四章 大海原に誓う

四の一 鮮やかなる理想

 私が松華しょうかに身を置かせてもらうようになって、早数月。気がつけば季節はすっかり夏へと移ろっていた。


 何もせずに自由にして良いとは言われていたけれど、居候させてもらっている身で暇を持て余すのも申し訳ない。そんな思いで私は、松華の皆さんの生活のお手伝いをさせてもらっていた。

 とはいえ、食事の準備の手伝いや、農作業のちょっとした補助、あとは近隣の村里までの買い出しのお供など、せいぜいそんな程度の仕事だ。大変というほどのこともない。


久坂くさかさん、いらっしゃいますか?」


 声を張り上げれば、すぐに家の中から「どうぞ」と涼やかな声が返ってきた。お言葉に甘えて失礼させてもらえば、久坂さんは文机に向かい、書簡らしきものをしたためていらっしゃった。


「お忙しいところすみません。これ、お届け物です」


 近隣の村で瑛太えいたさんと入江いりえさんと一緒に買ってきた墨を手渡す。こうしていろいろと書き物をされるから、墨は欠かせないのかもしれない。ちらりと見れば今使われている硯も筆も、随分と使い込まれているようだった。

 というかこの筆、結構な高級品なのではないだろうか。かなり長く使われているように見えるのに、毛先の纏まりが全く失われていない。


「――ああ、これは兄の物です」


 私の視線に気がついたらしい久坂さんが、静かに微笑んだ。筆を見下ろす眼差しは優しく細められていて、久坂さんがお兄様へと向ける柔らかな感情が伝わってくるようだ。


「お兄様のこと、お好きなんですね」


 口元が自然と笑みを形作っていた。私は一人娘だったから、そんな素敵なお兄様がいらっしゃる久坂さんのことが少しだけ羨ましくなる。と、久坂さんは朗らかな声で首肯した。


「ええ。少し遠くへ出かけていて、今は会えませんが。僕の自慢の、憧れのひとです」


 まるで筆を触る指先の動きにまで、お兄様への愛おしさが詰め込まれているようで、心の奥がふわりと温かくなった。


「こんなに立派な筆を譲ってくださるなんて、きっとお兄様も久坂さんのことが大切なんですね」

「そうですね。……そうだと、嬉しいな」


 ほんの少しだけ、久坂さんの声が掠れたような気がした。けれど私がそれに疑問を挟むよりも前に、久坂さんが明るい声で話題を転換させた。


「松華での生活はどうですか? 不便も多いかとは思いますが」

「いえ、不便なんて全然ないです! 皆さん良くしてくださいますし。今日も瑛太さんと入江さんと一緒に、買い物へ出かけたんです」


 狩人の私なんて、もっと冷遇されたっておかしくはないのに。もちろん全く警戒されていないというわけではないのだろうけれど、皆さんからは十分すぎるほどに優しく接してもらっていた。


「……そう。思ったより、瑛太が気を許すのが早かったな」


 独り言めいた音量でこぼされた冷ややかな声に、背筋がぞくりと凍る。次の瞬間、久坂さんは華やかな笑みを私へと向けていた。先ほど垣間見えた酷薄さが嘘だったかのように、完璧に整った美しい笑顔だった。


「馴染めているのであれば良かったです。困りごとがあれば何でも言ってください」


 私を気遣う優しさに満ちた声色に、含むところなど何もないように聞こえる。それが逆に、心底恐ろしかった。


 ……狩人の私を受け入れ、松華の自治区域での自由を許してくださったひと。だけどどうして、このひとは危険人物である私を殺そうとしなかったのだろう。今になって不意に、そんな疑問が胸を埋め尽くした。


 膝の上に置いた指先が温度をなくす。小さく震えるそれを誤魔化すように、ぎゅっと手を握り込んだ。


「……少なくとも瑛太には、打算はありません。それは信じてあげてください」


 淡々とした響きが耳朶を打った。俯いてしまっていた顔を上げれば、久坂さんは能面のような無表情でじっと私を見つめていた。


「はい」


 それはつまり、瑛太さん以外のひとは何らかの思惑を持ったうえで、私に接しているということだ。恐らくは久坂さんご自身も含めて。

 だけどそれなら、その思惑とはいったい何なのだろう。術士の皆さまと連帯するためには、狩人である私の存在は邪魔にしかならないだろうに。


「他には、そうだな……。不安なら信作しんさくを頼ると良い」

高杉たかすぎさん、ですか?」


 森の中で初めて出会ったあやし者。だけど高杉さんは私のことを、吉田よしだ先生の仇として嫌悪されているように思う。久坂さんが私を松華に置くと決めてからも、高杉さんは積極的に私に関わろうとはされないままだ。


「彼は貴女には優しくないでしょうし、冷たく当たるかもしれませんが。けれどその代わり、貴女に対して裏表もないでしょうから」


 ……やっぱり、久坂さんは気がついていらっしゃる。私が何を恐れたか。


「ありがとうございます。でも、あの。私は久坂さんに思惑があっても大丈夫です。たとえどんな理由があったとしても、私を殺さずに自由まで認めてくださったのは、久坂さんですから」


