第3話 幻燈花

二百年前、天山山脈の南麓、シルクロードのオアシス、クチャで採譜された話。

その精霊は、古代よりクチャで暮らしてきた。吐蕃(とばん)のやってくる以前から。

ここは過ごしやすい、と彼は言った。

人々は朗らかで、よく歌い、舞う。市場には陽気な声があふれ、東西の貴重な交易品が集まる。いつも、ブドウの木陰で楽しげな声が聞こえる。古くより全く変わらない、長い形をした弦楽器。太鼓の音。のどやかな歌声。仏の教えがこの地へ来ても、イスラームが浸透しても、この光景は変わらない。

ただ、命短き者たちと、私は交流するつもりはない。常に見守るだけだ。延々と、終わることなく、賑やかなクチャを。私たちクラにはできない笑顔と、活気がここにはある。

彼は、塩水の渓谷まで歩きながら、話をした。干上がり真っ白な大地となった渓谷は、彼の故郷と似ているという。

私はリーリオン。今から九千年前に生まれた。長老から伝え聞いた話によると私たちクラは、初めはごくごく小さな集団だったらしい。クラというのは、もともとエチオピアの奥地に暮らす種族だった。人間が人間となる、ずっと以前から存在した。多くの昆虫、鳥類、爬虫類、哺乳類、霊長類とともに生きてきた。

ある時大地が割れ、大きな裂け目と高地ができた。その時から、谷に住むものと崖の上で住むものと、違いがうまれた。昆虫も、爬虫類も、哺乳類も、霊長類も変化した。人間は二つの足で歩き、手を使い始めた。葬送儀礼を行い、岩絵を描き、言葉を話すようになった。私たちクラもそれに続いた。人間との違いは羽根を持つことと、長命であることぐらいだ。

何……そういう生き方をしたものだけが、環境に適応して残っただけのことだ。短命で死ぬクラは大勢いた。悲しいことだ。死ねばその後、何もないのだから。

私たちは、世界を飛んだ。綺麗な水と、大気と、豊かな森と、土がなければ死んでしまうからだ。

あなたは、クラと人間との関係について知りたがっているね。私が見てきた限り、この九千年のあいだ、クラと人間は仲良く過ごす時もあった。しかし、 私たちは感情というものが希薄なため、目先の平穏を望んでしまう性質がある。人間には何度も裏切られ、アルフヘイムの霧をかけ、何度も霧をとき、また裏切られることを繰り返した。

人間はいつしか大きな都市を建造し、レバノン杉を伐採し始めた。動物を飼育して、そのために不毛な土地を増やした。私たちクラが人間と仲の良かった時代に、分け与えた麦の穂を、広く栽培し、新たな生態系を築いた。隕鉄を用いた火打ち石も、血を流す武器に変えた。ぶどうから酒を作り、聖なる果実から混沌の果実へと変えた。人間の神の名の元に私たちは殺され、さらに辺境へ追いやられた……。

五千年前、現在のイランの南西部、ペルシアの海岸でついに人間と離れた。決定的な出来事が起こったためだ。それ以来、人間と接触することは禁忌とされた。

これから、もとアルフヘイムだった土地へ行かねばならない。なぜなら、私にとって特別な月だから。あなたとは、会うことはもうないかもしれない。人間の友人よ。またいつか、神々が望むのなら。

「待って、なぜ行かなければならないのか。今月はどういう月なのか。

君たちのことを書き留めることで、私は悲劇を繰り返したくない。機械文明が発達し、水と大気が汚染され、戦争は絶え間なくおこり、人口の増える世界に、君たちの存在をはっきりと伝えたいんだ」

私の仲間が、これを残した。大切に、最期まで抱きかかえていた。タールというのだそうだ。私は知っていた。あの子が密かに人間と会っていることを。しかし見に行ったところ、悪意を感じない人間だったので、私は何も言わなかった。あの子は、人間と接することで感情を持った。私たちには希薄なそれを。そして、生きる目的という明確な意志を持った。短命に終わったのは、そういうことだ。自然の力を受けることができなくなる。無垢でなくなるということは、命を縮めるということだ。それでも構わないとあの子は言った。

「今日はその子の命日?」

いや……私自身に関係のある、個人的な日だ。もう少しここで話をしようか。近くに修行僧のための岩窟がある。もとは、美しい天井画が描かれていた。今は見る影もない……。人間は面白い生き物だ。いつか砂に埋もれるというのに、永遠を願って物を作りたがるのだから。

精霊は懐から何かを取り出した。人間には見えない花だと言った。ふっと火を消すような素振りをした。不思議なことに、暗い洞穴は赤々と光りはじめた。そして、仄かに動く絵が現れた。いや、無から生き物を生み出した。二人の精霊がじゃれ合う姿。金の羽根の子供が花冠を差し出し、銀の羽根の子供がそれを頭に乗せた。恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。その二人は幻だと精霊は言った。

「この花は……ほら、影なら見えるだろう。記憶をたたえる花だ。そして幻覚をうつす。花が身に危険を感じた時の、防衛手段なのだろう。例えば、摘まれようとしたり、強風に煽られたり。そんなときに、この花は光を灯す。さらに、枯れることがない。どこかの精霊が作った魔法の花のようだから。このたった一輪が、私の一番幸せだった頃を覚えている……」

精霊は、ずっと遠くを見るような目で語り始めた。

はるかな昔、あなたが産まれるよりも、うんと前。私は、巫女を手伝う役目についていた。クラにもそうした役割分担がある。成人すると、それを与えられる。死んだものの後を継いだり、新しい役目を作り出したり……。私は成人したばかりのときに、巫女の儀式をたすけ、また日頃の遊び相手をする役目を得た。成人といっても、クラとしてはまだ子供だった。

