一の二 旅立ちの日

 理事長室の前。覚悟を決めるために大きく息を吸ってから、なるべくいつも通りの表情を張りつけて、私は戸を叩いた。


「失礼します、勝先生。真角です」

「おう、入れ」


 中から聞こえた鷹揚な声に促され、引き戸を開ける。


 畳の部屋にもかかわらず、天井から下がった硝子製の照明具。教室や他の先生がたの部屋とは異なり、文机と座布団の代わりに足の高い机と革張りの椅子が置かれている。

 勝先生の好みで異国の趣向が取り入れられたこの部屋は、伝統を重んじる人たちからはたいそう不評らしいけれど、なんだか勝先生の懐の広さを表しているように感じられて、個人的にはとても気に入っていた。


「呼び出された理由は、自分でわかっているか?」


 机に肘を置いて両の指を組み、手の甲へと顎を乗せた勝先生は、瞳を細めてそう私へと問いかける。


「……私が所属組織を決めていないから、ですよね?」


 事実を確認するように答えれば、勝先生は大きな溜息をこぼした。


「何だ、わかっているじゃないか」


 そうして勝先生は、真面目な顔で机の上にいくつもの資料を広げ、それを私へと差し出した。


「お前さんを欲しいと言ってきた組織だ。絵戸の防衛部隊や、将軍家の警護役まである。その誘いを全部蹴るなんて、いったい何が気に入らなかったんだ?」

「不満があるわけではないんですが……」


 言葉を濁し、わざと迷うように目線を伏せる。……勧誘を断る道を選んだ段階で、勝先生にこうしたことを言われるのは予想できていた。だから、言い訳は事前に準備してある。

 正直に述べて、卒業式の日まで呼び出されなかったことのほうが、私からすれば驚きなのだ。それはもしかしたら、卒業までには決めるだろうという勝先生からの信頼の証だったのかもしれないし、そうだとしたら申し訳なさで胸が潰れそうな心地なのだけれど。


「すみません、勝先生。でも、やっぱり私は狩人には……」

「……あやし者が怖い、か?」


 私への気遣いに満ちた勝先生の声に、こくりと頷く。自分の両手をぎゅっと、体の前で握りしめた。


「母と父は、私の目の前で殺されました。真角の人間として情けないこととは、わかっています。それでも私はっ……あやし者が、怖いっ……」


 嘘だ。だって母様たちを戦いの末に無惨に八つ裂きにしたのは、あやし者じゃない。あれは異国から渡ってきた妖の仕業だ。

 けれど異国の妖が人間を殺めたと公表すれば、国内の反発が大きくなる。何より狩人である母様たちが異国の妖に危害を加えた事実は、決して世間に知られてはならなかった。


 だから、幕府は選んだんだ。異国の妖を殺した罪も、母様たちを殺した罪も、全てをあのあやし者へと押しつけることを。


 母様たちは私を守るために、条約違反を犯してまで異国の妖へ武器を向けた。あのあやし者は私を助けるために、たった一人で危険へと飛び込んだ。狩人たちは、危機にある仲間を救おうとやって来た。

 誰の行為も間違っていなかったはずで、それなのにどうして私たちは、あんな結末を迎えなければならなかったのだろう。


 妖を逃がしてしまえば、母様たちが妖を攻撃した事実が異国にばれるかもしれない。それを防ぐために狩人たちは、あやし者が蜃気楼で足止めしていた妖を殺した。そうして何もかもの悪事を、私を助けようとしてくれただけの優しいあやし者のせいにして、斬り落とした首を道端に晒した。

 違うのだと、そのひとは悪くないのだと、そんな神黎館もまだ卒業していない若輩者の訴えは、無言の圧力によって黙殺されて。


 ……政治的判断として間違っていなかったことは、理解しているつもりだ。だけどもし、あのひとがあやし者ではなくてただの人間だったなら、果たして幕府は同じ選択をしたのだろうか。

 あのひとはあやし者だったのだから、存在そのものが悪だったのだから、だから少しくらい罪状が増えても変わらないと。そう冷ややかな眼差しで告げた幕臣の声を、私は今でも忘れられずにいる。


 でも、あやし者とは本当に悪いだけの存在なの? だってあのひとは何の所縁ゆかりもない私を助けようと、たった一人で強大な妖へと立ち向かってくれたのに。


 神黎館での講義では、あやし者の危険性と悪辣さとを骨身に叩き込まれ、妖力を感知した瞬間に躊躇いなく相手を狩り殺せと教えられる。その教育方針自体は、あの事件の前後で何一つ変わらなかったはずだ。

 それなのにあの日から、今まで何の疑いもなく受け入れていた先生がたの言葉に、私はどうしても納得できなくなってしまった。


 それでも、狩人としてはこれが正しいんだと、必死に自分の心に言い聞かせてきた。母様たちの跡を継がねばと、これまで通りの訓練をどうにか続けてきた。


 けれどいざ進路を決めようと自分の心を見つめ直したとき、私は嫌というほどに理解してしまったのだ。

 ――あやし者が悪であるという定義に疑問を持ってしまった今の私には、狩人の仕事は務まらないと。


 握りしめた拳に、無意識に力がこもる。慌てて力を抜いて、勝先生の様子を窺い見た。

 どうやら私の不自然な反応を、あやし者に対する恐怖によるものだと誤解してくれたらしい。疑うような素振りは特に見られなかった。


 勝先生は、あの日の真相を知らない。だから簡単に騙されてくれるし、あやし者に目の前で家族を殺された子供である私を気遣ってくれる。

 この方は真面目で情に厚い。もしかしたら多少の打算はあったのかもしれないけれど、それでも私のことを本当に慈しんでくれていることは知っている。だから正直な気持ちを言おうかと、迷ったこともあった。

 けれど、あくまでもこの方の立場は幕臣だ。真実を伝えても黙殺せざるを得ないだろうし、何より私の決意を話せばさすがに引き留めようとなさるだろうから。


「ごめんなさい」


 俯いて口にしたそれだけは、私の本心だ。引き取って育ててくれたのに。面倒を見てくれたのに。そんな貴方に恩を仇で返すような真似しかできない私を、どうか許さないで。


 頭に触れる温かな感触。恐る恐る視線を上げれば、勝先生の大きな手が私の頭を撫でていた。


「お前さんの人生だ、進む道はお前さん自身で決めれば良い。無理に狩人になる必要なんざないさ。ここを卒業してくれただけで、お前さんの両親も満足だろうよ。後はお前さんの好きに生きな」


 ああ、本当に篤実な人。この方の優しさにつけ込んだ私は、きっと立派な悪人だ。


「でも、たまには連絡を入れろよ? これでも一応、お前さんのことは娘みたいに思ってるんだからな」

「はい、ありがとうございます」


 笑って答える。信頼を裏切ってごめんなさい。だけどそれでも、私は狩人にはなれない。あやし者をことごとく悪だとは思えなくなってしまった私は。彼らが本当に悪なのかこの目で確かめたいと、そう願ってしまった私は。もうこの銃口を問答無用であやし者たちへと突きつけることなんて、絶対にできそうにない。


「じゃあまた、連絡しますね」


 微笑んで踵を返し、部屋を出る。閉じた扉に寄りかかって、私は小さな声で呟いた。


「……さようなら、お義父とうさん」


 誰の耳にも届いてはならない、別離の言葉を。

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