもこんなに悩んでないわよ。だからこうして調査しようとしてるわけだし、疑問点の検討は後にしましょう」

 しずくの事件には、これ以外にもわかっていないことがある。この場で俺たちで議論していても、結論は出ない。

「えっと……昼過ぎに地元の駅に到着したとこからでしたっけ?」

「ええ、その後、次にしずくの姿が確認されたのは約十分後ね。人気の少ない田んぼ道を走っている様子を、巡回中だった駐在さんが目撃しているわ」

「走っている様子、ですか……? 歩いてる様子じゃなくて?」

「ええ、もっと言えば全力疾走している様子ね」

「全力疾走ですか……? まあ、田んぼ道を無性に走りたくなるというのはわかりますが、そうじゃないですよね?」

「駐在さんもしずくの様子を不審に思ったくらいだから、何か不測の事態が起こっていたのかもしれないわね。結局、その後しずくを追うことは出来なかったらしいから、それ以降のことは不明なのだけれど」

「でも、駅に着いて最初にすることと言えば、実家に戻ることですよね?」

「それに関しては、方向が全くの逆なのよ。しずくが消えていった方角は、店も民家もない森の方だしね」

「森……この中で死体が発見されたんでしたっけ?」

「ええ、駐在さんが見失った後は、姿を目撃されることもなく。翌朝、六時ごろに死体が発見されているわ」

「ううん……その死体の発見者は誰なんですか?」

「近くに住んでいたお爺さんよ。毎日通ってる犬の散歩コースで偶然発見したと言っているわ。検死結果によると、死亡推定時刻は十四時前後。山道から川に転落して、岩場に頭をぶつけたの。気絶して、血を流し続けて、そのまま死んだのでしょうね……」

「不運な事故……ということになってるんですよね」

「警察の見解ではね。でも、当然私たちはそんな風には思っていない。必ずこの事件には、私たちの知らない何かがある」

「知らない何か、ですか……」

「ええ。突然の帰省に始まったしずくの一連の行動。それらを考えてみると、しずくが私たちの知らない問題を抱えていた可能性は高いと思う」

 当時の俺は浪人生で、実家で勉強に励む毎日を送っていた。

 しずくなりに気を使ってくれたのかもしれないが、そんな大きな問題を抱えていたのだとしたら、いち早く俺に相談をして欲しかった。

 ……もしかすると、それが出来ない事情があったのかもしれないが。

「ちなみに、他殺の可能性とかってないんですか?」

「そうね……断定は出来ないけど、ほぼないと思っていいわ。明確な外傷があったわけでもないし。しずくが一人で帰省したことは、監視カメラからもわかっている。駐在さんがしずくのことを見つけた時も、周りに人はいないという話だったわ。……けれど私は、この事件にはしずく以外の誰かが関わっていたと考えているの」

「というと……?」

「死亡当時のしずくの持ち物。そこに、明らかに不自然なものが含まれていたの」

「持ち物ですか……帰省するくらいだったんだから、きっと大荷物ですよね」

「いや、しずくは恐らく日帰りのつもりだったから、荷物も小さいカバンが一つだけだったの」

「日帰りって。それ、間違いないんですか?」

「ええ、しずくが持っていた荷物。その中に、帰りの新幹線のチケットが入ってたの。一月二十二日の夜のものね。昼に地元に帰ってきたしずくは、その日のうちに用事を済ませて帰るつもりだったのよ」

「へぇ、そんな短い時間で済む用事だったんですね」

「そう推測できるわね。そして、不自然な荷物というのも、その新幹線のチケットなの」

「チケット……? え、別にそれって不自然じゃなくないですか?」

「一見するとね。けれど、しずくはその新幹線のチケットを二枚持っていたの。しずくは一人で行動していた。なのに、二枚。ちなみに、行きの新幹線でもチケットを二枚購入したことが確認されているわ」

「てことは、元々は誰かと一緒に帰省するつもりだったと……?」

「そう考えるのが自然でしょうね。駅で待ち合わせをしていたのだけれど、結局その人は来れなくなって、仕方ないから一人で新幹線に乗った」

「それって、行きの分も帰りの分もまとめて買ってたんですか?」

「ええ、そうよ。チケットのキャンセルはしてないみたいだったけど、単に急いでいたのか、忘れていたのか。それとも、後でやるつもりだったのか。いずれにせよ、私たちの知らない第三者が関わっていたのは間違いないわ」

「第三者、ですか」

「ええ。そして、この第三者を見つけ出すことが、しずくの事件解明への糸口になる」

「……なるほど。大体わかってきました」

「じゃあ、疑問点と、私たちがこれから調べるべきことをまとめておきましょうか」

 言うと、椎名はもう一度ペンを取り、紙に大きく文字を書き始めた。

「第一に、しずくの突然の帰省の目的が何であったのか。第二に、しずくに同行するつもりだった第三者は誰なのか。最後に、しずくが駅から走って森に向かっていた理由は何か。おおまかにはこの三つね」

 椎名が提示した三つの疑問点を自分の中で整理し、俺はもう一度よく考えてみる。

「これが全部わかれば、しずくの死が見えてくるんだよな。……しかし、警察も捜査を打ち切った事件なんだよな。俺たちだけで本当に調べられるのか?」

「なんですか成宮さん、そんな水を差すようなこと言わないでくださいよ」

 少女は不満げにそう言うが、事実として厳しいのは間違いない。

 それほどまでに、しずくの死は謎めいている。一般大学生の俺たちが捜査できる範疇とはとても思えない。

「ま、成宮君の言う通り、困難には違いないでしょうね。でも、必ずしも全てを解明する必要があるわけじゃない」

「それは、どういうことですか?」

「私たちの大きな目的は、しずくの事件の真実を探ることじゃなくて、あなたの成仏をすることでしょ? 例え一部しかわからないとしても、成仏の手がかりにはなる。それに、どこかのタイミングであなたの記憶が戻るかもしれないしね」

「……そっか。確かに、そう言われれば俺たちだけでもやれる気がしてくるな」

「ええ。まあ、あまり期待せずに頑張りましょ」

 その言葉に俺と少女が頷いたところで、ようやく全体としての方針も固まった。

 一段落ついたことを確認した椎名は、ペンをしまうとグーっと大きく伸びをした。深く息を吸い込んで、大きなため息を吐いた。

「椎名さん、疲れてるんですか?」

 少女が心配そうに声をかける。

「いえ、大丈夫。少し寝不足なだけ。テストやらバイトやら今回のことやら、やらなきゃならないことが多くてね」

「あ……そうですよね。ごめんなさい、わたしのせいで」

 実際、椎名の表情はいつもよりハリがなく、俺から見ても疲れているように見える。ただでさえ椎名は忙しい。それに加えて、この少女の一件だ。心労も相まって疲労はどうしても溜まってくるだろう。

「何言ってんの。これも仕事なんだから精一杯やるに決まってるでしょ。私がやるからには、中途半端には終わらせないから。安心してるといいわ」

 だけど、椎名はけして弱音を吐いたりしない。責任感が強いというか、なんでも抱え込むというか……それでいて、こいつが本当に辛そうにしている場面を見たことがないのだから凄いと思う。

 そんな椎名の姿を見て、少女は唐突に微笑んだ。

「……なによ、急に笑って」

「ああ、いえ。わたしにも、良い友達がいたんだなって、そう思っただけです」

「良い友達……ええ、そうね。私にとっても、しずくはそうだったわ」

 椎名は見てわかる通り、周囲の雰囲気に合わせたりすることの少ない奴だ。良くも悪くも正直で、その性格のせいで友達は少ない。けれど、しずくに対してだけは心を開いていて、側から見ていても良き友人関係が築けていたと思う。性格は真逆に思える二人だったが、心の奥底ではどこか通じ合えるものがあったのかもしれない。

「ホント……なんでこんなことになったんでしょうね」

 ポツリと、独り言のように椎名が呟いた。

「しずくの幽霊、それも子供の時の姿でなんて」

「そう言えば、不思議だよな。どうして死んだ時の姿じゃなくて、昔の姿で現れたんだ?」

「さあ。なんにせよ、そのせいで記憶がなくなってるのだとしたら、厄介極まりないとしか言いようがないわね」

 今回の事件は、仮にしずくが記憶を持って幽霊になっていたとしたら、すぐにでも解決したかもしれない。まあ、そんな無い物ねだりをしたところでどうしようもないのだが。

「わたしも──」

 グッと、拳を握りしめて少女が口を開いた。

「わたしも早く、二人のことを思い出したいです。成宮さんも、椎名さんも、わたしのためにここまでしてくれて。きっと、大切な人たちだったんだって思うから。それを無くしたままなのは、嫌なんです」

 もどかしさを感じさせる表情だった。ずっと、ひとりで彷徨っていた少女。やっと見つけた、自分と関わっていた人たち。でも、その記憶を取り戻すことはできない。

 俺や椎名との中途半端な距離感に、少女も思うところがあるのだろう。

「大丈夫、きっと思い出せるから。だから今は、目の前のことを頑張りましょ」

 そう言った椎名は、カバンを持って席を立った。

「あれ、もう行くのか?」

「ええ、今日はもう遅いし、私はこの後予定があるから。事件の調査は明日から、今日はゆっくり休んでおいて」

 そう言った椎名はさっさと店を出て行ってしまい、俺と少女の二人だけが残される。

「事件の調査って、一体なにをするんですか?」

「椎名が言うには、事件前にしずくと関わっていた人たちに話を聞きにいくらしい。まあ、地道な聞き込み調査だな」

 時間はかかるし、手間もかかるが、一番確実な方法だ。これしか方法が無かったというのもあるが、それは致し方ない。

「その聞き込み調査で、第三者……でしたっけ? その人が誰なのかを明らかにすればいいんですよね」

「……本当にそんな奴がいれば、だけどな」

 俺は適当にそう返しつつ、席を立った。

「ほら、帰ろうぜ」

 俺のその言葉に少女も頷き、残っていた紅茶を全て飲み干した。 

 二人で連れ立って、店の出口の方へと歩く。

「成宮さん」

「ん?」

「わたし、頑張ります」

 店を出る間際、少女は俺にそう言った。

「成宮さんも、頑張りましょうね」

 頑張る──という曖昧な言葉。

 具体的に何を、とは言わなかったが、それでも少女は確かに頑張るのだろう。

 その先にどんな結末が待っていたとしても、結局は、消えてなくなるのだとしても。

「まあ、程々にな」

 きっと全員が満足できる、幸せな結末が待っている。

 とりあえず今は、そう信じるだけだ。


 ◆


 しずくは意外と交友関係が広かったようで、学内でしずくと交流のあった人はかなりの数がいる。それを一つ一つ潰すように、俺と椎名と少女の三人は、しずくの事件に関する話を聞いて回った。

 事件前のしずくの様子に、何か変わったところは無かったか。

 その時期に、しずくとよく話すようになった人物はいないか。

 そんなことを質問して、収穫がなければまた次へと。

 忙しいテスト前の時期ではあるが、俺も椎名も時間を見つけては集まって調査をする。

 少女は少女で、俺たち以外には姿が見えないという特性を利用して、怪しげな答えをした人物へのストーキングもとい素行調査を行った。

 けれど、

「進展ないですよねぇー……」

 調査終わりにはいつも黒岩さんの喫茶店に集まって、報告会のようなものを開いている。

 報告会……とは言っても、報告するような情報が掴めていないのだから、こうして少女もミルクをちびちび飲みながら遠い目をするしかない。

 今日も同じような会になることを予期しつつ、俺と少女の二人で椎名の到着を待っているところだ。

「難航してるみたいだな」

 そう言いながら、黒岩さんが俺の飲み物のおかわりを運んできてくれた。

「そうなんですよ……」

 カフェラテ(四杯目)を流し込みつつ、椎名に作ってもらった調査リストを眺める。

 調査リストには、しずくと関わりのあった人達の名前が一覧になっていて、もう半分以上にはバツ印がついていた。調査済み、得られた情報は無かったという意味の印だ。

 調査を始めてもう一週間ほどが経つ。

 もうすぐ夏休みに入ろうというのに、進展はゼロ。

 俺も思わずため息を吐いてしまう。

「……黒岩さん、何かアドバイスとかないですか?」

 横からリストを覗き込んでいた黒岩さんに聞いてみる。今回、黒岩さん本人はもう少女の成仏には関わっていないが、椎名や俺が愚痴をこぼしている様子は見ているだろう。

「アドバイスか……といっても、俺もこんな探偵みたいな調査をしたことがあるわけじゃないしな」

 そう言って黒岩さんは頭を悩ませる。

 黒岩さんは俺たちのことを探偵みたいと言ったが、まさにそうだなと思う。

 俺たちの本来の目的は少女を無事に成仏させてやることだが、実際に今やっていることはしずくの事件の調査だ。黒岩さんがアドバイス出来ないというのも無理はないだろう。

「そもそも、俺たち成仏師が幽霊の事情に深く介入することすら珍しいからな」

「そうなんですか? 椎名がやけに協力的だから、それが普通なんだと」

「いや、あいつは特別だよ。初めに俺のところに来た時からそうではあったが、今回は身内が関わっているからな。余計にやる気を出してるんだろ」

 最初に俺たちがこの喫茶店に来た時、椎名は少女に拳銃を構えた。

 椎名に悪気はなかったとはいえ、それが少女にとって良い印象を与えなかったのは事実だし、黒岩さんに宥められた椎名は少し不機嫌そうにしていた。

 だから、椎名はあまりこの案件に対してやる気はないものかと思っていた。

 仕事だからちゃんとやる……そんな風にも言っていたし、本音を言えば、もうこの少女とは関わりたくないのではと。

 けれど、黒岩さんから見た椎名は、それとは少し違うらしい。

「ま、ああ見えて不器用な奴なんだよ。他人を頼るだとか、自分の弱みを見せるだとか、そういう事を極端に嫌うからな。でも、悪い奴ではないんだ」

「はい、それはもちろん、わかってます」

 俺だって何だかんだ椎名とは長い付き合いになる。

 わかりにくいだけで、表に出さないだけで、本当は誰よりも人の心配をしていたりする、心の優しい奴なのだ。しずくと親友と呼べる関係を築けていたのが良い例かもしれない。

 まあ、それを本人に言ったところで、「は?」と一蹴されるのは目に見えているが。

「椎名さん……難しいんですよねぇ。わたしも中々距離を詰めさせてもらえませんし」

「椎名と仲良くなるのは大変だぞ? あいつの心の壁は富士山並みに高いからな」

「日本一、というわけですか……まあ世界一じゃないだけマシかもですけど」

 などなど、適当な会話を繰り広げていると、ベルの音と共に喫茶店の扉が開かれる。入ってきたのは椎名だ。

「こんにちは」

 そう挨拶をしつつ、椎名は少女の隣に腰を下ろした。

「で、どうだった? なんか進展はあったか?」

 いつも通り、あまり期待を込めずに訊いてみる。

 すると、椎名はニヤリと得意げな表情を作った。

「今日はね、良い情報を掴んできたの」

 そう言った椎名に、俺と少女は沸き立つ。

「おお……っ! ついにか……!」

「ええ、しずくと同じサークルだった女の子に話を聞いてきたんだけどね──事件が発生した日より、何日か前のこと。しずくのアパートには、誰かが入り浸っていたらしいの」

「入り浸っていた……?」

 俺が聞き返すと、椎名は入手した情報について詳しく説明を始める。

「今日聞いた話によると、しずくは事件前の一月辺りから、サークル終わりの食事会にあまり顔を出さなくなったらしいの。それで、その理由を尋ねてみた時にしずくが『最近は家でご飯を作ってくれてるから』と言ったらしいの」

「家でご飯を……か。確かに、その言い方だと誰かがしずくの家に来てたってことになるな」

「ええ、しかも最近は……ってことだから、一日限定っていうわけでもない」

「え、でもでも、その発言は確実なんですか? 事件は半年も前のことですよね」

「ほぼほぼ確実だと思うわ。サークルの人も、その時のしずくの様子が少し不審だったから、よく記憶に残っていたと言っていたし」

「不審……? それってどういう事ですか?」

「その発言をしずくがした後、慌てて誤魔化すようなことを言ったらしいの。しずく自身、その話を秘密にしていたと考えると、事件への関連性が高いと思わない?」

「確かに……普通に友達が来てるんだったら、隠す必要もないですもんね」

「ええ。事件前のこの時期にしずくの家をよく訪れていたとなれば、その人物が第三者である可能性は高い。ようやく、私たちが追うべき影が見えてきたわね」

 いつになく、やる気に満ちた表情で椎名が言った。

 ここまで全く成果の出ていなかった、しずくの事件の調査。

 しかし、ここに来てようやく有力な情報を得ることができた。

「というわけで、早速しずくの住んでいたアパートに行ってみるわよ」

「アパートって……何をしに行くんですか?」

「その時期に誰かがしずくの部屋に入り浸っていたなら、それを近くの住人が覚えているかもしれないでしょ? こう言ってはなんだけど、あまり家賃の高い家でもなかったから、音漏れしてた可能性もあるし」

「音漏れって……仮にも女の子の一人暮らしなのに、それで大丈夫なんですか?」

 そう言った少女の目線が俺の方を向く。

「俺に言うなよ……まあ、しずくはああ見えて強かなんだよ。自分が多少我慢してでも、節約したかったんだろ。奨学金はあるにせよ、苦学生には変わりなかったからな」

 俺も部屋を見せてもらった時には心配になったもんだが、連絡を取っていた限りでは快適そうに過ごしていた。電話中に隣の住人の歌声が聞こえてきても、しずくが低音をハモリ出して楽しげに歌っていたので、心配している俺がバカなのではと思ったほどだ。

「ふぅん……さすがわたし」

 少女がそう呟いたところで、椎名が席を立った。

「思い出話は、その辺で満足? 時間もないから、さっさと行くわよ」

 足早に店を出て行った椎名に続いて、俺と少女も席を立った。


 

 しずくの住んでいたアパートは、喫茶店から歩いて十分ほどのところにあった。

 壁が植物のつたで覆われてボロボロなあたり、築年数の多さを感じる。

 しずくは階段を上がった先の奥の部屋、204号室に住んでいて、今はただの空き部屋になっている。

「ここね」

 そんなしずくの隣の部屋、203号室を前にして椎名が立ち止まった。

 表札は出ていないが、外から見ると明かりは点いていたから在宅ではあるだろう。

 椎名が躊躇うこともなくインターホンを押す。

 十数秒ほど間があいて、中から一人の男性が姿を現した。

「はい」

 見たとこ、二十代後半といったところか。ジャージ姿、寝起きそのままのような格好で扉を開けたその男性は、俺たちの顔を見て険しい表情を浮かべた。

「どなたですか……?」

「いきなり押しかけてしまってすいません。私たち、半年ほど前まで隣の部屋に住んでいた白瀬さんの友人なんですけど──」

 椎名が事情を説明して、少しだけ時間をもらうことを了承してもらった。

「あー……そういえば、いましたね。こんなボロアパートに若い女の子が来たもんだから、最初はびっくりして、よく覚えてますよ」

 思い出したように男性は頷き、そのまま玄関先で話を聞く流れになる。

「今年の一月、白瀬さんの部屋には誰かが頻繁に訪れていたらしいんですけど、その時期のことで、何か印象に残ってることとかありませんか?」

「そう言われてもな……だいぶ前のことだし……」

「些細なことでも良いんです、例えば、隣の部屋からよく話し声が聞こえるようになったとか。普段は見ない人を、このアパート内で見かけたとか」

 椎名にそう言われて、男性は当時のことを思い返すように顎に手を当てる。

「……そういえば」

 唐突に男性が呟き、俺と椎名は耳を傾ける。

「確かにその頃、朝に白瀬さんが出かけて行った後も、まだ部屋の電気が点いたままになっていることが多くて、不思議だなと思ったのは覚えてますね」

「電気が点いたままというのは、一日中ですか?」

「さあ、どうでしょう……僕も意識的に見てたわけじゃないですから、そこまでは」

 ああ、でも……と、男性が呟いた。

「話し声が聞こえてくることは多かったですよ。元々、電話の声が聞こえることはあったんですけど、その頻度が増えたような、そんな感じで」

「電話か……。成宮くんって、その時期はしずくと?」

「いや、俺も受験直前だったから、あまり連絡はとってなかったな」

「そう……じゃあ、成宮君との電話じゃないか」

「もしその電話が、しずくの部屋を訪れていた人と同一人物なら、しずくは絶え間なくそいつと連絡を取っていたということだよな」

「ううん……本当に何をしていたのやら」

 つい、俺と椎名の会話が続いてしまい、話を聞いていた男性は暇そうに欠伸をしている。

「あ、すいません……長々と」

「いえ、別に良いっすけど、もう訊きたいことは終わりですか?」

「あ、じゃあ最後に。その時期に、白瀬さん以外の人を部屋の近くで見かけた覚えはないんですよね?」

 その椎名の確認に男性は頷くと、早々と部屋の中に戻ってしまった。

 扉が完全に閉じられたことを確認して、俺と椎名と少女の三人は元来た道を戻る。

「結局、どうだったんですかね?」

 アパートの階段を降りてすぐ、少女が俺に尋ねてきた。

「どうだろ……でも、思った以上の収穫はなかったな」

「そうね……毎日夕食を作りに来てたんだったら、一回くらいその姿を見かけててもおかしくないのに」

「まあ、巡り合わせが悪かったか、もう記憶から消えてる可能性もあるしな」

 あの男性からしてみれば、しずくはただの隣人でしかない。そこまで深い交流があったわけでもないから、相当に印象的な出来事でないと覚えてすらいないだろう。

 だから、椎名も強い期待をしていたわけではないと思うけど、今日で一気に真相に近づきたかったという思いはわかる。

「さっきの話は参考程度にして、あまり気にし過ぎないようにしましょうか。まだこれからも、話を聞くあては残っているわけだし」

「だな」

 全く情報を得られなかった、というわけではない。

 時間がたっぷりあるとは言えないが、ここで俺たちが焦り始めても仕方ない。

 着実に真相に近づいていることには変わりないのだから、そのうち新たな成果も上がるだろう。

 少女も納得したのか、それ以上事件について話すことはなかった。

 適当な世間話をしつつ、三人で並んで歩いていると、前から浴衣姿の男女二人組が仲睦まじげに歩いてきた。

 さして気にすることもなく通り過ぎようとすると、女の子が椎名に向かって手を振って近づいてきた。

「さっきぶりだね、椎名ちゃん」

「ええ、そうね。これからお出かけ?」

「うん、その……サークルの先輩と、遠出して花火大会に行くんだ。ここから電車で四十分くらいのとこなんだけど、知らない?」

「ああ、そういえば、そんな話も聞いたかもね」

 ふと、女の子と目が合い、軽く会釈を返す。

「この人が、しずくの元カレの成宮君。さっき話したわよね?」

「あなたがしずくちゃんの……。初めまして、私は七瀬優衣と言います。しずくちゃんとはずっと同じサークルで活動していて、椎名ちゃんから話は聞いてますか?」

 話の流れから推察するに、この七瀬さんという女の子は、つい数時間前、椎名に第三者の情報を提供してくれた人だろう。

「あ、はい。今日はわざわざ俺たちの事情に付き合ってもらったみたいで、ありがとうございます」

「いえ、大切なしずくちゃんのことですから、いくらでも協力しますよ」

「それなら良かったです。そういえば、しずくは──」

 偶然出会った、大学時代のしずくを知っている七瀬さんに、俺は思わず色んな話を聞いてしまう。俺は浪人していたから、しずくが大学でどんな風に過ごしていたのか、その様子を知ることは出来なかった。けれど、こうしてしずくと関わっていた人々から当時のしずくの様子を聞くと、俺も少しはその穴を埋められるような気がして嬉しいのだ。

 つい、会話が弾んで話し込んでしまう。

「──あ、そうそう」

 唐突に、話題を変えるように七瀬さんが言った。

「しずくちゃんのことで、一つ思い出したことがあるんです」

「思い出したこと?」

「はい、一月の半ば頃だったと思うんですけど、一度しずくちゃんの家に行ったことがあるんです。借りてた本があったんで、それを返しに。その時は大して気にしてなかったんですけど、今思い返せば、中から会話のような声が聞こえてて、いや、部屋に入った時にはしずくちゃん一人で料理をしてるだけだったんですけど、明らかに誰かいた感じだったから、不思議だなと思って。ごめんなさい、あまり大したことじゃなかったですけど」

「……いや、助かるよ」

 俺がそう言うと、七瀬さんはサークルの先輩と連れ立って駅の方へと歩いて行った。

 また、元の三人で歩き出す。

「……なんか、変な感じですよねぇ」

 少女が首を傾げながら呟いた。

「変な感じって?」

「いやだって、今年の一月ごろ、部屋に誰かが頻繁に訪れてたってのは、ほぼ確定してるじゃないですか」

「そうだな」

「でも、今のところ誰もその姿を見てないんですよ? わたしたちが探してる第三者ってのは一体何者なんですか? 大学の友達とかではないんでしょうし……それ以外の知り合いとなると、誰かいるんですか?」

 少女の言葉に、俺も首を傾げる。

 しずくの大学以外の交流となると、俺には全く見当もつかない。

 その様子を見かねて、椎名が口を開く。

「しずくは一応バイトもしてたから、その繋がりって可能性はあるけど……それ以外となると、私も知らないわね」

「かなり仲の良かった椎名さんの知らない繋がり……それも、家に招くほどの関係だなんて、そんなのが本当にあったんですかね?」

「どうかしら……一月以降に新しく知り合った、とかだったら、私も知らないかもだけど」

「でも、そんなことがあるのか? その第三者と知り合った結果として、しずくは死んでしまったんだろ? そんなヤバめの案件をしずくが抱えてたんだとしたら、それこそ椎名に相談してるだろ」

「相談できない内容だったとかは、どうですか……?」

「そんなことを言い始めたら、いよいよ想像の域を抜けないしね……まあ、これ以上は議論するだけ無駄ってことよ。一旦は諦めましょう」

 俺たちは、問題の第三者の姿を捉えつつある。

 けれど、話を聞けば聞くほど、謎めいていく予感がどこかにある。

 それほどまでに、しずくと第三者の関係性はまったく見えてこず、その影をつかもうとすれば、フワフワと舞う紙吹雪のように俺たちの手をすり抜ける。

 ──まるで、幽霊みたいですね。

 ひとりごとのように、少女が呟いた。

「確かに、そう考えたくなるのもわかるな」

 実際、そう仮定すれば辻褄の合うことも出てくる。

 けれど、そんな妄想のような少女の言葉に、椎名は首を振った。

「その考え方も理解できるけど、それで実在の第三者から目を逸らしても意味ないでしょう? まだ調査も十分というわけではないのだし──」

「──明日以降に期待、ってことか」

「ええ、そういうこと。私たちに出来ることは、今まで通り、地道な聞き込みを続けることよ」

 その椎名の言葉に俺と少女は頷いて、とりあえずは全員で喫茶店に戻った。



「お、三人とも、おかえり」

 喫茶店の扉を開けば、そんな言葉で黒岩さんが俺たちのことを出迎えてくれて、店の中は何やら食欲のそそる匂いで満たされていた。

「これはこれは、カレーですね」

 そう言った少女は、キッチンの中でカレーの入った鍋を煮込んでいる黒岩さんの元へ駆けていく。

「黒カレーってやつですか?」

「そう。じっくりじっくり煮込んでるからな。使ってるスパイスもこだわってるし、そんじょそこらのカレーには負けないよ」

「ほう……」

 鍋を覗く少女は、興味深そうに黒カレーを見つめて、どこか対抗意識を感じさせる呟きをした。

「果たして、わたしの作るカレーを超えられますかね……?」

 少女はカレーに相当自信を持っているらしく、挑戦的な視線を黒岩さんに向ける。

「へぇ、嬢ちゃんもカレーを作るのかい?」

「はい、そこにいる成宮さんにいつも食べてもらってます。ね、わたしのカレー、美味しいですよね?」

 少女の期待を込めた視線に、俺は渋々頷く。

 まあ、かなり美味しいことには違いないのだが、かなりの頻度でカレーを食わせられるから、正直なところ飽き始めてはいる。

「じゃあ、食べ比べといこうか。まあ、元々三人に食べてもらうつもりで作ってたんだがな。君も、あっちで待ってな。すぐに俺のカレーの虜にしてやるから」

 少女は大人しくその言葉に従って、俺と椎名もテーブルに座った。



「ぐぬぬ……」

 悔しそうに歯噛みした……というか本当にスプーンを噛んでいるのは少女である。

 黒岩さんと少女のカレーを比較して、俺がより美味しいと言ったのは黒岩さんのカレーだった。

 少女は不満げに文句を言っていたが、自らも黒岩さんのカレーを口に運ぶと、もう何も言えなくなってしまった。

「弟子に、してください……」

 最終的に、少女が絞り出したのはそんな言葉だった。

 しっかりとカレーを二杯完食し、もう完全に降伏したようだった。

「悪い、俺は弟子はとらない主義なんだ」

「椎名さんがいるじゃないですか」

「光莉は……勝手に押しかけてきたようなものだしな。それで今も、ここの二階に住みついてるし」

「え、椎名さんってここに住んでたんですか?」

 初耳の情報に、少女が驚く。

 かく言う俺も、椎名の住まいを知ったのは今が初めてだ。

「そうだったのか?」

 目の前で黙々とカレーを食べている椎名に尋ねてみる。

「ええ、あなたに知られるのはなんか嫌だったから黙ってたけど。まあ、もう幽霊関連のことはバレてるしね」

 椎名はそれだけ言うと、スプーンを口に運んでいく作業を再開した。

「あ、じゃあ、わたし今日から椎名さんの家にお邪魔します!」

「……は?」

「あ、あれ、ダメですか? カレーも教わってみたいし、ちょうど良い機会だと思ったんですけど」

「ダメじゃないけど……」

 椎名は黒岩さんに視線を向ける。

「いいんじゃないのか? 別に俺が困ることはないし」

 黒岩さんはそう言い残すと、洗い物をするためキッチンへと向かった。

「ええ……あなたと暮らすのかぁ」

「嫌ですか?」

 グイッと、少女が椎名の方に体を寄せる。

「嫌じゃないけど……ねぇ」

「なら問題ないじゃないですかっ。わたし、もっと椎名さんと仲良くなりたいんですよ、ね、ね、いいでしょ?」

「……そこまで言うなら、いいけどさ」

 少女のゴリ押しに、椎名は遂に観念した。

 普段は誰も寄せ付けないクールな振る舞いをしているが、案外押しに弱いというのが、椎名の面白いところの一つだ。

「というわけで、成宮さん。少しの間だけ、行ってきますね。掃除、わたしがいなくてもちゃんとやらなきゃダメですよ? それと自炊も──」

「──お前は俺の母親か。心配されるまでもねぇよ。勝手に行ってこい」

 シッシッと少女を手で追い払う。

「……なんかそんな扱いされるのも癪ですけど、まあいいです。というわけで、よろしくお願いしますね、椎名さんっ」

 そう言って少女は椎名の手をとった。

「わたし、幽霊なのに、なんか楽しいことばっかりで嬉しいです。どうせだったら、もっと夏っぽいこともしたいですねぇ」

「俺が思いつくのだと、海に行くとか、流しそうめんとか?」

「それもありですけど、わたし、花火大会に行ってみたいです!」

「お前絶対、さっき見た浴衣に触発されたろ……」

「別にいいじゃないですかっ。近くのやつで構いませんから、どうですか?」

「ま、それくらいなら、いいけど」

 俺が承諾すると、少女はとびきりの笑顔を作って椎名の方を向いた。

「椎名さんも行くんですよ?」

「はいはい、わかったわよ」

 渋々……という様子で言った椎名ではあるが、本気で嫌そうにはしていないから大丈夫だろう。

「……じゃあ、俺はもう帰るな」

 調査も終え、カレーも食べた。これ以上居座る理由はない。

「お前は……って、そうか。椎名のところだったな」

「はい、また明日ですね、成宮さん」

 手を振って俺のことを見送ってくれる少女に、俺も軽く手を振り返して喫茶店を後にする。

 ……家までの帰り道を、一人きりで歩く。

 少女と出会うまではこれが普通だったはずなのに、いざ少女がいなくなれば、どこか物足りなく思ってしまう自分がいる。

 あいつがいつか成仏していった時も、こんな風に思うのかな……。

 なんて、少し寂しいことを考えた。



 それからは、同じような日々が続いた。

 俺と椎名と少女の三人で、しずく周りの人々に話を聞きに行く。

 関わりのあった大学の友達や、バイト先だった結婚式場や、その他も色々と。

 忙しく動き回っていた俺たちではあったが、結局目新しい情報を得ることは出来なかった。

 正直、こんなにも進展がないとは思っておらず、俺も椎名も少女も若干の焦りを見せ始めている。少女の悪霊化も緩やかにではあるが進行しているのだ。のんびりしている時間はなかった。

 ──そんなある日のことだった。

 俺は、とある人物に電話をかけた。

『もしもし』

「あ、こはくちゃん。今って大丈夫かな?」

 しずくの実の妹の白瀬こはくだ。

『うん、大丈夫だけど……珍しいね、怜兄から電話かけてくるなんて』

「そうだな……というか、あの時以来か。久しぶりだな」

『そうだね。元気してた?』

「ああ。そっちも、特には変わりないか?」

『うん、大丈夫。私も元気にやってるよ』

 しばらくぶりの会話にぎこちなさを感じつつも、お互いの近況を確認する。

 昔──高校生の頃は、しずく繋がりで喋る機会も多かった俺たちだが、しずくが死んでしまってからは何となく疎遠になってしまっていた。別に、喧嘩をしたとか、仲違いがあったとか、そういうわけではない。ただ、どこか互いに干渉してはいけないような気がしていた。

「そういや今は受験生なんだっけ。もう進路とかは決めてるのか?」

『今のところは、怜兄たちと同じ大学を受験しようと思ってるよ。推薦との兼ね合いもあるから本決まりってわけじゃないけど』

「そっか。まあ、受かるといいな」

『うん。怜兄の二の舞にはなりたくないからね』

「おい」

 俺が浪人したという事実を煽られ、ツッコミが漏れた。

『ごめんごめん、冗談だって。というか、うちの経済状況じゃ、とてもじゃないけど浪人は出来そうにないしね』

「まあ、そっか。そういや、おばあちゃん元気にしてるか?」

『うん、まだまだ元気だよ。たまーに物忘れしてる時もあって困っちゃうけどさ』

 俺の質問に、こはくちゃんは笑いながら答えた。

 しずくがいなくなって、こはくちゃんは祖母との二人暮らしをしている。俺もしずくに連れられて家に行った時におばあちゃんとはよく会っていた。

「まあ、元気でやってるなら十分だ」

 半年間という長い時間、こはくちゃんとは連絡をとっていなかった。

 正直、もう俺のことなんか忘れ去られてるんじゃないかという不安もあった。

 けれど、勇気を出して話してみれば、簡単に昔のようなやり取りが出来ている。

 ほんの些細なことではあったけど、たったそれだけの事実に俺は言いようもない安堵を覚えていた。

「ああ、そうだ。椎名から話は聞いてるか?」

『あ、うん。しずく姉についての話を聞きたいんだよね?』

 今日俺がこはくちゃんに電話をかけたのは、ただ雑談がしたかったからではない。

 大学ももうすぐ夏休みに入る。

 そのタイミングで俺たちは地元に帰省し、しずくのことについて、こはくちゃんやその他の人にも話を聞きに行く予定になっている。

 そのアポを取るため、俺は今日電話をしているのだ。

「そうそう、半年前の事件について──」

 俺たちがやっていることを、かいつまんで説明する。もちろん、しずくの幽霊がいることは伏せたまま。

「──だから、夏休みに入ったらそっちに行くと思うから、その時はよろしく頼む」

『うん、わかった。こっちでも色々と話を聞いておくね』  

 思いの外、こはくちゃんは俺たちの提案を好意的に受け取ってくれた。

「……その、悪いな。済んだことを蒸し返すようで」

『ううん、いいの。私もしずく姉のことは不思議に思ってたからさ。それに、こうして怜兄がしずく姉のために動いてくれることも私は嬉しいよ』

「そうか。ありが──」

『──きゃあ!』

 俺が改めて礼を言おうとしたところ、こはくちゃんが突然甲高い悲鳴をあげた。

「え、ど、どうした⁉︎」

 俺は驚き、動揺しつつもそう尋ねる。

『……あ、なんだ、ただ風が吹いてただけか』

 しばらくして落ち着きを取り戻したこはくちゃんは、ため息と共にそう答えた。

「何かあったのか?」

『ううん、ごめん。何でもなかった。えっとね、うちの地元で最近幽霊騒ぎが起こってて、ちょっと敏感になっちゃってた』

「……え?」

 その言葉を聞いて、俺は固まった。

 ちょっと前なら聞き流していたかもしれない。でも、その単語は今の俺にとって何よりも重要なものだった。

「幽霊騒ぎが、起こってるのか……?」

『え、そうだよ。何人も実際に見たって人がいてね、私も学校からの帰り道で見たんだよ。おばあちゃんは信じてくれないけど、あれ絶対見間違えなんかじゃないよ。ほんっとに怖くて、最近は夜も眠れないんだよね──』

 それから先のこはくちゃんの言葉は、俺の頭には入ってこなかった。

 幽霊という単語が、俺の頭からこびりついて離れない。

 ──まるで、幽霊みたいですね

 つい先日の、少女の発言が頭によぎる。

 そんなことは有り得ないと、その時は思っていたけど。

 ……もしかすると本当に、しずくの死には幽霊が関わっていたのかもしれない。

 しばらくして、俺はこはくちゃんとの通話を終える。

 俺はすぐさま、別の相手へと電話をかけた。

「もしもし椎名──」


迷宮入りのゴーストガール ④


 俺たちの地元で幽霊騒ぎが起こっているという事実が判明した、その翌日。

 俺は椎名から呼び出しを受け、黒岩さんの喫茶店に足を運んでいた。

 俺の正面に、椎名と少女が隣り合って座っている。

「それで、何かわかったのか?」

 足を組んでコーヒーを飲んでいる椎名に、俺はそう尋ねる。

「ええ。昨日、成宮君からその話を聞いた後、色々と調べてみたんだけど──」

 そう言いつつコーヒーカップを置いた椎名は、カバンの中からタブレット端末を取り出した。

「──まずは、この動画を見て欲しいの」

 端末を操作し、椎名はとある動画を再生し始めた。

 テーブルの中央に置かれた端末を三人で覗き込む。

 再生された動画はとても画質が悪かったが、俺はそれが何の映像なのかを一瞬で理解する。

「これ……監視カメラの映像か」

「そうよ。地元の警察の伝手を辿って、駅の監視カメラの映像を入手したの」

 ……監視カメラの映像を入手できる伝手って何だよ。

 かなり気になるところではあるが、あまり聞かない方がいい気がするのでスルーしておく。

 映像は駅の無人改札を映し出していて、画面には誰の姿も見えない。

 しばらくして、画面の中にしずくと思われる人影が映り込んだ。画質が粗く、顔までは確認できないが、服装や髪型からして間違いない。

 改札を通り抜けたしずくは、その場で立ち止まってスマホを取り出した。

 SNSの確認でもしているのか、しばらく動く気配はない。

 ……そこまでは、何の変哲もない映像。椎名から話に聞いていた通りだった。

 しかし、ここから映像におかしなノイズが混じり始める。

 黒や白の線が画面に映り込み始め、不規則だったそれは、次第に一点へと収束していく。

「これは……」

 少女が画面を凝視しながら呟いた。

「人の姿……ですよね」

 黒と白の毛玉のような物体。それは確かに、人の形を成していた。

 その謎の物体は、しばらくその場で留まった後、歩き出したしずくに並ぶようにして、画面からフェードアウトしていった。

 駅の改札には、元の静寂が訪れる。

 そして、映像はそこで終わった。

「おいおい……なんなんだよ、今の」

 奇妙──そう表現するのが最も適切な映像だった。

 しずくと一緒に映り込んでいた正体不明の物体。

 それは、とてもじゃないがこの世のものとは思えなかった。

 ……しかし、その物体が何なのか、これまでの話から俺はぼんやりと推測できていた。

「あれは、幽霊よ」

「……やっぱり、そうなのか」

「ええ。画質の悪い監視カメラだから姿はぼやけてたけど、間違いないわ」

「しずくの死には、幽霊が関わっていたってことなのか? でも、今更になってこんな発見があるなんて……」

「私たちはみんな、多少なりとも幽霊を見ることができる。普通の人が見て、あの映像の異変に気づくかどうかはわからないし、気付いたとしてもそれが事件に関係しているとは思わないでしょう?」

「なるほど……俺たちが見て初めて、意味のある映像だったってことか」

 今まで大した進展のなかったしずくの死の調査。

 でも、ここに来てようやく核心に迫るような事実が判明した。

 しかし、それがまさか幽霊に関わっているとは……厄介さは倍増しになった気さえする。

「わたしたちが必死になって探していた第三者っていうのは、幽霊だったってことですか?」

「第三者であるかどうかはわからないけれど……何かしら関わっているのは間違い無いでしょうね」

「にしても、この幽霊は一体何者なんですかね……顔も確認できないし、これじゃ誰の幽霊なのかもわからないですよね」

 先ほどの映像は、かろうじて人の形であることが確認できる程度で、それが誰なのかは全く判別ができなかった。幽霊の性別すら判然としなかったほどだ。

「しずくに関わりのある人物の幽霊か、まったく面識のない幽霊だったのか……それによっても変わってくるもんな」

 しずくの死には幽霊が色濃く関わっていることはわかった。けれど、この映像からだけでは得られる情報は少ない。

「ええ。結局、しずくの身に何が起こっていたのか、それがわかったわけではない。まだまだ謎は多いわ」

 端末をしまいつつ、椎名は言った。

「だったら、どうするんだ……?」

 俺がそう尋ねると、椎名は待ってましたと言わんばかりに得意げな表情を作る。

「決まってるでしょ。この幽霊に、直接話を聞きにいくのよ」


 ◆


 新幹線に乗って、電車を乗り継ぐこと計四時間強。 

 凝り固まった体で降り立ったのは、周りを森林と田畑に囲まれた駅だ。

「おー、ここが成宮さん達の地元ですかぁ。……うん、何も無いとこですね」

 駅の改札をくぐり抜けて、周囲を見渡した少女が言った。

「一応、お前の地元でもあるんだがな」

 その後を追うように、俺と椎名も駅の改札をくぐる。

 大学も夏休みに突入し、俺と椎名と少女は、三人で地元に帰省していた。

 こはくちゃんを始めとする、しずく周りの人々に話を聞くというのもあるが、一番の目的は監視カメラに写っていた幽霊を探し出すためだ。

「ここ、監視カメラで見たままですね。しずくさん──わたしも、ここを通ったんですよね」

 先ほど通った改札を振り返って、少女が言う。

 修繕が施されることなく、ボロボロの無人駅は、監視カメラで見た映像そのままだ。

 その改札を通って、地元に帰って来たしずくの姿を想像する。

「……本当に、一体何の目的で帰省したのやら」

 駅から続く道の一方、山へと続く道を眺めながら、俺は呟く。

 しずくが駅を出た後、あいつは住宅街の方ではなく、山の方に向かった。その先には、しずくの死体が発見された水辺がある。

 無意識に、グッと表情に力が入る。

「……二人とも、何してるの? 早く行くわよ」

 俺たちが眺めていた方向とは反対側──住宅街へと続く道を進んでいた椎名から声をかけられ、俺たちは振り返る。

 この後は直接しずくの実家へと向かい、こはくちゃんに話を聞く予定になっている。

 ツカツカと歩く椎名に、俺たちは小走りで追い付く。

「やっぱり、あっちが気になる?」

 山の方を指し示して、椎名が言った。

「まあ、な」

「時間があれば、また後で見に行きましょうか」

「ああ……そうだな」

「見るのが辛いなら、私だけで行くわよ?」

「いや、大丈夫。行くよ」

 正直、しずくの死体が発見された場所を直に見にいくのはキツい。

 けれど、これも事件を解明するためだ。

 今、ここで頑張らなくては何の意味もない。

「──終わらせるわよ」

 前を歩いていた椎名が、ポツリと呟いた。

「絶対に、この帰省で全てを終わらせる」

 その呟きは、椎名には珍しく熱い決意に満ちていた。

「……ああ、そうだな。終わらせよう」

 俺もそう呟いて、椎名に並んで歩き出す。

「成宮さん、椎名さん」

 突然──俺たちの間に少女が割って入り、ギュッと俺たちの手を握った。

 何をするのかと思いきや、こちらを見上げてふっと笑った。

「頑張りましょうね」

 そう言った少女の顔は、笑ってはいたが、その中には年相応の不安も混じっていて。

 二人で、少女の頭をそっと撫でた。


 ◆


 ──ピンポーン

 一度荷物を置いてから再集合し、俺たち三人はしずくの実家に来ていた。

 古めかしいチャイムを押してしばらく待っていると、家の奥からバタバタと足音が聞こえて来て、一人の女の子が顔を出した。

「あっ、怜兄、光莉ちゃん。いらっしゃい」

 短めのツインテールを結んだ、活発な印象を受ける少女。しずくの妹の白瀬こはくだ。

 勉強中だったのか、普段はしていない赤いメガネをかけている。

「よう、今日は悪いな。わざわざ時間もらって……受験勉強、大変なんだろ?」

「あーいやー……まあ、そうだね。正直に言うと、今は寝落ちしちゃってたから勉強はまったく進んでないけど」

「おいおい、それで大丈夫なのかよ……」

 てへへと笑っているこはくちゃんの口元には、よく見るとよだれの跡がついていた。

「まあまあ、とりあえず入ってよ」

 こはくちゃんに言われ、俺と椎名と少女は家の中へと入る。

 しずくの実家は、昔ながらの木造建築の平屋になっている。都会には見られない伝統を感じさせる作りで、家の中からは線香や畳の匂いが漂い、不思議な懐かしさや安心感を覚える。

 靴を脱いで、部屋に上がろうとしたところ──

「って、あれ?」

 突然、先に部屋に上がっていたこはくちゃんがこちらを振り向いた。

「あれれ?」

 そう言いつつ、こはくちゃんは俺たちへと近づいてくる。

 ……その視線は、幽霊の少女に向いていた。

 少女に近づいたこはくちゃんは、その肩をガッチリと掴み、そして、家中に響く大きな声で言った。

「ちっちゃいしずく姉がいる⁉︎」



「へ、へぇ……幽霊ねぇ……ほーん……」

 こはくちゃんにも、この幽霊の姿が見えていた。

 俺と椎名にとっては完全に想定外で、こはくちゃんにもこれまでの事情を説明せざるを得なくなった。

 いまだ事情を飲み込めていないのか、こはくちゃんは戸惑った様子で少女を見つめている。

「な、なんですか……ジロジロ見ないでくさい」

 少女からしてみれば、こはくちゃんは初対面ということになる。妙な視線を向けられて、居心地が悪そうに少女は言った。

「ああ、ご、ごめんね。というか……ほんとに昔のしずく姉そのまんまだな……」

 幽霊という理外の存在。そんなものが突然現れたのだから、困惑するのも当然だろう。信じ難い……と言いたげなこはくちゃんではあったが、目の前にいるのは既に死んでいるはずの実姉(幼少期の姿)なのだ。受け入れざるを得ないだろう。