あなたは若いので、今を必死に生きている。輝くように一瞬で散っていったクラたちも、あなたのような眼をしていた。私はそれが、羨ましい。

五千年、そう……長い月日だ。私は文明の夜明けとともに喪に服した。さあ、話をしよう。産業革命の国から憧れを抱いてやってきた、命短きあなたへ。


現在のイラン南西部でのこと。きらきらとした、小さな銀色の竜が、ヴァシュリの木の間を行ったり来たりしていた。セーラスはヴァシュリの枝へ手を触れた。蕾に光を与えて、花開かせた。

「良い香り……今年も竜がよい実りをもたらしてくれる」

「巫女様、竜が噛むので近づいちゃいけません」

私、リーリオンはまだほんの幼いクラだった。巫女セーラスの黄金の羽根を、いつも追いかけていた。

「あなたの羽根も、珍しい竜の色。だから私のお手伝いに選ばれたのかな」

「でも……私は噛みついたりしません!」

セーラスは笑いながら、また森の奥へ飛んでいった。

「来て、聖なる湖へ行きましょう」

そこはニンゲンの住居と接近したので、あまり行くことを勧められていない場所だった。私は慌てて追いかけた。さらさらと流れる水音。鏡のように静かで、透明な湖。私たちが生まれた頃は、ここで儀式を行っていた。今ではクラ全員に忌避されている。私とセーラスだけが、足繁く通っていた。

永遠に続くかのようなこの流れは、じつは数千年かけて変化するものだ。今はニンゲンの村へ流れている。流れの変わったことで、この地には涸れた川(ワジ)がいくつもある。そこは谷となり、塔のように高い岩山が残された。カッパドキアなどがそうだ。ニンゲンはそれを神の造形と呼んだが、私たちは雨や川によって削られた自然の業であることを経験から知っていた。地形が突然隆起して、石灰の砂漠となるのもこの目で見た。そして、そこに新たな生命が暮らし始める様子も。世界は変化する。海の領域は増減を繰り返す。この湖も、川の流れが注ぎこむ、いっときのものでしかなかった。

それでも、私たちは聖なる場所と呼び近くの森に住んでいた。自然を崇拝し、畏敬の念を抱いていた。あなたがたの言葉を借りるなら、地球へおそれを持っていた。この世は私たちの存在をこえて、はるかに雄大で、決してかなわない。私たちの目はとても小さくて、全てを、そう全てを……見きれない。繰り返される地形の変化の謎。生物が発生する由来。あまりにも美しい生態系、水の波紋の完全さを私たちは再現できない。

長命だというのに、物理科学や法則を知らなかった。ただ、私たちは肌で地球を愛していた。天にそびえる高峰。夏でも雪をいただく険しい山々。その断崖の麓にある、塩のない貴重な湖……。

私が逆さに映る山々を、うっとりと眺めている時だった。セーラスが水をすくい、腕にあて始めた。先日、怪我をした部分だった。私は従者として、急いで、水をぬぐうための綺麗な布を取り出した。

「もう少し、こうさせて」

セーラスは腕をすっかり水面に浸した。

「巫女様、もうニンゲンに近づいたりしないですよね……?」

私は不安で胸が張り裂けそうだった。この怪我は、ニンゲンの子供に傷つけられたものだ。今朝、興味本位でニンゲンの村へ近づいた。石を当てられて、木から落ちてしまった。あのひどい剣幕で吠える声が忘れられない。ニンゲンは大きく野太い音を出す生き物だ。子供だって、残酷にも虫や動物を平気で殺す。私はそんなニンゲンの本性を知らずにいた自分が不甲斐なくて、無性に悲しくて、もうずっとセーラスの側を離れないと神々に誓っていた。

「大丈夫、いいの。いつも気にしてくれてありがとう、リーリオン」

「巫女様、よくありません! だって、ニンゲンは悪い生き物です。大事な巫女様が傷つけられて、ぼくは悔しい」

「巫女様なんてやめて、リーリオンお願い。私も悪かったの。驚かせてしまったから。あのニンゲンたちは、いじめられて育った狼と同じ。知らないものを見て怖がっていた……」

私は臆病な狼の子供を、二人で育てて野に返したことを思い出した。上目遣いで、手をのばすと噛みつこうとした。私たちの姿がニンゲンに似ていたためだった。でも、私たちとニンゲンは絶対に違う。あんなふうに怒鳴ることも、むやみに生き物を傷つけることもしない……。

生き物は全て友達だ。鳥は言葉を学ぶ相手。鹿やヤギからは踊りを教わる。雪山をふきおろす風の音、それを真似て歌う。木のつるを張った楽器で調子を取り、厳かに神々への畏敬をこめて日々の糧となる果実を大切に食べる。大人たちは生へ感謝を、子供たちは自然と遊ぶことを中心に暮らす。それがクラの生活だ。狩りや農耕をして、大地の恵みを奪う人間と比べて、なんて清らかなことか。

私たち二人はまだ、成人の儀礼を終えて間もないので、気持ちの切り替えができないでいた。周りからの扱いの変化に困っていた。そうした微妙な年齢と精神をもつクラはよくあることなので、数十年間は見習いのような、太陽の昇っている間は子供、星の流れる間は大人という風に分かれて過ごす。子供たちからは、未知の大人の世界へ片足を突っ込んだ、年長さんとしてちょっと尊敬される。ずっと一緒にふざけ合った仲間たちなのに、こそばゆかった。

「……巫女様、しばらく、アルフヘイムで過ごしましょう。冒険をやめて」

「ふふ、だからね、リーリオン。巫女様なんてよしてよ。前みたいに名前で呼んで。そうだね……この傷が早く治ると良いけれど」

クラの傷は、治癒にしばらく時間がかかる。死なない代わりに、長く苦しむ。致命的な病こそかからないが、熱を出す。私は化膿止めのノコギリソウを布に包んだ。そしてセーラスと一緒に、湖へ両腕を浸した。ノコギリソウ入りの布をセーラスの傷口にあてがった。その光景は、見ているひとがいるならば、まるできょうだいのようにうつっただろう。

