無題

天見結葉

プロローグ

 ―――いつからそこにいたのだろうか。あの特徴的な美しい黒漆の髪は夕日に燃えて少し紅く染まっているように見えたのだ。

「どうして、キミはここにいてくれるの?」

私がそう聞いたとき、目の前で海を見ていたキミが振り向いて、

「どうして理由が必要なの?『ずっと一緒にいて』って言ったのはキミの方なのに」

とまるで当たり前のようにそして少し不満そうに私に言った。その彼女の一言で、私のずっと悩んでいたような気持ちが軽くなったような気がした。やはり彼女は美しい。輝いている。同時にこんな私と一緒にいてくれるなんて勿体ない。本当は別のところで、もっと表の世界で輝くべきだという、遠慮にも近い感情が私の心の中に薫る。そんな私の心を見透かそうと見つめてきた透き通った眼は私だけを見つめている。

「・・・今更、嫌いだなんて言わないでよね?せっかく両想いなんだから。うじうじしてたら、もう嫌いになっちゃうんだからね。」

「嫌いになんてならないよ。でもちょっと、幸せ過ぎてどうしたらいいかわからないの。やっぱりもったいないなって思って、それで・・・。ほら、夕日と海眺めてるとちょっとセンチメンタルな気持ちになるでしょ?もう一日が終わっちゃうなって」

キミは少し離れていた私のすぐそばに寄って隣に座って肩をぶつけてきた。

「うーん、悩みすぎだよ。隣にいる私までつらくなっちゃう。」

私と同じように膝を抱えた後、キミが微笑みながらまたこちらを向いた。

あぁ。やっぱりずるい。そんな顔するなんて。守りたくなるじゃないか。

数十分前まであんなに高くのぼっていた夕日が落ちようとしていた。






――― 半年前 ―—―

 ある春先の朝、突然の着信音で目を覚ました私は、『おかあさん』と表示されたスマホを取った。

「おはよう千明(ちあき)。朝からごめんなさいね・・・」

電話の内容は「今度の仕送りは何がいい」だとか「最近お父さんが会社のゴルフコンペでいい成績を取っておいしいカニをもらってきた」だとか当たり障りのないもので、起き掛けで全く働こうとしない私の脳は母親からの言葉をシャットアウトしてしまっていた。しかしそのせいで自分が遅刻しそうな時間まで母親と会話しているとは思わなかったのだ。

「千明、あんたもうちゃんと起きているわよね?今日は九時からの授業じゃないのかしら?」

「え?」

時計はもうすでに八時と半分を過ぎている頃だった。

「ちょっとお母さん!どうして教えてくれなかったの!」

飛び起きた私は母親からの電話を急いで切って準備を始めた。昨年、進学のために田舎から都会へ越してきて大学からニ十分のところで一人暮らしを始めた。

「不自由な思いをしないように」と共働きの両親が一人娘の私に選んでくれた築十年の1DKの部屋はとても快適で、今のところは充実した生活が送れている。

メイクもおざなりに、とりあえずそこら辺の服に着替えて鞄を持った私は家を飛び出した。水曜の一限は絶対に行かなくちゃいけないのだ。なぜなら・・・。


やはり始まってしまっていた大学の講義室の扉を静かに開け、空いている“あの席”を探す。

「おはよう、咲来(さくら)ちゃん・・・!」

私は教科書を眺める黒髪のその子に小声で話しかけながら座った。

「おはよう千明ちゃん、遅れてくるなんて珍しい。どうしたの?なんかあったの?」

不安そうに私を見つめながら挨拶をしてくれたのは大森咲来ちゃん。文学部の女の子で、芸術学部の私とは二年生になってからこの授業の初回で話しかけてくれたのだ。まだ数回しか授業はないが、私はこの子と一緒に授業を受けるために毎週何があっても必ず出席している。

理系から文系、すべてが揃っているようなとても大きな大学で学部違いの子といくつも同じ授業を受けることは難しい。だから咲来ちゃんとはこの授業しか被っていなくて、その分水曜日の私のテンションはとても上がる。さらにこの授業が終わってからお昼まで二人とも授業がないので、いつもどこかのカフェに行ったりテラスでゆっくり日向ぼっこをしたりするのが楽しみである。その数回分の時間でもう十分すぎる程たくさん話したのだが、しかしやっぱり話し足りないのだ。正確には話し足りないというか、「もっと、この子と一緒にいたい」と思わせるような魅力がある気がする。なんだろう。