「というか、こはくちゃんにも幽霊が見えるとは思いもしなかったな」

 俺がそう言うと、椎名が悩ましげにため息をついた。

「……まあ、幽霊と親しい関係にあった人なら見える事もあるんだけど……完全に失念してたわね」

 この幽霊に関する説明をこはくちゃんにするつもりはなかった。話がややこしくなってしまうし、実姉の幽霊の存在なんて、こはくちゃんを混乱させるだけだろうから。

 けれど、見えているとなれば話が別だ。

「どう? さっきの説明、ある程度は理解できた?」

 少しだけ落ち着いたところで、椎名がこはくちゃんに訊いた。

「……ある程度なら。頭では理解してるけど、実感が伴っていない感じですかね……」

「そんなもんだよな。俺はもうすっかり馴染んじゃったけど」

 この少女と出会ってから、既に一ヶ月以上が経過している。

 最初こそ困惑したもんだが、俺も椎名も少女とはかなり打ち解けてきたと思う。

 けれど、こはくちゃんは今日が少女と初対面になる。

「……怜兄と光莉ちゃんは、しずく姉の幽霊を成仏させようと頑張ってるんだっけ?」

 先ほどの話の確認をするようにこはくちゃんが尋ねた。

「ああ。そのために、しずくの事件の調査を改めてやってるって感じだな」

「そっか……うん、何となくはわかった、かな」

 未だ、状況を完全に理解しきったわけではないだろう。それでも、こはくちゃんは何度か頷くと、強い決意を秘めた表情で前を向いた。

「なら、私もしずく姉の成仏を手伝うよ。というか、手伝いたい」

「いいのか? あ、いや、手伝ってくれるならそれに越したことはないんだけど」

 正直、すぐにそんな返答が返ってくるとは思っていなかった。

 こはくちゃんにも、ある程度事情を把握する時間がいるだろうと。

 でも、こはくちゃんの決断は早かった。

「うん、しずく姉のことだからね。妹の私がやらないわけにはいかないじゃん? それに、私自身しずく姉のことに関しては後悔も多いからね……これで全てが終わると言うなら、乗らない手はないよ」

 ──それに

 こはくちゃんはそう言うと、萎縮気味な少女に向かってニヤリと笑みを浮かべた。

「こんな小さいしずく姉がいるんだもん。面白くて仕方ないよねー」

 真正面で正座をしていた少女の頭を、こはくちゃんがワシワシと撫でる。

「──っ、ちょっ、なっ、何するんですか! やめてください!」

 強く反抗した少女ではあったが、こはくちゃんの手から逃れることは出来ない。

 少女は立ち上がって逃げていったが、こはくちゃんもその後を追い、結局は捕まってしまう。

「へへへ……覚悟するんだよ、しずく姉!」

「やっ……! やめ……っ!」

 こはくちゃんは満足のいくまで少女をいじり倒して、ベタベタイチャイチャとしている。

 家の中に、女の子二人の悲鳴やら怒号やらが飛び交う。

「あれ、ほっといていいのか?」

 我関せずと言った具合で、出された麦茶を飲んでいた椎名に訊いてみる。

「いいんじゃないの? こはくにもあの子の姿が見えてる以上、仲がいいに越したことはないでしょう」

「仲がいいっていうか、あれじゃただの乱闘だろ」

 勢いよく部屋を飛び出した二人は、隣の大広間でもみくちゃのプロレスごっこをしている。こはくちゃんが少女のことを押さえつけて、脇やら足やらをくすぐりまくっている。

「やっ……やめっ……やめてください……ってゔぁあ!」

 声にならない声をあげて、少女はのたうち回っている。

 目に大粒の涙を浮かべて笑い転げる姿に、あまりにもいたたまれなくなってしまい、俺は席を立った。

「ほら、もうここらで満足したろ」

 少女を脇から抱え上げ、こはくちゃんに言った。

「あー……しずく姉がとられちゃったー……」

 名残惜しそうにそう言うと、こはくちゃんはパンパンと埃をはらい落として立ち上がる。

「いやー、つい興が乗っちゃって。ごめんねー、しずく姉」

「ホントですよ! 今は小さい時の姿ですけど、一応は私の方がお姉ちゃんなんですから! もうこんな横暴は許しませんから!」

 長いツインテールをブンブンと揺らしながら、俺に抱えられたまま少女は怒鳴った。

「もう、そんなこと言っちゃってぇ。本当は楽しかったんでしょー?」

 うりうりと言いながら、こはくちゃんは少女のほっぺたをプニプニとつつく。

「……っ! うーーーふぁふぁいひょはやふぁふぁふぁふぉふぉゔぉい!」

 こはくちゃんに両頬を押し潰された少女は、もはや何を言っているのかわからないが、ジタバタと手足を振り回しているから怒ってはいるのだろう。

 俺は強制的に二人を引き剥がすと、元の部屋に戻って、居間の机を全員で囲い直す。

 少女を座布団に下ろして、俺も隣に座る。

「わたし、この人嫌いですっ」

 開口一番、少女がこはくちゃんを指差してそう断言した。

「そう言うなよ。一応はお前の妹なんだからさ」

「あれが姉に対する仕打ちだと、成宮さんはそうおっしゃりたいんですか⁉︎」

「いや……まあ、程度はともかく二人がじゃれあってたのはいつものことだしなぁ」

 大人しくて控え目なしずくのことをこはくちゃんがいじり倒すという場面は、高校の時に散々この家で目撃している。付き合っている中であっては、こはくちゃんの存在は面倒そのものだったが、姉妹が仲睦まじげにしているのは悪いことではないと思う。

「そうそう。しずく姉はほら、記憶をなくしてるじゃん? だから、あれが私なりのコミュニケーションというか、お近づきの儀式なんだよ」

「それが本当だったら、こはくさんはコミュニケーションの方法を一から見直した方がいいじゃないですかね……?」

 ジトっとした目で少女はこはくちゃんを睨む。こはくちゃんは気にする素振りもなく、あははーと笑い飛ばしている。

 やり方はともかく、仲は縮まった……のかな? 

 縮まってると良いなぁ……。

 ふと、遠い昔、俺としずくが部屋で良い雰囲気になっていた時に、こはくちゃんが突然サンタのコスプレ姿で侵入してきて、「プレゼントだぜっ」と言いながら袋に入った避妊具を置いていったことを思い出した。その後、俺としずくが気まずい雰囲気になったのは言うまでもないのだが。

 こんな風に、少しばかり空気を読まないこはくちゃんではあるが、それも彼女の長所と言えば長所だ。俺はいちいち口を挟まないように……というか、もう諦めている。

 むしろ、しずくが死んでしまって以降、気まずくなって連絡を取っていなかった俺たちだが、こうして元気な姿が見られて安心しているくらいだ。

 それが空元気だとしても、こはくちゃんが落ち込んでいるよりはよっぽど場の雰囲気も良い。俺と椎名だけだと、どうしても現実的な話ばかりになってしまうし。

 座布団に座ったこはくちゃんは、ようやく落ち着いたのか麦茶を飲んで一息ついている。

「でもさ、こうしてまた会えるなんて思ってもみなかったよ。小さい時の姿で、記憶をなくしているとは言っても、しずく姉には変わりないしね」

 そう言って少女を見つめるこはくちゃんの目は、在りし日の思い出を振り返ってるかのように懐かしげだ。

「にしても、どうしてしずく姉は昔の姿で出てきたんだろうね? いやまあ、その方が面白いっちゃ面白いけどさ」

 その疑問は、俺と椎名もずっと抱えていたものだった。

 こはくちゃんにこれまでの経緯の説明をする必要が出たせいで後回しになっていたが、今日の本来の目的はそれだ。

「面白いねぇ……まあでも、それに関しても色々と話を聞くつもりで今日は来たんだ。そうだよな、椎名?」

 隣で黙々と煎餅を食べていた椎名にそう尋ねる。

 椎名は口に含んでいたものをゴクリと飲み込むと、姿勢を正して俺たちを見据える。

「ええ。こはくには、事件当時のこともそうだけど、昔のしずくについての話も聞きたいの。成長した姿じゃなくて、子供の時の姿で現れたことには何らかの意味があると思うから」

 椎名がそう切り出したことで、今までふざけていたこはくちゃんも真剣に話をする体勢に入った。

「私と成宮くんは高校時代のあの子しか知らないから。この子の姿を見て、思い当たることとかあれば、何でも話して欲しいんだけど、どう?」

 椎名がそう訊くと、こはくちゃんはしばらく考える様子を見せた。

 再度、ジッと少女の姿を見つめ、過去の記憶を漁る。

「まず、最初に気になるのは、この服装ですかね」

 白いワンピースに、大きな麦わら帽子。いつもの少女の服装であり、少女が写っていたあの写真の中でも着ていた服だ。

「これ、やっぱり見覚えがあるのか?」

 俺がそう訊くと、こはくちゃんは大きく頷いた。

「うん。昔──十年くらい前かなぁ。私もしずく姉もまだ小学生くらいの頃、お母さんと一緒に出掛けた時の服装がちょうどこれだったよ思うよ」

「へぇ……でも、よくそんなの覚えてたな」

「うち、ずっと母子家庭で貧乏だったからなぁ……。三人でどこかに遊びに行くことなんて滅多に無かったし、よく覚えてるよ。あ、そうそう、怜兄が見つけたって言うあの写真が、丁度その時に撮った写真だよ」

 こはくちゃんの話を受け、俺はカバンの中から例の写真を取り出す。

 キラキラと輝く海をバックに、母娘三人が幸せそうに笑っている。

 俺が取り出したその写真を見て、こはくちゃんは懐かしそうに笑う。

「あー! そうそう、これこれ! このお出かけのために、私もしずく姉も可愛い服を新調したんだよねー。お金の余裕がないのは私たちもわかってたから、いつもの服で良いよって言ってたんだけど、お母さんが張り切っちゃってさー。この後、海に入ってずぶ濡れになったり、近くの海の家でかき氷食べたり……思い出すなぁ」

「なるほど……印象深い思い出ってわけか」

 しずくの幼少期の頃の話は、俺も直接本人からよく聞いていた。

 貧乏特有の苦労話なんかを、しずくはよく笑い話として聞かせてくれたけれど、当時の生活が大変だったことは事実だ。そんな中で、こうして家族みんなで出掛けた思い出は、きっと親子三人全員にとって大切なものだろう。

 いつもの白いワンピースを着ているしずくの隣では、幼いこはくちゃんがピンクのワンピースを着て笑っている。太陽のネックレスを首元に輝かせた母親は、愛おしそうに二人の娘の頭を撫でていて、その様子はまさに幸せの絶頂だ。

「それにさ、この服を着たのはこの時が最初で最後だからね。そういう意味でも、印象は強いよ」

「あ……そっか。そういえば、この年って……」

「そう。お母さんが交通事故で亡くなった年だね。三人でお出かけした、一ヶ月後くらいかなぁ……。買い物中に、突っ込んできたトラックに巻き込まれてコロッとね」

 その話は、俺もしずくから聞いたことがあった。

 ──まあでも、そのおかげで実家で暮らすことになって、怜君や光莉ちゃんと出会えたんだから、悪いことばかりじゃないよね。

 そんな風にしずくは語っていたけれど、幼い頃に母を亡くすというのは、俺には想像も出来ないくらい辛い経験なのだと思う。

 もっと一緒に行くはずだったお出かけも、よく作ってくれた自分たちの大好物も、悪いことをして叱られた思い出も、成長した後に親孝行をすることも、たまに帰省した時に家族みんなで思い出話をすることも、全部全部が消えてしまって、あるはずだった幸せはここにない。

 未来は無限の可能性に包まれている。辛いことも起こり得るが、それ以上の幸せを得ることだって出来るかもしれない。死というのは、そのすべての可能性を失ってしまうことで、理不尽なようだが、それは誰にでも唐突に起こりうる不幸なのだ。

 そして、それは誰の裁量か、幼い姉妹の母親に降り注いだ。

 俺や椎名はもちろんこの話を知っていたけれど、記憶をなくしている幽霊の少女はこの話を聞くのは初めてだ。

「そんなことが……あったんですね」

 想像だにしていなかった自身の過去に、少女は神妙な面持ちで俯いてしまった。

「ちょっとちょっと、しずく姉、そんな落ち込まないでよー」

 そんな少女に、こはくちゃんは努めて明るく話しかける。

「もう何年も前の話だし、私も今さらどうも思わないよ」

 高校入学当初、しずくが誰とも接点を持たず静かに過ごしていたのは、恐らく母親の死をずっと引きずっていたからだと思う。けれど、こはくちゃんは同じ境遇にいるにも関わらず、ずっと笑顔で過ごしていた。無理している部分も恐らくあったんだろう。それでも、死んだ母親の分まで力強く生きていく──そんな前向きな姿勢がこはくちゃんからは感じられた。

「そう、なんですか……?」

「うん! 元気だけが私の取り柄だからね! 私が落ち込んで過ごしてたって、お母さんもしずく姉も喜ばないじゃん? それとも、今ここにいるしずく姉は、私に落ち込んでいて欲しい?」

「いや……そんなことは。でも、素敵です、そういうの。私も、そんな風に強くなれたらいいなって思いますから」

「うん、そうだね。その方がいいよ」

 ここ最近の少女は、出会った時よりも少しだけ落ち込んでいるように見えた。自分のことを知りたいと思う一方で、自分の死という事実に直面して気疲れしていたのだろう。

 でも、こうしてこはくちゃんと話している少女は、いつもより元気付けられているように見える。

 きっと昔も、落ち込んでいるしずくのことをこはくちゃんが励まして、二人で支え合って日々を過ごしていく──そんな場面があったのだろう。

「まあ、昔のしずく姉に関してはそんなところですかね。光莉さん、こんなもんで大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとう、大丈夫よ。今のこはくの話によると、この白いワンピースに麦わら帽子っていう服装が、しずくにとっても思い出深いものだってことよね」

「そうですね。しずく姉も私と同じように思っていたはずですよ」

「そう……わかったわ」

 今のこはくちゃんの話を参考にして、俺も少女の姿について考えてみる。けれど、今の少女の姿としずくの過去について、大した繋がりは見えてこない。

「椎名、どうだ? 今の話から何かわかったりするか?」

「どうでしょうね……今の情報だけだと何とも。仮説だけならいくつか立てられるけれど──」

「──あれ! もうこんな時間じゃん!」

 椎名に詳しく話を聞こうとしたその瞬間、部屋の時計を見たこはくちゃんがいきなり大声で叫んだ。

「怜兄、光莉さん、行くよ!」

 そう言ったこはくちゃんは立ち上がると、いそいそと外出の準備を始めた。

「行くって、どこに?」

 俺が訊くと、こはくちゃんは足を止めて振り返る。

「どこって、幽霊騒ぎを確認しに行くんでしょ? いつもこの時間に見かける人が多いから、今を逃すと会えないかもよ? じゃあ、二人はちょっと待っててねー」

 そう言い残して、こはくちゃんは着替えをするために自室に入った。

「……はぁ」

 隣で椎名がため息をつく。

「そういう話は、前もってしてほしいんだけどね」

「良くも悪くもマイペースだからなぁ」

「私、あの子ちょっとだけ苦手なのよね」

「だろうな」

 別に仲が悪いわけではないだろうけど、相性的にどうしても噛み合わないことはある。

 お互いそれを分かりきった上での距離感で付き合ってはいるだろうが、椎名はそれでもやりにくそうだ。

「──今誰か、私のこと苦手って言いませんでした⁉︎」

 部屋の扉を勢いよく開けて、こはくちゃんは上半身下着姿のまま飛び出してきた。

「……はいはい、私よ。というか、そんなの今更でしょ?」

「あーひどい。私は光莉さんのこと好きなのになー。ねー、怜兄」

「お、おう……そうだな」

 服を抱えてはいるが、白色のブラが隙間から見えている。俺は目線を逸らして曖昧な返事をすることしかできない。

「もうわかったから、そんなみっともない姿を晒さないの」

 椎名にシッシッと手で追い払われ、こはくちゃんは渋々部屋に戻っていった。

 椎名は再度ため息を吐いて立ち上がる。

「まったくあの子は……さ、私たちも準備しましょうか」

 椎名に続いて、俺と少女も立ち上がる。

 靴を履いて家を出る間際、少女がこはくちゃんの部屋を振り返った。

「わたし、凄く個性的な妹がいたんですね……」

 少女はどこか遠い目をしている。

「まったくだよ。俺としずくが高校生の時もさ──」

 こはくちゃんに関するエピソードには事欠かない。

 過去の愚痴……のような思い出話を少女にしていると、しばらくしてこはくちゃんが出てきた。

 勉強用のメガネは外して、動きやすい服装に着替えてきたようだ。

「よし! じゃあ、出発!」

 ……そんなに張り切ることでもないのだが。

 こはくちゃんに連れられて、俺たちは件の幽霊の出現場所へと向かった。

 

 ◆


「私がその幽霊を見かけたのは、一ヶ月ほど前のことです」

 目的の場所に向かうには、歩きで多少の時間がかかる。

 その間に、俺たちはこはくちゃんから例の幽霊を目撃した時の話を聞くことにした。

「梅雨も明け、夏の匂いが色濃くなり始めた──そんなある日でした」

 なぜか物語口調で喋るこはくちゃんだったが、俺たちはツッコむこともなく耳を傾ける。

「受験勉強に身が入らなくて困っていた私は、気分を入れ替えるため一度散歩に出かけることにしたのです。私は蒸し暑い住宅街を避け、涼しい山道で森林浴をすることにしました、まあ、実のところはしずく姉の事故現場付近で幽霊を見たという噂を耳にしていたので、確認しておきたかったというのもあるのですが──それはともかく。しずく姉の事故現場まで足を運び、異常がないことを確認して引き返そうとした時です。森の中でガサガサと音がして、私はハッと振り返りました。いつもなら鹿だろうと熊だろうとかかってこいやの私なのですが、この時ばかりは戦慄せざるを得ませんでした。真っ白に染められたボサボサの髪に、山姥のように痩せ細った体躯、呻き声を上げて徘徊するその姿は、まさにこの世のものとは思えませんでした! 私は悲鳴を上げ、一目散に駆け出して、必死の思いで家に帰りつきました。遠目からだったので顔を確認することは出来ませんでしたが、きっとこの地に強い未練を残して、ずっと一人で彷徨い続けているのでしょう。まあ、私は怖いので二度と会いたくありませんけどねっ!」

 一気にそう語り終えたこはくちゃんは、ふぅと息を吐いた。

「というわけで、私はもう帰ってもいいですか?」

 俺たちが帰省した時に降り立った駅を過ぎ、人気の少ない山道に入ってもうしばらく経つ。昼間ではあるが、風にざわめく木々の音や、どこからか聞こえる動物の鳴き声がどうも不気味に感じられる。

「こんなとこまで来て戻るとか言い出すなよ。こはくちゃんがいないと見つけた幽霊が噂になってるのと同じかどうかわかんないだろ。というか、家を出る時はあんなに意気揚々としてただろ。あの元気はどこへ行ったんだ?」

「だ、だって〜行く時は平気だったけどさ、いざ現場に来てみるとあの時の記憶が蘇るというか、いや、ちょっとふざけた感じで話したけど、私マジで本気で怖かったんだからねっ⁉︎」

 キャイキャイと叫ぶこはくちゃんは確かにマジで本気で怖がっているようで、少女の腕にガッチリとしがみついている。

「まあ、どうしても無理だっていうなら、後は俺たちだけで何とかするけど……って、お前どうしたんだ? そんな考え込んで」

 こはくちゃんにホールドされている少女は普通なら「離してくださいっ!」などと言いそうなものであるが、何故か神妙な顔をして俯いていた。

 俺が話しかけてみても、少女からは反応が返ってこない。

 不思議に思って近づいてみると、

 ──白い髪

 と、少女が呟いた。

「……っ!」

 そしてそこで、俺もようやく気が付いた。

「お、おい椎名……こはくちゃんが見た幽霊って、まさか……」

 少女と同じように無言で考え込んでいた椎名は、俺の言葉に反応してこちらを振り返る。

「間違いない。その幽霊、悪霊化してるわね」

 足を止めて、椎名は険しい顔でそう言った。

「悪霊化……え、え、なんのこと?」

 幽霊に関して詳しい事情を知らないこはくちゃんは、椎名の様子に困惑した声をあげている。

 けれど、それを説明している時間もないのか、椎名は少しばかり焦った様子で言葉を続ける。

「三人とも、悪いけど今すぐ引き返してくれる? まさか、悪霊化した幽霊が関わっていたなんて……私の確認不足だったわ。悪霊への対処は私一人でどうにかしておくから、とりあえず今はそいつに遭遇しないうちに──」

 椎名はそうまくしたてるが、椎名以外は幽霊に関しては素人だ。悪霊というものを話には聞いていても、実際にこの目で見たことがあるわけではない。

「──そんなに、悪霊ってのはヤバいのか?」

 俺がそう訊くと、椎名は苦い表情を浮かべた。

「ヤバい……ええ、そうね。程度はあるけれど、最悪の場合は呪い殺されることもある。私たち成仏師以外は、本来関わってはならないものよ」

 椎名の表情は真剣そのもので、きっと冗談でもなんでもない。

 実際、椎名の額にはジトリと嫌な汗が浮かんでいて、挙動にもどこか落ち着きがない。

「えーと……私たち、本当に戻った方がいいやつっぽいね……」

 こはくちゃんもそう呟き、少女の手を心細そうにギュッと握った。

「でも椎名、お前は大丈夫なのか……?」

 俺がそう訊くと、椎名はカバンの中から見覚えのあるものを取り出した。

「ええ、大丈夫よ。私には、これがあるから」

 対幽霊用の拳銃を構えて、椎名は言った。

 黒岩さんの喫茶店で見たものと同じ、もしもの時に少女に使うために持ってきていたのだろう。

 椎名の言うことはまったく否定できないし、俺たちは大人しく退いておくべきなのだろう。けれど、椎名だって百戦錬磨というわけではない。そんな女の子をここに一人で置き去りにして良いものかという疑問は湧いてくる。

「……あのっ!」

 俺が逡巡していると、少女が突然口を開いた。

「私だけでも、同行できませんかっ? ほら、わたしは幽霊ですし、呪い殺される心配とかもないわけで……。それに、私が生前に同行していた幽霊と、こはくさんが見たっていう幽霊が同じなら、その、わたしは……」

「同行していた幽霊が悪霊化して、襲われた果てに転落死したんじゃないかって?」

 言い淀む少女に、椎名がスパッと言い切ってみせる。

 確かに、そう考えると筋が通ることは多い。

 悪霊になる前の幽霊としずくは、何らかの目的で帰省をしたが、駅に降り立ったタイミングで同行していた幽霊が悪霊化してしまい、森に逃げ込んだしずくはそこで死んでしまった。

 幽霊騒ぎを街に持ち込まないという意味では、森に逃げ込んだことは納得できてしまう。

 あまり想像したくない話ではあったが、これが当たらずとも遠からずというのは、俺も椎名も少女も感じているところだろう。

「そうだったら余計に、わたしはその幽霊と会うべきじゃないですかっ⁉︎」

 そう主張する少女の表情は必死で、真実を目の前にしてまったく引く気がないようだった。

 自身の麦わら帽子を胸に抱き、どうにか訴えんとする少女の様子に、椎名も折れたようで、

「……わかった。でも、付いてくるだけ。無断で話しかけたり、無闇に近づこうとしたり、勝手なことはしちゃダメだからね」

「はい、わかりました。それで大丈夫です」

 椎名は頷き、少女は椎名の隣にぴったりくっついた。

「じゃあ、成宮さん。私たちは行きますね」

「……ああ、二人も気を付けてな」

 椎名と少女に別れを告げ、こはくちゃんと歩き出す。

 元来た道を戻り、椎名たちと数メートルの距離が空いた、その時──

「──ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」

 どこからかそんな呻き声が聞こえ、俺たちは足を止めた。

「こっ、この声……! この声です! 私が見た幽霊!」

「──ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアア」

 こはくちゃんが震え声でそう言った最中も、その呻き声は止むことはなく、むしろ、音量を上げていって、

「……っ、ひゃあ!」

 突然、こはくちゃんがそう叫んで尻餅をついた。

 俺の腕を掴んでいたこはくちゃんに引っ張られるように座り込み、青ざめた表情で指を差す彼女と同じ方を向いた。

「……っ!」

 俺も声にならない声をあげる。

 爛れた皮膚に、抜け落ちた白髪に、溶けた目玉。

 落ち武者の慣れの果てのような姿をしたそれは、確かに悪霊と呼ぶのが適切だった。

 俺とこはくちゃんの目の前。道路に面した森林の中から、そいつは姿を現した。

 椎名が少女を連れて、座り込んだまま立ち上がれない俺とこはくちゃんを庇う。

「……二人とも、立てる?」

 手にした銃を悪霊に構え、椎名は震えた声でそう言った。

 悪霊と俺たちとは、まだそれなりに距離があるが、それでも十メートルほどだろう。

 俺たちはその威圧感を真正面から受け止め、完全に萎縮しきっていた。

「こはくちゃん、ゆっくりでいい。立ち上がれるか……?」

 こはくちゃんの手を取り、震えで固まっている彼女をどうにか立ち上がらせる。

 いまだ、椎名と悪霊はジッと対峙したまま動きを見せない。

 悪霊は俺たちの姿を確認したことで呻き声を上げなくなり、棒立ちの姿勢で微動だにせずこちらをジッと見ていた。

「あれが、悪霊か……」

 動転した気の中、俺は改めて悪霊の姿を観察する。

 ……あいつが、しずくを襲ったかもしれない張本人。

 そう思うと沸沸と怒りも湧いてきたが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。

 人物を特定しようにも、顔が原形を留めていないのだから年齢すら判然としない。体格から、おそらく女性であると推測できるくらい。

「……どう? 少しは動けるようになった?」

「あ、ああ……多少は」

 こはくちゃんは俺にしがみついたまま、立つのもやっとという感じだったが、俺が支えれば走れないこともないだろう。

「わかった。じゃあ、私が合図をしたら、この子も連れて三人で走って逃げて。大丈夫、追ってくることはないと思うから」

「し、椎名さん。でも、わたしは……!」

「緊急事態よ、お願いだから言うこと聞いて」

 椎名の発言に反対する姿勢を見せた少女だったが、その有無を言わさぬ様子には従うしかない。

 俺と少女でこはくちゃんを支え、いつでも逃げ出せる準備を整える。

「準備はできたわね。じゃあ、行くわよ。3……2……1……行って!」

 椎名の合図で、俺を含む三人は一目散に駆け出した。

「──アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 背後ではまた悪霊の呻き声が響き、残された椎名のことが心配になるが、こればっかりは無事を祈るしかない。

 今俺がすべきことは、三人で無事に家に戻ることだ。

 こはくちゃんを支えて走る中、俺は考える。

 ……あの悪霊は、一体誰なのか。

 ……しずくは、あいつとどんな関係だったのか。

 今考えても仕方ないことではあるが、そう思わずにはいられない。

 椎名は直接幽霊に話を聞くと言っていた。

 あの状態の悪霊から話を聞き出すことが出来るとは到底思えないが、そこは椎名に期待するしかない。

 ……まあ、最優先すべきは椎名が無事に帰ってくることなのだが。

 色々と思考を巡らせていると、悪霊とも距離が離れ、遠目に姿が確認できるくらいになってきた。

「ご、ごめん、怜兄、しずく姉。もう一人で走れそう」

「お、おう……大丈夫か?」

「うん……なんとか」

 ようやくこはくちゃんも正気を取り戻し、俺たちは三人で並んで走る。

 俺が後ろを気にしつつ走っていたことに気が付いたのか、こはくちゃんも同様に振り返って悪霊の姿を確認する──

「──って、こはくちゃん?」

 いつの間にか、こはくちゃんは走るのをやめて立ち止まっていた。

 俺と少女よりも数メートル後ろで呆然と立ち尽くすこはくちゃんの元へと行き、様子を確認する。

 声をかけてみるも反応はなく、こはくちゃんはジッと悪霊の方を見つめていた。

 俺と少女も、彼女と同じように悪霊の方に目を向ける。

 昼間の太陽が木々の合間を縫って、悪霊を照らしている。

 キラリと、悪霊の首元で輝く何かが見えた。

 ──やっぱり

 こはくちゃんが、そう呟いた。

 目を凝らして、俺はもう一度よくよく悪霊を観察する。

 爛れた皮膚に、抜け落ちた白髪に、溶けた目玉。 

 だけれど、その中で一つだけ、原形を留めているものがあった。

 悪霊の首元では、太陽のネックレスが燦々と輝いていて。

 俺はそれに、見覚えがあった。

 隣で少女も、息を飲んだのがわかる。

 そのネックレスは、しずくとこはくちゃんと、その母親が写ったあの写真の中でも同じように輝いていて──

「──お母さん!」

 こはくちゃんが、悪霊のことをそう呼んだ。


迷宮入りのゴーストガール ⑤


 夏時の陽は長いとはいえ、夜も七時を回れば薄暗くなってくる。

「椎名さん……帰ってきませんね」

 森の中で悪霊と遭遇したのがお昼過ぎ。

 椎名を一人で森の中に残して逃げ帰ってきた俺たち三人は、各々自由に時間を過ごして椎名のことを待っている。

 帰宅したそばからこはくちゃんは自分の部屋に閉じこもり、俺と少女は二人きりで居間で時間を潰している。

 こはくちゃんのお婆ちゃんは地域の集会に顔を出しているらしく今はいないが、もうじき帰宅する頃合いだろう。

 昼間、家を出る時に晩ご飯を振る舞ってくれると言っていたから、それまでに椎名には帰ってきて欲しいところだ。

「椎名さん……無事ですよね?」

 心細そうな声で、少女が呟いた。

 ゴールデンタイムのバラエティ番組を映しているテレビの電源を切り、俺は畳に寝転がる。

「無事だよ、きっとな。あいつがそんな簡単にくたばる奴じゃないってのは、お前も知ってるだろ?」

「そうですけど……」

 俺たちの地元に帰ってくる少し前、こいつは椎名の家に行って生活を共にしていた。

 一週間程度ではあるが、少女から聞いた話ではかなり充実した期間であり、その中で椎名の人となりも理解しただろう。

「……あと少しして戻ってこなかったら、俺が様子を見にいくよ」

 本当なら、夜になれば俺は実家の方に戻るつもりだったが、このまま椎名が戻ってこないなら、少女とこはくちゃんをおいて帰るわけにもいかない。

 ──ブロロロロ

 そうして二人で待っていると、外から使い古した軽トラのエンジン音が聞こえ、俺と少女は起き上がる。

「おばあちゃんだな」

 集会に行っていたしずくのおばあちゃんが帰宅したようだ。

 軽トラのヘッドライトが消灯し、少ししておばあちゃんが玄関の扉を開けた。

「はあ〜つかれたわ〜。よいしょっと」

 買い物をしてきたのか、大きな袋を抱えたおばあちゃんが姿を現した。

 しずくのおばあちゃんは、昔ながらの優しいおばあちゃんだ。俺もしずくと付き合っていた時には、とても良くしてもらった覚えがある。

 おじいさんが生きていた時は、二人で農業をしていたらしく見た目に反して力はあるが、それでも重量のある袋を両手に二つも抱えていれば不安にもなる。

 万が一、腰をやってしまうようなことがあれば、こはくちゃんはこの家に一人になってしまうし。

「運びますよ」

 おばあちゃんの元へと向かった俺は、玄関に置かれている袋をキッチンの机まで持っていく。中には大量の食材が入っており、まるでパーティーでも開くかのようだ。

「これで全部ですか?」

 日用品や米など多岐にわたる物を買ってきたらしく、並べただけでもかなりの量になった。確かに田舎はまとめ買いをすることが多いけど、その量に思わず圧倒されてしまう。

 ……おばあちゃん一人でこれやってるのかよ。

 そう思う一方で、そのパワフルさに感心せざるを得なかった。

 これなら、まだまだ健康でいてくれそうだな。

 そう思い、ふと玄関の方を振り向くと、

「……あれ、椎名?」

 買い物袋を持った椎名が、どこか申し訳なさそうに玄関に立っていた。

「成宮くん……その──」

 俺の姿を確認した椎名は、玄関に突っ立ったまま何やら弁明を始めようとする。

「ごめんなさい……昼間の悪霊なんだけど、私、上手くやれなくて、結局あの後取り逃しちゃったの……きっと警戒されただろうから、もう一度見つけるのはきっと困難に……でも、必ず見つけ出して、それで──」

 椎名は手をギュッと握りしめて、早口でまくしてたる。

 悪霊やら何やら、その他も色々な事情はあるだろうが、今はそんなことはどうでもいい。

「椎名、無事だったんだな……本当に良かった」

 俺は椎名の元へと近づくと、安堵と共に彼女の肩に手を置いた。

「え、ちょ……成宮くん?」

 俺の突然の行動に、椎名は困惑している。

「俺もあいつも、ずっと心配してたんだ。怪我とかは、ないのか?」

「え……えぇ、そんなヘマはしてないけれど。それより、その……」

「ああ、悪霊のことか? 逃がしちまったんだっけ。いいよいいよ、そんなのまた後でみんなで考えればいい話だろ? とりあえず、疲れたろ。ほら、中に入れよ」

 椎名は、俺なんかよりもずっとずっと頑張っている。少女の成仏をしたいと決めた時も、しずくの事件の調査をする時も、今回の悪霊に出くわした時だって。俺たちのことを引っ張ってくれているのはこの椎名なのだ。もちろん、彼女が幽霊に対して一番精通しているからというのはある。けれど、だからと言って椎名に頼りっぱなしというわけにもいかない。俺たちは全員、同じ目的のために動いているのだし。だから、ここで椎名が責められる謂れも、責任を感じる必要も、何もない。

 想像してたより何倍も不気味だったあの悪霊も、それと行動を共にしていたかもしれないしずくのことも、何より、逃げ際にこはくちゃんが叫んだことだって、気になることは山ほどある。

 椎名自身、少しは焦っているのかもしれない。

 でも、何よりも最優先なのは俺たちの身の安全だ。それには勿論、椎名も含む。

「その子、暗くなってきたのに山道を一人で歩いてたもんだからびっくりしてねぇ。軽トラの横が空いてたから乗せて帰ってきたのよ〜。ま、そのおかげで買い物が楽に済んだから、大助かりだったけどねぇ」

 お風呂を沸かしに行っていたおばあちゃんが俺たちの元に戻ってきて言った。

「本当に、ごめんなさい。お騒がせしてしまって」

 ようやく玄関を上がった椎名がおばあちゃんに頭を下げる。

「いいのいいの。でも、あなた若いんだから、あんなとこを一人で歩いちゃダメよ? 熊も出るし、危ないんだから」

 おばあちゃんの言葉に、椎名は苦笑いをしている。まさか、熊よりも恐ろしいものに襲われていたとも言えない。こはくちゃんと違って、おばあちゃんは少女の姿が見えていないから、幽霊に関する説明をするわけにもいかない。

「疲れたでしょう? もうすぐでお湯もたまるから、お風呂入ってきなさい。その間に、美味しい〜ご飯を用意しておくから」

 優しい笑みを浮かべたおばあちゃんの言葉に、椎名は従った。

 今日から椎名はしばらくの間、しずくの実家に宿泊することになっている。その初日だから、豪勢な料理を振る舞うつもりらしい。

 俺も手伝いをしようと思ったのだけれど、客人だからと断られ、部屋にこもっているこはくちゃんを代わりに呼んだのだけれど、寝ているのか返事はなかった。

「……こはくさん、部屋で泣いてましたよ」

 俺の元にやってきた少女が小さく呟いた。

 けれど、その事実を俺がおばあちゃんに伝えることはない。

 ……今はまだ、そっとしておくのがいいだろう。

 俺は少女を連れて、広間に戻った。


 ◆

 

 夜ご飯は、予想以上に豪華なものが出てきた。

 お寿司に始まり、地域の野菜を使った炒め物やら、煮物やら、その他も色々と。デザートにスイカまで出てくるサービス具合だった。「若いんだから、いっぱい食べなよ」と、好意で勧めてくれたおばあちゃんだったが、正直俺の胃袋は容量ギリギリだった。それでも、どうにか粗方を平らげた俺は、気晴らしも兼ねて散歩に出ることにした。

「ふぅ……」

 夜の涼しくなった空気を吸い込み、はちきれそうな腹を撫でる。

 量はともかく、久しぶりに味わう地元の味に俺は大層満足していた。

 大学周辺の都会では見られない、綺麗な星空を見上げながら歩く。

 俺は星に関する知識はないから、どれが夏の大三角だとか、そういう話はわからない。けれど、向こうでは夜空を見上げてもどんよりとした曇り空しか見た覚えがないので、こうして歩いているだけでも地元に帰ってきたという感じがして安心感を覚える。

「静かなのもいいよなぁ……」

 過疎化が進んで寂しい……と言えばそうなのだが、都会の喧騒とか忙しなさとか、そういったものから解放されたような感覚は気持ちがいい。

「大学とか戻りたくねぇ……」

 元々、独り言を呟く癖はあるが、こうして人がいない夜道を歩いているとついつい愚痴がこぼれてくる。大学という現実から逃避するために、陽気な鼻歌を鳴らしつつぼんやりとしていると、

「人が折角感傷に耽ってるのに、下手くそな歌を聞かせないでくれる?」

「うお……って、なんだ、椎名か。驚かせるなよ」

 神社に続く階段に腰を下ろしていた椎名が、突然俺の前に現れた。

 この辺りは街灯も少なく、頼りになるのは月明かり程度だから話しかけられるまで気がつかなかった。

「驚かすも何も、普通に座ってただけじゃない」

「まあ、そうだけど……てか、こんなとこで何してんだ?」

 椎名の隣に腰を下ろしつつ、そう尋ねる。

「別に……ただボーッとしたい気分だったのよ。それと、おばあさんから手持ち花火を貰ってね、あの子がバケツに水を汲んできてるから、それを待ってるの」

 そういえば、少女も食事の時には姿を見せていなかった。

「てか、あいつ花火好きだな。花火大会に行くっていう約束も取り付けてるのに」

 俺たち三人で黒岩さんの喫茶店にいた時、少女は俺たちを花火大会に誘った。

「まあ、あれも本当に行けるのかどうか……」

 ため息を吐きながら、椎名がそう呟いた。

「それって、どういう……」

「あの子の悪霊化の進行、思ったより早くてね……。八月を無事に抜け切れるのかどうか、正直怪しいところなのよ。あの子の白髪が増えてたの、気付かなかった?」

 思わぬ事実に、俺は言葉を失う。言われてみれば確かに、少女の白髪は出会った時よりも増えていたように思う。

「……そう、だったのか。そのこと、あいつは知ってるのか?」

「ええ。私の家にあの子が来た時、やんわりとは伝えてあるわ」

「そうか……」

 俺を花火大会に誘ってきた時の少女の姿を思い返す。いつもは感情を大きく表に出すことの少ないあいつではあるが、その時は年相応にはしゃいでいた。

 あいつを成仏させてやる、というのが俺たちの目的ではあるが、花火大会に行くという約束が果たせそうにないのは、少し寂しく思う。

「……だから、実際私たちにはのんびりしている時間はないのよ。今日だって、本当はあの悪霊から事件にまつわること全部を聞くつもりだったのに」

「だよな……でも、あんな状態の悪霊から話を聞くことなんて出来るのか?」

「それに関しては問題ないわ。あの銃を悪霊に撃ち込めば、少しの間だけ人格が戻って、まともに話をすることができるから」

 少し間が空いて、そういえば……と椎名が呟いた。

「成宮くんたちが逃げていく時、遠くからこはくが何か叫んでなかった? お母さんがどうとか……そういう風に聞こえたんだけど」

「……ああ、そっか。椎名は気づいてなかったのか」

 あの悪霊がしずくとこはくちゃんの母親かもしれないことは、帰り道に三人で確認している。それを聞いてない椎名は、あの太陽のネックレスだけでは気付かなかったのだろう。

 俺はそのことを簡単に説明する。

「……それ、本当なの?」

「ああ、あのネックレスはハンドメイドだから、他に出回っている可能性もない……って、こはくちゃんが」

「そう……やっぱり、そうだったのね」

 ため息混じりに椎名が呟いた。

「しずくの幽霊に、あの子の母親の幽霊か……。こはくにとっては、辛いでしょうね……」

「そうなんだよな……だから、今日の夕飯の時も元気がなかっただろ?」

 立て続けに、自分の家族であった二人の幽霊とこはくちゃんは出会ったことになる。しかも、母親の方は見るに堪えない悪霊の姿として。

 幼い頃に亡くなった母親が、ああして苦しんでいる姿を見てしまっては、こはくちゃんに与えられたショックは絶大だろう。

「……あの子のことは、私がどうにかしてフォローしておくわ。やっぱり、軽率に連れていくんじゃなかったわね……私のミスだわ」

 こはくちゃんもそうだが、事の発端を作ってしまった責任を感じているのか、椎名も落ち込み気味になっている。ここで、俺がフォローの一つや二つをすることは簡単だが、何を言っても逆効果にしかなりそうに思えず、俺は口を閉じる。

「でも、これでしずくが母親の幽霊と一緒に帰省したっていうのは、ほぼ確実になったわけね」

「そうだな。まさか無関係ってことはないだろうし」

「ええ。後は、その悪霊に銃弾を撃ち込んで話を聞くだけ……か」

 ──重たいな

 ポツリと、椎名が独り言のように呟いた。

 その言葉に、俺はどうにか反応を返そうと思ったのだけれど、それより先に椎名が腰を上げた。

「ってか、あの子遅いわね。水汲むだけでなにやってんだか」

「様子を見にいくか?」

「そうね。……というか、今何時?」

 そう訊かれ、俺はスマホで時間を確認して答えたのだけど、

「あれ、椎名、お前のスマホは?」

「ああ……悪霊を追ってる時に落としちゃって。まあいいわ、どうせ機種変しようと思ってたし」

 さして気にする様子もなく、椎名は家に向かって歩き出した。

 ……だから、夜になってメッセージを送っても返信がなかったのか。

 スマホを落とすほどとは、かなり椎名は必死にあの悪霊を追っていたらしい。

 帰ってきた時も、思い返してみればズボンの裾には泥がついていた。

 ……この帰省のタイミングを逃せば、悪霊を成仏させることは出来ず、しずくに関する話も聞くことができない。それは、しずくの──少女の未練を解消させるチャンスを失うということで、その先に待っているのは、銃弾を撃ち込まれてのお別れだ。

「そんなのは、やだな……」

 夜空を見上げ、呟いて、先を歩く椎名を小走りで追いかけた。



「……あれ?」

 玄関先には水が半分ほど入ったポリバケツが置かれていて、少女の姿はどこにもなかった。

 どこにいるのやら……と、家の周りをグルリと回ってみると、明かりの漏れる部屋のすぐ近く、聞き耳を立てるようにして少女は縁側に座っていた。

「おい──」

 何してるんだ? と声をかけようとすると、少女もこちらに気づいたようで、唇に人差し指を当てて「しーっ」と口を閉じるように合図をしてきた。

 なるべく静かに少女に近づき、俺と椎名も部屋の様子をソッと伺う。

「……っ、……うぅ……くっ」

 聞こえてきたのは、誰かがすすり泣く声。俺たちが様子を伺っているのは、先ほどまで夕飯を食べていた部屋で、そこに残っているのはおばあちゃんと、こはくちゃんだ。

「おお、おお、どうしたんだい……?」

「ごめん……っ、おばあちゃん……なんでも、なんでも……ないのっ」

 カランと、箸を茶碗に置く音が聞こえる。

 おばあちゃんにはそう言ってみせたこはくちゃんだったが、すすり泣く声が止む気配はない。

 畳の軋む音が聞こえ、おばあちゃんがこはくちゃんの元へと近づく。

「よしよし……何か、辛いことでもあったのかい?」

 おばあちゃんが、優しい声音でこはくちゃんに訊いた。

「……ごめん……本当に、だい、じょうぶ……っ、だから……っ」

 こはくちゃんが涙を流している理由は、俺たちにはわかる。

 今日、死んだ母親の悪霊に出会ってしまったことだ。

 でも、それをおばあちゃんに話すことは出来ない。

 おばあちゃんまで、俺たちの幽霊騒動に巻き込むわけにはいかないから。

 だから、おばあちゃんがいくらこはくちゃんを慰めても、こはくちゃんは黙って涙を流すことしかできない。

「……っ」

 木戸の隙間から、わずかに部屋の様子が伺えた。

 おばあちゃんはこはくちゃんの手をギュッと握り、こはくちゃんは襲い来る辛さに耐えんと、必死に唇を噛みしめている。

 それから、どれくらいの時間が経ったか。

 こはくちゃんは中々泣き止むことが出来ずに、その間ずっと、おばあちゃんはただただ、こはくちゃんの手を優しく包み込んでいた。

 少しだけ、こはくちゃんの嗚咽がおさまった。

 それを見計らって、おばあちゃんは口を開く。

「話せないなら、無理に話そうとしなくてもいいのよ。でもね、どうしても耐えられなくなったら、いつでもおばあちゃんに相談していいんだからね?」

 おばあちゃんの言葉に、こはくちゃんは何度も頷く。

「……おばあちゃんは、すぐにいなくなったり、しない?」

「しないさ。まだまだ、少なくともこはくが素敵な旦那さまを連れて挨拶に来るまでは、元気でいなきゃね」

「……そっか。なら、安心だ」

 どうにかこはくちゃんは涙を抑えられたようで、時折鼻をすすりながらも、普段の調子に戻っていた。

「……ごめん、急に泣き出しちゃったりして。へへ……どうしちゃったんだろうね。もう長いこと、おばあちゃんと二人暮らしなのに……もう、お母さんもしずく姉もいない生活にも、慣れてきたと思ってたのに……ほんと、なんでだろ」

 また滲みはじめた涙を誤魔化すかのように、こはくちゃんは苦笑を浮かべる。

 そのこはくちゃんの様子に、おばあちゃんはそっと彼女を抱擁する。

「寂しい思いを……させてたんだね。気づいてあげられなくて、ごめんね」

「……おばあちゃんは、悪くないよ。私が……っ、弱っちぃだけでさ。ほんとほんと、それだけだから」

 そう言って笑うこはくちゃんだったけれど、それが強がりだというのは声を聞くだけで明らかだった。

「……いいんだよ、たまには、こうして泣く日があっても。人間、ずっとずっと強く在れるわけじゃない。だから、こうして家族がいる。友達がいる。そうやって支え合いながら、残った人は、残った人なりに生きていけばいいんだよ。だからね、大丈夫……今日くらいは、我慢しなくていいんだよ。ね、しずく」

「……っ、……うん……うん……っ」

 おばあちゃんの胸に顔を埋めるようにして、こはくちゃんは嗚咽を漏らす。

 ずっと、俺たちの前でもこはくちゃんは元気な様子を見せていた。

 きっと、彼女は人一倍心が強いわけではなく、人一倍我慢が出来てしまう子なのだ。

 それに元気付けられている人たちも、もちろんたくさんいるだろう。

 生前のしずく然り、幽霊となって現れた少女だってそうだ。

 でも、そんな彼女だからこそ、こうして暗い感情は溜まってしまう。

 まだ、問題が解消したわけではない。

 母親の悪霊は、きっと今もこの田舎のどこかで苦しみ呻いている。

 それに立ち向かわなければいけない瞬間は、きっといつか訪れて。その時のために、こうして涙を流すのは、悪いことではないはずだ。

「……っ」

 突然、少女がスッと立ち上がった。

「──おい」

 つい声を発しそうになって、俺は慌てて口を閉じる。

 黙って動向を見つめていると、少女はそのまま二人のいる部屋の中に入っていった。

 扉は開け放たれていたから、少女が部屋に上がったことにおばあちゃんは気がつかない。目線を伏せているこはくちゃんもそれは同様だ。

 少女は構うことなく二人の方へと近づいていって、こはくちゃんの横に立った。

 そして、未だ嗚咽と共に涙を流しているこはくちゃんの頭にそっと手を置いた。

 当然、こはくちゃんは少女の存在に気づいただろうけど、彼女が顔を上げることはない。

 よしよしと、本当の妹にするかのように、少女はこはくちゃんの頭を撫でる。

 ──わたしはここに、いますからね。

 少女が優しく、そう呟いた。



 少女が戻ってくるのを、俺と椎名は玄関前で待っている。

 しばらくして、少女がこはくちゃんを連れて玄関の扉を開けた。

「あれ、待っててくれたんですね」

「花火をやるって言い出したのはあなたでしょ? ほら、やるならちゃちゃっと済ませるわよ」

「そんな風情のない言い方しないでくださいよ……。みんなで楽しもうと思って提案したんですから、ねえ、成宮さん?」

 俺も適当に返事をしつつ、水の入ったバケツを持って二人の後に続く。

 こうして少女と椎名のやり取りを眺めていると、出会ったときのような剣呑な雰囲気は感じられない。その様子は、まるで馴染み深い旧友のようだ。

「……怜兄、それ、半分持とうか?」

 少し後ろを歩いていたこはくちゃんが、俺が手に持っているバケツを指してそう言った。

「いや、別にこれくらいなら大丈夫だけど」

 元々は少女が一人で運ぼうとしていたくらいだ。大した重量はない。

 俺がそう返すと会話は途切れて、こはくちゃんはモジモジと落ち着かなさそうにしている。

 小石を蹴って、空を見上げて、ため息をついて、そんなこはくちゃんの様子を不思議に思い、どうしたのかと聞いてみると、

「……その、さっきさ……見てたっしょ?」

 照れまじりにこはくちゃんは言った。

「気付いてたのか……。勝手に覗くようなことして、悪かったな」

「ホントだよっ。私の涙は貴重なんだから、観覧料千円……と言いたいところだけど、特別に今日はタダでいいよ」

「それは助かる」

 なんて、冗談めいたことを言っているこはくちゃんではあったが、先ほどの悲しみが抜けたわけではない。

 大きなため息を吐くと、こはくちゃんは真剣な表情で俺の方を向く。

「……お母さんの悪霊のことなら、私に気を使う必要はないから。怜兄たちは今まで通り、しずく姉のために動いてほしい」

「いいのか……? 椎名に相談すれば、どうにか取り計らってくれるように思うけど」

「いいんだ。今、最優先すべきなのは明らかにしずく姉のことだし。それに、ああなっちゃったお母さんは、もう速やかに成仏させるしかないんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

 俺が言い淀んでいると、こはくちゃんは「大丈夫っ」と言ってこちらを振り返った。

「私ならもう、大丈夫だからさ。強がりなのかもしれないけど……それでもさ、強がらせてよ。やっぱりさ、生き残ってる私がくよくよしてるわけにはいかないじゃん。お母さんのことも、しずく姉のことも、ちゃんと終わらせる。それで私は、これからも強く生きていくんだ」

 強がりかもしれないと、そう認めた上で、こはくちゃんは言い切った。

「ほんと……すごいな、お前は」

 ああして泣いたとしても、また立ち上がって、強く在らんとする彼女の姿は素直に称賛したい。

「何言ってんの。すごいのは怜兄もじゃん」

「いや、俺は別に何もしてねぇよ。ずっと椎名に頼りっぱなしで──」

「──そうじゃないよ。怜兄がやるって決めたから、私たちは今ここに集まってるんじゃん。始まりは、怜兄なんだよ?」

「それも、あの幽霊に誘われただけだよ。なんやかんやと流されて、気づいたらここにいるだけだ」

「だとしてもだよ。怜兄、私はね、感謝してるんだよ? 昔の姿だけど、しずく姉にまた会えたことは嬉しかった。巡り合わせてくれたのは、怜兄なんだ」

 思わぬこはくちゃんの言葉に、俺は何を言えばいいのかわからない。

 ……まさか、そんな風に思っていてくれたなんて。

 始まりは、俺の勝手なエゴだった。

 しずくの死をちゃんと受け止めて、乗り越えたい。

 そう思って始めたことだった。

 少女に誘いに乗り、椎名を巻き込み、話を聞きに行った人を巻き込み、こはくちゃんも巻き込んだ。

 正直、迷惑をかけているだけだと思っていた。

 もう終わっているしずくの死を蒸し返し、過去の傷を抉るようなことを聞き、そうして

ここまでやってきた。

 それでも、こう言ってくれたこはくちゃんのように、俺たちの行いが誰かの救いになるというのなら、それは素直に嬉しいと思う。

「何やってるんですか二人ともー、早く行きますよー!」

 花火が待ちきれないのか、早足で先を行く少女が俺たちに声をかけた。

「はーい! 今行くよー!」

 こはくちゃんがそう答え、俺を連れて走り出す。

 その間際、

 ──頼りにしてるよ、怜兄。

 こはくちゃんが耳元で囁いた。

 ──ああ

 短く簡潔に答えて、俺も少女の元へと急ぐ。

 四人で賑やかにワイワイと、ただただ花火を楽しんだ。


 ◆


 それからも、色々と調査は行った。

 俺たち四人で色んな人に話を聞きに行き、暇があれば椎名は悪霊の足跡を追い、けれどどれも大した成果を得られることはなかった。

 そして今日は、八月十三日。

「夏祭り、です!」

 俺の地元で毎年開催されている夏祭り、その日だ。

 街中のシャッター街もとい商店街には出店が立ち並び、平時には見られない賑わいを見せている。

 賑わい……とは言っても、別に人混みで歩けないほど混み合っているわけではない。普通の人には認識されない少女が、伸び伸びとはしゃげるくらいには余裕がある。

 この帰省の目的はしずくの事件の捜査であるが、こうして一日くらい羽を伸ばせる日があってもいいだろう。少女とは、三人で花火大会に行くという約束もしていた。大学周辺の、想定していたものとは違うが、この夏祭りでも小規模ながら花火は上がる。十分に約束は果たせていると言っていいだろう。

「というか、夏祭りだってのに、結局いつもの格好なんだな。浴衣とか着てくりゃ良かったのに」

 先を行く少女に追いつきつつ、俺は言った。

 あの椎名でさえ、今日はこはくちゃんの勧めで黄色を基調とした浴衣を着ている。

 友達との先約があるからと、一人で出かけてしまったこはくちゃんも、以前にしずくが着ていたピンクの浴衣を着ていた。

「仕方ないじゃないですか。わたしもそりゃあ浴衣で来たかったですけど、どうしてかこの服から着替えることができないんですよっ」

 白いワンピースに、大きな麦わら帽子。いつもと変わらぬ見慣れた服装の少女は、そう言って俺に不満を漏らしてきた。

「幽霊として現れた以上、その時の姿にも、服装にも、絶対に意味がある。だから、幽霊はデフォルトの服を変えられないことが多いのよ」

 椎名がカランと下駄を鳴らしてやってきて、少女に言った。

 着替えられない……とは、具体的にどうなってるのかと聞きたいところではあるが、そんなことを聞いては少女に「なんですかっ、わたしの着替えてるとこが気になるんですかっ?」とジト目を向けられそうだったのでやめた。

「そういうもんか」

「成宮さんまで浴衣なんですもんね。ビックリしちゃいましたよ」

「浴衣ってか、ただの甚平だけどな」

 去年の夏祭り以来、一年ぶりに引っ張り出してきたものだ。たった一年ではあるが、その間に様々なことが起こったせいで相当に久しぶりな気がして落ち着かない。

「大丈夫か、これ? なんか変じゃない?」

「普通に似合ってますよ、いいんじゃないですか?」

「……お、おお。そっか」

 てっきり根暗だのスネ毛だの浪人生だの髪切れだのと、悪口が飛んでくるものだと思ってたから、少女の反応に驚いてしまう。

「お前に普通に褒められるのも、それはそれで何か違和感あるな……」

「別にわたしは、思ったことをそのまま言ってるだけですから。良いと思う時は素直に褒めますよ。それに、今日は折角の夏祭りなんです。成宮さんと喧嘩してる時間があったら、わたあめの一つでも食べるってもんですよ」

 そう言った少女は、俺と椎名を先導するように張り切って歩き出す。

「さ、行きましょう。楽しみはこれからですよっ!」



 わたあめ、タコ焼き、りんごあめ、イカ焼き、ベビーカステラ、焼きとうもろこし、かき氷、などなど、その他も色々と。

「おおーーー! こうして見ると壮観ですねっ!」

 少女の希望を聞き、屋台を回って様々な食べ物を買ってきた。

 出店が連なっている地帯から、少し離れた公園の草地。こはくちゃんが貸してくれたレジャーシートの上に並べられた夏祭りグルメを、少女はキラキラとした目で見つめている。

「ほんとなら、金魚すくいとか射的もやりたいとこだったんですけどねー」

「そう言うなよ。ここまで贅沢できるだけでも、感謝して欲しいってもんだよ」

 多少は椎名にもお金を出してもらっているとはいえ、俺の財布はもうスカスカになってしまった。

 しかし、少女の境遇を考えれば少しでも楽しんでもらいたいというのはある。金魚すくいなどの屋台は、姿が見えない幽霊の少女には出来ない。屋台の食べ物を堪能しつつ、こうして花火が上がるのを待つというのが、少女がいる中での楽しみ方としては精一杯だ。

「ま、成宮さんには感謝してますよ。さ、冷めないうちにいただきましょう!」

 俺への感謝もそこそこに、少女はわたあめを手に取った。

「う〜ん、あま〜いですね〜」

 少女はわたあめを口に含むと、そう言って表情を綻ばせた。溶ける、という表現が適切なくらいの蕩け具合だ。

 甘いものが好きだと聞いたことはあったが、ここまでだとは思っていなかった。自分にとっては初めてになる夏祭りをこれ以上ないくらいに満喫して、少女は至福と言った感じだ。

 あまりに大口を開けて頬張るものだから、口元には固まった砂糖がネバネバとくっ付いている。

「もう、そんな急いで食べないの。ほら、こっち向いて」

 少女の様子を見かねた椎名が、ウェットティッシュを取り出して少女の口元を拭いた。

 少女はわたあめの棒を持ったまま、椎名になされるがままにしている。

「ふぉお……ありがとうございます、椎名さん」

 そのやり取りは歳の離れた姉妹そのもので、少女は俺と相対している時よりもどこか幼く見える。まあ、俺は頼りないダメ大学生だし、椎名は頼れる優秀なやつだから、少女が甘えたくなるというのもよくわかるが。

「ほんとに、お前ら仲良くなったんだな」

 つい、そんな感想が出てくる。

 出会ったばかりの頃は、どこかぎこちなかった二人ではあるが、今となっては二人なりの良い関係が築けているのではないかと思う。

「まあ、一つ屋根の下で一週間も一緒でしたからね。紆余曲折、色んなイベントを経て仲良くなったわけですよ」

「ふぅん……具体的にはどんなことしてたんだ?」

 少女が椎名のところから帰って来る前に大学は夏休みに入ってしまい、そのまま地元に帰ってきたから、その時の話をゆっくり聞く機会はなかった。

「ええっとですね、基本的にはのんびり過ごすことが多かったですね。黒岩さんの喫茶店でカレー作ったり、コーヒーの試飲会やったり、たまには大学の授業についていったりもして。成宮さんとは違って、パソコンでカタカターっと資料を作る姿なんてカッコ良かったですよー」

 椎名は勉強、運動と基本的には何でもを高水準にこなすハイスッペクなやつだ。普段の俺の様子と比較すれば、その優秀具合も引き立つというものだろう。

 ブルーハワイのカキ氷を食べながら話を聞く椎名も、どこか誇らしげだ。

「ま、でも、部屋が割と散らかってて掃除も行き届いてなかったのだけは意外でしたけどねー」

 フランクフルトを手に取りつつ、少女はそう付け足した……のだけれど。

「……それ、言わないでって約束したわよね?」

 椎名はカキ氷をシートに置き、喫茶店での初対面の時を彷彿とさせるような冷たい声音でそう言った。

「あ、あれ……? そうでしたっけ? てっきり言っちゃダメなのは、ファッションが良く分からないからいつも同じコーデで固めてるとか、本当に疲れてる日は風呂も入らずに寝てる日があるとか、そっちだと思ってました」

「ねえワザと? それワザとやってるの? ぶん殴るわよ?」

 若干……いや、かなり焦った様子で椎名は少女を睨め付ける。

 少女はてへへーと誤魔化しながら、椎名から目線を逸らして俺の背後に逃げ込んできた。

 必然、椎名と俺は目が合う。

 俺と目線を合わせた椎名は、照れ臭くなったのか珍しく自分から視線を外してしまう。

「まあ、その、なんだ……逆に安心したよ。完璧超人に見える椎名にも、ダラシない一面があるんだってわかって。親近感? みたいな」

「……そのフォロー、絶妙に嬉しくないんだけど。ああ、もう、何でこうなるかなぁ」

 椎名はそう言って悩ましげに頭を掻いた。

「……その、怒ってます?」

 俺の肩口からちょこんと少女が顔を出した。

「いや、済んだことはもういいわ……。あなたがそういう性格なのは重々承知してるし。だから、こっち戻ってきなさい。タコ焼き、食べるでしょ?」

「食べますっ!」

 苦笑しつつ言った椎名に、少女が元気よく返事をした。

 そして、花火が始まる時間まで三人でワイワイと夏祭りグルメを楽しんだ。

 ……思えば、俺は椎名のことをまだ何も知らないんだな。

 ふと、そう思った

 椎名とは高校の時からもう四年以上の付き合いになる。なのに、俺は椎名の出身地や家族構成すら詳しく知らない。俺の悩みを相談したことは何度でもあるが、椎名からそういう話を聞いたことは一度たりともない。

 薄らと、俺は心のどこかで椎名のことをどんなトラブルでも解決してくれるスーパーマンのように思っていた。

 でも、椎名だって一人の女の子でしかない。

 キャパシティには限界があるし、限界があるから自分の部屋の掃除にまでは手が回らない。きっと椎名だって、どこか無理をして、そうやって取り繕って日々を過ごしているんだ。

 それに気付くと、急に俺たちはただの未熟な大学生でしかないことを自覚させられる。

 この少女は幽霊で、ただの大学生でしかない俺たちは自分たちの力だけで少女を成仏させなくてはならない。改めて、その責任の重さを感じる。

 不安になった……と言えばそうなのだと思う。

「あ、成宮さん! タコ焼き、最後の一つ勝手に食べたでしょ!」

 でも、こうして笑う少女の姿を見ていると、守ってやらなければという無限の勇気が湧いてくる。

 少女は俺たちしか頼れる相手がいなくて、だったら、俺たちがしっかりしなければならない。

 不安もある……でも、責任がある、やり遂げたいという信念がある。

 だから俺は、今だけはダメ大学生なりに頑張れる気がするんだ。



「私、ちょっと電話しにいってくるわね」

 もうすぐ花火が始まるという時間になって、椎名が予備のガラケーを持って席を立った。

「電話って、誰に?」

「黒岩さん。ただの現状報告よ。気にしないで」

「そっか。花火が始まるまでには戻ってこいよ」

 ヒラヒラと手を振った椎名を見送り、この場には俺と少女の二人きりの空間が訪れる。

「……なんか、成宮さんと二人だけってのも、かなり久しぶりな気がしますね」

 確かに、最近は少女と落ち着いて話せる機会は少なかった。

 多分、少女が椎名の家に行って以来……とかになる気がする。

「だな。まあ、今さら改めてお前と話すことも思いつかんが」

「えぇ……そういうこと正直に言います? もっと気の利いたこと言わないと、女の子との会話は続きませんよ?」

「別にいいよ。話すったって、椎名かお前くらいしか女の子の知り合いはいないし」

「そんなんじゃ、いつまで経っても新しい彼女とか出来ませんよ? 童貞のまま一生を終えるのは嫌でしょう?」

「……別に俺は童貞じゃないが」

「……コホン。それは、まあ、置いといて……。つまりは、成宮さんの今後を心配してるって話ですよっ」

 自らの失言に赤面した少女は、気を取り直して真面目な表情でそう言ってきた。

「心配ねぇ……別に、お前に言われるまでもなく、どうにかするつもりではあるよ。何かバイトを始めるなりしてさ」

「それと、部屋をきれいにしたり、自炊したりですか?」

「……努力目標程度にはな。ま、元々はあいつの──しずくの死を乗り越えるために俺はお前の成仏に協力してるんだし」

「そっか……なら、安心です」

 言葉通り、本当に安堵した様子で少女が呟いた。

 三角座りで膝を抱える少女の横顔は、どこか儚げで、今にも消えてしまいそうなほどに思えた。

「──ね、成宮さん」

 唐突に、少女が俺の名を呼んだ。

「ん?」

「わたしね、さっきも言ったけど、成宮さんには本当に感謝してるんですよ」

 その言葉には、俺をからかうニュアンスは一切含まれていなくて。

 今までに見たことのないその少女の表情に、俺は思わずドキリとする。

「あてもなくフラフラとしていたわたしのことを見つけてくれて、ワガママばかりだったわたしのやりたいことを手伝ってくれて、成宮さんと一緒に暮らすことだって、椎名さんと出会ったことだって、三人で度々出かけたことも、今日の夏祭りだって。成宮さん、わたしね、ずっとずっと楽しかったんです」

「……ずっと、か」

「はい。ずっと。大変だったこともありましたけど、それも含めてわたしには刺激的で、毎日が新鮮で、生きてる時の記憶はないけど、わたしはわたしだけの新しい経験を積み上げることができて。本当に、わたしは幸せ者です……」

 少女の言葉は、まるで死に際に残す遺言のようで。今消えてしまっても、満足だと言わんばかりの表情をしていて。

「……そんな、改まって言わんでも。別に、今すぐいなくなるってわけでもあるまいし」

「はは……まあ、そうですけど。言いたいことも言えないまま、お別れってのは嫌じゃないですか」

「……ま、俺も──」

 祭りの楽しげな雰囲気に酔ったのか、俺も普段なら絶対口にしないであろうことを言いそうになる。

 けれど、その言葉は俺のスマホの着信音に遮られて、

「もしもし、こはくちゃん? どうしたんだ?」

『れ、怜兄。その、あのね──』

 電話の向こうのこはくちゃんは、どこか焦った様子で話していて。

 俺はどこか嫌な予感を覚えながらも、こはくちゃんを落ち着けて話を聞く。

 ──すると、

『お母さんの幽霊が、この会場の近くにいるの!』

 タイミングが良いのか悪いのか。

 どっちにしろ、終わりはすぐそこに迫っている。


 ◆


 急いで椎名を呼び戻しに行き、俺たちはこはくちゃんと合流するべく動き出した。

「こはくさん!」

 俺も椎名も、下駄やサンダルを履いていて走り辛い。一人だけ動きやすいスニーカーを履いていた少女がいち早く、姿を見せたこはくちゃんの元に駆けつけた。

「あ、しずく姉! ご、ごめんね、急に呼び出したりして」

「い、いえっ、それより、お母さんの幽霊がいるって……っ」

 俺と椎名も二人に追いつき、こはくちゃんから事情を聞く。

「そうなのっ! 学校の友達から連絡があって、神社近くの屋台を巡ってたら茂みの中に幽霊らしき人影を見たらしいの。白い髪をしてたみたいだから、多分間違いないと思う」

 俺たちが悪霊に遭遇してからは、いくら椎名が捜索をしてもその姿を捉えることはできなかった。それが、祭囃子に誘われたように今日になって唐突に姿を現した。

 少女とこはくちゃんが、不安げな目線を椎名に向ける。

 ここまで浴衣姿で爆走してきた椎名は、息を切らして膝に手をついている。

「し、椎名さん……どうします?」

「決まってる、今すぐその場所に向かうわよ。こはく、案内してくれる?」

「は、はい、こっちです! 行きましょう!」

 息つく暇もなく、俺たちは悪霊の出現場所へと走り出した。

 

 

 こはくちゃんの案内で到着した場所は、屋台が並ぶ区画の端っこで、すぐ目の前にはお寺と森林が広がっていた。

 お寺に続く階段のすぐ下、四人全員で辺りに目を凝らす。

「……っ、あそこです! いました!」

 森林の方に視線を向けていた少女がそう叫んだ。

 俺含む全員がそちらを向くと、確かに白髪の女性のシルエットが確認できた。

 首元に煌めく太陽のネックレスも見えたので間違いはない。

 ふぅ、と大きく椎名が深呼吸をした。

 携帯していた巾着の中から、見覚えのある拳銃を取り出し、俺たちに向き直る。

「成宮くんとこはくは、これより先に人が来ないように見張ってて。あの悪霊を追うのは、私とこの子で──」

 首元から冷や汗を流している椎名は、はやる鼓動を抑えて冷静な対応をしようとする。

 けれど、

「──っ、お母さん……っ!」

 再度目にしたその姿に思考を奪われてしまったのか。こはくちゃんが森林の方へと一目散に駆け出してしまった。

 持ってきていた巾着を捨て、脱げてしまった下駄を置き去りに、裸足のままで母親の元へとひた走るこはくちゃんは、椎名の静止の声に見向きもしない。

「……くっ、私たちも行くわよ!」

 焦る椎名と共に、俺たち三人もこはくちゃんの後を追った。

 