確かに私はセーラスと同時に生まれた。けれど、生まれる木が違っていたので、きょうだいではない。人間でいう、双子……の方が近いかもしれない。

クラの名前は羽根の色から付けられる。セーラスは虹、私リーリオンはユリの花。顔だけでなく音韻まで似ていたので、みんなからよく間違えられた。「どっちがどっち? まあいっか、いつも一緒だもんね」と。

やがて、巫女と側仕えという関係になった。セーラスは私ほど主従にこだわっていなかった。微笑んで、片手で水をぴしゃぴしゃとかけてきた。私も一緒に遊ぶ気持ちになって、セーラスへ水をぱしゃぱしゃあびせた。いつしか二人で湖にザブンと入って、水中でふざけあった。まだそんな年ごろだった。


すっかり日が暮れて、ずぶ濡れで帰った。そんな私たちを、当時の祭祀長はこってり叱った。

「またニンゲンの世界へ行ったのか」

「いいえ、巫女様も私も決して!」

祭祀長は疑り深かった。そのため、明日は一日、穢れを落とすための家で過ごすように言われた。服を乾かす間、二人で秘密の地図を広げた。きっと歴代のクラは誰も行っていない、驚くべきことだろう。大人たちはことさらに、ニンゲンの文明を忌避するから。

これは二人で冒険のたびに書き記してきた、湖、山、川、大きな木、精霊のいる地、ニンゲンの暮らす村の位置だ。方角と距離も書いてある。文字はニンゲンの村を観察して、こっそり粘土板を拝借して、見様見真似で覚えたものだった。絵文字だったので、表記するのは簡単だった。これで迷わずどこにだって行ける。だけど、まだ行っていない場所がある。

セーラスがパピルスの棒をおさえつつ、指差した。

「今朝見つけたニンゲンの村は、飛んで半日のところ、太陽の沈む方角だったね、リーリオン」

私はこのあたりだったはず、とあたりをつけた。それから、ザクロの汁でバツ印をつけた。

「近いのに、ニンゲンが大勢いるから、その向こうに何があるのかまだ分からないんだね」

地図は西を避けて、北と東を中心に埋められていた。

これはセーラスが始めたことだった。私は最初、冒険なんて危ないと反対していた。しかし、ついてまわるうちに、私も徐々に興味を持ち始めた。二人の秘密の地図作り。禁断の文字。セーラスは祭祀たちから聞いて学ぶのか、祭りのあとはしきりに私へ、外の世界を語って聞かせた。セーラスに触発されて、私もいつか、クラの祖先が歩んできた場所、ふるさとと言われる場所を見てみたくなった。

何よりも……クラは子供ほど好奇心旺盛だが、大人になるにつれて感情が希薄になってゆく。それがとても嫌だった。今しかないこの胸のときめきを、失いたくなかった。凄い魔法が使えるようになったって、嬉しくもなんとも感じないみたい。大人なんて、つまんない。長命だから、もっと沢山冒険できるはずだ。セーラスと、この世の全てを見てみたい。ずっと一緒にどこまでも突き進むんだ。

ただ、村がそれを許してくれなかった。西へは行ってはならない。山を超えてはならない。私たちは村の掟の理由を知らなかった……誰が決めた掟なのだろうか。

一晩中、二人で地図の外の世界のことを語り明かして、眠りについた。


その日の夜、奇妙な夢を見た。海原に黒い島があって、そこから煙がもくもくと湧き上がる。山の噴火のように、煙が地面に沿って流れてくる。どうどうと海を超えて、私たちの村まで。ニンゲンの村はとうに煙に包まれ、生きとし生ける者、みんな石に成り果てた。

私はセーラスを探し回った。この宝石を手にしていれば、石にならずに済む。途中でクラの大人たちが、子供たちが、次々に苦しみながら石になるのを見た。とても恐ろしかった。やっとセーラスを見つけたが、山の方角、西の島へ行かねばならないと言ってきかなかった。

「どうして?」

「あの島に、煙の根本があるから」

「稲妻が走り、強大な唸り声がとどろくあの黒い島に?」

クラの有志たちが用意した小舟へ、セーラスが飛び乗った。私も一緒に行かなくては。従者だから! 船は荒れる波にもまれて転覆した。海では巨大なクジラが襲いかかろうとしていた。エウレシウスが従えるお化けクジラだ。私たちは神の怒りに触れたんだ。

必死でセーラスの腕を引いて、私は泳いだ。羽根が重くなって、動きにくかった。かろうじて二人、黒い浜辺へ流れついた。私はやっと、セーラスの腕が膿んでいることに気が付いた。塩水でさぞかし痛かったろう。

しかし、セーラスは立ち上がった。腕を抑えてよろめきながら、時にくずおれて膝をつきながら、島の神殿へ向かおうとする。そして、私一人だけ帰るように言った。

「だめだよ。こんな、何もない黒々とした大地に巫女様ひとり置いてゆくなんて。

せめて、この宝石だけでも身に着けて。ぼくは石になってもいいから」

セーラスは微笑んで、受け取ってくれなかった。そして羽根をはばたかせて、私の視界を黄金に染めた。

目が覚めた時、涙が頬をつたっていた。


起き上がって窓の外を見た。まだ夜更けだった。天の白き川が、北から南へ垂直に流れていた。

セーラスも目を覚まして隣へ来た。私は、今見た信じられない夢の話を打ち明けた。

「私も同じ夢を見た、怖かった……」

セーラスがそう言って、私は心底安心した。

「正夢にならないと良いね……」

私たちは、いても立ってもいられなかった。地図を広げて、あの黒い島がどこにあったのかを書くことにした。薄れてゆく記憶を頼りに。ニンゲンの村がまず灰に呑み込まれた。島は西の果ての、地図にのっていない、さらに向こうだ。

