第4話 カレンデュラ

こんな爺さんに何の用かな。そうか、蝶々の谷の秘密を知りたいのか。

最初にそこへ、クレタ島の文化をもたらしたのは誰だったかな。デルフィーニオという人物だったかもしれない。そうだ、確かにそうだった。記憶がはっきりとしてきた。

私が彼と出会ったのは、まだ幼くて、右も左も分からない時だった。九歳ほどだったろうか。真珠の海で捕れた魚を、ヒッタイトへ売りに行く途中だった。商人の行列をふらふらと離れて、親がどこにもいないことに気付いた頃には、崖っぷちで独りきりだった。

灌木の側に、布地を山積みにした荷車が置いてあった。しめた、布の間に隠れればどこかの村に着くことができるだろうと考えた。もぐりこんだ後、すぐにふわりと荷車が浮く感覚がした。

谷を落ちているのか? これは罰なのか? 私はおそろしくてたまらなかった。そっと外を覗いてみると、荷車は海を飛んでいた。驚きのあまり、またもぐりこんで震えることしかできなかった。長い間、揺れも音もしなかった。うとうとと眠りかけた頃、ふいに布がめくられた。朝日を直接目に浴びて眩しかった。

「おはよう、おちびさん。いつ入ったのかな?」

 ほっそりとした体つきの青年が覗き込んだ。最初は老人かと思った。それは彼の髪が真っ白だったためだった。虹色の瞳が印象深かった。この人物は人間ではない、精霊のひとりだと直感で思った。彼は微笑みをたたえていた。

「すっかりおびえきってしまっているね。大丈夫だよ。私はデルフィーニオ。君の名前は? どこから来たのかな?」

彼は顎に手を当てて、観察するような視線を投げかけた。言葉が大陸のものではなく、クレタ島のものだったので、私はほっとして答えた。

「ぼくはミヌテ。ティリから来たミヌテ。でも迷っちゃったから……ごめんなさい」

デルフィーニオと名乗った人物は目を輝かせた。

「そうか、線文字を二種類持つ島の少年か。私は昨日、君たちの新しい宮殿まで買い付けに行っていた。クレタ島周辺の衣服はとても美しい。ティリもまた壁画が良い。会えて嬉しいよ」

背を向けた彼にはトンボのような羽根があった。朝日で光り、ちらちらと粉を落としていた。

私は両親から聞かされた物語を思い出して怖かった。荷車まで震えそうな様子に気が付いたのだろう、デルフィーニオが声をかけた。

「ミヌテ。帰りたい?」

「精霊はわるい運命へ誘うっていう。船を沈めたり、崖に落ちるよう声をかけてくる。あなたは帰してくれるの?」

デルフィーニオは声をたてて笑って言った。私はあっけにとられた。

「君たちの島の精霊は野蛮だね。なんにも得が無いのにニンゲンを攫うものか。それより帰してあげよう。今から荷車を浮かばせるからしっかり掴まっておいで」

彼はぽっと光を指に宿した。まじないをかけるつもりだ。私は咄嗟に話しかけた。好奇心を抑えきれなかった。本当の精霊に会うことができるなんて! それも優しい。

「待って、ぼく帰りたいって言ってない。ここはどこ? 新しい場所、こんなに深い森、初めてだもん。もっと探検したい!」

「両親が心配しているだろう。このままでは私が人攫いのわるい精霊になってしまう」

 デルフィーニオが眉根を寄せたので、あわてて付け加えた。

「文字はどう? 文字を教えてあげる! 二種類とも、粘土板にあなたの名前を書くよ。ほら、見て!」

 私は腰にはさんでいた粘土板に、文字を書いてみせた。

「まだ小さいのにたいしたものだ。そうか、精霊に興味があるのか。私も線文字とやらを知りたい。では招待しよう、我々の聖なる泉へ」

 彼は道中、精霊とは何なのかを教えてくれた。デルフィーニオたちは自称をクラといい、はるか南から長い旅を経て、ここロードス島へ渡ってきたという。彼らにとってロードス島より西は未踏の世界だった。つまり精霊にもいろいろあり、クラは新参者だった。

彼も私同様、好奇心旺盛らしく、新しい文化が気になってやまないようだった。浮かぶ荷車から文字をひとつひとつ書いて見せ、デルフィーニオが光で同じ文字を宙に書く、楽しい道のりだった。夕暮れと共に光る文字は一層幻想的になっていった。