 山道をひたすらに突き進むと、そこには草原が広がっていた。

 ……いや、草原というよりは、雑草で覆い尽くされてしまった古びた公園と言った方が正確か。

 立ち並ぶ木々の間にポッカリと空いたその場所は、学校の教室二つ分くらいの広さ。

 周囲には錆だらけのブランコやすべり台が放置され、その中央でこはくちゃんと白髪の悪霊は対峙していた。

「お母さん……」

 こはくちゃんが、目の前の悪霊に呼びかける。

 しかし、当の悪霊からまともな応答があるはずもない。

「──アア、アアアアアア……」

 苦しそうに呻くことしかできず、洞のように真っ黒な瞳には、目の前の娘の姿が一体どのように映っているのか。

 少なくとも、母娘の感動の再会といった雰囲気はどこにもない。

 ここまで裸足で走ってきたこはくちゃんの足は、細かな切り傷だらけになり非常に痛々しいが、それを母親が心配する様子もない。

「……っ」

 こはくちゃんが、苦々しい表情で唇を噛んだ。

 必死で追いかけてきたけれど、どうすることも出来ない。

 自分の言葉は、今の母親には決して届くことはない。

 自分のことは気にせず、速やかに悪霊のことを成仏させてくれとこはくちゃんは言っていた。

 けれど、母親が死んでから十年以上。募りに募ったその想いは、胸がはち切れんばかりに溜まっているはずなのだ。

 言いたいこともたくさんある。

 成長した姿だって見せたいだろう。

 でも、今のままでは二人の間には越えられない壁があり、それをこはくちゃんは打ち破れない。

 ……どれくらいの時間が経ったか。

 このチャンスを逃すまいと、椎名はひっそりとタイミングを伺っている。

「ん」

 隣に立っている少女が、ふとそんな声を上げた。

 カラフルな光が、中央に立つこはくちゃんと悪霊に降り注ぐ。

 少し遅れて、腹の底に響くような重低音が辺りに鳴り響いた。

 いつの間にか、花火が始まる時間になっていたらしい。

「……アア」

 悪霊が、花火に反応して微かな呻き声を上げた。

 目線が目の前のこはくちゃんから外れ、色とりどりの花を咲かせる夜空に釘付けになる。

 何発も何発も花火は断続的に打ち上がり、完全に意識は逸れたようだった。

「……よし」

 椎名が覚悟を決めたように呟き、中央へと走り出した。

 こはくちゃんの元へと辿り着いた椎名は、そっと彼女の肩に手を置いた。

 花火の音に掻き消されて、二人の会話は聞こえない。

 けれど、何か短い言葉を発した椎名に、こはくちゃんがゆっくりと頷いたのはわかった。

 花火の第一陣が終わり、辺りにはまた静寂が訪れる。

 月明かりだけがこの場所を照らしていて、でも、椎名が悪霊に銃を構えた様子だけは、はっきりと見えた。

 両手でしっかりと銃を構え、照準を合わせる。

 呼吸を整えて、悪霊を真っ直ぐに見据え、椎名は銃の引き金を下ろした。

「……っ」

 驚くほどに、静かだった。

 サイレンサーでもついているのか、銃弾が撃ち出された音はほとんどせず、カシャッというカメラのシャッター音のようなものが聞こえた程度。

 それと同時、椎名とこはくちゃんの前に立っていた悪霊が、雑草生い茂る地面に倒れ伏した。

 椎名が打った銃弾は、ちゃんと悪霊に当たったらしい。

 椎名はホッと胸を撫で下ろして、銃を巾着に戻した。

「お母さん!」

 こはくちゃんがそう叫んで、地面に倒れたままの悪霊──いや、自身の母親の元へと駆け寄る。銃弾を撃ち込まれたことで悪霊の状態が解除されたのか、姿形は元に戻り、俺もあの写真の中で見覚えのある姿になっていた。三十代前半くらいの、綺麗な女性だ。

「あれが……わたしのお母さん」

 隣で少女が呟いた。

 懐かしむようでもあり、感慨深そうでもあり……少女が何を思ってその言葉を呟いたのか、真意は読み取れない。

「とりあえず、あっち行くか」

 向こうにいる椎名から合図を受け、俺と少女もその場に向かおうと走り出した。

 走り出した……のだが、

「あれ?」

 駆け出したはずの少女は、俺の隣にはいなくて。 

 俺は不思議に思い、後ろを振り返る。

「おい、何して──」

 そう声をかけようとしたけれど、俺はそこで言葉を止めた。

「あれ……私、どうして……って、あれ、怜君?」

 そこに、俺の見慣れた少女の姿はなくて。

 代わりに、そこから十年ほど、成長した彼女の姿がそこにはあった。

「しずく……お前、戻ったのか?」

 白いワンピースに、大きな麦わら帽子。

 その服装こそ、俺と一緒に過ごしていた少女と同じ物だったが、それを身に纏っているのは間違いなく、俺の知っているあのしずくだった。

「あ、そっか……私、あの時死んで、それで、幽霊に……」

 自身の姿を確認しながらそう呟くしずくは、朧げながらも自分の置かれた状況を理解しているようだった。

 唐突に現れた、成長したしずく。

 もしかしたらこういう展開があるかもしれないと、想像はしていた。

 けれど、余りに急な登場に、俺は言葉が出てこない。

 聞きたいことは山ほどある。

 言いたいことだって、積もりに積もっている。

 今すぐ駆け寄って、その華奢な身体を抱きしめたい。

 それに、あの少女が唐突にいなくなってしまったという動揺もあった。

 ……でも、今はそんなことを考えている場合ではない。

 ──あの銃を悪霊に撃ち込めば、少しの間だけ人格が戻って、まともに話をすることができるから。

 椎名が前に話していたことを思い出す。

 しずくとこはくちゃんの母親がちょうどその状態で、きっと今が、家族三人で話をする最後のチャンスだ。

 だから俺は、離れた場所で倒れ伏す彼女の母親の方を指し示す。

「しずく、聞きたいことは山ほどあるし、まだ混乱してるかもしれない。でも、今だけは、何も聞かずにあっちに行ってやってくれないか?」

「え……?」

 その俺の言葉で、しずくは地面に倒れている母親の存在に気が付く。

「お、お母さん⁉︎」

 驚いた様子で、しずくは足元をフラつかせつつも母親のもとに駆け寄る。

 その場にいたこはくちゃんや椎名のことを気にかけつつも、しずくは地面に座り込んで母親の身体を支える。

「しずく姉……」

 こはくちゃんもどうにか状況を飲み込んだのか、そう呟いてしずくの隣に膝をついた。

 少しだけ離れた場所からその様子を眺めていると、椎名がゆっくりと歩いて俺の元にやってきた。

 椎名は戦いを終えたかのような疲弊し切った表情をしており、浴衣の裾や下駄は泥塗れになっていた。

「後どれくらいで、完全に成仏しちまうんだ……?」

「そうね……恐らく、数分程度だと思うわ」

「そっか。俺たちに出来ることは、もうないんだよな……」

「ええ。しずくも記憶を戻したようだし、この場で私たちが出しゃばる意味はないでしょう。後は、成り行きを見守りましょう」

 俺と椎名は、三人を邪魔しないように、ただ状況を静観する。

 やがて、彼女たちの母親がしずくの腕の中で目を覚ました。

「あれ、しずく……それと、こはくも……?」

 寝起きのように虚な目をこすり、二人の娘を視界に捉える。

「お母さん……っ! その、身体は、大丈夫?」

 こはくちゃんが心配そうに訊いた。

「うん……それは、大丈夫そう。むしろ、心地良いくらい……あ、そっか、お母さん、もしかして、もうすぐ成仏しちゃうのかな……?」

 母親も自身の置かれた状況は何となく理解しているらしい。

 その言葉に、こはくちゃんが頷いた。

「でも、こはくともやっと会えた……成長したのね。うん、私に似て可愛く育ってる。それに、その浴衣、着てくれてるんだ、嬉しい」

「あたりまえだよ……! お母さんのことを忘れたことなんか、一度たりともない……!」

 今こはくちゃんが着ている浴衣は白瀬家で代々受け継いできたもので、生前のしずくも同じように、母の形見としてあれを着ていた。

「そっか。だったら、お母さん嬉しいな」

 ──お母さん

 唐突に、しずくが真剣な様子で呟いた。

「ん、どうしたの?」

「これまでに何があったか、覚えてる?」

「どう、かな……? ちょっと頭がボーッとしてて、記憶は飛んじゃってるかもしれないな」

 その母親の言葉に、こはくちゃんが身を乗り出す。

「そもそもさっ、二人はあの時一体、何をしてたの?」

「あの時って……?」

「今年の一月、二人は一緒に過ごしてたんじゃないの?」

 今回の事件の核心に迫ることを、こはくちゃんは訊いた。

「……うん、そう、そうよ。あの冬、お母さんは確かにしずくに出会った」

「何があったか、聞かせてくれない?」

 こはくちゃんの言葉に母親は頷き、しずくも黙って話を聞く。

「幽霊になったのはいつだったかな……あまりはっきりとは覚えてないけど、あの雪の日、お母さんは大学帰りのしずくに出会った。お母さんが知ってる姿より、ずっとずっと大きくなってたけど、一目でわかった。しずくもお母さんに気づいたみたいで、目が合って、最初は戸惑ったけど、しずくの家に住まわせてもらうことになって、一緒に暮らして……」

 しずくと母親の話は、俺と少女の出会いによく似ていた。

 きっとしずくも、どうにか母の幽霊の存在を受けいれて、そして一緒に過ごすことを選んだのだろう。

「思い返せば、楽しかったなぁ……。二人で出かけるとかは、あんまり出来なかったけど、それでも、久しぶりの手料理を、涙まで流して食べてくれたり、狭いお風呂に一緒に入って、その成長を実感してみたり。彼氏までいるみたいで、写真を見せてもらってハシャいだり。叶うことなら、一度実際に会ってみたかったけど」

「彼氏って、怜兄か。怜兄なら、すぐそこにいるよ?」

 こはくちゃんが俺のことを指し示し、しずくの母親と目が合った。

 まさか、こんなところで初対面になるとは思ってもいなかったし、今は疲労で小汚い姿だから見せるのも躊躇われたが、会釈くらいはしておく。

 しずくの母親も会釈を返してくれ、満足げに微笑んだ。

「実際に見ると感慨深いね。でも、あんな良い男ひっさげてくるなんて、しずくも隅におけないわ。まあ、しずくももうお母さんの知ってる小さい頃じゃなくて、成長して一人前になってるもんね。そりゃそうか」

 ──今の成宮さんを見て良い男とか、わたしのお母さんは見る目がないんですねっ

 なんとなく、少女にそんなことを言われる気がしたが、あの少女はもう俺の隣にはいない。

 今、母親とこはくちゃんと共にいるしずくは少女と同じ格好をしているし、事実として同一人物なのだが、やはり二人のことを同じには思えない。

 ……俺はもしかして、寂しいのかな。

 なんて、目の前で行われている三人のやり取りを見ながらそう考える。

「──っていうか、怜兄のことはもういいよ。それで? 一緒に過ごすようになった二人は、それから何をしてたの?」

「あ、えっとね、しばらくは普通に過ごしてたんだけど、一月の終わり頃だったかなぁ。お母さんとしずくは、こはくに会うために実家に戻ることにしたの」

「私に会うために……?」

「うん。お母さんって、一応は幽霊として現れたわけじゃない? だから、いつかは成仏しなくちゃならないのかなって思ったの。それまでにさ、やっぱり娘の顔は見ておきたいじゃん。しずくは一緒に暮らしてたけど、こはくはまだ実家にいたから。それで、しずくに連れてってもらって会いに行った」

「それは素直に嬉しいけどさ……でも、そん時ってしずく姉も大学があったじゃん? どうしてそんなに急いでたの?」

「それは、えっと……あ、そうだ! なんかね、お母さんの髪がどうしてか白くなっちゃっててさ。老化……ではないだろうし、だったら、成仏が近かったりするのかなーって。まあ、感覚的にもそう思ったから、しずくには無理言って予定を空けてもらったの」

「時間がないように、思ってたってこと……?」

 その言葉に、母親は頷いた。

 けれど、母親の話が進むにつれて、こはくちゃんの表情は険しくなっていく。

 白髪のことを、しずくの母親は成仏の兆候だと思っていた。

 でも、実際のそれは真逆も真逆。

 ……悪霊化の兆候なのだ。

「うん、電車を使って、いつもの駅に降りて……それ、で……」

 ここまで軽快に話をしていた母親の言葉が、そこで途切れた。

 辺りは不穏な雰囲気に包まれ、しずくもこはくも表情が冴えない。

 ……いつの間にか、花火は終わりを告げていた。

「それ……で……」

 長い長い、沈黙だった。

 自分の行動をゆっくりと正確に思い出し、一つ一つを確かめるように「えっと……えっと……」と呟いている。

 あの日──1月22日に何があったのか。

 しずくの母親は、それに思い至るにつれて、どんどんと表情が青ざめていき──

「──うそ」

 まるで、人生の全てに絶望したかのような表情で呟いた。

「お母さん……しずくのことを殺しちゃった」

 あの日、駅で悪霊と化してしまったしずくの母親は、あろうことか実の娘のしずくを襲った。そして、混乱と焦りで冷静さを欠いていたしずくは、逃げ込んだ先の山道で転落死した。

 しずくが手を伸ばして落ちていく──その瞬間の終わりの表情を、しずくの母親は今になって思い出したのかもしれない。

 ──ああ、ああ……ぁ、ああ、ああああああああああああああああああああああああ

 悪霊が戻ってきたかのような、そんな苦しい呻きは、今はもう悪霊ではないしずくの母親のものだった。

「お母さん!」

 今はもう幽霊になっているしずくが、母親のことを思い切り抱きしめた。

 ──ああああああああ、ぁぁぁぁ……っ、うえええっ……ああああああああああああ

「大丈夫! 大丈夫だから! 私なら、大丈夫だから、お母さん!」

 呻いて、泣いて、嗚咽して、暴れて、震えて。

 愛すべき実の娘の命をこの手で絶ってしまったという事実は、しずくの母親の精神に計り知れないダメージを与えている。

 その絶望に耐えきれずに苦しむ自分の母親を、しずくは懸命に抱きしめ、呼びかけ続ける。

「大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! 私なら、大丈夫だから!」

「……っ、何が……っ、大丈夫なの⁉︎ 全然大丈夫じゃない! しずくにはこれからも、ずっとずっと幸せに生きて欲しかった! 大学卒業して、就職して、結婚して……! 普通でいいっ! ただ生きてくれているだけで……良かったのに!」

 ──私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ

「違うの! お母さんのせいじゃない! お母さんは何にも悪くないの!」

「悪い! 悪いよ! あの時、私がしずくを襲ったから、だからしずくは川に落ちて死んだんでしょ⁉︎」

「それは……っ、そうだけど! でも、悪くない! お母さんのせいじゃない!」

「違う! 私のせい! 私のせいなの! しずくを殺したのはこの私──」

「──もうやめてよっ!」

 水掛け論のようなしずくと母親の言い合いに、こはくちゃんが上から被せるように叫んだ。

 こはくちゃんのその言葉は、地獄の底から届けられたような悲哀と怒りに満ちていて、喉を潰すことも厭わないその痛切な叫びに、しずくと母親は黙らされた。

「もう……っ、やめてよ……っ! もう、お母さんには時間がないんだよ……⁉︎ それなのに、なんで……っ、こんな時にケンカしてるの……?」

 大粒の涙をボロボロと流して、苦しそうに胸に両手を押さえつけるこはくちゃんは、悲しみと共に訴えかける。

「ちっ、ちが……別に、ケンカなんか……っ」

 しずくは咄嗟に否定しようとしたが、こはくちゃんの必死な様子に、それ以上言葉が出てこない。

 やがて、静寂の訪れたその空間に、こはくちゃんがポツポツと語り出す。

「しずく姉が死んじゃってから、ずっと……どうしてこんな事になっちゃたんだろうって考えてた。なんで、あんなに優しいしずく姉が、先に逝っちゃうんだろうって。あの日、しずく姉の身に何があったんだろうって……」

 しずくに関わっていた人はみんな、少なからず同じ想いを抱いていただろう。

 そのくらい、しずくの死は唐突すぎた。

「今日、事件から半年も経ってようやく……しずく姉がどうして死んじゃったのかわかって。なんだっけ……お母さんが悪霊になって、それでしずく姉が逃げてる最中に転落しちゃって……だよね」

 ずっと俺たちは、しずくの死の全容を明かすために動いてきた。

 けれど、ここに来て明かされた真実は、もうどうしようもないくらいに残酷なもので。

 ──母が娘を殺してしまった

 ……誰かの悪意がはたらいていたわけではない。

 ただ、巡り合わせが悪かった。

 それだけの話なのだ。

 でも、だからこそ、どうしようもない。

 過去を変えることなんて、絶対に出来っこなくて。起こってしまったことは、もうどうにも出来ない。

 どれだけ言葉を並べて、必死に訴えようとも、しずくの死という事実が揺らぐわけではないのだ。

「……わかったよ。それは、もう、わかった」

 納得したわけじゃないだろう。

 受け入れられたわけでもない。

 未だ、こはくちゃんの心はボロボロで、本当なら今すぐにでも泣き叫びたいはずだ。

 それでも、前に進まなきゃいけないことを、こはくちゃんは知っている。

 どんなに過去が辛くても、未来は勝手にやってきてしまうから。

 ボロボロの足でも、歩かなくちゃいけない時はある。

 ……過去は変えられない。

 それは、覆しようのない事実だ。

 でも、未来なら変えられる。

 過去の絶望より、未来の希望を信じる。

 それは、もう死んでしまっているしずくたち幽霊ではなくて、俺やこはくちゃんや椎名のような、生きている人の特権だ。

 だったらその希望を、少しでも分け与えてやればいい。

 示せばいい。見せつければいい。訴えればいい。宣言すればいい。

 未来には、まだ──

「──私がいる!」

 グッと辛さを飲み込んで、強く在らんとするこはくちゃんが絞り出したのは、そんな言葉だった。

「まだ、私が生きてるんだ!」

 目に浮かぶ涙を吹き飛ばして叫んだこはくちゃんのことを、しずくと母親は黙って見つめる。

「しずく姉もお母さんも、もう死んじゃってる……そんなこと、もうわかってる! ずっとずっと、私は二人のいない日々を過ごしてきたんだ……! 悲しいよ、苦しいよ、寂しいよ……! でも、それに屈したことなんか、一度たりともない。ダメになりそうになっても、私にはおばあちゃんがいる、友達もいる、怜兄も、光莉さんだって……!」

 少し、間が空いて、

 ──ねえ、お母さん、しずく姉

 こはくちゃんが、優しい声音でそう呟いた。

 まるで、自分の愛娘に聴かせる子守唄のような、優しい声だった。

「私ね、百歳まで生きることが目標なの」

 唐突に、こはくちゃんはそう宣言した。

「百歳までって、凄いよ? 私でまだ十七歳だから、それの六倍くらい? まだ、全然想像もできなくて、自分がお婆ちゃんになるなんて実感があるわけでもないけどさ。でもね、私はそれくらい長く幸せに生きたい。百歳まで……ううん。叶うなら、更に十年、二十年でも」

 ──だってね、

「絶対、その方が楽しいじゃん。生きたら生きた分だけの幸せがあって、私はそれを余すことなく手に入れる。そんでね、寿命を迎える時に言うんだ。私は世界で誰よりも、幸せな人生を過ごした……ってね。お母さんの分も、しずく姉の分も、いや、もっともーーーーっと! たくさんの幸せを、私は手に入れる。それが出来ちゃうくらい、私は強いんだから!」