「西の果ての果てには、砂漠があるって祭祀長が仰っていた」

私はセーラスの言葉を聞いて振り仰いだ。

「きっとそこだ」

セーラスもまた顔を上げて、私へじっと虹色の瞳を向けて言った。

「クラの生まれ故郷なんだって」

私は胸が高鳴った。これは、神々のお告げじゃないだろうか。冒険に行けと。西は今、大熊が沈む方角なんだ。反対に、東からエウレシウスの星が昇る。西に何があるのか? 神は見えているのか? 私たちは夜明けまで話し合った。竜の尾を中心に回転する空には、星が沢山降り注いでいた。

次の日、私たちは黒い島へ旅立つことにした。夢を信じて。村のクラたちには告げず、こっそりと。長い行程になるので、干した果物を沢山荷物に詰めた。セーラスのまだ痛む腕のために、薬草もいっぱい摘んだ。ニンゲンの村を迂回したいけれど、そこは峡谷の真ん中にあった。断崖をクラの羽根で登ることはできない。だから、隠れて進むことにした。今まで行ったどの谷よりも、ドキドキした。

西の果の黒い島へ行って何をするのか? とにかく行って、確かめたかった。そしてできるなら、夢で起こった悲劇を止めたいと思った。


渓谷の村は、国の中でも特に辺境だった。男は村の財政状況を調べるため、王から遣わされた。穀物の貯蔵は、冬を越すだけあるのか。今年初めて開けられたワイン壺は、どんな出来か。稀な石、カーネリアンを輸出してもらえるのか。細かな数を粘土板へ書き記す。

翌月には、偉大な川がそそぎこむ湾を渡り、やっと賑わいのある都市へ寄れる。山の国ハルタムティを離れて、愛する楽園グ・エディン・ナへ行くんだ。神殿も、豊富な食事もそこにある。たいらで、起伏が少なく、川が緩やかに流れる土地。

もちろん、ハルタミの都市も大きなものだ。しかし、異国であることは変わりない。ハルタミの言葉を覚えはしたが、母国の方が良い。

彼は周辺国との仲を保つ仕事をしていた。ハルタムティと我が国は良い関係にある。しかし、ごく近い国との緊張は常に続き、それがために王は彼を走らせた。私的な商人ではなく、御用付きの外交官を求めた。結論を言えば、戦争の気配がした。王は既に予想していた。いつか必ずその時が来ると、国中の者が分かっていた。今度は簡単に終わりそうにない、と。

我がウンマは河の上流にあり、古くより肥沃な大地、グ・エディン・ナをめぐって、川下のラガシュと抗争を繰り広げていた……。

男が物思いに耽っていた、夕方のことだった。太陽が沈み、満月が昇ろうとしている。星々を導く星、イ・ク・ウが昇る季節。さそりの神とマルドゥクの星がきらめきを増すだろう。風が山の冷気を運んだ。川を波立たせ、男の足元へ打ち付ける。もうこの土地ともおさらばだ。親しくなった人々との別れは、名残惜しくない。仕事に過ぎないのだから。

がさり、と背後で物音がした。男は不意をつかれてびっくりした。振り向くと、茂みに何かいるのが分かった。大型で、複数の何か。狼だろうか? それにしては……虫の声のような、木の葉擦れに似た音が絶え間なく聞こえる。これは何だろうか?

「私たち、怖くない。あなた、怖くない」

子供の声がした。言葉はなんと、シュメール語だ。なぜこの地に、子供の同胞がいるのか? かたことなのも不思議だ。男はそっと近づき、地に膝をつけた。

「出ておいで、何もしない」

「私たち、ちょっとあなたと違う。いいか」

何だろう、村の子供が道に迷ったのだろうか? 確かに、村の外れの小川ではある。

「大丈夫だよ、村への道を知ってる」

「いけない、むら、いけない」

声はずっと同じ子が話している。もう一人は暗闇ですすり泣いている。

どうしてなのだろう? さっき、どさりと音がした。木から落ちた拍子に怪我をしたのか。

「ここに、綺麗な川と、薬草がある。さあ、おいで!」

少し待って、子供たちが姿を現した。男は最初、目にホコリが入ったのかと思った。こすりながら、小川へ案内した。自分も目を洗おう。子供たちが光っているように見える。

すすり泣いている子の腕は、真っ赤に腫れていた。顔色も悪いように見える。二人共、地肌が白いのではっきりと分からない。しかし片方は確かに顔を伏せ、肩に担がれていた。

「ほら、雪解け水の川だ。とても冷たくて綺麗だ」

容態の悪い子を支えるもう一人の子が、銀の羽根を震わせて、こちらを見上げた。見たことのない、なんとも言えない色彩の目だった。

「ありがとう、友達」

銀の羽根の子は、金の羽根の子をゆっくりとおろして、腫れた腕を水に浸させた。金の羽根の子は肩で息をしている。

「今落ちて怪我をしたのかい?」

「違う……」

男にはどこか悲しそうに見えた。声の主は眉一つ動かさない。しかし必死なことは声音で伝わった。その子はもう一人の子に寄り添い、祈るように俯いた。男は目をゆすいでも羽根が消えないので、怪訝に思った。まさか村人に伝え聞く、山の精霊だというのか?

男は手持ちの薬草をとりだして、そっと差し出した。銀の羽根の子は、こちらを向いて、薬草を見て、また見上げ、用心深く手を伸ばした。

二人共、白金の髪を細かに編み込み、北方の衣服をまとっている。実に不思議だ。存在そのものが異質だ。神を疑ったことはない。人間の頭と牛の身体、そして翼を持つ偉大な姿。しかし、目の前の二人はどうだろう。まるで、東方の異教の神だ。ラピスラズリの国の、天を舞い、音楽を鳴らす仙人のようだ。

二人は冷たい水面で、ずっと寄り添い合っていた。時間がかかりそうなので、男はこのことを記録することにした。ちょっとした手土産になるかと思った。珍しい物語を王は喜ぶだろう。いやそれとも、戦が始まろうとしているこんな時に、異教をもたらすとは、神殿の権威を揺るがす行為だと叱責されるだろうか。それにしても、仲睦まじい二人だった。

水に腕を浸して目を閉じていた子が、やっと身じろぎした。起き上がり、こちらを振り向いた。夜目でも分かる、虹色の瞳だ。羽根を震わせて、二人は囁くように会話した。そして二人揃って男を見上げた。

「ありがとう、命短かき者。私たちはお礼がしたい」

彼は少し戸惑った。この子たちの澄んだ声と瞳。自分がこれから何をしようとしているのか、全く知らない。

「いや、早く帰った方がいい。ここはいずれ、戦場になる」

子供たちは顔を見合わせた。

「アルフヘイム、うしなう?」

男は急に素直になりたい思いにかられた。

「君たちの暮らしている場所は、焼き尽くされる」

「なぜ?」

純粋な質問だった。紺碧の夜空に満月が輝いていた。その足元から、もうイ・ク・ウと牡牛が昇りきっていた。

「おれの国が、ハルタムティとラガシュに戦争をしかけるからだ」

二人はますます瞳に、不安と、恐怖と、好奇心をないまぜにした色をたたえた。

「戦争、みんな言ってた。殺すこと。恐ろしいこと。でも、私たち知らない」

「長い間、山奥までは行かなかったからね。だけど、今は違う。ハルタムティは東の宝石と象牙をもたらす要所になった。だから、逃すわけにはいかない」

「なんのために殺す? 必要?」

「ハルタムティとラガシュの人間は、我々と違うからだ!」

男はつい、大声を出してしまった。純粋で、すがるような目の色に苛ついた。水の利権を巡った争いが、彼へ偏見と差別意識を刷り込んだ。

二人は羽根を緊張させて、銀色の子が、容態の悪い子を抱いてさっと茂みまで飛び退いた。自分が悪いことをしたような気がした。悪いことを、しているのか?

「ごめん……少なくとも、おれは君たちを今傷つけることは……そんなつもりじゃなかった。謝るよ……仲直りしよう。おれの気持ちは、いずれ分かるさ。自分の村が焼かれたなら、同じことを思うだろう。君たち善良そうな精霊だって、身を守るためなら悪鬼になって人間へ襲いかかるだろうさ」

ふと、足元を見るとパピルスが落ちていた。広げてみた。地図のようだった。

ジジッと茂みで音がした。

「君たちが、これを書いたのか?」

しばらく返答がない。

「凄いな……おれの国も、ハルタムティも、ラガシュも、知らない場所まで。

これは方角? 西は乏しいが、距離が書かれている……。遥か北の、塩の海まで!

人間の村の位置、話されている言葉、交易路、凄いぞ! 

しかも我々の文字じゃないか! 本当に君たちが? 信じられない。これは軍事的にも役に立つ。まさか、精霊の力を借りることができるなんて!」

「かえしてっ」

銀色の子が、それまでにない大きな声を出した。羽根が緊張で震えている。

男はためらい、そっとパピルスを返した。

「すまない、友達になろう」

「ニンゲンと、友達?」

金色の羽根の子が、やっと声を出し、近づいてきた。しかしもう片方の子が塞ぐように立った。

「だめ」

それでも、金色の子は瞳を光らせて、前へ乗り出した。

「教えてくれる? 私たち、止めに来た。戦争、きっと夢のこと。あなたと、友達になったら、止められる?」

男は返事ができなかった。切実さを感じた。精霊となら……きっと良いだろう。神の一つを巻き込む理由はない。これは人間同士の領土争いなのだから。

「この地図、あげる。かわりに、戦争止めて。お願い。アルフヘイム守りたい。この山、守りたい。ここのニンゲンも、守りたい。みんな、死んでほしくない」

どうしたものだろうか。この土地を守るとは、この土地を略奪しないとは、おのれの国が滅びることを意味するのではないのか。ラガシュが栄えて、ハルタムティが栄えれば、我が国は衰えてしまうのでは?

突然、ある疑問が彼の胸にふつふつと湧いた。そんなに国が大事か? 

親戚でもない王が、豪族が?

自分の生まれ育った場所だからだ、王はおれに期待をかけてくれている。

代わりはいくらでもいる、お前は盤上の駒の一つに過ぎない。

では、どこへ行けというのか。祖国を裏切り、家族が殺戮され、住み慣れた町が焼けるのを見るか。それとも、この地図で! 生まれ育った土地を守るか。

目の前の二人がどうなるのか想像した。きっと、人間はこの種族をとらえて、奴隷として売り払うだろう。通常の奴隷よりも高値で取引されるだろう。我が国の資源になりうる。この容姿と羽根は……。

さらに、男は二人が振りまく鱗粉にも目を留めていた。これは美しい顔料になる。神殿の飾り、貴人の化粧品。カーネリアン以上の価値があるだろう。この精霊の存在は。まだ他にもあるかもしれない。なにせ未知の生物だ。東方の麝香(じゃこう)のように、体内に何かあるかも……。

輝く羽根を持つ二人は、男のぎらぎらとした視線に気が付いたのか、そろそろと離れようとしていた。地図を持ったまま。

「まてまて、大丈夫だ。戦争は終わらせよう、必ず。だから、地図をほら。それが必要なんだ」

精霊は、さらに森の奥へ姿を隠そうとしていた。もう鱗粉の光しか見えなかった。

その時、月明かりがさっと森を透かし、二人をあらわにした。男は好機を見逃さなかった。怪我をしている方の子供の腕を掴んだ。悲鳴に似た羽根のこすれる音が響いた。耳がキンキンした。それでも男は腕をはなさない。精霊は非力だった。男の目には、もはや子供ではなく、金銀の塊にしか見えなかった。

「だめ!」

銀色の羽根の子が男にとりつき、片割れを引き離そうともがいた。しかし左手ではたき落とされ、無残にも簡単にくずおれてしまった。ピィーッとまた山まで木霊する甲高い羽根の音。男の耳元で金色の羽根が叫んでいた。

「このガキめ!」

男が牙をむくと、地面に突っ伏している子供が服を引っ張った。憐れみがまた急に胸を浸し、振り上げた拳を止めさせた。捕らえられていた子が勇敢にも、がりっと男の手に噛み付いた。

「いてっ」

二人はいそいで手と手をとりあい、夜空に飛び立った。

「またんか……! くそっ」

地図だけが足元に残された。


「巫女様、セーラス、セーラス、大丈夫? また腕から血が……ああ、ぼくが近づいたせいで! 