 夜が更けるにつれて、どんどん森林の奥深くへ入っていった。澄んだ川の流れる先に、星空を鏡のように映した泉があった。荷車が地面につくと、わっと頭上で歓声があがった。木々から色とりどりの光が舞い降りてきた。

「おかえり、おかえりデルフィーニオ」

「やあ、ただいまみんな! 遅くなってすまない。これが地中海のニンゲンの文明だよ」

彼ら、彼女らはそろって蝶のような羽根を持ち、きらびやかに光らせて飛んでいた。子供から大人まで、デルフィーニオの積荷に興味津々だった。次々と衣服を手に取り、肩に合わせてみたり、背中の部分を割いて着てみたりした。私が怖がって隠れているのを精霊のひとりが見つけた。ぴりり、ぴりりと羽根をこすらせて音をたてた。警告音だと感じた。デルフィーニオが私の頭をなでて、大勢の精霊たちの前に立たせた。

「紹介が遅れたね。この子は、西の一番大きな島出身のニンゲンだ。さあ文字を書いてごらん」

「は、はい」

私は粘土板に文字を書いた。精霊たちの羽根が仄明るく手元を照らしていたので、なんとか書くことができた。しかし精霊たちは理解できないようで首をかしげた。そこでデルフィーニオが光の文字を空へ描いた。粘土板どおり、「こんばんは。よろしく」と。

「これが線文字だ。これまで出会ってきた絵文字とは違う。音を簡単な記号にしているんだよ」

大陸の言葉でざわめきが聞こえた。

「面白い!」

「この子の言葉なのね」

「形が闇に映えてきれい」

「線が意味を持つなんて」

 デルフィーニオがこの集団の長のようで、掌をあげて興奮を静めた。

「文字を覚えれば暗記の必要がなくなる。外部の精霊とも、人間とも交流が容易に出来る。具体的には取引の証明になるので、物々交換がたやすくなるだろう。たとえば我々の縫った魔法の衣服と、ニンゲンの楽器。文字は便利なものだ。この子からぜひ教わってほしい」

その精霊たちは開放的な性格で、子供たちから順に文字を教わりに来た。大人たちは果物とワインを用意してくれた。長旅で疲れ、腹がすいていた私には涙が出るほどありがたかった。ある精霊が泉の水を霧に変えて、羽根の光を振りあてて虹を作った。またある精霊が透明な声で歌を歌った。よほど人間が好きなのだろう、大陸の香りのする音楽だった。私は思ってもみない温かな歓待にうっとりと心を奪われながら、子供たちへ文字を教えるという喜びに浸っていた。そしてカレンデュラという女性の膝で穏やかな眠りについた。

目を覚ますと、木の葉で作られた小屋の中にいた。まだ夢見心地で座っていると、扉が開いてカレンデュラが顔を出した。昨夜は母ほどの年齢かと思っていたが、まだ十代半ばに満たない少女だった。黄色い羽根をぱたぱたさせて、私の手を握った。どうやら表へ出ようと言いたいらしかった。私がつたない大陸の言葉で「昨日はありがとう」と言うと、嬉しそうに「どうも。文字はおもしろいね」と返してくれた。

カレンデュラはさっそくデルフィーニオから流行を取り入れたらしく、クレタ島の化粧、髪形と衣服が良く似合っていた。彼女は私を抱き上げて空を飛んだり、泉の周りを案内したり、衣食住の面倒を看てくれた。そして、一つの難問を抱えていた。この地域に元から住まう精霊や人間とクラたちが、どう友好に暮らすかについて考える役目を担っていた。少女が集団をまとめる姿は私にとって非常に珍しかった。

ある会合でぶどうをつまんでいたとき、カレンデュラがじっと私を見つめていた。何やら人目をはばからず食べていたことが恥ずかしくなって、私は俯いた。カレンデュラは「あなた、大陸の絵文字もできる?」と問いかけた。

「うん、少しだけなら……」

「ぶどうって、大陸とクレタ島の、両方の言葉で並べて書いて見せて」

私は言われた通り、並べて書いた。

「これだ!」

カレンデュラは、探し物を見つけたように明るい表情で言った。そして周囲にひとを集めた。

「聞いて! 人間の街はまだ難しいけれど、精霊となら仲良くできるかもしれない。大陸も、エーゲ海も。これを見て。同じ意味をそれぞれの文字で併記すれば、言葉が話せなくても意味が通じる。今度盛大な宴を執り行いましょう。お誘いの粘土板を送るの。ちょうど、蝶たちの集まる季節だもの。あの者たちは私たちのことをよく知らない。私たちもあの者たちのことをよく知らない。でも、これなら意思疎通ができる! 文字さえあれば、どこの異文化とも繋がることができる!」