 ──だからさ、

「そんなに泣かないで……お母さん」

 鼻をすすり、しゃくりあげて、涙を流す自分の母親の頬に、こはくちゃんは優しく手を当てる。

 溢れる涙を拭い、優しい微笑みを向けるこはくちゃんはもう、立派に成長した一人の女の子だった。

「凄いね……強く、なったんだね……こはく」

「当たり前じゃん。だって、私はお母さんの娘なんだから」

「そっか……うん、そうだね……」

 いつの間にか、母親の身体は薄ぼんやりとした白い光に包まれていて、母親はそんな自分の身体を名残惜しげに見つめる。

「もう、そろそろお別れ、なの……?」

 母親の目を悲しそうに見つめて、しずくが呟いた。

「そうね、そうみたい。ねえ、しずく」

「ん?」

「本当に、出来の悪い母親で、ゴメンね……それと、ありがとう。ずっと、それだけを言いたかった」

「ううん……私も、お母さんと過ごせて幸せだったって、本当に、それだけなの……っ」

 しずくと母親の会話は、先程とは打って変わった穏やかなものだった。

「死んだとか死んでないとか、関係ない。お母さんともう一度過ごせたってことが、私にとっては何よりの贈り物だった。だからさ……安心して、先に行ってて?」

「そっか……うん、そうだよね。自分の娘のこと……信じなくちゃダメだよね。うん、わかった。もう、私からは何も言わない」

 後悔も自責も未練も、いまだ胸中には渦巻いているだろう。

 でも、終わりは訪れるから。

 後はもう、自分の娘たちに託すしかない。

 いつの間にか、母親の身体からは、より一層強い光が放たれていた。

 その身体は半透明に透けていて、もう、ほとんど実体を見ることも出来ない

「ああ……本当にもう、行かなくちゃいけないみたい……」

「……っ、お母さん!」

 こはくちゃんが、母親の手を強く握る。

「私……っ、幸せになるから……だから、絶対……っ、見ててねっ!」

「うん、見てる」

「お母さんのこと、ずっと、これからも……大好きだからっ!」

 こはくちゃんがそう叫んだのと同時、目を開けてられないくらいの強い光が溢れ出す。

 この場にいる全員が目を閉じて、

 ──しずく、こはく、愛してる。あなたたちの母親でいられて、私は幸せでした。

 どこからか、そんな声が聞こえた。

 やがて、光がおさまり、ゆっくりと目を開ける。

 寂れた公園の中央には、しずくとこはくちゃんの二人だけがいて。

 彼女たちの母親は、一足先にこの世を去った。


迷宮入りのゴーストガール ⑥


 八月も後半になった。

 俺と椎名は帰省を終え、今日からまた向こうに戻ることになる。

「じゃあ、私たちは行くから」

 もうすっかり馴染んだ地元の駅。

 わざわざ見送りに来てくれたこはくちゃんに、椎名が別れの挨拶をした。

「はい、道中お気をつけて」

「ええ、ありがとう。こはくも元気でね」

「もちろんです。これからは、より一層受験勉強に身を入れなきゃですからねっ。……それと、怜兄も、またねっ」

「……おう。また正月にでも帰ってくるよ」

 どこか寂しげな表情を浮かべたこはくちゃんに、俺も何となく名残惜しさを感じながら返事をする。

 こはくちゃんは俺の言葉に頷くと、スッと目線を隣に移した。

「あとは、しずく姉も……」

 この田舎から向こうに戻るのは、俺と椎名だけではない。

 しずくも、俺たちと一緒にこの地元を離れる。全員で話し合って、しずくの成仏にはそれが最善だという結論に至った。

 ギュッと、こはくちゃんがしずくの手を握った。

「ごめん……これでお別れだって、ちゃんとわかってここまで来たはずなのに」

 ここからはもう、しずくの悪霊化のタイムリミットを迎えるのが先か、無事に成仏していくのが先かという話になってくる。

 どっちにしろ、しずくがこの地の土を踏むことは、もう二度とない。

 浮かばれない表情をしているこはくちゃんに、しずくが優しく笑いかける。

「そんな悲しそうな表情しないでよ。最後くらい、笑顔で見送って欲しいな」

 あの夏祭りの日。

 悪霊と化していたしずく達の母親は、椎名が撃った銃弾で成仏をしていった。

 一方しずくは、姿と記憶が元に戻りこそしたが、成仏に至ることはなかった。

 ──しずくの抱える未練とは何なのか。

 ──しずくはどうすれば、未練を解消して、無事に成仏していけるのか。

 俺たちが始めに考えなければいけないのはその事で、そして、それがわかるのはしずく本人だけだ。

 だから、夏祭りから数日の間は、しずくの記憶整理の意味も含めて、こはくちゃんと二人で姉妹水入らずの時間を過ごしてもらった。

 色んな話をして、やり残したことをやって、そうして数日ぶりに俺にあったしずくは、こう言ったんだ。

 ──私には、怜君が必要なんだと思う。

「ねえ、怜兄」

「なんだ?」

「しずく姉のこと、よろしくね」

「……ああ、もちろんだ」

 こはくちゃんの力がこもった眼差しに、俺も誠心誠意、覚悟を持って答える。

「私じゃ、しずく姉のことはどうにも出来ない。しずく姉のことを、安心して成仏させられるのは、この世で唯一、怜兄だけなんだから」

「大丈夫、わかってるさ」

 ……しずくの成仏という課題。

 もちろん、椎名の持っている銃を使えば、今すぐにでもしずくは成仏をすることができる。それこそ、しずく達の母親のように。

 けれど、それをしてしまっては、何の意味もない。

 ……しずくが生きていたという事実を、あるいはしずくが幽霊として現れたという事実を、しずくに関わっていた全ての人が受け入れ、前に進むことが出来るかどうか。

 それにはもちろん、しずく本人も含んでいて。

 俺たちは今から、そういう戦いをするのだ。

 そして、しずくはそのためには俺の力が必要だと言ってくれた。

 最後の最後に頼ってくれたのは、俺だった。

 だったら、それに応えなければ男じゃない。

 俺は今日からの数日間、全身全霊を懸けてしずくのことを幸せにする。

 そんな俺の決意が伝わったのか、こはくちゃんは納得したように頷いてくれた。

「じゃあ、こはく、私たちは行くね」

 しずくが最後の別れを告げ、

「うん……お幸せにっ!」

 こはくちゃんは、精一杯の笑顔でしずくのことを見送った。


 ◆


 この時期の新幹線はどうしても混み合う。

 しずくは幽霊だから切符など無くても電車には乗れるが、座る席がなくなってしまうのは困る。

 三人分の指定席を購入し、俺たちは新幹線に乗車した。

「……あ、そっか。しずくが二人分の新幹線の切符を買ったのも、こういう経緯だったのか」

 帰り際になって、今さらその事実に思い至る。

 あまり重要ではないからスルーしていたけど、その切符のせいで俺たちは存在しない第三者に惑わされていたということもあった。

「そうだね。とはいえ、あの時期はさほど新幹線も混んでないから、別に買わなくて良いって言ったんだけどね」

「あれ? じゃあ、なんで切符を?」

「無銭乗車は良くないって聞かなくて」

 笑い飛ばすようにしずくは言った。

「……何というか、真面目な人だったんだな」

「そう、真面目な人。だから、私もこはくも清楚で美しい女性に育ったってもんですよ」

「しずくはともかく、こはくちゃんが清楚……?」

 地元に帰省して最初、しずくの実家を訪れた時に見たこはくちゃんの下着姿を思い出した。

「ま、まあ……こはくにも女の子らしい一面はある……と、思うよ……? 多分……」

 姉としてそこは言い切って欲しかった気もするが、言葉に詰まる気持ちもわかる。

「しずくに似て、顔は普通に可愛いのにな、こはくちゃん」

「あ、なに? 怜君、もしかして浮気?」

「ばか、違えよ。あくまで客観的に見てだ、客観的に」

「え〜ホントかなぁ。……ま、こはくにだったら、私も怜君を安心して任せられるけどさ」

「ん?」

「あ! いやいや、もちろん私がいなくなった後の話だよ⁉︎ 私が健在な間は、誰一人として怜君には触れさせませんっ!」

「……別に、元より俺はしずく以外には興味ないし」

「光莉ちゃんにも?」 

 しずくが目の前に座っていた椎名のことを指差す。主に、胸方向。

 釣られて視線が下に向く。

「あ、怜君おっぱい見た。浮気だ」

「厳しくない⁉︎ てか、明らかに今俺のこと誘導したろ⁉︎」

 椎名は終始すまし顔で窓の外を眺めていたが、俺としずくはずっとこんな調子だった。

 そうして久しぶりのやり取りを楽しんでいると、いつの間にか時間は過ぎ去り、俺たちは大学の最寄駅に帰って来た。

 そのまま休むことなく自宅に向かって歩き出し、やがて、椎名との別れ道に到着する。

 人気の少ない路地の一角。

 椎名が、俺としずくの方を振り向いた。

「ねえ、成宮君。実は、あなたに渡しておきたいものがあるの」

「ん、俺に?」

「ええ……これを」

 そう言って椎名がカバンから取り出したのは、見覚えのある拳銃だった。

「お前、それ……!」

「これをあなたに、託しておきたいの」

 有無を言わさず手渡してきた椎名に、俺は思わずその拳銃を受け取った。

 ずっしりと、確かな重さがあった……物理的にも、精神的にも。

「でも、椎名。いいのかよ、勝手にこんなことして。俺は、椎名や黒岩さん達とは違う、ただの一般人なんだぞ?」

「まあ、バレたら怒られるじゃ済まないでしょうね……でも、今回は特別」

「……それは、私情か?」

「言い逃れのできないくらい、私情も私情。けれど、私はこうするのが最善だと判断した。あなた達二人、一切の邪魔が入らない状態で残りの数日を過ごす……一ミリパーセントでもしずくの未練を断ち切れる可能性があるとしたら、それしかない」

 ずっと頼りにしてきた椎名が、初めてここでいなくなる……。

 それは、しずくに関わる全責任が俺一人にのしかかったいうことで、俺にとっては不安しかない。

「銃の使い方は、わかるわよね?」

「ああ、大体は」

 重量こそあれど、扱いは普通のモデルガンと変わりなく作られている。

「しかし、これを渡すってことは、その、つまり……しずくが悪霊になってしまった時は、俺がこの手でしずくを撃つってことだよな?」

「そうね……でも、そうならないように頑張るのが、あなたの役目でしょ? だから、この銃はただの証。後はあなたに任せるっていう、私からの信頼の証よ」

 ……信頼の証か。

 改めて、重いなと思う。

 しずくにとって俺は何なのか。俺はしずくに一体何をしてやれるのか。

 考えている……ずっと考えているが、明確な答えは出ていない。

 もし俺が失敗したら……なんて、そんな未来が頭をよぎる。

「大丈夫、大丈夫よ」

 椎名には珍しく、俺のことを励ますような言葉だった。

「あなたがどれだけしずくのことを大切に思ってるか……私はちゃんと、わかってるから。そんなあなただから私はその銃を託したんだし、きっと、悪いようにはならないわ。それは私が、保証しておく」

 椎名の言葉は、俺の不安を見透かしているかのようで。

 椎名にここまで言わせて、俺が引き下がるなんて有り得ない。

「わかった。この銃、受け取らせてもらう」

 俺はしっかりと自分の意思で、そう言った。

 椎名は満足気に頷くと、ふぅ……と、長い息を吐いた。

「というわけで、しずく」

「うん、わかってる。光莉ちゃんとも、ここでお別れなんだよね……」

「ええ、後は全部、成宮君がなんとかしてくれるわ。どっちにしろ、後数日しかないけど、あなたは安心して──」

 別れのための段取りを進めようと、椎名が言葉を並べている最中、突然しずくが椎名のことを抱きしめた。

「しず、く……?」

 もしかすると俺は初めて、椎名が本気で困惑する声を聞いたかもしれない、

 それは想像以上に弱々しく、そこにいるのは、何でもない、しずくの大切な親友だった椎名光莉だ。

「ごめんね、光莉ちゃん。私ずっと、光莉ちゃんに謝りたかったんだ」

「何よ……あなたが謝ることなんか、なにも……」

「ううん。光莉ちゃんに黙って勝手にいなくなって、ごめん。光莉ちゃんにお母さんのことを相談しなくて、ごめん。光莉ちゃんを置き去りに死んじゃって……ごめん。全部全部、ごめんなんだ」

 しずくが椎名の頭を包み込み、椎名はその腕の中で黙って話を聞く。

「もっと光莉ちゃんと、遊んでおけば良かった。色んなこと、話せば良かった。光莉ちゃんと、もっともっと一緒にいたかった」

 椎名としずくは、互いが互いにとってかけがえのない存在で、その関係が失われてしまったことは、きっと、椎名にとっても辛いはずなのだ。

 ズズッと、誰かが鼻をすする音が聞こえた。

「あれ、光莉ちゃん、もしかして泣いてる?」

 少しばかり楽し気に、からかうような調子でしずくは言った。

「……っ、泣いて……ないっ!」

「あっはは。今さらだけど、やりたい事が一つ叶っちゃった。光莉ちゃんの泣き顔を見るっていうね」

「だから……っ、泣いて、ないし……! あと、顔は見てないでしょ……っ」

「確かに、そうだ。だったら、今見てもいい?」

「ダメ……っ、いや、泣いてないけど……っ」

「そっか……じゃあ、しばらくは、このままだね」

 優しく優しく、愛を手渡しするかのように、しずくが椎名の頭を撫でる。

 涙と鼻水でグチャグチャの椎名と、その彼女を抱きしめるしずく。

 夕暮れの下、二人の女の子の抱擁は、永遠にも思えるくらい長く続いた。


 ◆


 椎名と別れて、しずくと二人きりになった頃には、時刻はもう夕方になっていた。

 しずくと過ごす最後の数日、俺としては色んな場所に出かけて、この残された時間を楽しみ尽くそうと思っている。

「今日は流石に疲れただろうけど、明日からどうする? 行きたいとことか、やりたいことがあれば、何でも言ってくれていいけど」

 五日後の花火大会は確定としても、それまでの予定はまだ決まっていない。 

 しずくは幽霊だからやれることは限られてるけど、出来る限りは彼女の願いを叶えてやりたい。

 仮にも一年近くの日々を過ごした大学周辺のこの地。思い出の場所を巡るなり、懐かしい人に会いに行くなり、少なからず要望は出ると思っていたのだが、

「んー……別に、特にはないんだよねぇ。私は、怜君と一緒にいられるだけでも充分に満足してるからさ」

「そうなのか? 遠慮は不要だぞ?」

「や、遠慮とかじゃなくてさ、ホントにそう思ってるの。とにかく、私は普通に過ごせれば、それで満足だから」

「まあ、しずくがそう言うなら、俺は一向に構わないけどさ……」

 自分の彼女の意見は素直に受け入れる。

 基本的に俺はそんなスタンスでしずくと付き合ってきた。

 けれど、今回に限っては不安が付きまとう。

 今の俺には、しずくの未練を解消して、無事に成仏させるという明確な目的がある。

 ただただ普通に過ごしたい……しずくはそう言ったが、それだけでしずくが成仏していけるとは思えない。

「まあ、もうすぐ花火大会もあるし。私としてはそれだけでお腹いっぱい。怜君と二人で、もっと恋人らしいことをして過ごしたかった──その私の未練は、こうして大学近くを歩いてるだけで、もう半分叶ってるようなものだからさ」

 そう言って自然に俺の手を握ってきたしずくは、本当に幸せそうに満面の笑みを浮かべていて、彼女の言葉に嘘は感じられない。

 俺はそれ以上深く追求することをやめて、他愛もない話に興じながら二人で歩く。

 そうしていると、すぐに俺の住むアパートに到着した。

「おー、ここが怜君の住んでるとこかぁ。結構綺麗なとこなんだね」

「外装だけは、ちょっと前に改修が入ってるらしいから。ま、中は普通だよ」

 俺の住む201号室まで案内し、部屋に入る。

「……おお」

 靴を脱いで玄関を上がったしずくは、俺の部屋を見て感嘆の息を漏らした。

「意外と整理整頓してるんだね。びっくりしちゃったよ」

 しずくはそう言って部屋を隅々まで観察している。

「まあな。俺もいつまでもしずく頼りじゃないってことだよ」

 割と本気で驚いているしずくに、俺は堂々と胸を張る。

 ……あの少女に綺麗に掃除してもらって、ギリギリのところで維持していただけではあるが、俺もしっかりしなければという意識は芽生え始めている。

「怜君が自分で掃除をやってるのは私も嬉しいんだけど、私の存在意義が無くなっちゃったみたいでなんか複雑な気分……」

「お前は俺の家政婦か。そこは素直に喜んどいてくれよ」

「まあまあ、私の役割は何も掃除だけじゃないしね。さてさて、お夕飯でも作ろうかしら。久しぶりに私の手料理を振る舞っちゃうよ。冷蔵庫見ていい?」

 俺が頷くと、しずくは冷蔵庫の中身をチェックし始めた。

「見事に何も無いなぁ……さすが怜君。えーと、目薬と棒アイスとエナジードリンクと腐ったお肉か……これは買い出し行かなくちゃダメだな。でも、あれ、カレールーとか買ってたんだ。それも、私がいつも使ってたやつ、ちゃんと中辛だ。怜君カレー作れるの?」

 独り言を呟きつつ冷蔵庫を漁っていたしずくは、思わぬ掘り出し物を発見し、俺に尋ねた。

「いや、作ってたのは俺じゃなくて、小さい頃のしずくだよ」

「小さい頃の……? ああ、そっか、ちょっと前までは小さい頃の私が、怜君と一緒に暮らしてたんだっけ?」

「そう。そのカレールーもそん時のだよ」

「なるほど……小さい頃の私かぁ。どんな風に過ごしてたの? 私、失礼なこととか言わなかった?」

「言ってたな、色々。ま、それなりに仲良くやってたけど」

 俺がそう言うと、しずくは悩まし気に頭を抱えた。

「やっぱりかぁ……あの頃の私、凄い背伸びしてて大人ぶってた覚えがあるんだよねぇ。母子家庭だったから、家事とかこはくの世話とか色々任せられてたし……何より、片親だってのでバカにされたくなかったから、色々と気を張ってたんだよ。……何か失言してたかもしれないけど、あんま気にしないでね?」

 俺が気にしてないと返すと、しずくはそっかと納得して俺のベッドに座った。

 しずくの着ている服は、あの少女と同じ白いワンピース。帰り際も被っていた麦わら帽子は、俺のクローゼットの中に仕舞われている。

 ずっと……あの少女と俺の知っているしずくは、似ても似つかない存在だと思っていた。

 でも、こうしてまたしずくと話していると、その言動の節々に、どこかあの少女の面影を感じる。

 昔の自分を、しずくは大人ぶっていたと評した。

 確かに、あの少女にもそういうところはあったように思う。

 片親だから、自分を強く見せようと頑張って、けれど、その母親が亡くなってしまって。

 もう強がることも、出来なくなって、やめてしまって。

 そのまま中学を経て、高校で俺と出会って。

 最初は暗かったしずくは、俺と付き合う中で、また幼い頃のような元気を取り戻していって。

 俺が浪人してしまって離れ離れになっても、根気強く待っていてくれて。

 俺としずくは、互いに支え合うことのできる大切なパートナーへとなっていった。

 結局は、死んでしまったのだが、それでも。

 しずくは約二十年もの間、必死に人生を生きてきた。幸せを得ることを、諦めなかった。

 そんな讃えられるべきしずくの人生は、確かにこの世に存在していて。

 俺はそれが存在していたことを、白瀬しずくという一人の女の子がいたことを、確かに知っている。

 この二ヶ月間。俺はずっと、しずくのことを調べて、聞いて、考えてきた。

 これまで知らなかったことを知って、知っていたことを再確認して。

 そんな俺だからこそ、自信を持ってこう言える。

 ──俺が生きていることこそが、しずくがこの世に存在していたという証明だ。

「じゃあ、怜君、悪いけどカレーの材料の買い出しに行ってきてくれない?」

 しずくにそう頼まれ、俺は近くのスーパーで野菜や肉を買ってくる。

 しずくが今夜作ってくれたカレーは、最初に少女が俺に作ってくれたものと、同じ味がして。

 めちゃくちゃ死ぬほど馬鹿みたいに美味しくて、やっぱり涙は止められなかった。


 ◆


 そこからの日々は、自分でも驚くくらいに穏やかなものだった。

 ほとんどの時間を、しずくと家で過ごすことに費やして、後はたまに買い物や散歩に出かけるくらい。

 そうしていると、いつの間にか時間は過ぎて──

「う〜ん」

 朝、俺がベッドから起き上がると、しずくが脱衣所の鏡の前で悩まし気に自らの姿を見つめていた。

「私、これあんまり似合ってないよね?」

 俺が気になって様子を見に行くと、しずくは自分の髪を見せつけるようにして俺に尋ねてきた。

 肩付近まで伸びているしずくの髪は、もうかなりの部分が白く染まっていた。

 毛先を中心に、八割ぐらいが真っ白に色付き、見慣れた黒色の髪はもう頭頂部付近にしか残っていない。

「ここ数日で一気に進んだよな、それ」

「そうなんだよ〜。光莉ちゃんにも、一気に来るから覚悟しときなさいとは言われてたけどさぁ……実際白くなってくると不自然というか、違和感というか……」

 しずくが少女であった時から、髪は少しづつではあるが白くなっていた。

 何も知らない俺からすると、まだまだ猶予はあるように思えたが、ここ何日かのしずくの様子を観察していると、本当に悪霊化が迫っていたんだなと思い知らされる。

 今も、玄関の姿見のすぐ側には椎名から託された拳銃が置かれていて、いつでもしずくを成仏させられるように、弾はとっくに込められている。

「ま、初めての髪染めってことで、いいんじゃないか? 俺的には似合ってると思うぞ」

「初めてで白は中々の挑戦だけど……怜君が可愛いって言うなら、まあ、いいか」

 しずくは自分をそう納得させると、手櫛で髪を整えながらリビングに戻ってきた。

「……今日だな、花火大会」

「だね。今日でもう、終わりなんだよね」

「その進行具合だからな……椎名の見立てが外れることはないだろ」

 椎名がしずくの髪を見て、俺たちに告げた悪霊化の予測日は今日だ。

 それが間違っていないことは、しずくの姿から見て明らかだったし、だからこそ、俺たちは二人とも、今日が終わりの日なんだということを強く実感していた。

「うん。でも、今日は私たちがずっと待ち侘びていた花火大会だもんね。生きていた頃に怜君と一緒に行こうねって約束してた、その大事なイベント。だから、それが達成できれば、もう私の中には未練も何もない。後は静かに、消えていくだけ」

「そう、だな」

「……花火大会、楽しみだねっ、怜君!」

 寂し気な雰囲気を漂わせてしまった俺に、しずくが朗らかに笑いかけてくれる。

 そんなしずくの気遣いに俺は優しく笑い返して、朝のシャワーを浴びにいく。

 しずくと過ごす幸せな日々も、もう今日で終わりだ。



 都会の花火大会は、田舎のそれとはまるで違う。

 そのことを、俺もしずくも完全に忘れていた。

 花火大会の会場に向かうため、俺としずくは最寄りの駅を訪れたのだが、

「人、多いな……」

「うん、多いね……」

 駅は俺たちと同じく花火大会に向かおうという人達で溢れかえっていて、乗車率は軽く200%を超えるのではというほどだ。

 その異常なまでの密集具合に、俺としずくは二人して呆然とする。

 大学周辺のこの地は、田舎育ちの俺でも快適に過ごせるぐらいに人通りは少ないのだが、こと花火大会となれば事情が違うらしい。

 いつも通り電車で移動するつもりだった俺たちは、ここで足止めを食らうことになった。

 俺だけならば、別に我慢すればいいだけの話ではあるが、今日は幽霊のしずくも一緒に来ている。普通の人には見えないしずくが電車に乗るには、どう考えても厳しい状況だろう。

「去年の花火大会の時は、私も帰省しちゃってたからなー、まさかここまで混雑してるとは……」

 椎名も同じく帰省をしていたから、こんな状況になるとは想定していなかったのだろう。

 とにもかくにも、現状はよろしくない。

 何度も言うが、今日はしずくの成仏をしなければならないという大事な目的がある。

 しずく本人も、この花火大会を楽しむことが出来れば無事に成仏していけると語っていた。

 今日こそが、俺にとっての勝負の日で、この日のために俺は二ヶ月間ずっと頑張ってたと言っても過言ではない。

 それなのに、その勝負の舞台にすら立てないというのでは、話にならない。

 俺は心の中で言い知れぬ焦りを感じていた。

 ……電車を使わなくても、歩きで行くことは可能だ。けれど、行った先で同じような混雑に巻き込まれてしまっては、何の意味もない。万が一しずくとはぐれるようなことがあれば、その時点で詰み。大勢の人がいる会場でしずくが悪霊化してしまうという最悪の事態が訪れる。

 ……このままではマズい。

 けれど、まともな解決法がすぐに浮かぶほど、俺は頭の回転が速いわけではない。

 今、出来ることと言えばしずくに戸惑っている様子を見せず、彼女を不安にさせないことくらい。

 必死で代替案を探しつつ、しずくに何を言おうかと考えていると、唐突にしずくが俺の方を振り向いた。

「ね、怜君」

「ん?」

 しずくもきっと……想定外の事態に不安を感じていることだろう。

 何を言われたとしても、ドンと構える。

 そんな心持ちで、しずくに相対する。

 けれど、しずくはどこか落ち着いたような、むしろ、安堵したような表情を浮かべていて、

「せっかくここまで来て何だけどさ、今からでも、家に戻らない?」

 そんな、根本を覆すようなことを言ってきた。

「いやいや……え? 花火大会はいいのか? ずっと楽しみにしてたって……それに、成仏だって」

 困惑する俺は、そんな言葉を並べ立てるのだが、しずくはもう決心したという表情で俺の手を取った。

「いいのいいの。だからさ、後は家で二人で過ごそ?」

 両手を包み込んで、上目遣いでそう言われてしまったら、俺に断ることなど出来るはずもなかった。

 しずくに手を引かれるようにして、元来た道を戻る。

「とはいえ、晩ご飯は食べたいよねぇ。何食べたい? 手軽に食べれて美味しいのがいいから、お好み焼きでも作ろうかなぁ」

「それはいいけど……しずくさ──」

「──怜君は、何玉が食べたい?」

「……豚とイカ、それとモチ」

「おっけー、じゃあ、そこで買って帰ろうか」

 ここに来て、しずくの真意をはかりかねている俺がいた。

 まるで、成仏など二の次のように考えているようで、お好み焼きの具材の相談をしてくるしずくは、いつも通り……怖いくらいに、いつも通りだった。

「最後の晩餐がお好み焼きとは、私も中々庶民的だよねー」

 なんて、茶化すように言うしずくを、俺は動きにくいサンダルで追いかけた。



 しずくの作ってくれたお好み焼きは美味しい……それはもう、とびきりに美味しかった。

 豚、イカ、モチ、エビ、牛すじ、チーズ、ミックス……などなど、次々に振る舞われるそれを、俺は必死で処理していき、ちゃんと味わうことも忘れない。

 もちろん、しずくが何を考えているのか時折尋ねてみたりもしたのだが、「まあまあ、今は食べることに集中してよ」の一点張り。

 そうして、満足のいくまでお好み焼きを堪能し終わった頃にはもう、夜も七時を回っていた。

 食べ過ぎをケアするために胃薬を飲んでおき、腹をさすりながら一息ついていると、洗い物を終えたしずくがこちらにやってきた。

「大丈夫? ちょっと作りすぎちゃったかもね?」

「そうだな。しばらくお好み焼きはいらないな。あと、明日はたぶん腹を壊す」

 俺は基本的に胃腸が弱い。ここまで食べすぎた日の翌日は、ほぼ100%腹痛に悩まされる。しずくもそれは承知なのだが、張り切っていたということなのだろう。

「明日、ね……」

 俺の発言の中の一単語を抜き出して、しずくはポツリと呟いた。

 しずくに明日は訪れない。

 髪はもう、黒の部分を探す方が難しいくらい。

 俺が腹を下すことになる明日、フラフラの俺を心配するしずくは、もうこの家にはいないのだろう。

「ねえ、怜君。ちょっとさ、そこのベランダで話さない?」

 ガラリと、ベランダに続く窓を開放したしずくが、俺の方を振り返って言った。

「ベランダって、暑くないか? 部屋の方が冷房効いてて涼しいだろ」

「それはそうだけどさ……外の空気に触れてる方が落ち着かない?」

「それは……いや、そうだな。ベランダで話そう」

 不思議なしずくの物言いに、疑問を返しそうになったけど、ここはもう、彼女の言うことを聞いておくのが正しいだろう。

 ……これでもう、最後なのだし。

 サンダルを履いてベランダに出たしずくは、風に白髪をたなびかせて、気持ちよさそうに目を細めている。

 俺もサンダルを履いて外に出ると、しずくの隣に並んで外の風景を眺める。

「ふぅ……」 

 隣で、しずくが息を吐いた。

 ベランダの柵に肘をついて、頬杖をついて、しずくはどこか遠いところを見るような目をしていた。けれど、それは哀愁というよりも、どこか幸福に満ちている表情だった。

「花火大会、急に行かないとか言い出しちゃってゴメンね」

「俺は全然いいんだよ。それより、しずくだろ。このままじゃ、成仏できないんじゃないのか?」

「そう、だね……うん、そうかも」

 ずっと目標にしてきた成仏が達成できそうにない。けれど、ここにきてもしずくは、落ち着いた表情を崩さなかった。

 そしてそれは、俺も同じ。

 時間は迫っている、刻一刻と。

 でも、俺たち二人の間には、どこか心地いい空気が流れていて。

 まるで、運命に逆らうことを諦めて、身を委ねたかのように穏やかで。

 ……俺の腰には、あの拳銃が用意されている。

 俺はそれを確かめるように、手のひらでそっと撫でる。

「今更になっちゃうけどさ……お母さんのこと、ありがとね。最後にまた、ああして話す機会があって嬉しかった」

「……あの人は、ちゃんとこの世に未練なく、成仏していけたのかな」

「どうだろうね……本当なら、もっと落ち着いて話したかったし、言い足りないことは山ほどある。でも、あの時は時間がなかったから。多分、あれが最善。お母さんの不安を完璧に無くすことは、出来なかったかもしれないけど……それでも、何も話せずにいなくなっちゃうよりは、ずっとマシ」

