かぎしっぽ
東雲そわ
第1話
姉が地元の陶器市で買ってきた小学生が体験学習で作ったような猫の水入れには、今朝も半分ほどしか水が残っていなかった。昨夜、寝る前に水を入れ替え、ほぼほぼ満杯にしていた器の中には、どこから湧いて出てきたのか、小さな赤虫が一匹、浅い湖面に揺蕩っていた。
侵略、虐殺、天変地異に、金、金、金、金、とネガティブなコンテンツに平和な人々が食傷を起こさないよう、猫も杓子も桜が咲いた散ったと能天気な話題に花を咲かせている頃、我が家の猫に異変が見られるようになっていた。
水を飲む量が極端に多くなり、トイレの猫砂から掘り起こされる尿の塊が、ゴルフボール大の大きさから、テニスボールぐらいの大きさまで巨大化し、それが日に二つ三つと掘り起こされるようになり始めたのだ。
無責任な父と呑気な母は、初夏を思わせる程に度が過ぎた陽気が毛むくじゃらの生き物には酷なのだろうとあまり気にしていない様子だったが、その変化についてスマホで検索をかければすぐに残酷な診断結果が画面を覆い尽くし、焦燥感に蝕まれた意識に帳が下りないまま、朝方、まだ暗い家の中を当の猫本人が廊下を行き来する軽快な鈴の音を、虚ろな意識の中で聞いていた。
慢性腎臓病。
元は捨て猫で、家族以外の人間には決して懐かない極度の人間嫌いで臆病な猫である。家族の誰かとリードに繋がれていなければ庭を歩くこともできないし、野良猫と喧嘩をして怪我を負うこともなければ、猫風邪といったような病気をもらってくることもなく、動物病院の世話になったのは避妊手術をした一度のみ。生まれつきなのか、野にあるうちに怪我を負ったのか、背骨が少し変形しているらしいが、それを苦にする様子も見られない。
極めて健康体だと、そう思っていた。
その妄想が壊れた今、少なからず絶望している自分がいる。
「調子はどうだい?」
空っぽの餌入れの前に座り、こちらを見上げてくる猫に声を掛ける。
ナ。
ニャーと泣くのが億劫なのか、大抵は短い言葉で返事をされる。調子が良いのか悪いのかは、トイレを掃除する傍らでスプーン一杯分のドライフードをペロッと完食したその姿と、猫砂の山から掘り起こしたばかりの尿の塊のどちらを参考にしたらいいのか、未だにわからない。
初期症状のうちは食欲もあり、変わらず元気なことが多いらしい。猫は体調の変化が見た目ではわかりにくいとも言われている。飲水排尿の変化に気がついてからひと月ほど経つが、グルーミングや呼吸の仕方等を注意深く観察していても、以前と比べて変化があるようには思えない。土台が不安定な猫タワーにも軽快に飛び乗るし、廊下を曲がり切れずに壁にぶつかるほどの謎テンションで行われる夜の大運動会も相変わらずだ。頻度が少し減ったようにも思えるけど、そもそも開催が不定期なので判断が難しい。
子猫のときに引き取ってから、今年でちょうど十年になる。猫としては高齢の域にあるとはいえ、後期高齢者の両親よりは長生きするかもな、と思っていた自分は世界の誰よりも能天気な人間だったことを、今思い知らされている。
腎臓が弱り始めた猫にできることは、症状の進行を遅らせること。家で出来ることはストレスを与えず、水を多く飲めるようにしておくこと。
猫の水は家の三か所に置いてある。
猫の寝床にもなっている両親の寝室の入口と、日中ゴロゴロしていることの多い出窓付近。あとは、祖母の遺影に毎日供える湯呑みの水も、いつからか猫の飲料用になっている。
ストレスで唯一思い当たるのは、月に何度か来訪する姉の子供達なのだが、これからは面会謝絶を言い渡す必要があるかもしれない。子猫のときに拾ってくれた命の恩人である甥っ子のことを、当人はすっかり忘れているらしく、顔を見れば、というよりはその声が遠くから聞こえてきただけで人間が入り込めない物置き部屋の奥地へと逃げ込んでしまう、恩知らずの猫なのだ。
「病気のこと、早いとこ伝えた方がいいんかな……?」
自身では決めあぐねている事を、猫に問う。
話し掛ければ大抵は何かしら返事をしてくれる猫なのだが、今度は何も答えない。餌を食べ終えて満足しているのか、前足をぺろぺろと舐めては念入りに顔を洗っている。耳の後ろまで手が回ったので、やはり今日は雨が降るらしい。曇り空の合間の僅かな日差しに期待して溜め込んだ洗濯物を外に干してはみたものの、早めに仕舞った方がよさそうだった。
的中率の高い天気予報士の頭を褒め称えるように撫でてやると、酷く迷惑そうな顔をされる。気にせず、掌でこねるように、額の少し上を撫で回していると、さすがに腹が立ったのか、俊敏な動作で手首に飛び掛かり、親指の付け根付近に噛みついてくる。
「いってぇ」
あくまでも甘噛みである。牙の後がくっきり残る程度のいつものスキンシップなので、ひと噛みして気が済んだあとは、ペロペロと指先を舐め始めるので、こっちもいい加減にして手を引っ込める。
好き好んで噛まれるくせに、目の前の人間が舐められるのは嫌うことを、この猫は知っているのだ。
腰を上げて、洗面所へ向かい、手を洗う。噛まれた部分を念入りに。ポチっと残った牙の後も肌を軽く揉めばすぐに消えてしまう。
洗面所の入口で待っていた猫を跨いで、玄関へと向かう。チリンチリンと、鈴の音がやや遅れてついてくる。
玄関の戸を開けたまま、洗濯物を仕舞い始める。見上げれば、今にも降り出しそうな鈍色の雲が広がり始めていた。
「降り出す前にちょっと散歩するか」
ナ。
式台で右往左往していた猫の首輪にリードを通すと、並んで玄関をくぐり、庭先に出る。
あちこちに雑草が顔を見せ始めた芝生の上を、鼻先をくんくんと揺らしながら一歩一歩進んでいく猫の後ろに続いて、庭を歩く。
短く折れ曲がった尻尾を丸めて歩く姿は臆病そのもの。時折振り返ってはリードの先にいる人間の顔を確認する仕草は、子猫の頃から変わらない。
「ちゃんといるって」
ナー。
少し長めの返事を残して、再び歩き出した猫の尻尾は、不安を振り払うようにピンと立ち上がっていた。
雲の切れ間から差し込んだ日差しの下で、猫がゴロゴロと転がり始める。芝生まみれになるので以前は叱っていた行為だが、最近は好きなようにさせている。
「汚れるんだぞーそれ」
ナ!
わかっているのか、わかっていないのか、やたらと元気な声で返事をする猫に呆れて、転がる猫の傍にしゃがみこむ。無防備に晒された猫の腹を撫でていると、おもむろに噛みつかれたので、今度は舐められる前に手を引っ込める。
ニャー。
不満気な声を上げる猫の鼻を指先で突くと、殊更面倒くさそうな顔をされる。コテンとそっぽを向くように寝返りをうつ猫の身体はすでに芝生に塗れていた。
芝生を払い落とすように乱暴に身体を撫でていると、ゴロゴロと喉を鳴らし始める猫に、思わずため息が漏れる。
「なんなんだろうなー、お前は」
ナン。
幸運のかぎしっぽが齎してくれた些細な日々は、今日も変わり映えもなく続いている。
かぎしっぽ 東雲そわ @sowa3sisu
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