暁天に鳴く 幕末あやし異聞
紗倉爽
第一部
序章
序章
炎が舞う。赤く燃え立つその向こうで、漆黒の体躯を持つ妖が不気味に
逃げなければ。そう思うのに、体が動かない。妖の足元に倒れ伏した母様と父様の姿から、目が離せない。
炎の赤と母様たちの体から流れる血の赤が、視界の中でグシャグシャに混じり合う。
妖の眼差しが、こちらをひたと見据える。爛々と輝く、獰猛な黄金の瞳。
「あ……」
太い四本の足が勢いよく地面を蹴る。向かってくる巨躯も、低く轟く咆哮も、何もかもが遠い世界のことのように感じられた。
呆然とその様を見つめるばかりの私の目前に、長い牙が迫って――。
(え?)
辺りを突如として白い霧が覆うのと同時に、妖の動きがぴたりと止まった。何かを探すようにぐるりと周囲を見渡した妖は、すぐに明後日の方角へと一心に駆けていく。
「大丈夫かい?」
「ひゃっ⁉︎」
突然の事態に放心していた私は、耳元で響いた囁くような声に思わず悲鳴を上げかけた。
途端、私の大声を抑えようとしたのか、横からグッと口を塞がれる。恐る恐るそちらへと視線を向けた。
そこにいたのは一人の男性だった。淡い茶色の髪は先のほうが赤く染まり、頭には二本の白い角。そして何よりも奇妙なのは、顔の右半分に浮かび上がった銀色の鱗のような文様だった。
――あやし者。妖でも人間でもない、まるでそれらの混ざり者のような不可思議な種族。
彼らは存在することそのものが悪である敵。狩人の家の娘である私が、命に代えても狩らなければならない相手だ。
「落ち着いて。もう大丈夫だ」
妖に襲われた際に取り落とした銃を拾おうと咄嗟に走り出せば、背後から優しく抱き留められる感覚がした。
透き通るような声が、柔らかに鼓膜を震わせる。背中に伝わる肌の温もり。どくん、どくんと聞こえる心音は私のもの? それともこのひとのもの?
足から力が抜ける。あやし者を狩らなければという使命感が、妖に対する恐怖の感情と、生きている誰かが側にいるという安堵とに瞬く間に塗り替えられる。
情けなく地面に座り込んだ私の正面へと膝をついたそのひとは、先ほど妖が走り去っていった方角を鋭い眼差しで射抜いた。
「まずいな。僕の蜃気楼がもう破られそうだ」
蜃気楼という言葉に、竜にも似た姿と赤みがかった髪。……恐らくは幻術を得意とすると伝わる、
「良いかい? よく聞くんだ」
私と目線の高さを合わせたそのあやし者は、どこまでも穏やかな、けれど確かな力強さを秘めた声で告げた。
「君は決してこの場を動いてはならないよ。僕の蜃気楼で君の姿を隠しておくから。良いね?」
有無を言わさぬ口調で、あやし者は私へと命じる。そうして不意に口元へほのかな笑みを浮かべ、自身の左の耳へと手をやった。
木を削って作ったらしい花の形の耳飾りを外し、私の右手へとそっと乗せる。
「お守りだよ。怖かったらこれを握っていなさい」
そう言ってあやし者は、険しい眼光で踵を返した。その背が向かう先は――あの妖の駆けていった方角。
(待ってっ……!)
行っては駄目だ。だってあの妖は強い。まだ学生の身である私はともかく、狩人として名を馳せている母様と父様ですら敵わなかった相手に、たった一人のあやし者が勝てるはずがない。
必死に手を伸ばし、口を開く。けれど恐怖に張りついてしまった私の喉からは、情けないことに一音たりとも声が絞り出されなかった。
動けといくら命じても言うことを聞かない、震えるばかりの自分の足を、今ほど恨めしく思った瞬間はなかった。
白い霧の向こうに、あやし者の背が消えていく。置き去りにされた私にできるのは、ただ祈ることだけだった。
彼が残していった花の形を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます