一章 旅立ちの日

一の一 卒業

 扉の開け放たれた道場を早春の風が軽やかに吹き抜け、厳しい稽古の日々を思い起こさせる。

 温かな空気と高く青い空。今日は絶好の卒業式日和だ。


 幕府直轄の狩人育成機関・神黎館しんれいかん

 人間に害なす獣の一種である『妖』や、人とも妖ともつかぬ中途半端な種族である『あやし者』の討伐を生業とする『狩人』を育てるこの学び舎を、私は無事に卒業する。



 日ノ元ひのもと絵戸えど幕府が成立してから、早二百年以上。妖とあやし者を処断する狩人は、時代の平穏と幕府の統治とへ常に大きく貢献してきた。

 私の実家である真角ますみ家も、絵戸幕府の成立当初より狩人として将軍様のために尽くしてきた家柄。いわゆる名門の一つだ。……もっとも母様も父様も亡くなり、跡取りが私ただ一人だけとなった現状では、その家名が今後も意味を持つかどうかは微妙なところではあったけれど。


「ここにいたのか」


 道場の入口から聞こえた声に、そちらへと顔を向ける。そこに立っていたのは、卒業証書を無造作に左手に握った漆黒の髪の少年――斎藤さいとうくんと、そして。


「久しぶり、理桜りおちゃん」


 にこにこと食えない笑みを浮かべて手を振る沖田おきた先輩だった。


「え、沖田先輩? どうされたんですか?」


 二つ上の学年だった沖田先輩は、一昨年に神黎館を卒業している。校内にいるはずがない。


はじめのお迎え。明日からは朔もうちの子になるからね」

「ああ、そっか。斎藤くんは神選組しんせんぐみに入るんですもんね」


 神選組は、近年新たに設立された狩人組織だ。家柄が何よりも重視される狩人の世界における、唯一の例外。完全なる実力主義の実戦部隊。


 十年ほど前。絵戸幕府の成立以降ずっと国を閉じ、一部の幕府管理下の土地を除いて諸外国との自由な交易を禁じてきたこの日ノ元に、一隻の異国船が訪れた。

 彼らは最新鋭の近代兵器と、海外に住まうあやし者たちの力を盾に幕府を脅し、強引に国交を開かせることに成功する。その際に幕府が認めさせられた条約の中に、とある項目があった。


『諸外国の妖およびあやし者の日ノ元への出入りは自由とする。また、彼らが日ノ元において如何いかなる行為を働こうと、日ノ元の民は彼らに危害を加えることを禁ずる』


 これは即ち、異国からやって来る妖やあやし者がいくら人間を襲おうと、私たちにはそれを狩ることは不可能だという意味を示していた。

 この条文への不満は国内の民たちの間でも大きかったけれど、誰よりもこれに憤ったのはこの国で生まれ育ち、そして幕府によって迫害され続けてきた、日ノ元のあやし者たちだった。


 あやし者は、基本的には人間と類似する種族だ。違うのは傷の治りが人間よりも少しだけ早いことと、妖と同じく妖力を有しており、不可思議な能力を発揮できることくらい。

 けれど何よりも彼らが危険なのは、突発的に破壊衝動に呑まれ、人を襲ってしまうことがある点だった。


 絵戸幕府の基本方針は、危険の芽は早くに摘みとり、人間たちの穏やかな日常を守ること。だからその方針に従い、狩人はいずれ狂うかもしれない今は正常なあやし者たちを、危険分子として有無を言わさず殺し続けてきた。

 ……致し方のない対応だ。だって彼らの生まれ持つ力は、あまりにも簡単に人間を傷つけてしまうのだから。


 ――あやし者とはことごとく悪である。それがこの国における絶対的な正義であり、私たち狩人の貫くべき信念だ。


 絵戸時代が始まって以来、代々ずっと狩人から逃げ隠れ、人目を忍んで村落を形成し、ひっそりと身を寄せ合って生活してきたあやし者たちにとって。異国のあやし者の存在が見逃されることは、この上もない裏切りだったのだろう。

 何もしていない自分たちが殺され、悪事を働く異国の妖やあやし者は処罰されない。その不条理に憤慨した彼らは、次第に倒幕を掲げて動き始めた。


 そうして今まで隠れ住んできたあやし者たちが、最近になり表立って活動するようになったのだ。当然狩人の数は足りなくなり、幕府は新たな狩人組織を設立した。


 それが、神選組。代々の狩人の家系ではない人たちや、狩人の生まれではあるけれどさまざまな事情で家を出た人たちばかりで構成された、特殊組織。


 斎藤くんや沖田先輩は、狩人としての適性を幕府に見込まれ、卒業後は神選組に入隊することが確約された状態で、神黎館で学んでいた人たちだ。神選組の局長たちとも、昔からの知り合いだと言っていた。

 私のように家柄だけで入学を許された人間とは、才能も覚悟も何もかもが違う。


「あ、そうだ。斎藤くん、首席卒業おめでとう」


 卒業式で表彰された、私たちの学年の総合成績一位の彼へと、伝え忘れていたお祝いの言葉を贈る。

 と、斎藤くんがそれに反応するよりも前に、何故か沖田先輩が心底満足そうに笑って、自分より幾分か下にある斎藤くんの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。


「ふふっ、当たり前だよ。朔はうちの二番手になる予定の子なんだから」

宗司そうじ

「駄目だよ、一番手が僕なのは確定事項だからね」

「いや。そうではなくて、手をどけてくれ……」


 感情が表へ出にくい斎藤くんには珍しいあからさまに辟易した様子に、思わずくすりと笑みを漏らす。

 沖田先輩も沖田先輩で好き嫌いが激しい人だけど、斎藤くんのことは随分と気に入っているみたいだ。少なくとも、まだ実戦経験はないはずの斎藤くんを、自分の次に強いと認めるくらいには。


 ようやく沖田先輩が手を離したときには、既に斎藤くんの髪はぼさぼさになっていて。溜息を吐いてそれを指で直しながら、斎藤くんは沖田先輩を見上げた。


「宗司。真角に話があったんじゃないのか?」

「ん? ああ、そうそう。忘れてたよ」

「おい……」


 飄々と笑う沖田先輩の様子に、斎藤くんの眉間に皺が寄る。


「話、ですか?」


 沖田先輩が私にというのが意外で、つい首を傾けた。


 いくら実力主義が持ち込まれ始めたとはいえ、狩人の世界において家柄の影響はまだまだ大きい。狩人の家の生粋な跡取りではない斎藤くんや沖田先輩を蔑む人も、この学校には少なくなかった。

 だけど私はあまりそういうのに拘りはなくて、むしろ家柄に胡坐あぐらを掻いただけの他の同級生たちよりも、豊かな才能に溢れ、なおかつ日々の努力も惜しまない彼らのほうを、ずっと好ましく思っていた。


 だから斎藤くんと仲良くなるのにあまり時間はかからなかったし、同級生で一番仲が良い相手は誰かと問われれば、たぶん私たちはお互いにお互いの名前を挙げるだろう。

 そして、そんな斎藤くんを随分と可愛がっていた沖田先輩とも、先輩が在学していた頃には比較的頻繁に会話を交わしていた。


 とはいえ、私と沖田先輩との仲はあくまでも斎藤くんありきのものだ。沖田先輩が個人的に私に話があるとは、とても思えない。


「うん。理桜ちゃんさ、卒業した後ってどこに所属するの? 朔も知らないって言うし」

「あー……」


 沖田先輩が口にした内容に、思わず言葉に詰まった。

 そっか、斎藤くんが前に卒業後の進路を聞いてきたのは、沖田先輩に頼まれたからだったのか。個人主義な斎藤くんが他人の進路に興味を示したことを少しだけ不自然には感じたけれど、あまり深く気にかけてもいなかった。


「まだ、決まっていないんですよね」


 うん。あの時点ではギリギリこれで乗り切れたけれど、卒業式当日に使う言い訳としてはさすがにお粗末だろう。どう考えてもあり得ない。


 ――卒業後の進路。私の歩む道。考えていることはあるけれど、それは絶対に口に出してはならない禁忌だから。


「ふうん。理桜ちゃんなら引く手数多あまたなんじゃない? それとも勧誘が多すぎて困っちゃってるとか?」

「あはは。そんな感じです」


 実際、多くの組織から声をかけてもらったことは事実だ。真角の家名はもちろんのこと、両親を亡くした私の後見人を引き受けているのが、神黎館の理事長を務めるかつ先生であるともなれば、私を引き入れたがる勢力は決して少なくない。


