四の三 衝突する信念

 激しい物音に目を覚ました。

 飛び起きればまだ朝日が昇るより随分と前、真っ暗な時分だ。


 銃だけ抱えて、急いでいおりを飛び出す。妖の襲撃だろうか? いや、それにしては強大な妖力は感じない。いったい何が起きて……。


理桜りおちゃん!」


 大きな声で名を呼ばれ、反射的に足を止める。振り返れば伊藤いとうさんが、焦ったように駆け寄ってきた。


「良かった、理桜ちゃんは無事だったんだね」

「はい、伊藤さんもご無事で良かったです。それよりこれは――」

「わからない。とりあえず音がした方向に行こう!」


 伊藤さんの促しで、闇に覆われた村落の中を駆ける。……戦闘の音がしない。やっぱり外部から襲撃されたわけじゃないみたいだ。


 ふわりと、どこからか火の粉が舞った。周囲を照らす美しい蒼炎そうえんには、けれど温度がない。まるで幻のように、儚く散っていく。


「これ、弦瑞さんの……」


 伊藤さんが小さく呟いた。そうか。見覚えがあると思ったら、久坂さんの操る狐火きつねびだ。でもどうして、こんな深夜に……。


 疑問を抱きながらも、足を止めずに走り続ける。辿り着いた先は洞窟にもほど近い、家屋の一切ない開けた空間だった。

 騒ぎに驚いて駆けつけたらしい松華のひとたちがザワザワと取り囲む中心には、久坂さんと高杉さんの姿。けれど和やかに歓談しているという様子じゃない。肌をざわつかせる緊迫感に、思わず銃を握る手に力がこもった。


「……信作。いくらお前でも、それ以上は侮辱とみなすよ」

「はっ、事実を言って何が悪い。術士なんかと手を組みたがるお前の心理のほうが、俺には理解できん。そんな真似をしていれば、結局は術士にとって都合の良い国になるだけだ」


 触れれば斬れる刃のようにひりついた声を向ける久坂さんに対し、高杉さんは嘲るようにいびつに口角を持ち上げる。


 ……状況が掴めない。すぐ隣の伊藤さんの様子を窺えば、普段は快活な笑みを浮かべているその口元が、完全に引き攣っていた。


「なあ、弦瑞。よく考えろ。口先だけで誤魔化して、仲良しごっこをして、幕府を倒す気も今のこの国の在り方を命賭けで正す気も何もない。先生はそんなやり方をお前に教えたのか?」


 久坂さんが唇を噛みしめるのが遠目にもわかった。次の瞬間、一筋の青白い炎が高杉さんの羽織を鋭く貫く。


「だから力ずくで国を変えるって? そんなに戦争がしたいなら、お望み通り今ここで、僕が付き合ってあげるよ」


 久坂さんの全身から、蒼く輝く炎が立ち昇った。妖力が一気に膨れ上がる。あやし者としての本来の姿に戻った久坂さんの周囲で、彼を守るように無数の狐火が揺らめいた。


「力で勝てると思っているのか? お前がこの俺に? 笑わせるなよ、弦瑞」


 けれど高杉さんに焦った様子はない。ただ不快そうに吐き捨てて、とんっと軽くつま先で地面を蹴った。


「っ……⁉︎」


 たったそれだけで、周囲を暴風が駆け抜けた。思わず顔の前に腕をかざす。


「高杉さん! それはさすがに……!」


 あの時の氷使い……赤禰あかねさんの声が響くけれど、高杉さんは気に留める素振りもなかった。言葉もなくただ厳然たる威圧感だけで、赤禰さんの制止を抑え込む。


 ……怖い。この妖力は、恐ろしいものだ。本能が全力で警鐘を鳴らしていた。


 どうにか見上げた先、宙空に佇む高杉さんの髪が長く伸びて風になびいている。純白の山伏装束に一本下駄。手には巨大な羽団扇はうちわを持ち、背には鷹のような二枚の翼が雄大に広がっていた。