何日か一緒に過ごすうち、精霊クラたちは文字を覚えきってしまっていた。さっそくカレンデュラの言う通り大勢が封書をしたためて、粘土板を熱して乾かし、配りに飛び立った。ロードス島、クレタ島、さらに西のアルカディアまで旅に出た。彼ら、彼女らの羽根は速く、三日ほどで戻ってきた。

「快諾の知らせが多くてよかった! それにしても、西の精霊は女性が主流というのは不思議! あるじも女性で、月を司る純潔の狩人なのね。ぜひ会ってみたい」

 カレンデュラは私へお礼を言ってくれた。彼女のきらきらとした笑顔がとても嬉しかった。


 いよいよロードス島へ各地の精霊が集まる夜になった。カレンデュラはその泉に群生するジティアという木に祈りを捧げた。そして刀で傷をつけ、流れ出した樹液を体へ塗った。泉全体にりんごのような甘い香りが広がった。そのまま満月の夜空へ高く舞い上がり、「蝶よ、飛べ、飛べ」と唱えた。

ジティアの木にしがみついていた蝶たちは、一羽、また一羽と、泉の真ん中を目指してひらめき始めた。次第に数が増え、森中の蝶たちがはばたいた。満月の女神に知らせでもするかのように、カレンデュラは光で蝶を操り文字を形づくった。その光景はちょっと恐ろしくて、私はデルフィーニオの腰布を掴んで泣いてしまった。

「ご覧、精霊たちが友人を求めて訪れる」

背中をさすられて顔を上げると、豊満なニンフが森から現れた。また、翼をはやした牛がばっさばっさと降りたった。鷹の頭をした人型の者も藪を掻き分けてきて、様々な精霊と呼ばれる生き物が二十名ほどだろうか、文字を合図に集まってきた。

カレンデュラが蝶を泉すれすれに飛ばせて元の樹木へ戻し、来訪者のもとへ向かった。粘土板を持ち合い、文字を使って会話をしていた。私は大きな貢献ができた思いで一杯だった。ところが、明らかに妙なまなざしをカレンデュラへ向けている老爺がいた。たくましい腕が何本も生えている一つ目の巨人だった。剣呑なまなざしで眺めて、嫌な感じだった。

その夜の宴は厳かに行われた。内容は分からなかったが、出されるワインの量が多かったことを覚えている。


そして朝、カレンデュラがデルフィーニオにしがみつき、くずおれるところを見た。

「間違っていた。私はなんて愚かだったのだろう。なんて無知だったのだろう。友好なんてありえない!」

そう悲痛な声をあげて羽根を震わせた。

私は彼女へ好意を人並み以上に抱いていたので、何事が起ったのか必死で尋ねた。

すると彼女は、両手で覆った顔をはっとあげた。

「全部終わらせなくては。こんな忌まわしい体、疎ましい穢れ。なにもかもが嫌だ。私は堕ちたのだ。羽根をむしられる思いがする。

それなのに、こんな苦しみを奴は知らない。臭う私を知らない。なんて罪悪だ」

私は青ざめた彼女が、とてつもなく変わってしまった気がして、不安になってその手をとった。びくりと振払われてしまった。しかし彼女は私だとみとめると、赤くなった目をこすり、無理に笑って見せた。

「ミヌテ、あなたは知らなくていいの。眠っていなさい。ニンゲンのもとへ帰してあげる」

「そんな! ぼく、カレンデュラのことが大好きだから、困っているなら話して、お願い」

彼女は悲しそうに虹色の瞳をうるませた。

「もう一緒にはいられない。私はあなたも文字も、あらゆるものを憎む」

諦観に満ちた響きだった。一体どうした変化だろうか。私は愕然として項垂れた。

デルフィーニオは、彼女のなにがしかの行動を止めたいようだった。

「君の気持ちは痛いほどわかる。しかしやり過ぎだ。無関係な者を巻き込むつもりか」

カレンデュラは噛み付くような顔で振り返った。

「あれが生命の営みと言うなら、生き物など全部死んだほうがましだ!」

デルフィーニオにさえぎる暇を与えない剣幕だった。そんな語気と裏腹に、カレンデュラは私の額を優しく小突いた。そのためか、私は気を失った。最後に見えたのは、彼女が羽根の光を荒々しく振りまきながら、飛び去る後ろ姿だけだった。