授業を終えた私たちは、結局テラスでゆっくりしようということになって、一昨年全館改修工事を終えたらしい、綺麗な緑が植えられたキャンパスの中を歩く。

「そういえば、千明ちゃんは課題とか出されてないの?まだ学年上がって数週間なのに私はもう出されてて、一冊近代の日本文学を読んで時代背景とか作者についてのレポートを書きなさいってさ。まぁ作品が絞られてないだけマシなんだろうけど、もう卒論に向けて練習させられてる気がしてなんかもう・・・どうしようかなって。」

「ふーん、卒論に向けてねぇ・・・。」

「ほんと、春からいやになっちゃうよ。・・・ねぇ、千明ちゃんは?」

咲来ちゃんが私に近づいて聞いてきた。

「まぁ、私も、先週話したように一年で作品集を一冊作るっていう課題があるから、それに向けてのリサーチ作業とかやらなきゃいけないかな・・・。どうせゴールデンウィーク明けに大まかなコンセプトとスケジュールを提出しなきゃいけないだろうし。早めに考えとかないと学年末に詰まっちゃうからなぁ。」

「へぇ、やっぱり芸術学部って大変なんだね・・・。なんかデザインやってる3年の先輩も『今年はファッションショーが行われるから、そのために一つのコンセプトで数着衣装を作らなきゃいけないから大変だ』って言ってた気がするなぁ。私なんかレポートを早く終わらせちゃえばちょっとゆっくりすることもできなくはないけど、一年間そのテーマを考え続けなきゃいけなくなっちゃうって本当、大変すぎる!私にはできないよ。」

咲来ちゃんがあこがれたような目で見つめてくれる。

「その間にまた細かく別の課題出たり、自分の個展のために制作する人もいるからなぁ・・・。ちなみに私もニ・三年の間に一つは小さな個展開いてみたいんだよね・・・。」

「え!個展やるの?私、絶対見に行くね!」

「できたら、の話だけどね?その時は絶対呼ぶよ。」

「やったー!うれしい!」

 そんな話をしながらついた大学のテラスは水曜日の朝というのもあってまだ閑散としていた。いつもの端の席に席を取った私たちは併設されている小さなカフェへ向かった。カフェについたとき、ふと母親との電話で朝ごはんを食べる時間を奪われていたことを思い出してお腹が減ってきたので、少し我慢すれば昼ごはんの時間なのだが、耐えきれなくていつも頼むコーヒーにホットサンドを追加した。



 それにしてもどうしたものか。全く課題が進まないのだ。今年はどんなコンセプトを掲げようか…。

 「よっ!どうしたの?千明じゃん。なんかすごくお困りみたいね?」

 「彩女(あやめ)先輩…。」

 自分の作業スペースで悩んでいると、彩女先輩が私の肩に手を置いて話しかけてきた。小林彩女先輩。芸術学部の四年生、艶のあるうねりとは無縁の腰まである黒髪を一つに束ね、丸眼鏡をかけていて、とにかく顔が綺麗な先輩だ。成績も優秀で今年度は彩女先輩が首席で卒業するだろう。

 「作品集課題で困っていて…。まだコンセプトが決まらないんです。彩女先輩、作品集課題で一番を取ってたって噂で聞いたんですけど。」

 彩女先輩はすこし考えた後、思い出したように話し出した。

 「あぁ、私?私はそれぞれの誕生石が使われたアクセサリーをデザインして油画の技術で描いて作品集にしたよ。もちろんその宝石について調べたことも添えてね。確か千明は個展開きたい、とか言ってたよね?月に一枚か二枚描いていくくらいのペースだったら出来上がった作品集で個展開けるからいいんじゃないかな。この大学の美術専攻の有難いところはどんな画法使ってもいいところだし、作品集で表現方法を統一しなきゃいけないわけじゃないからなんでもできるわよ。」

 「だから困ってるんじゃないですか。何でも出来過ぎて、何を主体にすべきか、迷っちゃうんですよね。」

 先輩は優秀だから、簡単に言えるのだろう。凡人の私なんて、完全な自由の中で何を生み出せるのかわからない。ずっと思い惑っていたって何も進まないなんてわかるのに。

 結果で証明している先輩にそんなこと言えるわけもなく、少しうつむいていた。

 「そんなの、自分の今夢中なものをフォーカスして広げていけばいいのよ。千明、今夢中なものとかないの?『ふとした時にどうしても思い出しちゃう!』とか、『気が付いたら触ったり見たり!』とか。」