 お気遣いはありがたかったけれど、これだけは伝えないといけない気がした。そうじゃないと、あまりにも不誠実だ。だってあやし者のことを知りたいと向こう見ずに飛び込んだ私を受け入れると、最初に決めてくださったのは久坂さんなのだから。


 少しだけ久坂さんの瞳孔が丸く見開かれた。やがて視線を伏せた久坂さんは、くしゃりと自身の前髪を右手で潰す。


「……本当に、変わった人ですね」

「あはは、よく言われます」


 神黎館しんれいかんにいた頃から、頻繁に言われてきた台詞だった。さすがにもう変人の自覚はある。そもそも変人でもなければ、狩人のくせにあやし者と共に暮らすなんて真似、平然とできるはずがない。


「ただ、いつか教えてもらえたら嬉しいです。久坂さんが何を考えているのか、何を望んでいるのか、そういうことを」


 だって私はそれを知りたくて、この場所に来たのだから。あやし者という存在を……私たちが問答無用で悪と定義し、殺めてきたひとたちの想いを知りたくて。


 ゆっくりと、久坂さんは視線を滑らせた。お兄様の物だという筆へ、ご自身の懐へ、そうして最後に私へと。


「松華としての総意ということなら、目的は幕府を倒すことです。僕たちあやし者が政治に携わるようになれば、諸外国とも渡り合えるでしょう。条約の改正も視野に入れられる」


 久坂さんの手が、自身の着物のえりを掴む。一切の情動の押し殺された硬い声が、何故だか泣いているようにも聞こえた。


「僕たちは先生を失った。だからこそ、先生の目指した理想を叶えなければならない」


 まるでそれが自身へと課せられた義務であるかのように、久坂さんは力強い声で断言した。

 けれどその強張った表情が、不意にほどける。僅かばかりまなじりを下げただけなのに、たったその変化一つで、まるで穏やかな微笑みをたたえているようにすら見えた。


「……ただ、そうだな。僕個人の話をするなら、必ずしも幕府や狩人を打ち倒さなければならないとは、思っていません」


 その発言に、思わず「え?」と小さな声が漏れた。

 あやし者たちは幕府に反旗を翻そうと、過激な行動を繰り返している――そう神黎館では教わったし、何より幕府は吉田先生を無実の罪で斬首したのに。


 私の反応は、どうやら久坂さんの想定の範囲内だったらしい。彼は困り顔とも笑顔とも受け取れる曖昧な表情を浮かべて、真摯な声で続けた。


「彼らには彼らの信念があり、僕たちには僕たちの理想がある。それだけのことです。もしも天子様のもとで互いに譲歩し合い、手を取り合うことができたなら。きっとそのほうが、未来はずっと明るい」


 告げられたそれは、あまりにも美しい理想論だった。膝の上でぎゅっと手を重ねる。

 狩人の家に生まれた私がこれを聞くのは、あまりに不躾なのかもしれない。それでも。


「……幕府や狩人を、恨んではいないんですか?」


 久坂さんは、ただ静かに私の問いを受け入れた。感情の揺らぎの一片すらも映らない、凪いだ海のような眼差しで。


「恨めば先生が生き返るというのなら。憎悪を向ければこの国が変わるというのなら。いくらでも恨むし憎みますよ。……けれど、そんなことをしてもこの国は何も変わらない。ならばそんな感情は無用の長物です」


 自分の認識の甘さを、眼前に突きつけられた気分だった。

 私は今までずっと、あやし者たちは自身を弾圧した幕府を決して許さないと勝手に思い込んでいた。倒幕の機運があやし者たちの間で高まっているのだって、異国のあやし者が見逃される現状に不満を抱いたからだと決めつけていた。

 もちろん、そういう考えだけで活動しているあやし者もいるだろう。だけど少なくとも、久坂さんは違うんだ。このひとはただ、今の国の在り方を変えたいだけ。人間とあやし者が共存できる未来を、真剣に望んでいるだけ。


「……とはいえ今の状況では、幕府は僕たちの存在を認めないでしょう。二百年以上続いた慣習は、容易に捨て去れるものではない。だからこそ術士の皆さまの協力を得て、他の村落のあやし者たちとも連携することで、僕たちの力が国にとって必要なものであることを幕府に納得させなければならない」


 返す言葉もなかった。確かに幕府はいまだに、技術力さえ高めればあやし者の力など借りずとも、異国と対等に渡り合えると考えている節がある。そうでなければ、この期に及んで狩人の育成に力を入れたりはしないだろう。


「もっとも、他の皆にはまたそれぞれの考えがあるでしょうから。今のはあくまでも僕の個人的な意見です。それはお忘れなく」


 久坂さんは澄んだ声でそう付け加えた。……同じ目的を掲げているように見える松華のひとたちですら、細かい考えは異なっているというならば。この国全体にまで広げれば、いったいどれだけの数の多様な意見があるのだろう。皆が満足して納得できる国の形は、本当にどこかにあるのだろうか。


「はい。教えてくださって、ありがとうございます」


 そんなことを考えながら、私は久坂さんへと深く頭を下げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る