「まあ、理桜ちゃんなら成績も良いもんね。家柄だけの無能連中と違って」


 さりげなく沖田先輩は毒を吐いた。在学時代はこういう嫌味を大ぴっらには口にしない人だったけれど、沖田先輩も家柄をひけらかすばかりの面々にはうんざりしていたみたいだ。それにしても……。


「私、別に成績はそこまで良くないですよ?」


 そう訂正を試みれば、沖田先輩だけでなく斎藤くんまで呆れたような表情を浮かべた。


「君さあ、それを全校生徒の前で言ってごらん? 罵声が聞こえると思うよ」

「お前の成績が悪いことは絶対にない。俺が保証する」


 だって斎藤くんや沖田先輩に比べれば、私なんて本当にたいしたことはないんだけどな。上の下っていうのがたぶん、私の成績の客観的な実情だし。


「……まあ、良いや。話っていうのはさ、もし進路が決められないなら神選組うちに来なよってことなんだけど」


 沖田先輩の言っている意味がよくわからず、首を捻る。一拍遅れてその意味を理解して、そして。


「え? 何を言ってるんですか、先輩。冗談ならもう少し笑えるやつにしてください」


 私は思わず、真顔でそう返していた。

 どう考えてもあり得ない。完全実力主義の神選組にこの私が? 分不相応にも程がある。


「冗談じゃないんだけどね。理桜ちゃんの実力なら、うちでも十分やっていけると思うよ」


 肩を竦めた沖田先輩の発言を信じられず、斎藤くんへと視線を向けた。と、斎藤くんは一つ頷きを返してくれる。

 飄然としている沖田先輩だけならともかく、真面目な斎藤くんが嘘を吐いたり冗談を言ったりするとも思えない。ということは、え……?


「あ……ありがとうございます……」


 頬に熱が集まるのが、自分でもわかった。あの神選組に入れるだけの力量が私にあると、そう沖田先輩も斎藤くんも思ってくれたんだ。

 どうしよう、すごく嬉しい。もし本当に勧誘が多すぎて迷っているだけだったなら、きっと他の組織になんて目もくれずに飛びつくお誘いだろう。だけど――。


「考えておきますね。この後、勝先生に呼ばれているんです」


 朗らかに笑ってそう返せば、沖田先輩も斎藤くんも勝手に誤解してくれたようだった。


「そっか。理桜ちゃんの後見役は勝さんなんだもんね」


 勝先生の思惑や、権威を持つ人々のしがらみもあって、進路がなかなか決まらない。そういう風に聞こえるように、わざと言葉を選んだ。

 狡いと言われればそれまでだけど、両親を早くに亡くした私が、真角の家名を利用しようと媚びへつらってくる人たちの中で上手く生きるために身につけた特技の一つとして、ここは見逃してほしい。


 うんうんと納得したように頷いた沖田先輩は、優しく笑いかけてくれた。


「じゃあ、約束。前向きに検討してね」


 ずきり。心臓が罪悪感で痛んだ。だけどその感情はおくびにも出さず、私は首を縦に振った。


「わかりました」


 ごめんなさい。私は神選組には入れない。どうしてもやりたいことが、確かめたいことが、私にはあるから。


 心の中だけで沖田先輩へと謝罪して、私はとあるひとの後ろ姿を脳裏に思い描いた。


 ――襲いくる異国の妖から私を救ってくれた、しんのあやし者。

 私を助けたせいで、母様たちの救援に駆けつけた他の狩人たちに見つかり、母様たちとあの異国の妖とを殺した罪を全て被せられて処断されたひと。


 あのひとが生きていた世界を、私はこの目で知らなければならない。それが、あのひとに命を救われた私の果たすべき義理。あのひとの代わりに今もこうして息をしている私の義務。


「私、そろそろ行きますね」


 明るく笑って、斎藤くんと沖田先輩に手を振る。顔を合わせるのも最後になるかもしれない彼らの姿を両目にしっかりと焼きつけて、私は道場を後にした。

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