 『夢中なもの』それを聞いて思い出したのはいつものカフェのコーヒーでも、自分の待ち受けにもなっている実家の愛犬でもなく、咲来の横顔だった。

 なんとなく気づきたくない。千明は頭を抱えながらコンセプトについてまた一から考え直そうと乱雑にアイデアなどが書かれたメモ帳を手に取った。



 一か月なんかすぐに過ぎていってしまうもので、ゴールデンウィーク明けのコンセプト提出日が来てしまった。

 「失礼します。…お疲れ様です。山田先生。」

「おぉ、次は鷹野だったか。聞いてくれよ、お前の前に提出に来た瀬川のヤツ、ゴールデンウィーク中にサークルの連中とキャンプに行ってコケて骨折したらしいぞ、前から思ってたが、どんくさいやつだよなぁ、しかも相当遊んでたんだろ、コンセプトもやっつけ仕事みたいでさ、『再来週くらいまでには完璧にしてきます!』だってよ。せめて期限までにもっとこう、『これだけは絶対にやりたくて!』くらいは決めてきてほしいもんだよなぁ…」

山田先生はいつも通り雑談が多い。山田先生は教授としてこの授業の統括をしているが、もちろん彼自身も現役で活躍している芸術家であるからいろんなことがあるらしく、いつも何かしらの愚痴交じりの雑談を聞かされる。今日は大学のあのチャラい同期の男の話だったが、彼の展覧会が終わった直後は『あのスタッフが全然動かなくて』だとか『会場の近くのあのお店のあのメニューがおいしかった』とか言うものだ。

「さて。二年次の総合課題のコンセプトはどうするのかな?聞かせて。」

私はすこし間を置いた後、こう答えた。

「…友達を彼女に見立ててその子を表したような作品集を作ろうと思っています。」

ゴールデンウィーク中、もちろん課題について考え続けた。一年かけてその一つのテーマに絞って作品を創り続けなければいけないのだ。今まで何事においても中途半端にしてきた自覚はある。無理やり探したコンセプトでは絶対に持たないことはわかっている。そう考えたら、『あの感情』と向き合わないわけにはいかず、結局咲来について作品を創るという選択肢を選ぶことにしたのだ。

「女友達を彼女に見立てて…か。どうして彼氏ではなく彼女を選んだのか教えて。」

「それは、正直なところ大学であまり男性と関わることがない私が男性のモデルを探して、その人に関する作品を作るのはあまりにもハードルが高かったからです。仲の良い女の子の方が、その子の事を思いやってよりクオリティの作品を作ることができるかなと思ったからです。」

山田先生は、最初は面白がって聞いていたが、後者の理由を述べ始めたときに真面目な表情に変化し、最後には微笑んでいた。

「まぁ、正直な理由ではあるな。よし、いいぞ。鷹野ならやり切りそうだし、いけるんじゃないか。その『彼女役』というのは鷹野にとってそれほど『想っている大事な友達』なんだな。じゃあ、頑張って。」

こうやって真剣にコンセプトを考える前はそんなこと言われたら即座に否定していただろう。けれど私はその言葉を飲み込んで、少し涙ぐみそうになった。この“得体の知れない気持ち”に肯定をもらえたようで少しうれしかったのだ。

 「ありがとうございます。頑張ります。失礼しました。」

さてコンセプトを提出したからには咲来にモデルをお願いしなくてはならない。コンセプトを強気に出したというのにまだ本人には許可を取っていなかった。まだ気持ちを整理するのは時間がかかる。だからとりあえず『友達として』作品のモデルをお願いしようと思った。明後日の水曜一限の後のカフェを思うと緊張してならなかった。



その時が来てしまった。何事もないように水曜一限の授業を受けようとしたのだが、教室の机の脚に足を引っかけて転んでしまったり、突然講師に話を振られて全く見当違いの返事をしてしまったり。咲来に『今日はなんか変だね。なんか緊張してる、っていうか?なんだろう、いつもの千明ちゃんじゃないね。』といわれてさらに緊張してしまった。

 授業が終わって、いつものカフェに行く。いつもより気持ちすこし奥の席に座った。

 「ほんと、今日の千明ちゃんなんか変。なんかあった?困ってることが有るんだったら聞くよ?」

 いいチャンスだ、早く頼んで楽になろう。

 「あのさ、咲来ちゃんに実は頼みたいことがあって…」

 「なになに?」

 いつも以上に前のめりになって聞いてくれる咲来の態度を見て、大きく深呼吸をした後に言った。

 「…今年度の総合課題で作品集を製作するって言ってたじゃない?それで、その課題のモデルをしてほしくて。あの、もちろん出演料とかはしっかり支払うので、お願いしてもいい…かな?」

 空気が止まった。咲来は私を見つめたまま固まってしまった。心臓が壊れてしまいそうで…顔を下げて動けなくなっていると、咲来がやがて私の横までまわってきて、手を取った。思わず顔を上げると、そこには頬を赤らめて嬉しそうにしている咲来がいた。

 「私でいいの!?びっくりしちゃった…。でも、うれしいな。」

へへへ、と笑う彼女の顔がどれほど美しかったことか。

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無題 天見結葉 @AmamiYuiharts

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