 ――天狗のあやし者。山の神とも称される、畏怖の対象。


「久坂さん! 高杉さんを無闇に挑発しないでください!」

「ごめん、武都たけとさん。巻き込まないようには気をつけるけど、いざとなったら皆を守って」


 高杉さんには言っても無駄だと判断したらしい赤禰さんが、今度は久坂さんへと注意を向ける。けれどどうやら、久坂さんのほうも引き下がるつもりは一切ないらしかった。


「っ、止めないと……!」


 久坂さんの妖力も強大だけれど、妖狐の本領は騙し合いだ。正面きっての勝負で、しかも天狗のあやし者とぶつかったりしたら、大怪我を負ってもおかしくはない。

 高杉さんが久坂さんを本気で傷つけるとは、この短い付き合いでもあまり思えないけれど。だからといって黙って見ているなんてできなかった。


「待って、理桜ちゃん!」


 思わず飛び出しかけた私の腕を、伊藤さんが勢いよく掴んだ。危うく均衡を崩して転びかけたのを、その場でたたらを踏んでギリギリ耐える。


「あの二人の本気の喧嘩とか、下手に割って入るほうが危ないから! えーたと玖一くいちさんとかつらさん以外には絶対無理!」


 そうは言っても、桂さんは普段は帝都で生活をしていらして、萩へと戻っていらっしゃることはまれらしい。

 なら瑛太さんと入江さんは……と視線を巡らせたとき、夜空に浮かんだ黄金の月の前に黒い影がよぎった。


 高杉さんの背へと、錫杖しゃくじょうが勢いよく投げつけられる。高杉さんが危なげなくそれを躱せば、錫杖は風にでも導かれたような不自然な軌道を辿って、持ち主の元へと舞い戻った。


