二の四 妖狐の眼差し
外から聞こえる獣の唸り声に、寺島さんがちらちらと視線を木戸へと向ける。
表情には相変わらず変化がないから、彼が何を考えているのかはいまいちわからない。けれど状況を鑑みるに、外の様子が心配なのだろうとは推測できた。
「あの、寺島さん。外に行かれても大丈夫ですよ? 私なら一人でも平気ですから」
そう声をかければ、寺島さんが私へと視線を移した。
「いえ」
短く否定の言葉を紡いだ寺島さんは、少しだけ迷うように視線を宙へと巡らせる。
「……俺は、戦えないので。行っても久坂さんたちの足手まといに、なるだけですから」
「戦えない……?」
久坂さんが寺島さんを仲間と称した以上、このひともあやし者なのだとは思うのだけれど。
そんなつもりはなかったけれど、訝しむような口調になってしまったかもしれない。
「すみませんっ……」
慌てて謝れば、寺島さんは静かに首を横に振った。
「……気にしないでください」
「でも……」
それでもごめんなさいと、そう口にしようとした刹那。突風が吹き抜けるような大きな音が、外からゴウっと響いた。
「大丈夫です」
驚いて目を瞬かせた私に、寺島さんが落ち着いた声で告げる。
やけに断定的な口調に小さく首を捻り、そうして私は先ほどの高杉さんと瑛太さんの会話をはたと思い出した。
「高杉さんと瑛太さんの風、ですか?」
寺島さんが無言で首肯する。積極的にお喋りはしてくれないけれど、こちらが質問したことにはちゃんと答えてくれるみたいだ。
それならもう少し、気になっていたことを尋ねてみても良いだろうか。
「あの。高杉さんと瑛太さんが仰っていた『風に何も引っかかっていない』って、どういう意味なんですか?」
「……」
私の疑問に、寺島さんが視線を伏せて黙り込む。……さすがに興味本位で内情に立ち入りすぎてしまっただろうか。
「えっと、言えないのでしたら大丈夫ですから!」
急いで明るく付け足したけれど、寺島さんの表情は晴れない。相変わらず俯いたまま黙り込んだ寺島さんの様子に、困ったなと内心で頭を抱えた。と――。
「……お二人は定期的に、周防山全体へ風を飛ばしています。だから……」
そこで口を閉ざし、また視線を畳へと落とす。その目線がまるで何かを探すようにちらちらと彷徨い、やがて私へと戻された。
「……その風で、村落に近寄るものがないか、探しています」
なるほど。高杉さんが森をうろうろとしていた私の前へと的確に姿を現したのは、私の存在が高杉さんの風に引っかかったからだったのか。ようやくそう納得し、私は寺島さんへと微笑みかけた。
「ありがとうございます、教えてくださって」
そうお礼を口にすれば、寺島さんは何故か全身を小さくして顔を下へと向けてしまう。
「……すみません」
囁くような音量で呟かれた謝罪の意図がわからず、私は首を捻った。おかしいな、謝るのはむしろ私のほうだと思うのだけれど。
「……俺、話とか下手で。ちゃんと答えられなくて、すみません」
「そんな。お気になさらないでください!」
寺島さんの言葉に、私は勢いよく首を横に振った。
……そっか。話をするのが苦手なのに、私の疑問に一生懸命答えようとしてくださっていたんだ。少しだけ心が温かくなった気がした、次の瞬間。
ドンっ――!
何かが扉に体当たりするようなけたたましい音と衝撃に、反射的に肩がびくりと震えた。
「っ!」
ずっと変わらなかった寺島さんの表情が、サッと青くなる。立ち上がった寺島さんは、まるで私を庇おうとするように土間へと降り立ち、私と木戸との間へ身を割り込ませた。
ドンっ、ドンっ!
度重なる衝撃に
寺島さんが緊張した様子で腰の刀へと手をかけた。だけど。
『俺は、戦えないので』
そう言った寺島さんの声が、耳の奥で蘇る。
もしもあの木戸が破られて、妖がこの中へと侵入してきたら。そのとき本当に、寺島さんは大丈夫なの……?