ニンゲンは悪者だって、思い知ったばかりなのに!」

私たちは、ひ弱な羽根で飛びながら、お互いを支え合っていた。

「いいの、リーリオン。自分を責めないで。あのニンゲンも……かわいそうだ。憎むことしかできないんだ……」

私はセーラスに正面から向き合った。

「セーラス、どうして君はそんなに慈悲深いの? あんなのに情けをかける必要なんてない。穢れるだけだ! 穢れると死ぬんだよ! 帰ろう、帰らなきゃ。腕が痛いでしょう?」

うん……とセーラスはうなだれた。

「私、あのニンゲンを思わず傷つけてしまった。穢れたのかな?」

満月がこうこうと二人を照らしていた。あっ……と思った時、地面が近くなった。私は頭がクラクラした。羽根が思うように動かせない。

はらり、はらりと下降して、二人、聖なる湖まで降り立った。

「どうしたの? リーリオン」

「分からない……なんだか、身体が重くて……」

セーラスは息を呑んだ。

「羽根が光を失いかけてる……。あの男のせい? 殴られたから? それとも……憎んだから?」

私は不甲斐なくて、ただ地を見つめることしかできなかった。今まで死んでいったクラたちには特徴があった。感情というものを激しく持ち、心を揺さぶると、クラは死ぬ。天上の光を受けて生まれたこの身体は、心と相性が悪い……。それなら、なぜそもそも心の欠片を持って生まれてくるのだろう。

「何が、あなたを変えてしまったの……私のせい?」

「違う、セーラスのせいじゃない……。ぼくが勝手に思ったことだもの……仕方ないんだ」

すっかり這いつくばった私に、セーラスは肩をいからせた。

「仕方なくなんかない! 死ぬのはさだめじゃない。だって、長生きしているクラはいるもの。

海の生き物を知ってるでしょう。二人で見に行った。クラゲは死なない。死は一部の生き物が、何度も繰り返し、生まれて、消えて、そして……世代交代が集団にとって得だと知った生き物だけが持った性質なの。

ほら、長命な私たちには決まった死がない。そのかわり、変化しない。いつまでも似たような暮らし、同じ風習。感情を失った幽鬼のような大人たちは、果たしてあれが……生きている意味あるのかな。みんな、大人になると名前は形だけになる。意識は全体に溶け合うんだって。存在としては良いかもしれない。この世界の、たくさんの生き物のうちの一つとして、そんな生き残り方を選択するものがいたっていいかも。

クラゲは心を持たない。"私"という個の意識も持たない。でも私は、クラゲになりたいと思わない! あなたもそうでしょう!? だから、死ぬんだ……。

ひどいさだめを持ったものね、クラは。クラゲになるか、死ぬか、どっちかしかないなんて。

私はニンゲンに産まれたかった。いつまでも、どこまでも冒険したい。広い海を見て、あの向こうに何があるのかワクワクしたい。星はどうして光るのか、知りたい。

ニンゲンなら分かる。発明品がいっぱいある。私たちの地図に興味を示した、あのニンゲンなら……私たちをクラじゃない、向こうの世界へ連れて行ってくれるのかな」

私は先走るセーラスを止めた。

「何を言ってるのか全然分からないよ……セーラス、思い出して! あのニンゲンのしたことを! 殺すって言った……君に酷いことした! 

結局、君はあいつが憎くないんだ、悲しい。口ではクラゲみたいになりたくないって言いながら、分からないんだ……! ぼくがどれだけ君を大事に思っていて、どれだけさっきのニンゲンを殺したいと思ったか。君には分からないんだ。

ニンゲンになりたいだって? ばかみたい! 醜いあんなのになろうなんて!」

セーラスは熊に遭遇したかのように驚愕して、私からよろよろと離れた。でも再び近づいて、強く抱きしめてくれた。目元に涙が光っていた。

「あのニンゲンが言っていたのは、こういうことだったの?

あなたには分かるんだね、リーリオン。身を守るためなら、ニンゲンに襲いかかるだろうって言ってたね……。ごめんなさい、私には、そこまで分からない……。なぜ私とあなたは、違ってしまったの? 一緒に生まれて、きょうだい以上に一緒に過ごしてきたのに……」

歌が聞こえた。風にのって、さざめく柳の葉のような。クラの歌だ。みんなが迎えに来てくれている。私たちの羽根の悲鳴を聞いて。これから命を落とすクラヘ贈る、葬儀の歌だった。みんな、誰が死ぬと予感しているの? セーラスの腕がますます腫れているように感じた。

「見て……リーリオン。星が……動かない流れ星がある」

細い腕で頼りなく指差した先を、私も見た。

「あれは……何?」

ただの流れ星じゃない。消えることがない細い光だ。それは、日に日に位置を変え、大きくなった。


数週間後、遠くで煙が上がった。あの夢で見たのより小規模だけれど、同じような黒い煙だ。焼ける肉の臭い、血の臭い。恐ろしい殺戮が、山の向こうで行われている。アルフヘイムへ来るのも時間の問題だ。でも、私たちは動くことができなかった。セーラスが高熱を出して、床に臥せったからだった。どんな薬草でも効果がない。どうしたらいいのだろう。

もしかして……死ぬの? あの日、強く心を動かしたせいで……僕のせいで? 

