第2話 推しの声優と結婚したい、が目標です。

 あれから、声優、東雲綾乃しののめあやのは、数名のスタッフによって何処どこぞに連行されていった。ちなみに被害者である僕は特におとがめなしだ。


 彼女も今回の作品でネームドキャラを演じているわけだが、この暴力沙汰で降板もあり得るかもな、とか思いつつ、ゆったりと長椅子にもたれかかっていると、不意に、正面から誰かに声を掛けられた。


神坂かみさか君、今回は悪いね。何度もリテイク出しちゃってさー」


 顔を上げると、目の前に四十代ぐらいのオジさんが僕を見ながら微笑んでいた……えっ、監督? まさかの麦野剛むぎのたけし総監督のお出ましだ。


「お、お疲れ様です!」


 慌てて立ち上がり頭を下げた。腰が九十度、いや、百二十度を超えて限界突破での平伏……ではなく、お辞儀。


「いやいや、そんなに固くならなくっていいって、まぁ気楽にして。ああ、今日の収録お疲れさん、これからもよろしく頼むよ。なんつったって、スポンサーに無理言って君を推したのは俺なんだし、俺の顔も立ててほしいわけよ」

「え? 監督が自分を……? なんで、で、で、でも流石にこのは──」

「まぁ……あれだ。あまり深く考えるな」


 そう言って、僕の肩をポンと叩く麦野監督。


「もう監督ぅ、それってセクハラですよ〜」


 遠くから女性スタッフさんがなんか言ってる。


「あ、失敬失敬! じゃあ、次の収録も頑張ってくれよ」

「あ、待ってください、まだ話が──」


 で結局、監督は言葉の途中でそそくさと立ち去ってしまった。


 監督が去った後、誰も居なくなった廊下にポツンと取り残された僕は、長いの裾をひるがえし、フラフラと男子トイレに向かう。


 入口で男性スタッフさんがギョっとしてたけど、気にせず、すれ違いがてら一礼して中に入る。


 手洗い場に立つと、鏡に映る若いと思しき顔を見て混乱した。これだけは未だに慣れない。


(──つうか、一体誰だよ、コイツは……)


 思わず、邪魔だった長い黒髪のウィッグを外し、天井をあおぐ──。




 ◇


 僕こと神坂登輝かみざかとうきは、声のお仕事、いわゆる声優に興味津々だった。


 それこそ、ただの声オタだけでは飽き足らず、いつしか自分自身が本気で声優になりたいと思うほどに。


 きっかけは幼い頃から夢中で観ていたアニメだ。何のひねりもない、ありふれた理由。


 でも、それは建前。本当の動機はもっと単純明快……というか、不順極まりない。


 推しの女性アイドル声優と結婚がしたい。


 ただそれだけ。そんな声優好きの誰もが、一度は夢見るであろう願望を本気で叶えるため、僕は声優を目指した。


 笑いたければ笑えばいい。でもよく考えてみてくれ。


 付き合うにしろ結婚をするにしろ、ま一番大事なことは何だと思う? 答えは明白だ。


 それは、出会い──。


 仮に容姿端麗、学歴優秀のイケメンであったとしても、目的の相手と出会えなければ何も始まらない。


 ましてや自分のような陰キャは、その機会すらままならない。声優イベントで推しを遠くから眺めるのが精々だ。それも苦労して勝ち取ったチケット争奪戦の末に。


 これが現実、世の中の摂理だ。


 だから僕はこう考えた。


 ──自分も推しと同じ〝声優〟になればいいんじゃね? と。


 頑張って声優になりさえすれば、ごく自然な流れで推しの女性アイドル声優たちと出会える。同じ職場仲間なんだから、普通に仲良くなれるだろう……そしていつかは、推しの誰かと──。


 バカである。


 こんな浅はかな思考に至ったのは、高校三年の春。人生で最も大事な時期だった。


 それでも僕は、周りの反対を押し切っての上京。


 元々、いい大学に行けるような頭脳もなかったし、五歳上の姉が東京に就職していたので、姉を頼りにアルバイトをしながら声優養成所に通うことに……人生良きに計らえ、かな。


 紆余曲折を経て、なんとか無事に養成所を卒業できた僕は、弱小ながらも『ノエル声優プロダクション』という声優専門の芸能事務所に所属することができた。


 声優、神坂登輝が誕生した瞬間だ。


 ちなみに、芸名ではなく本名を名乗っている。

 だってさ、推しの声優に、自分の名前を覚えて欲しいじゃん。


 そして、今に至る──。

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