胸に冷たいものが落ちる感覚。どうか入ってこないでという私の願いとは裏腹に、ミシっと軋む嫌な音とともに木戸が勢いよく破られた。
グルル――。
低い唸り声を上げて突進してきた虎のような妖の躯体が、寺島さんへと覆いかぶさる。
母様たちの胸を貫いたあの日の妖の爪の
考えるよりも先に体が動く。両手首を拘束していた氷を、霊力を集中させて打ち砕いて。
「そのひとから離れてっ!」
自身を押さえつける前脚から逃れようと必死に足掻く寺島さんの喉笛へと、鋭い牙を突き立てんとする妖。その気をこちらへ引こうと、咄嗟に大きな声で叫んだ。
妖の頭部が、おもむろに私へと向けられる。黒い能面のようなのっぺりとしたその顔を睨みつけて、着物の下に隠した拳銃を抜いた。
銃口を妖の眉間へ。慎重に狙いを定めて。
どうやら私へと標的を変える気になったらしい妖の、四本の
宙を跳びこちらへと一直線に向かってくる体躯を正面から見据え、引き金を握る指に力を込めた。
撃ち出すのは、鉛玉ではなく私の霊力。神黎館で幾度も学び、撃ち放ってきた弾丸。
もっと、もっと。ぎりぎりまで引きつけろ。絶対に外さない距離まで。
そうして撃鉄を、引く!
「寺島っ!」
壊れた木戸の向こうから響く、久坂さんの悲鳴にも似た叫び声。
パンっ――!
私の放った銃弾が、乾いた音とともに妖の眉間を貫いた。
地へと崩れ落ちた妖。仰向けに倒れ、呆然と私へと目を向ける寺島さん。そして。
「貴女は……」
壊れた木戸の前に立ち尽くし、私が構えたままの拳銃をじっと見据える久坂さんの姿に、私は己の失敗を悟った。
私が狩人だと、知られてしまった。それでも、後悔するつもりはない。……あのままだったら寺島さんは、死んでしまっていたかもしれないのだから。
銃口を下ろし、畳へと銃を置く。そうして指先で銃を強く押し、手の届かない距離まで滑らせた。
「……すみません」
謝罪を口にしつつ、何にも触れないよう両手を上げた状態で久坂さんを見つめ返す。
(ああ、綺麗……)
そんな状況じゃないとは知りつつも、私の胸に湧き上がってきたのは、そんなあまりに場違いな感慨だった。
肩のあたりまでだったはずの髪は腰よりも長く伸び、風にふわりと揺れる。髪色も空色から淡い白銀へと移り変わり、頭部には同じ色の耳が二つ。
ひらひらとたなびく華やかだけれど上品な装束の後ろには、六本の尾が垂れていた。そうしてそんな彼を守るように、青白い炎がちらちらと周囲に瞬く。
――六尾の妖狐。妖狐の尾は最大で九本であり、尾の本数は力に比例すると聞く。
純粋な妖ならば九尾の個体もいるけれど、彼はあやし者。六尾もあれば十分すぎるほどの妖力だろう。
あやし者としての本来の姿に戻った久坂さんは、鋭い警戒を私へと向けながら、倒れたままの寺島さんへと駆け寄った。
「寺島。無事?」
「っう……はい。俺は、大丈夫です……」
寺島さんは呻きながらも頷いて、身を起こそうとする。その背中を支え、久坂さんはさっと寺島さんの全身を見渡した。
「……大きな怪我はないみたいだね。良かった」
「はい。……彼女が、助けてくれて」
寺島さんの視線が私を示す。思案げに瞳を細めた久坂さんは、静かに私へと一礼した。
「まずはお礼を。うちの者を助けていただき、ありがとうございます」
「いえ……」
首を横に振る。お礼なんて不要だ。だって私はただ、見ていられなかっただけだもの。
「けど――」
そこで一度言葉を切った久坂さんは、静謐な眼差しで私を真っ直ぐに射抜いた。
「話は詳しく伺わせていただきます。狩人の貴女が、いったい何の目的でここに来たのか」
触れれば斬れそうなほどの険を宿した声が、凛然と空気を震わせる。
それはまるで、仲間に危害を加えるようであれば容赦はしないという意図を込めたもののようにも聞こえた。
「はい。お話します、全て」
ここまで知られてしまって、今さら隠すことなんて何もない。だから真摯に頷きを返す。
外から聞こえていた戦いの音は気がつけば消え去り、静寂だけが厳かに世界を支配していた。
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