悲しくて、悲しくて、セーラスの手をぎゅっと握りしめて片時も離れなかった。

大人たちがしずしずと、外部の様子を祭祀長へ報告する。クラは仲間を見捨てない。住む場所を変える時も、みんな一緒だ。そうして点々としてきた。長老によると、常にニンゲンの戦火を逃れて移動したという……。万年雪をたたえた山奥は涼しい。でも、乾燥した大地は恵みとは無縁だ。辺境へ、辺境へ……。塩の海の近くへ。

今度の移動は遅かった。幼い子供たちと、導き手の祭祀長が先に北東へ逃れた。友達や、生まれた時から見守ってきてくれた大人たちは残っていた。つまり、その頃ザグロス山脈に暮らしていたクラの三分の二は居残った。

煙が日に日に近づいてくる。毎夕、エウレシウスの星が高くなるにつれて、動かない流れ星が大きくなるにつれて。私は焦燥にかられながら、セーラスにできるだけ明るい話をした。一緒に行った数々の塩の湖のこと、険しい崖と砂漠のこと。大地が隆起するさまを、二人で観察したこと。北へゆくほど見える星が違ったこと。夜遅くまで考えて、名前をつけた花のこと……。友達と聖なる湖へ行き、水を汲んで帰って、セーラスの腕へ優しくかけてあげた。

そうして三日経った。エウレシウスの星が天高く見える季節となった。とうとう、先に移動した者たちの後へ続こうと、会議で決まった。エウレシウスの守護を受けることが出来る今こそ。

私はセーラスへ知らせに行った。しかし、離れたのは会議の間の少しだけなのに、寝台が空になっていた。みんな急いでセーラスを探し回った。私はあの場所だと思った。地図を落としたニンゲンの村へ向かったに違いない。弱った羽根で遠くへ行けるはずがない。

「セーラス、どこかで倒れてるんじゃないか!?」

そこは太陽が沈む方向、西の彼方。海が近い峡谷だった。前に訪れた時は、潮の臭いが満ちていた。でも、その夜は煙が混ざっていた。さらに鼻につくこの臭い……何?

エウレシウスの星が傾く西を目指して、飛んで、休んで、とにかく飛べるだけ飛んだ。夜明けが近くなってきた。星が見えない。弱った羽根がうまく動かせない。目眩がする。ああ、火の手が。大きな煙とともに渦巻いて、大気を狂わせている。羽根が……もがれそう。

峡谷の真ん中でクルクルと落ちてゆく金色の姿を見つけた。

「セーラス!」

私は全速力で飛び、受け止めようとした。地面にたたきつけられる前に受け止めないと。セーラスはヴァシュリの木に引っかかって、助かっていた。良かった……心からホッとした。

私は萎えた羽根に力を込めて飛び、セーラスに声をかけた。

「どうしてこんなことを!」

「もう一度……聞いてみたかったの……ごめんね、リーリオン。私、渓谷の向こうを知りたくて」「焼け野原だよ! 西のニンゲンがやったんだ」

「見に行きたい……どうしても」

セーラスは羽根を弱々しくはばたかせて、ヴァシュリの木から逃れようとした。私はあわてて引き止めた。

「何もない。何もないよ!」

「あのニンゲンはどこから来たのかな、リーリオン。知りたくない? 私たちより昔のクラが過ごしていた、帰れない土地のこと……」

私は金の羽根が光を失いかけているのに気が付いた。

「知らなくていい、生きてさえいれば。今じゃなくていい。新しい村で元気になって、また冒険に行こうよ」

セーラスは息を切らせながら続けた。

「本物の船を見たことある? リーリオン……私は一度だけ、見れた。

あなたが四足の大きな生き物と、車輪に目を奪われてる時。塩の海の向こうに、一つだけ……。雲のような布で、風を受け止めて動いていた……。

海の向こうに、何があるのかな? 私たちの世界の外には、何があるのかな? どうして私たちは光から生まれるのかな? その答えがきっと、帰れない西の土地にある……」

私は決心した。セーラスをおぶって、炎に包まれた村を抜けることにした。川に沿ってゆけば、必ず海に繋がっている。

「行こう、セーラス。西の海の向こうへ」

「リーリオン……。ありがとう」

ため息のようなかすかな声だった。とぼとぼと歩いていると、倒れたニンゲンが沢山いた。まっ黒焦げになって、見るも無残な姿に曲がったひと……皮膚が焼けて苦しんでいる子供たち……なんてかわいそうな……! 何もできない、何もできないんだ。私はニンゲンを憎んだことを恥じた。傷つけられることや、死は悲しい。それが何者であっても。

きっとセーラスは、このことを分かっていたんだ。ごめんね、ごめんねと、涙をこらえて私は歩いた。二人の羽根はもう鱗粉を落とさず、動かすこともできなかった。

馬という生き物のいななきが聞こえた。大きなニンゲンたちが、建物の間を行き来していた。同じニンゲンに、鋭い銅を突き刺して、苦しませていた。恐ろしくて、建物の影に退いた。足元に何かあった。倒れたひとだった。強い異臭がした。そうか、臭いの正体が分かった……死なんだ。

馬に乗っていないニンゲンたちは、テントを建てていた。そのうちの一人がこちらへ気付いた。嫌でも覚えている。あの川辺で出会った男だった。もう二度とセーラスを傷つけさせるわけにはいかない。私は羽根を強く持ち上げて、飛び上がろうとした。逃げないと。うまく、浮かばない……。

「まて、精霊さん。君たちのおかげで、我々の勝利は目前だ。もちろん、君たちの村も行かせてもらう」

私は目を見張った。あの地図! みんなが危ない!