「夜中に大騒ぎするなよ。迷惑極まりないんだけど」


 満月を背に負い、漆黒の翼を空へと広げた瑛太さんが、朱の差された切れ長の瞳を鋭く細めて高杉さんを睥睨へいげいしていた。


「口を挟むな。これは俺と弦瑞の問題だ」

「松華の活動方針に関する話だろ、お前らだけの問題じゃない」


 ぴしゃりと言い放った瑛太さんは、地上の久坂さんへと視線を落とす。けれどその眼差しは、高杉さんに対するものよりは幾分か柔らかかった。


「久坂も、俺や玖一さんをちゃんと巻き込めよ。俺たちはこいつと違って、術士と組む利益はそれなりに理解してるし」


 高杉さんのこめかみにぴくりと青筋が立つ。次の瞬間、荒れ狂う風が激しい意思をもって地平を舐めた。


「俺は二対一でも構わないぞ」


 空気が尖る。一触即発の事態に息を呑んだとき、場に全くそぐわない穏やかな声が私の鼓膜を揺らした。


俊介しゅんすけくん、ちゅうくんのことをお願い」

「え。あ、はい! わかりました!」


 いつのまにか私たちの近くに来ていた入江さんが、伊藤さんへと呼びかける。

 久坂さんの様子を不安げに見つめている寺島てらしまさんを私たちの元へと残して、入江さんはやけにゆったりとした足取りで騒ぎの中心へと歩み寄った。


「弦瑞。気持ちはわかるけど、安易に信作と戦おうとするなんて、あんまり君らしくないんじゃない?」


 緊迫した空気をほぐすような、朗らかな声音だった。久坂さんが入江さんへと視線を流す。久坂さんの纏っていた張り詰めた気配がほんの僅かに緩むのが、肌で感じ取れた。


「信作も。弦瑞のことを悪戯に傷つけたいわけじゃないでしょ、やりすぎだよ」


 入江さんは今度は天を仰ぎ、高杉さんへと呼びかける。不服そうに顔を歪めた高杉さんは、けれど無言で地上へと降り立った。


「……ごめん。頭に血が上りすぎたよ」


 そう謝罪を口にしたのと同時に、久坂さんの纏う妖力が霧散した。人間の姿へと戻った久坂さんは、いまだ空に浮かんで臨戦態勢を崩さない瑛太さんへと声を向ける。


「瑛太もごめん。もう大丈夫だから」

「……別に。久坂に謝ってほしいわけじゃないし」


 ぱさりと黒い翼を羽ばたかせながら、瑛太さんも地面へと降りてくる。はぁ、と深い溜息をこぼした瑛太さんは、久坂さんの背中を軽く叩いた。


「あんまり無茶すんなよ。こっちの寿命が縮む」


 瑛太さんの姿が人のそれへと戻る。そうして瑛太さんは、高杉さんのことを鋭く睨みつけた。


「高杉。お前も後先考えずに妖力ばら撒いて、無意味に周りを怯えさせるな。お前のは桁違いなんだよ、自分でもわかってるだろ」


 舌を打った高杉さんもまた、妖力を霧散させた。人間の姿へと戻った高杉さんは、不機嫌さを隠そうともせずに腕を組む。


「別に本気で戦うつもりだったわけじゃない。そもそも先に妖力を使ったのは、そいつのほうだろう」

「けど先に喧嘩売ったのも、周りに馬鹿みたいな妖力ばら撒いたのも、全部お前だろ。久坂は一応は抑えてたし」


 高杉さんと瑛太さんの間で、見えない火花が散ったような気がした。そんなお二人の間に、入江さんが強引に体を割り込ませる。


「はいはい、二人ともそのくらいにしておこう。そもそも揉めてたのは弦瑞と信作でしょ? なんで今度は信作と瑛太が喧嘩してるの」

「「それはこいつが!」」


 高杉さんと瑛太さんの怒声がぴたりと重なった。周囲に集まっていたひとたちの中から、くすくすとこらえきれなかった笑い声が漏れる。


 ふと、久坂さんと視線が合ったような気がした。軽やかな足取りでこちらへと歩いてきた久坂さんは、真っ先に寺島さんへと声をかける。


「僕と信作の二人分の妖力はきつかったでしょ? ごめんね、大丈夫だった?」

「はい、……大丈夫です。久坂さんこそ……」

「心配してくれてありがとう。僕は平気だから」


 寺島さんの案じるような声に、久坂さんはにこりと華やかに微笑んだ。そうして彼は私へと目線を移す。


真角ますみさんも、お騒がせしてすみません。大丈夫でしたか?」

「あ、はい。少し驚きましたけど、私は大丈夫です」


 これでも狩人の教育を受けてきた身だ。あやし者の妖力でひるむほど、弱くはないつもりだった。


「俊介、二人のことをありがとう」

「いえ! でも戦闘にならなくて良かったです。悔しいですけど、オレじゃ二人を守りきれる自信はなかったんで」


 口ではそんなことを言いながらも、伊藤さんの表情はにこやかだ。もう一度「ありがとう」と笑った久坂さんは足早に赤禰さんのほうへと向かい、そのままお二人で何かを話し始めた。……もう大丈夫、なのかな?


「ごめんね理桜ちゃん、驚かせちゃって。たぶんもう、落ち着いたと思うから!」


 伊藤さんが私の顔を覗き込み、明るい声で教えてくださる。それにほっと安堵の息を吐いた。


「家まで送るよ。こんな時間に叩き起こされちゃったけど、後はゆっくり休んで! ほら、寺島も一緒に行こう!」


 伊藤さんが私と寺島さんを促す。集まってきていた皆さんも、やれやれという空気を醸し出しながら、それぞれ解散していくようだ。


 伊藤さんと寺島さんと一緒に夜道を歩きながら、私は空に浮かんだ黄金色の満月を見上げた。

 高杉さんと久坂さん。お二人の目指す未来の形が異なることは察していたけれど、まさか内輪で戦いになるほどに確執があるとは思わなかった。

 どちらの信念も譲れないのなら、戦うしかない――。そんな現実の厳しさをまざまざと見せつけられたようで、少しだけ息が苦しかった。


「大丈夫だよ、理桜ちゃん。高杉さんも弦瑞さんも、本気で相手が憎くて戦おうとしたわけじゃないから」


 私の沈んだ気持ちを掬い上げるように、軽やかな伊藤さんの声が耳朶を打った。


「オレの判断でどこまで言って良いか、ちょっとわかんないんだけど……。たぶん高杉さんが、心配しすぎてうっかり弦瑞さんの忌諱ききに触れちゃっただけだと思うんだよね。二人とも目指す先は一緒だから、大丈夫」


 明朗とした伊藤さんの声には、けれど確かな重みがあった。本当に、心の底から、大丈夫だと信じているひとの声だった。


「それなら良かったです」


 だから私も笑って頷く。そもそも部外者である私に、お二人の正確な気持ちなんて推し量れるはずがない。ずっとお二人を見てきたであろう伊藤さんがそう仰るなら、きっと大丈夫なのだろうと前向きに思えた。


 頭上の月は相も変わらず煌々と、大地を明るく照らしていた。

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