 しずくの母親は、この世への未練を解消して成仏していけたわけではない。

 悪霊への対処として放たれたあの銃弾によって、成仏していったんだ。

 だから、あの母親が抱えていた『残された娘たちへの心配』という未練が解消されたのかどうかはわからない。

 でも、しずくとこはくちゃんは、自分たちなりに精一杯の言葉を届けた。

 それが多少なりとも、あの母親の救いになっていればと切に思う。

「それにさ、こはくが言ってたじゃん。まだ、私がいる──って。私たち家族の分まで幸せになってくれるって。そのこはくの言葉を信じることが出来たから、お母さんはきっと、安心して行けたんじゃないかな」

「そっか……だと、いいな」

 今回のしずくにまつわる事件は、死んでしまった母と残された娘二人。離れ離れになってしまった家族に関するものだった。

 母親は、どうにか成仏していくことが出来て、妹のこはくちゃんは、母の期待を一身に背負って、これからの人生を生きていく。

 けれど、ここにいるしずくは……。

「しずくはさ……」

 訪れた沈黙を破り、俺は暗い呟きを落とす。

「しずくは……本当に、俺で良かったのか?」

 ──私には、怜君が必要なんだと思う。

 それは確かに、しずくの言葉だ。

 自分の行く末を考えた時に、しずくは確かにそう言ってくれた。

 俺が最後の、希望なのだと。

 けれど、そんな俺に与えられたこの数日間で、俺は一体しずくに何をしてやれただろうか。

 ……何もしていない。

 ただただ一緒にいて、普通に過ごして、花火大会も結局行けなくて、俺はしずくの世話になるばかり。しずく本人は、それで満足だと言ってくれたけど、実際問題、今になってもしずくの成仏は出来ていない。きっともう、悪霊化まで秒読みの状態だ。

 それはきっと、俺の責任で、しずくのことを俺に託してくれた椎名やこはくちゃんの期待を俺は裏切ることになる。

 人生に満足しきれず、未練だらけの状態で、まだ生きていたいと願いながら、しずくはこの世から消えていかなくてはならないのだ。

 ……いつの間にか、俺の手は震えていた。

 俺の責任は、俺が自分で拭わなくてはならない。

 しずくを幸せにして成仏させることが出来なかった俺は、その不始末を処理するため、しずくに銃弾を打ち込まなければならないのだ。

 死んでいく恐怖、自分がこの世からいなくなってしまう恐怖、もう視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、幸せさえも一切合切、感じることが出来なくなってしまう恐怖。

 そんな絶望を感じるしずくを、俺は見届けなくてはならない。

 俺の仕事と……わかっている。

 けれど、それは俺にとって何よりも耐え難い事実だった。

 ……自分の無力さを、ここに来て思い知り、俺は天を仰いだ。

「それは、違うよ」

 唐突にそう呟いたのはしずくで、俺は恐る恐る彼女の方を振り向く。

 どう責められても、何を言われても反論できない。

 そんな思いを抱えながら、俺はしずくに──

「──それは、違うの」

 しずくが俺の両手を握り込み、優しく諭すような声音と慈愛に満ちた表情で言った。

「ごめんね、怜君。不安にさせちゃったよね……そんな顔をさせたいわけじゃ、なかったんだけど」

 俺は一体、どんな表情をしていたのだろう。

 急いで表情を元に戻そうと、手で頬を叩こうとするが、その手はしずくに握られたまま離してくれない。

「私ね、ひとつ嘘をついてたの」

「……嘘?」

「そう、嘘。私ね、未練を解消して成仏するなんて、最初から考えてなかったんだ」

「……それは、未練を解消しての成仏を、望んでなかったってことか?」

 急に行われたしずくの告白に、俺はどうにか言葉を返す。

「それは少し、違うかな。未練の解消をするつもりが無いと言うより……未練の解消が出来ないって、最初からわかってたってこと」

「でも、しずく……成仏するには俺が必要って」

 しずくがそう言ったから、俺はここまで頑張ってきた。

 彼女を幸せにして、未練を解消させようと意気込んできたのだ。

「うん、ごめん……怜君には、余計な責任を押し付けちゃったね。でも、先に言っちゃうと絶対反対されると思ったから。そうなっちゃったら、怜君と落ち着いて過ごすなんて出来ないじゃん? 私はただ、本当にそれがしたかっただけなの」

 俺と二人で、ただただのんびり過ごしたい。

 そんなことを、しずくは確かに言っていたし、その言葉は嘘ではなかったらしい。

「でも、それじゃ……もっと楽しいことも、出来たはずなのに……俺がもっと頑張ってれば、きっとしずくの未練だって──」

「──だから、無理なんだよ」

 俺の後悔の言葉を、しずくが強く断ち切った。

「確かに、もっと色んなことが出来たかもしれない。遊びに行くことだって、綺麗な景色を見に行くことだって、花火を見上げることだって」

 しずくが、俺の手を握ったまま、夜空を見つめる。

 都会の空にはほとんど星は見えなくて、でも今この瞬間、すぐ近くには綺麗な花火が咲き誇っている夜空もあったはずなのだ。

 俺はそれを、しずくと二人で見たかった。

「楽しいことが嫌なわけじゃなくて……本当なら、花火も見たいし、実はちょっとだけ後悔もしてる」

 いくら目を凝らしても、自宅のベランダには花火の光は届かない。

 今から会場に向かっても、きっともう間に合わない。

「でもね、そんな後悔って、キリがないと思わない?」

 後悔もある……未練もある。

 でもしずくは、けしてそれを嫌だとは言わなかった。

「今日、仮に怜君と花火大会に行って、屋台でご飯を食べて、花火を楽しんでたとするね。でも、花火は永遠に続くわけじゃないから、いつかは終わっちゃう。そしたら私が何を思うかってさ『ああ……来年も怜君と花火を見に来たかったな』って、なっちゃうんだよ。いくら怜君と楽しい思い出を作っても、どんなに綺麗な花火を見ても、満足なんか出来っこない。次は次は──って、求めちゃう、考えちゃうんだ」

 私って意外と欲張りなんだね──そう付け足して、しずくは笑った。

「……ああ、ホントに欲張りなやつだな、しずくは」

「でしょー。幻滅した?」

「しないよ、そんなしずくも嫌いじゃない」

 もうすぐ終わりだというのに、しずくは冗談めいた口調でそんなことを言ってきて、俺も思わず笑みを漏らしてしまう。

「あ、怜君久しぶりに笑った」

「そんなに久しぶりか?」

「そうだよー、ここ最近の怜君、明らかに思い悩んでる感じだったじゃん。隠してたつもりかもだけど、バレバレだよ? だからほら、笑って?」

 両手の人差し指を頬に当てて、ニパーッと笑うしずくに俺は思わず吹き出してしまう。

「おまえ……っ、よくこんな状況で笑えるよな、すげえよ、ホント」

「怜君も笑ってるじゃん。いいよ、その方がカッコいい。うん……そのまま、私のことを撃ってほしいな」

 再度、俺の手を握ったしずくは、その手を拳銃のところまで持っていく。

 そして、俺に銃を握らせた。

「笑いながら銃を撃ってたら、ただのサイコパスだろ」

「でも、それがいい。泣いて悲しんでるより、笑って楽しい方がいいじゃん?」

「……ま、そうだな」

 しずくが俺の手を離し、俺は自分の意思で拳銃を取り出す。

 銃弾が装填されていることを確認し、安全装置を外す。

 これでいつでも、しずくは成仏していける。

「覚悟は、決まった?」

 しずくが俺に、そう尋ねた。

「どうかな……本音を言えば、今でも怖いよ。この手でしずくを葬り去るってのは」

「葬り去るって、ちょっと面白いね。別に、怜君が殺すわけじゃないのに」

「でも、状況的にはそうだろ。知らない人が見たら、ただの殺人現場だぞ?」

 今日は花火大会があるから近所の人はほとんど出払っているけれど、普段だったらこんな見通しの良い場所で銃を構えることなんか出来ない。

 ……まあ、見られたところで、それが本気だなんて誰も思わないだろうが。

 ふと、俺の視界に白く輝く細い物体が映り込んだ。

「あれ?」

 しずくが声を上げ、自分の頭に触れる。

 頭から手を離して、しずくが自分の手を確認する。

「うわぁ……これはちょっと、流石に怖くなっちゃうなぁ」

 しずくの手にはごっそりと白い髪が付着していて、それは間違いなくしずくの頭から抜け落ちたものだ。

 そしてそれは……悪霊化の症状の一つでもある。

「……っ」

 足元をフラつかせたしずくが、ベランダの柵に寄りかかった。

「大丈夫……じゃ、ないよな」

「うん……実はさっきから……頭がボーッとしてて、それから、目眩も……」

「悪霊化の兆候だよな……」

「そう、だね……お母さんも、同じような症状を訴えた後に、ああなっちゃったから……私も、直に……だろうね」

 しずくはまるで、高熱でも発しているかのように顔を赤くしていて、息もどんどん荒くなってくる。

 俺はしずくの側に近づき、彼女の身体を支えて座り込む。

「……ヤダー、襲われちゃうー、ダレカタスケテー」

 身動きが取れず、俺になされるがままのしずくは、明らかな棒読みでそんなことを言った。

「ふざける元気はあるんだな……まあ、いいけど」

「ふふっ……実際襲われた事もあるもんねー」

「は? いやいや、あれはしずくからだろ」

「あれ、そうだっけ? あー……いや、そうかも。……というか、どっちでも良くない?」

「しずくから言い出したんだろ……調子狂うなぁ。ホントに成仏してく気あるのかよ」

「あるある、あるってばー……」

 いつも通り……いや、いつもに増しておちゃらけた事を言うしずくは、やっぱり息を荒げていて、ここから回復することなんか、あるはずもない。

「だから、そろそろ、お願いできるかな……?」

 そう言ってしずくは、俺の右手に握られた拳銃の銃口を、自身のこめかみにあてがった。

「……っ」 

 ……やらなければいけない。

 そんなことは、わかっている。

 けれど、不安は収まらなくて、手は震えて、視界はグルリと回りだす……。

 手に握った拳銃を落としそうになった、その時──

「怜君、緊張してる?」

 拳銃ごと、しずくが俺の手を握った。

 しずくの手は、とても柔らかくて、暖かくて……いや、むしろ熱いくらいで、それはもう、人間の正常な体温を遥かに超えていた。

「私も……なんか、ドキドキしちゃうね。もしかすると私の初体験の時より、緊張してるかも……」

「それは……なんというか、コメントをし辛いな」

 時折挟まれるしずくからの下ネタに、俺は苦笑を返すことしか出来ない。

 普段はあまりそういうことを言わないしずくではあるが、今、この時ばかりは、そうでもしないと正気を保っていられないのだろう。

 かく言う俺も、引き金に触れている人差し指の感覚が段々と曖昧になってきて、俺のことを見上げているしずくの顔に、ポトリと涙が一粒落ちた。

 しずくはそんな俺のことを、優しい微笑で見つめると、何も言わずにその涙を拭ってくれる。

「ねえ、怜君」

 もう何度目になるか、しずくが俺の名前を呼んだ。

「……なんだ?」

「あれ、やろうよ。言い残しておくことはないのかー、みたいな定番のやりとり」

「ああ、やってみるか。人に銃を撃つ機会なんか多分もう無いし」

「うん……だから、お願い……っ」

 もう、目を開けている元気すら無くなったしずくは、ほとんど吐息だけの声で俺に言った。

 俺はギュッと強く目を瞑り、大きく見開くと、しずくの要望通りの言葉を口にする。

「なあ、しずく……最後に何か言い残しておくことは、あるか?」

「そう、だなぁ……ちょっと残しちゃったお好み焼き、腐る前に食べといてね……」

「おい、最後がそれかよ」

「あー、いや……うそうそ、冗談だから。えーと……大体言い尽くしちゃったんだけど」

 二秒ほど、間があって、

「──幸せになってね、怜君」

「……ああ、当たり前だ」

 しずくの本当の言葉に、俺はしっかりと答えた。

 引き金にかかった人差し指に、力を込める。

「……ああ、後、最後にもう一つ」

「ホントに欲張りだな……なんだ?」

「銃を撃ってから、私が消えちゃうまでの間さ……ギュって抱きしめててくれない? それが一番、私にとっては幸せなんだ」

「……わかった」

「ありがとう……じゃあ、やって?」

 しずくが俺の手を撫でる。

 魔法のように、不思議と恐怖は消え去って。

 俺は人差し指で、引き金を引く。

 カシャっという、静かな音だけが鳴り響いて。

 しずくに銃弾が、撃ち込まれた。

「さよなら、しずく」

 俺は一言、そう呟いて。

 しずくの熱い身体を、ありったけの感謝と共に抱きしめた。

 強く強く、抱きしめた。

 俺たちの間に言葉はなくて。

 それでも、想いは確かに伝わって。

 やがて、俺の腕の中で、しずくは静かに消えていった。

 満足そうな吐息を漏らして、煙のように消えていった。

 一人きりになった俺は、その場でゆっくりと立ち上がる。

「ふぅ……っ……」

 震える息を吐いて、暗い夜空を一人で見上げた。


 ◆


 あれから一週間が経った。

 世間的には九月に入り、でも俺たち大学生の夏休みはまだ一ヶ月ほど残されている。

 どこか手広に感じる自分の部屋で、俺は部屋の掃除をしている。

 ゴミを捨て、掃除機をかけ、ウェットシートで床を拭く。

 隅々まで気を使って掃除をしていると、家のインターホンが鳴らされた。

 玄関まで行き、扉を開けると、そこには見慣れた椎名の姿があった。

「よう」

「ええ」

 短いやり取りを交わして、椎名が俺の部屋に上がる。

 ここ最近、椎名は頻繁に俺の部屋を訪れていて、料理スキルが壊滅的な俺に、簡単な自炊の方法を教えてくれたりしている。

 近くのスーパーで買い込んできた食材の入ったエコバッグを置き、椎名が部屋の様子を見渡す。

「意外と綺麗にしてるのね……ってか、しすぎじゃない? 生活感が消失してて逆に気持ち悪いんだけど……」

「いやー……興が乗っちゃって」

 掃除兼、断捨離の鬼と化した俺は、片っ端から不要なものを捨てて部屋を整理していった。結果、部屋は閑散としてしまい、ベッドって本当に必要か……? という思考に至ったところで目が覚めた。

「まあ、いいわ。どうせすぐに元に戻るんでしょうし。それで、料理の方はどうなの? ちゃんとやってる?」

 椎名に尋ねられ、俺はゆっくりと目を逸らした。

「カップラーメン最高……」

 我が家の電気ケトルはエース級の大活躍を見せている。ローテーションから外されることは決してない。

「はぁ……道のりは長いわね」

 俺の言葉にため息を吐いた椎名は、自前のエプロンをつけてキッチンに立つ。

「ほら、今日も練習するわよ。メニューはカレーよ」

「よろしくお願いします、椎名先生……」



 椎名の教えは相当厳しい……こともなく、案外丁寧に俺に料理を教えてくれる。

 失敗しても責めることなく、地道に一つ一つ教えてくれる椎名は、意外と教師に向いているのではないだろうか。

 今日のカレーも大きく失敗することはなく、味見をしてみると、まあ、及第点といったところだった。

「しかし、量を見誤ったな……完全に作り過ぎた」

 いつもは俺と椎名の二人分だけを作っているのだが、今日のカレーはたくさんおかわりをするとしても三、四人分はあるように思う。

「まあ、カレーだったら、明日まで保つだろうし、食べきれないことはないでしょうけど……」

 たくさんのカレーが入った鍋を見つめて、椎名が呟いた。

 ──ピンポーン

 その時、またもや家のインターホンが鳴らされた。

 玄関を開けると、そこには大学の友達である大森の姿があった。

「おう、急にどうした……てか、なんか凄え久しぶりな気がするな」

「本当だよ。この前も花火大会に誘ってんのに、断りやがってさー、夏休み入る前くらいから、なんかお前付き合い悪くなってねぇか?」

「それは悪かったし、今はもう普通に遊べるけど……お前、何しに来たの?」

 俺がそう訊くと、大森は自分の方に俺を引き寄せて、内緒話でもするかのように顔を近づけてきた。払い除けるのも可哀想だったので、そのまま話を聞く。

「いや……それがさ、椎名さんがお前の部屋に入ってくとこが見えたんだよ。確か、お前の高校の時のクラスメイトなんだよな? 実は付き合ってる……とか、ないよな?」

「んなわけないだろ、最近は料理を教わってるだけで、それ以上のことはない」

「本当か?」

「本当だ」

 普通に話していると忘れそうになるが、椎名は一応俺の大学の先輩にあたる。

 大森にとってもそれは同じで、初対面の時、大森はクールな椎名に一目惚れをしてしまった。それ以来ずっと椎名に好意を寄せているというわけだ。

 ……そのアプローチが上手くいった試しは、まだないのだが。

「適当に理由つけて、そこに俺も混ぜてくんない?」

 その大森の提案に、俺は正直面倒だなと思ったものの、カレーの消費要員が増えたと考えると、まあ悪くはない。

 仕方なく、俺は大森を部屋に上げた。

「あ、あー、椎名さん、こんにちはー」

 一気にギコちなくなった大森の様子に苦笑しながら、俺は部屋に戻った。



「ふぅ……」

 カレーを二杯食べて、俺はもうお腹いっぱい。

 夜風にあたろうとベランダに出てきて、休憩をしている最中だ。

 部屋の中には大森と椎名がいて、声はよく聞こえないが、楽しげに話している様子は伝わってくる。

 ……さり気なく二人きりにしてやる、という目的もあった手前、すぐに部屋に戻るわけにはいかないが、ベランダに出てまでやることもなく手持ち無沙汰になる。

 ……こういう時に、タバコでも吸うものなんだろうか。

 俺は成人しているが、タバコにはまだ手を出していない。

 酒はまだ、飲み過ぎなければ問題はないが、タバコは百害あって一利なしだ。

 もし身体を壊すようなことがあっては、それこそしずくが悲しんでしまう。

 ──幸せになってね、怜君

 しずくは俺にそう言った。

 その一歩として、俺は自分の生活を見直し、掃除や自炊に取り組んでいるのだ。

 ニコチン依存になっている場合ではないだろう。

 ガラリと、ベランダの窓が開けられる音がして、俺は振り返る。

 姿を現したのは椎名だ。

「どうしたんだ?」

 サンダルを履いた椎名は、俺の隣までやってきて、ため息を吐いた。

「疲れたから……休憩をね。大森くんと二人きりにしたの、わざとでしょ?」

「……お見通しかよ」

「あの人、無駄に元気が有り余ってるから、会話していると疲れるのよ。……まあ、私のことを好いてくれるのは、素直に嬉しいけれど」

 俺の行動の上に、大森の好意までバレバレらしい。

「それ、本人に言ってやれよ」

「嫌よ。うるさいじゃない」

 バッサリだった。大森の恋路は険しそうだ。

「てか、そんな愚痴を言いに来たのか? だったら俺はもう戻るぞ」

「ああ、ちょっと待って。あなたに渡したいものがあるの」

 部屋に戻りかけた俺を、椎名が呼び止めた。

 パンツの後ろポケットから取り出したのは、一枚の茶封筒。

 表には、形の整った丸文字で『成宮さんへ』と書かれている。

「大森くんに持ってくるの見られて、ラブレターかとしつこく問い詰められて大変だったのよ……って、まあ、それはどうでもいいか」

「これは……あいつからか」

「ええ、あの子、小さいしずくからよ」

 思えば、あいつとは急な別れになってしまっていた。

 お別れの言葉を交わす暇もなく、いつの間にか元のしずくに戻っていたから、仕方ないと言えば仕方なかったのだが、少しだけ寂しく思っていた自分もいた。

「私の家にあの子が来た時、渡されてね。もし自分が急にいなくなったら、あなたに渡して欲しいって」

「それは……準備が良いことだな。読んでもいいか?」

「あなた宛のものだし、ご自由に」

 俺は頷き、封を開ける。中には、二つ折りにされた手紙が入っていて、俺はそれに目を通していく。

『成宮さんがこれを読んでいるということは、もう私はこの世にはいないのでしょう。急に成仏しちゃったか、記憶が戻って人格がなくなちゃったか、何が起こったのかはわかりませんけど。だとしたら私は、満足にお別れを言えていないかもしれないので、私がいなくなった後の成宮さんに、伝えたいことを記しておきます。

 1 自炊はちゃんとしてください

 2 掃除もサボっちゃダメです

 3 髪はちゃんとした美容院で切ってください

 4 椎名さんと仲良くしてあげてください

 5 これからも元気に過ごしてください

 以上五つが、私からのお願いです。守らなかったら化けてでます。

 私からはそれだけです。』

 お別れの言葉というよりは、母からの言いつけみたいな内容だったけれど、それもまあ、あの少女らしいとは思う。

 何せ、かなり長くの間、あいつには家の事をやってもらった。

 その礼を言いそびれたのは少し残念だが、少女からの伝言を守ることで、礼の代わりになればと思う。

「どうだった?」

 手紙を読み終えた俺に、椎名が尋ねた。

「別に、大したことは書かれてなかったよ」

 俺はそう言って、手紙を封筒にしまう。

「ふーん。まあ、私から内容をあれこれ聞くことはしないけど、大切にしなさいよ? あの子も頑張って書いてたんだから」

「わかってるよ。さ、部屋に戻ろう」

 封筒を片手に持ち、俺と椎名はベランダから部屋に戻る。

 大森からのめんどくさい絡みを回避しつつ、俺はテレビを点けた。

 ゴールデンタイムのバラエティ番組が流れ、俺たち三人はなんとなくそちらに目を向ける。

 テレビから流れてくる映像に大森が反応して、椎名に話しかける。鬱陶しそうに言葉を返す椎名だけれど、本当に嫌がっているようには見えない。俺もたまに会話に混じり、二人と他愛もない話をする。

 きっとこんな、なんでも無いような普通の時間が、しずく達が求めていた幸せで、俺たち生きている人間はそれを当たり前のように享受する。

 でも、そんな当たり前は、いつ当たり前じゃなくなってもおかしくはない。

 誰が明日死ぬのかだって、わからない世の中なのだ。

 だから俺たちは、一日一日、訪れる毎日を精一杯に過ごし、生きているという特別なことを可能な限り楽しむ、そして、幸せを目指す。

 落ち込んでいる暇なんかなくて、過去を見る暇があったら、未来を見て。

 もうここにはいない、色んな人々に胸を張れるように。

「……」

 自分の頭に触れてみる。

 ボサボサに伸びた髪が、そこにはあった。

「なあ、大森」

「ん、なんだ?」

「お前っていつも、どこの美容院行ってる?」

 少しづつ、少しづつ前に進んで、俺たちは今日からも生きていく。

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迷宮入りのゴーストガール 夢乃あかし @akashi2012

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