「この地図を返してほしければ、大人しくするんだ」

私はセーラスを鳥の巣へ寝かせて、一人で男に近づいた。

「リーリオン……待って」

「大丈夫、ぼくらの責任だもの」

ニンゲンたちは私を見て驚き、のけぞった。

「地図をかえして」

なぜ、見抜けなかったのだろう。私がクラだからなのか。みんなの場所はもう知られていた。とうに手遅れだというのに。地図の複製などいくらでも作れるのに。

男は近づいて、地図を手にした私を瞬時に捕えた。別のニンゲンが羽根を引っ掴んで、ひきむしとろうとした。ピィーッと私は羽根をこすらせて叫んだ。すると、意外な声が割って入った。

「はなしなさいっ」

置いてきたはずのセーラスだった。男は獲物を得た狼のような、舌なめずりでもしそうな顔でセーラスを見た。怒りが私の胸を満たした。まわりのニンゲンどもに噛み付いて、混乱させてやった。

「近づくな! 地図なんか!」

私は光の魔法で、地図の複製を焼き払った。男はそれに見向きもせず、刃物を持ってセーラスへ近づいていった。

「だめ! だめー!」

まとわりつく私を、男は荒々しく振り払った。勢いで半壊の建物に突っ込んでしまった。炎が羽根を焼く。熱い……。建物の隙間から、セーラスが男に捕まるのを見た。男は刃物で金の羽根を切り取ろうとした。その時、ぱっと視界が明るくなった。羽根が鳴らす断末魔が聞こえた。絶望と、深い悲しみの声。

私は何が起こったのか分からなかった。ただ、空から火の玉が降ってくるのを見た。星がいくつも割れ、西へ向かった。地に着く寸前にひときわ明るく輝いた。大気に轟音が響き、見たことのない雲が、キノコの柱のようにのぼった。赤く白く視界がどよめく。稲妻を走らせながら、噴煙がゆっくりと膨らんでゆく。そして、急激な衝撃の波が放たれた。突風どころではない、鉄砲水でもない、その場の全員が、大気の怒りの拳にうたれた。建物も吹き飛んだ。私も飛ばされたが、必死でヴァシュリの木にしがみついた。星が、星が落ちた。黒い雨が続いて激しく、私たちを地面にたたきつけた。

セーラスは、星の落下と同時に光となって消えてしまった。残ったのは、焦げた衣服の残骸と、かすかな骨だけ。男たちは閃光を浴びて大火傷をして、慌てふためいていた。なんてことだ、祖国が!

私も火傷がひどかった。ただ、泣くことしかできなかった。涙を止める方法はただ一つ……。殺意も、失望も、喜びの記憶も、なにもかもに蓋をすることだった。川が逆流してくる。怒涛の波がニンゲンたちを襲った。洪水だ、エウレシウスの神が世界を滅ぼしにかかっている。

混乱に乗じて、私はニンゲンの村を離れた。私の羽根は、月明かりを浴びて光を取り戻したようだった。

クラの村へ戻ると、そこは破滅だけがあった。地面に血痕と、骨と、火花が散った焦げ跡。大木にたたきつけられ、潰れたニンゲンの死体。セーラスが消えた時と同じようなことが、ここで何十もの仲間の身に起こったのだ。

みんな……何を考えて、消えていったの。殺意? 

傷つけられたことへの復讐心? 友を失った悲しみ……? 

こんなに悲惨な光景を目の当たりにしているのに、私の心は虚ろだった。恨む対象はみな死んでいた。時間が経つとともに、どんどん心が枯れて、失われていった。

その後、北東へ逃れたクラたちの元へ行った。追い着いた頃には、祭祀長は大気の震えを感じていて、すでに葬儀を行っている最中だった。私は悲しみを悲しみと感じないまま、別れの歌を死者へ捧げた。死を知らない幼い子供たちは、こんな時でも無邪気に戯れていた。

「私は、クラゲになりたいと思わない!」

ふと、セーラスの瞳の輝きを思い出した。


クチャの洞窟。かつてメソポタミアの住人が「東方の仙人」と呼んだ精霊は、どう見ても優美な壁画の姿ではなかった。共通点は楽器を持つことくらいだった。精霊の肌には、左半身に大きな火傷の跡が残っていた。その理由を語る目や口元には、変化が一つたりともなかった。


ザグロス山脈には、人間には見えない花が咲く。その花は、過去の出来事をありありと見せる。惑わす花、とみんなは呼んでいたけれど、セーラスと二人で「幻燈花」と名前をつけた。夜でもほのあかく、燃えるように咲くので、人間の道具、あかりとりの名を付けた。

毎年、初夏の今頃、あなたがたが今プレアデス星団と呼ぶ星が昇る頃。私は必ず西へ行く。あれから五千年、多くの……あまりに多くの出来事を見てきた。私の心はすっかり麻痺してしまった。もう何が起こっても驚きはしない。セーラスを殺そうとした人間の集落が、結果戦争に破れていようと、戦争に勝利した側もまた、今や砂の下に埋もれていようと、無意味だ。地形の変化も、隕石の落下も、火砕流も。あの時の隕石が、ソドムとゴモラを滅ぼした神の火と言われていることも、カアバ神殿としてイスラームの信仰の対象になっていることも、どうでもよい。

命は全て、一瞬の火花だ。私はそれを忘れた虚しい生き物。

決して、生きることにうんでいるわけではないんだ、友人よ。かつての幸福だった時代を偲び続けること、葬儀を行い続けること、喪に服し、かつてあった感情の欠片を探すことが私の生きる意味なんだ。

この話をしたのも、あなたが初めてだ。感情を思い出せるかと思ったが、無理だった……。

では、さようなら。また会える日があるならば。

そうだ、幻燈花の咲く場所へは、足を踏み入れない方が良い。花は見えなくとも存在する。人間も動物たちも、そこへ行くと心を奪われてしまうそうだから。

幻燈花は、五千年前の私たちクラの墓標だ。

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