「思い知らせてやる! 無知な蛮族め! 命などくそくらえだ!」


男のけたたましい声がして、たたき起こされた。

気が付いた場所は波打ち際で、大陸の言葉が行きかっていた。私は混乱しつつ起き上がり、一体ここはどこなのか尋ねて回った。なんとヒッタイトの友好国だった。カレンデュラとデルフィーニオは、私を故郷ティリへ帰してくれなかったのか? なぜ? 疑問はすぐに解けた。

ひと季節前、ティリのあるカリステー島が大噴火を起こした。ティリは焼け落ち、地鳴りとともに海に沈んだ。あとに残ったのは、ぽっかりと真ん中を空けた山の残骸だけ。

世界で最も美しいと讃えられた島のなれの果てを聞いてぞっとした。

大陸沿岸を含む、周辺の島々は灰と大津波で甚大な被害を受けた。クレタ島も壊滅した。噴火を機に飢餓が訪れたらしく、栄華を誇ったエーゲ海の文明が終焉を迎える気配がした。精霊クラたちは滅びから私を逃れさせたのだった。

成人後、独りでロードス島を訪れたことがある。焼け野原となった森林は見る影もなかった。泉だけがこんこんと湧き、流れていた。

時折、今でもこんな夢を見る。怒りに燃えたカレンデュラが、おびただしい蝶の群れを指揮し、カリステーの火山へ飛び込ませる。その唇から死の呪いを吐き、獰猛な獅子のように叫びをあげ、そして自身も燃え上がりながら……。大爆発、岩雪崩、火の雨が街々を襲う。ティリで両親は家屋につぶされ、王も息絶え、大津波が島々を蹂躙する。私は脂汗をかきながら飛び起きる。

カリステーの大噴火はエジプトにまで影響を及ぼすほどだったようだ。エーゲ海では巨人族と神々が戦ったという逸話が作られたが、私はカレンデュラが引き起こしたのではないかと思う。あの麗しい純粋な乙女に襲い掛かった不幸はなんだったのか、推測しかできない。私にとって彼女こそ月の女神だった。

それ以降、私はロードス島の泉を「蝶々の谷」と呼ぶことにしている。まだ生きているかもしれない彼女への符丁になれば良いと考えて。宴の夜、蝶を操って見せてくれた文字のように。

さあ、これが泉の秘密だ。信じられないかい。仕方のない話だ。君たちはアカイオイ、新しい民族だから。しかし噴火が起こったことは事実だ。火災から年月を経て、ようやく森と呼べるまでになってきた。滅んだ精霊、滅んだ王国の代わりに、君たちの作る新たな時代がやってくるのだろう。果たして、ロードス島に蝶は戻ってくるのだろうか……。


デルフィーニオはヒッタイトを越え、アララト山の裾野を訪れた。ひどくけがを負ったため、足をひきずりながら傾斜を登った。羽根の光がかすかになり、もう飛ぶ力さえなかった。

クラの集団は二つに分かれていた。デルフィーニオと共に行った集団と、彼の兄のもとにある閉鎖的な集団と。喧嘩別れだったので、兄へ助けを請いに行くことは複雑な心境だった。それでも、もう独りになった彼にとって頼れるものは他になかった。

「災難だったな、デルフィーニオ。文字など私の村ではとっくの昔に禁忌としたのに」

デルフィーニオは治療のまじないをかけてもらいながら、首を横に振った。

「まだあきらめない」

兄は厳しく諫めたが、デルフィーニオは羽根が治りきると、すぐに旅の準備をした。

「カレンデュラを止めることができなかったのは私の責任だ。外の世界を信じぬきたい。 彼女の見ることのできなかった明るい世界を見つめたいんだ。今度は復興の手助けに行く。アララト山には留まらない」

兄はため息をつき、鈴の沢山ついた杖をふるった。

「性別など、クラには無いも同然なのに参った惨事だ。一つの学びとしよう。

困ったときにいつでも来ると良い。この先、なおも苦難が満ちていよう。私はエーゲ海にいた者たちへ、鎮魂の歌を歌うことしかできない。

外の世界を夢見て、行動できるお前が少し羨ましい」

オリエントの夜空を消えない流星が西へ流れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星の子の歌 生きてる @assam1983

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